SCENE1 変身の呪文

 ――爽やかな風が吹く、ある秋日の夜。
 この日は日曜日で、二学期の始まったばかりの学校も休みであった。
 颯爽と走る青のフェラーリの助手席に座っている那奈は、運転席の恋人に視線を向けた。
 そして、思い出すようにうっとりと漆黒の瞳を細める。
「今日のピアノコンサート、すごくよかったね。感動しちゃった」
「ああ。たまにはこういう高尚なデートもいいな」
 はあっと感嘆の溜め息をつく那奈に、彼女の恋人・大河内先生は笑った。
 この時ふたりは、聖煌学園高校に在学中の天才高校生ピアニスト・梓詩音(あずさ しおん)のピアノコンサートを聴きに行った帰りだった。
 那奈は購入したパンフレットを眺めながら、感心したように口を開く。
「天才高校生ピアニストって言われてる梓詩音くんが同じ学校だなんて、何か考えたらすごいよね。彼と同じクラスにはなったことはないんだけど、あんな大きなホールを人でいっぱいにしちゃうなんて。でも納得よね、あんなに綺麗なピアノの演奏なら、また聴きに行きたいって思うもん」
「何気に俺あいつのクラスの日本史も教えてるけどよ、やっぱり芸術家肌っていうか、ちょっと感性が独特だからな、梓って。でも素人の俺でも何か違うって思ったよ、あいつのピアノ」
 那奈は見ていたパンフレットを閉じ、その先生の言葉にくすくすと笑う。
「ふふ、先生がそんなこと分かるの?」
 その那奈の言葉に、先生は気に食わない顔をする。
「うるせーな、笑うなっ。ていうか、俺のこと見くびるなよ。何気にな、ピアノ習ってたこともあるんだぞ」
「ピアノ? うそ、知らなかった。本当に?」
 意外そうに小首を傾げて自分を見つめる那奈に、先生はニッと口元に笑みを宿す。
 それから、悪戯っぽく笑って言った。
「ま、性に合わなくて3日でやめちまったけどな。あ、でも“猫踏んじゃった”はプロいぞ」
「ふふ、じゃあ今度、そのプロい“猫踏んじゃった”聴かせてよ」
 再び楽しそうに笑う那奈に、大河内先生はふっと微笑んで漆黒の瞳を細めた。
 何よりも――自分の隣で、こうやって那奈が笑ってくれる。
 それが先生にとって、これ以上ない幸せなのである。
 那奈はもう一度パンフレットに目を落とした後、満足そうに口を開いた。
「何だかピアノのコンサートとかに行くと思うよね、芸術の秋だなって」
 大河内先生は、那奈のその言葉にふっと笑う。
 そして信号に引っかかったために車を止めてから、ぐりぐりと那奈の頭を少し乱暴に撫でた。
「おまえの場合な、芸術の秋っていうか食欲の秋なんじゃねーのか? 夕飯食った後にあのデカいパフェはないだろうって、見てて胸ヤケしたぞ」
「何よ、デザートは別腹っていうでしょ? そういう先生は、何の秋なの?」
 むうっと不服気な表情をして、那奈は先生に訊いた。
 先生は少し考え、漆黒の前髪をかき上げてから彼女の問いに答える。
「俺の場合か? そうだな、読書の秋か、スポーツの秋だな」
 先生の答えを聞いて、那奈は笑って言った。
「読書の秋って言ってもめちゃめちゃジャンル偏ってるよね、先生の読書って。歴史小説ばっかりでしょ? それにスポーツっていうか、ビール飲みながらプロ野球観戦じゃない」
 くすくすと笑い止まない那奈に、今度は先生がムッとした表情で言い返す。
「悪かったな、偏っててよ。偏ってても読書には変わりないだろーが。それにな、プロ野球だってもうすぐ日本シリーズで今盛り上がってるだろーがよ……ま、それはともかくだ」
 コホンとひとつ咳払いをして気を取り直し、先生はふと腕時計を見た。
 それから信号が変わったために車を発進させ、続けた。
「そういえば明日、学年会議があるから少し帰り遅くなりそうなんだけどよ、おまえどうする?」
 那奈はその言葉に、思い出したように大河内先生に向き直る。
 そして、申し訳なさそうに言った。
「あ、明日なんだけど、私も放課後ね、体育祭の係でちょっと学校に残らないといけないんだ。それにね、明日の夜はおじいちゃんと悠くんと三人で、食事の約束してたんだった……だから明日は、先生の家に行けないよ」
「ていうか待て、何でそこに安西が出てくるんだ?」
 最大の恋の好敵手である悠の名前が出てきて、大河内先生は途端に顔を顰める。
 那奈はそんな先生の様子に小首を傾げ、答えた。
「え? あ、悠くんとは家族ぐるみでの付き合いだから。おじいちゃんも、悠くんのこと自分の孫みたいに可愛がってるのよ」
「何だよ、すでにもう家族に手を回してバッチリ押さえてやがってるのかよ、アイツ……」
 抜かりない悠の策士ぶりに深々と溜め息をつき、先生は小声でそう呟く。
 だが、那奈と悠のふたりだけで食事に行くわけではないようであるし。
 自分のいないところで悠と那奈が会うのは気に食わないが、彼の気持ちをまだ知らない彼女に下手なことは言わない方がいい。
 そう思い直し、大河内先生は質問を変えた。
「そっか、んじゃ明日はどっかで飯食ってくるか。ていうか体育祭の係って、おまえ何の係になったんだ?」
 車を走らせながら首を捻る先生に、那奈は楽しそうに答える。
「仮装競争の係よ。うちのクラスは担任を何に仮装させるか、まだ決まってないんだ」
「仮装競争か。毎年あれ見るたびに、担任じゃなくてよかったって思うぜ。完璧あれって、教師が生徒のオモチャと化してるからな」
 もうすぐ開催される体育祭の目玉のひとつ・仮装競争は、各クラスごとにそのクラスの担任を仮装させ、出来上がりの速さとその出来の良さを競うものである。
 毎年各クラス、工夫と趣向を凝らした力作が揃う名物競技なのだった。
 担任クラスを持っていない大河内先生は、毎年日頃のうっぷんを晴らすかのように教師を好き勝手変身させる生徒の姿を見て、この時だけは担任を持っていなくてよかったと思うのである。
 そんな先生を後目に、那奈は残念そうに言った。
「あーあ、大河内先生何で担任じゃないの? 先生のこと、女装させてみたいのにな」
「ていうか、女装かよ! あー担任持ってなくてよかったぜ、マジで」
 ホッと一息ついた後、先生は漆黒の髪をザッとかき上げる。
 そして、ニッと笑ってこう続けたのだった。
「まぁでもよ、きっと俺が女装したら、とびきりの美人だぜ」
「ふふ、自分で何言ってるのよ。でも確かに先生って目も大きいし、結構イケるかも。香夜さんみたいな綺麗な女性になりそう」
 那奈は先生の冗談に、妙に納得したように頷いて言った。
 そんな那奈の言葉に、先生はおもむろに眉を顰める。
「あ? あの魔女と一緒にするな。俺の方がずっと上品で美人に決まってるだろーが」
「何ムキになってるの、先生ってば。あーでも本当、大河内先生のこと女装させたかったのにな」
 本当に残念そうにそう言う那奈に、大河内先生は小さく嘆息した。
「ていうか、何で女装限定なんだ? もっとこう、王子様みたいなのでも何でも俺は似合うぞ」
「先生の、王子様……」
 那奈はちらりと大河内先生を見た後、思わず噴出して笑い出した。
 先生はさらに気に食わない顔をして、じろっと漆黒の瞳を那奈に向ける。
「笑うなっ。似合うに決まってるだろーがっ。ていうか、あー本当に担任持ってなくてよかったぜ」
 もしも那奈のクラスの担任をしていたら、間違いなく女装させられていただろう。
 女装に何故か自信満々な先生とはいえ、さすがに全校生徒の前でそんな姿にされるのは御免である。
 そう考え、改めて大河内先生はホッと安堵の溜め息を漏らしたのだった。
 那奈はそれから、ふと何かを思いついたように先生に視線を向ける。
 そして、にっこりと微笑んでこう言ったのだった。
「体育祭では大河内先生のこと、変身させてあげられないけど……でも、先生を変える魔法なら今だって使えるよ?」
「俺を変身させる、魔法?」
 那奈の言葉に、先生はきょとんとした表情をする。
 そんな先生を見て那奈はこくんと頷き、続けた。
「オズシリーズの魔法でね、変身の呪文があるの。『PYRZQXGL』っていう呪文なんだけどね」
「P……? 何だって?」
 先生は赤信号で車を止め、彼女に聞き返す。
「とにかく、今から先生に魔法をかけるから」
 そう言って那奈は、スッと腕を伸ばした。
 そして。
「わっ、おまえ! 何するん……ですかっ」
 先生はそう声を上げ、驚いた顔をして那奈を見つめる。
 そんな先生の瞳には、いつの間にか分厚い眼鏡がかけられていた。
 先生の胸ポケットに入っていた眼鏡を手に取った那奈が、彼に強引にそれをかけたのだった。
 那奈は満足そうな表情を浮かべ、悪戯っぽく笑う。
「ふふ、学校バージョンの先生に、変身完了って感じ?」
「学校バージョン? 変身完了って言っても、眼鏡かけただけでしょう?」
 那奈の言葉に、すっかり印象を変えた大河内先生は眼鏡の奥の瞳を数度瞬きさせる。
 那奈はそんな先生に微笑み、それから気がついたように前方に目を向けた。
「大河内先生、信号、青になりましたよ?」
「え? あ、本当ですね」
 慌ててアクセルを踏み、学校バージョンの先生はゆっくりと車を走らせ始める。
 そんな先生を見つめ、那奈は今まで疑問に思っていたことを彼に訊いた。
「大河内先生、実際先生が変わる瞬間……いえ、眼鏡をかけた時って、先生自身はどんな感じなんですか?」
「どんな感じとは、どういう意味でですか? よく質問の主旨が分からないんですけど……」
 変化に自覚のない先生は困ったような表情を浮かべつつ、うーんと考える仕草をする。
 それから、穏やかな印象の声でこう答えたのだった。
「眼鏡をかけた程度で、そんなに特に何か変わったとかは思わないんですが……眼鏡をかけると、仕事って意識は何だか強くなりますね。 真面目に責任持って職務をこなさなきゃって思います。でも、誰でもそういうことってありますよね? 気持ちが切り替わる瞬間が」
「確かにありますけど……それが極端なんですね、先生の場合」
 もう慣れたとはいえ、つくづく先生の変化の大きさに那奈はそう呟く。
 当の先生は、那奈の言葉の意味が分からない様子で首を傾げていた。
 ――それから、数分後。
 青のフェラーリが、おもむろに那奈の家の前に停車した。
 結局眼鏡をかけたままの先生は、眼鏡の奥の瞳を優しく細める。
 そして、ゆっくりと那奈の頭を撫でた。
 那奈は先生に目を向け、名残惜しそうに口を開く。
「大河内先生……」
 そんな那奈に、先生はにっこりと微笑んだ。
 それから那奈を宥める様に、軽く彼女の頭に手を添える。
「僕も寂しいですけど、また明日も学校で会えますから」
 穏やかな声でそう言ってから、先生はようやくスッと眼鏡を外して胸ポケットに入れた。
 その瞬間、眼鏡に隠れていた神秘的な瞳が、再び那奈の前に現れる。
 そして大河内先生は、那奈の身体をおもむろに自分の胸に引き寄せ、言った。
「愛してるからな、那奈。おやすみ」
「うん……先生、おやすみなさい」
 那奈は先生の体温を全身で感じて彼にぎゅっと抱きついた後、ふっとその顔を上げる。
 大河内先生は胸の中の那奈の髪をそっと撫で、それからそっと彼女の頬に大きな手を添えた。
 ……そして。
 ふたりは同時に瞳を伏せ――ゆっくりと、唇を重ねたのだった。
「じゃあ、大河内先生……おやすみなさい」
「ああ、おやすみ」
 軽い口づけの後、那奈は助手席のドアを開けて、家に向かって歩き出した。
 先生は那奈が家に入るまで、じっと彼女の後姿を見守る。
 那奈はそんな先生に何度も何度も振り返り、大きく手を振った。
 それから大河内先生は、那奈の姿が家の中に消えたのを確認して車のエンジンをかけた。
 そして自宅に向け、車を発進させようとした。
 ……その時だった。
 大河内先生はアクセルを踏む足を止め、ふと顔を上げる。
 そして、おむもろに鳴り出した携帯電話を取り出した。
「何だ? 珍しいヤツから電話だな……」
 着信者を確認して小さく首を捻りつつも、大河内先生はその電話に出た。
「もしもし? 久しぶりじゃねーかよ、どうした?」
 先生は電話の相手の懐かしい声を聞き、ふっと漆黒の瞳を細める。
 それから発せられた相手の言葉に、ザッと漆黒の前髪をかき上げた。
 そして少し考えるような仕草をした後、こう言ったのだった。
「明日か? 相変わらず唐突だな、おまえは……ああ、ちょうど明日の夜は暇だから、構わないけどよ……おう、分かった。んじゃ、またな」
 そう短く話を済ませ、大河内先生は通話終了ボタンを押す。
 そして改めてアクセルを踏み、ゆっくりと青のフェラーリを発進させたのだった。