SCENE9 空とぶチャリオット

 ――その日の夜。
 夕食を取り終わり、大河内先生は悠とふたりリビングにいた。
 女性陣はふたり仲良くキッチンで洗い物を、遼は部屋で仕事をしているからである。
「何でこれが、俺のポケットに……?」
 先生は手に持っている10円玉をじっと見つめ、小首を傾げた。
 それから改めて、遼から出された宿題を思い返してみる。
 遼の手に伏せられたはずの10円玉が姿を消したかと思うと、次の瞬間、自分の胸ポケットから現れた。
 どうしてそんなことが起こるのだろうか。
 遼の言う通り、まるでそれは魔法のようだった。
 自分の見ているまさに目の前で、10円玉が消えた上に瞬間移動までしているのである。
 うーんと真剣に考える仕草をしながらも、先生は持っている10円玉を指で弄ぶ。
 それからふと顔を上げると、おもむろに表情を変えた。
「あ? 何だよ、安西」
 同じようにリビングのソファーにいる悠が自分をじっと見ていることに気がつき、先生は漆黒の瞳を彼に向ける。
 悠は複雑な表情をし、はあっとひとつ嘆息した。
 それから、ちらりと時計に目を移して言った。
「……別に何でもありませんよ、大河内先生」
「おまえな、見るからに何でもないって態度じゃねーだろ」
 眉を顰めてそう言う先生を後目に、悠はもう一度小さく溜め息をつく。
 そして、ぽつりと呟いた。
「何の目的なんだろ、あの人……」
 神妙な顔の悠に首を傾げた後、先生は気を取り直して再び10円玉に目を向けた。
 リビングに、シンとした静寂がおとずれる。
 だが、その静寂はすぐに破られた。
「大河内先生、何やってるの?」
 洗い物を終えた那奈がリビングに戻って来て、先生の隣に座る。
 先生は10円玉をポケットにしまうと、彼女にふっと微笑んだ。
「いや、ちょっと考え事してたんだよ」
「考え事?」
 那奈は小首を傾げた後、思い出したように口を開く。
「あ、そうだ。今日買い物している時に、電話があったんだけど……」
「あ! 那奈ちゃんっ」
 悠はその言葉にハッと顔を上げ、咄嗟に声を上げた。
 那奈はその声に漆黒の瞳をぱちくりさせ、彼を見る。
 そんな悠の様子に、先生は気に食わない表情を浮かべた。
「何だよ、安西。何か喋られたら都合悪いことでもあるってのかよ?」
 悠は先生のその言葉には答えず、那奈を手招きする。
「ちょっと、那奈ちゃん……そのことで、話があるんだけど」
「えっ? あ、うん」
 立ち上がってリビングのドアを開ける悠に、不思議そうな顔をしながら那奈は続いた。
「何だってんだよ、安西のやつ。妙なこと企んでるんじゃねーだろうな」
 大河内先生は面白くなさそうにそう言って、テーブルに頬杖をつく。
 悠の策士ぶりが痛い程身に染みている先生は、また何か彼が行動を起こそうとしているのではないかと思ったのだった。
 だが、何かを目論んでいる時の悠の様子とは、今回は少し違っていた。
 先生を煽るような言動と、自信たっぷりの余裕の笑み。
 何かをしようとしている彼は、いつもそんな強気の態度なのである。
 しかし今回は、悠自身が神妙な表情をしていた。
 彼の意図することが分からず、先生はひとつ首を捻る。
「何難しい顔してんの? アイちゃん」
 那奈に遅れてキッチンから戻ってきた知美は、ストンとソファーに座った。
 それからリビングを見回し、ニッと笑う。
「あ、また悠くんに那奈持っていかれちゃった? ていうか、今までろくに那奈とふたりっきりな時間ってなかったんじゃない? アイちゃんてば、隙だらけなんだもーんっ」
 先生は、きゃははっと楽しそうに笑う知美をじろっと見た。
「笑うなっ。悪かったな、隙だらけでよ」
 むうっとむくれるような表情をして、先生は彼女から視線を逸らす。
 それからすぐ、ふと何かを思いついたように再び知美に目を向ける。
「あ、そうだ。竹内、おまえに折り入って頼みがあるんだけどよ……」
「頼みって? アイちゃん、私に頼みなんて高くつくよ?」
 ふっと笑う知美に、大河内先生はチッと舌打ちした。
「高くって、おまえな……ま、協力してくれたら多少の礼はするけどよ」
 そう言ってから、先生はあることを知美に頼んだのだった。
 その内容を聞いた知美は、パッとその表情を変える。
 そして、うんうんと数度頷いて笑った。
「ふふっ、面白そうねぇっ。いいでしょう、今回は協力してあげちゃおっ」
「本当か? 悪いな、マジで頼んだぞっ」
 先生はおもむろに手を掲げ、ニッと笑みを浮かべる。
 そんな彼の掌にパシンと手を合わせ、そして知美は楽しそうに微笑んで言ったのだった。
「この知美さんに任せなさーいっ、アイちゃんっ」


 ――それから、数分後。
 那奈と悠も戻り、仕事がひと段落ついた遼も顔を見せ、5人全員がリビングに揃う。
 紅茶をひとくち飲んだ後、遼はにっこりと先生に笑いかけた。
「大河内くん、魔法は見破れたかな?」
「いえ……まだ今、考え中です」
「魔法?」
 ふたりの会話に、那奈は不思議そうな顔をする。
 遼はそんな妹に優しい微笑みを向けた後、先生に向き直って続けた。
「まぁ、まだ時間はあるからね。期待しているよ」
 何気にプレッシャーをかける遼の言葉に苦笑しながら、先生は漆黒の前髪をかき上げる。
 知美はそんな二人を見た後、ふわふわの髪を弄りながら遼にふと訊いた。
「遼さんって、本当に何でもできちゃいますよね。苦手なものとか苦手な人とか、あるんですか?」
「ん? そうだな、苦手なものはすぐには思いつかないが……苦手な人なら、ごく僅かだがいるよ」
「この人の苦手な人って、一体どんな人なんだ……」
 大河内先生はそうぽつりと呟き、はあっと嘆息する。
 何事も完璧にこなす遼の苦手な人とやらがどんな人物なのか、先生には想像もつかなかったのである。
 ……その時。
「あれ? 外、車の音がしない?」
 知美はふと首を傾げ、立ち上がってカーテンを開けた。
 それに続き、窓の外に目を向けた大河内先生だったが。
「……は!? どういうことだよ!?」
 別荘の敷地に入ってきた車を見つめ、先生は思わず声を上げた。
 漆黒の瞳が見つめているのは、一台の純白のジャガー。
 そのホワイトオニキス色のジャガーに、先生は嫌というほど見覚えがあったのだった。
「どうやら、到着したみたいだね」
 悠はそう呟き、スタスタと玄関へと向かう。
 那奈は瞳をぱちくりさせている先生をちらりと見てから、悠に続いた。
「誰か、お客さんが来たのかい?」
 遼は冷静に全員の様子を見回し、ふと首を傾げる。
 知美は何故か唖然としている先生に、訊いた。
「え、何? あの車、知ってる人の?」
「知ってるも何もねーよっ。何でアイツがっ!?」
 ガクリと肩を落とし、先生が大きく溜め息をついた……次の瞬間。
「はろぉっ、アイちゃんっ。来ちゃったぁっ」
 リビング内に、華やかで甘い声が響く。
 相変わらず派手な格好のその人物を見て、先生は声を上げた。
「何しに来やがったんだよっ!? この魔女っ!」
「あらぁ、そんな口きくワケ? アイちゃんっ」
 ふっと漆黒の瞳を細め、現れたその人物・先生の姉である森崎香夜は笑う。
 知美は突然現れた香夜を見つめ、きょとんとしている。
 そんな彼女の様子に気がつき、香夜はにっこりと微笑んだ。
「あっ、もしかして貴女が知美ちゃん? アイちゃんに説教したっていう、那奈ちゃんのお友達ねぇっ」
「えっ? 貴女は?」
「あ、自己紹介がまだだったわねぇっ。私、アイちゃんの姉の森崎香夜っていうの。あ、結婚しちゃったからアイちゃんと苗字違うんだけどねーっ」
 ぶんぶんと知美の手を握って上下に振り、香夜は楽しそうに笑う。
 そんな姉の様子に、先生はただ頭を抱えるしかなかった。
 ……その時。
「香夜!? って、大河内くんの姉って……」
 今まで黙っていた遼は、驚いたような顔をしてそう呟く。
 香夜は視線を遼に向けると、にっこりと笑った。
「はぁい遼ちゃん、お久しぶりっ。元気だったぁ?」
「えっ!? 香夜さん、お兄ちゃんと知り合いだったんですか!?」
 香夜と遼の顔を交互に見て、那奈はびっくりしたように訊いた。
 香夜はニッと笑い、そして言ったのだった。
「愛しのドロシーちゃんが遼ちゃんの妹だったなんて、世間って狭いわねぇっ。ていうか遼ちゃんと私って、実は昔付き合って……」
「! 香夜っ、頼む……それ以上言うなっ」
 咄嗟に立ち上がって香夜の口を塞いだ遼だったが。
 時すでに、遅かった。
「ええっ!? 先生のお姉さんと、那奈のお兄さんが!?」
「お兄ちゃんと香夜さんが、元・恋人!?」
「えっ、遼兄さんと先生のお姉さんが!?」
 知美と那奈と悠は口々にそう言って、驚いた表情を浮かべる。
 だが、一番信じられない顔をしているのは。
「は!? ……おい、ちょっと待て。全っ然、ワケわかんねーんだけど!?」
 大河内先生は、混乱したようにそう呟いた。
 香夜は驚いた様子の全員をぐるりと見回し、ふふっと笑う。
「まぁまぁ、みんな。とりあえず遠慮なく座ってーっ」
「おまえな、自分んちのようなコト言ってんじゃねーぞ、コラ! ていうか、どういうことか説明しろっ」
 ハッと我に返って、先生はのん気に笑う姉に言った。
 そんな先生の言葉に答えたのは、香夜ではなく那奈だった。
「あのね、先生。今日の昼、香夜さんから私の携帯に電話があったんだ。この近くで用事があったから、悠くんの別荘に寄ってもいいか訊いてみて欲しいって」
「それで香夜さんも僕の別荘に来ることになったんですけど、先生やみんなには内緒でって言われてましたから。でも、遼兄さんと香夜さんが知り合いだったなんて……」
 那奈の言葉に付け加えるように、悠もそう言った。
 香夜はソファーに座って綺麗な足を組み、うんうんと頷く。
「まぁ、そういうコトだから、短い間だけどよろしくねぇっ」
「誰がよろしくするかよっ……ったくっ」
 はあっと頭を抱える先生を見てから、香夜はニッと意味深に笑った。
「何よぉ、どうせアイちゃんのことだから、策士な悠くんと遼ちゃんに翻弄されてるんじゃないかなーって心配して来たってのに」
「おまえが来た方が、よっぽどややこしくなるだろーがっ」
 先生はじろっと姉に視線を向け、もう何度目か分からない溜め息をつく。
 そんな姉弟の会話を聞いた後、悠はふと香夜に目を向けた。
「あの、香夜さん。電話でも言いましたけど、2階の部屋は5室しかないから、香夜さんのお部屋は1階の奥の部屋でいいですか?」
 その悠の問いに、香夜は悪戯っぽく笑う。
 そして、ふと遼に視線を向けて答えた。
「あ、気にしないで、悠くんっ。今日は遼ちゃんと、リビングで朝まで耐久トークする予定だからっ」
「ちょっと待て。そんなこと一体いつ決まったんだ、香夜? 当事者の僕は、全く何にも聞いてないんだが」
「いつって、もちろん今に決まってるじゃない」
「今って……変わってないな、おまえは」
 漆黒の前髪をかき上げ、遼は諦めたようにソファーに腰をおろす。
 那奈はまだ瞳をぱちくりさせ、香夜と遼を交互に見ていた。
 香夜はそんな那奈ににっこりと微笑み、そしてこう言った。
「オズの魔法使いの童話で、ドロシーの強い味方・南の国の魔女のグリンダは、空とぶドラゴンのチャリオットに乗ってやって来たでしょ? そーいうことよぉっ、那奈ちゃん」
「グリンダの、空とぶチャリオット……」
 そう呟き、那奈はふと窓の外に見える純白のジャガーに視線を向ける。
「あ? ったく、どういうことだよ、コラ」
 そんな那奈の様子をちらりと見た後、大河内先生は姉の言葉に呆れたように嘆息した。
 そして漆黒の前髪を、鬱陶しそうにザッとかき上げたのだった。