SCENE8 魔法の達人
――別荘生活・4日目。
この日も前日同様、あいにくの雨模様である。
そんな雨の日の午後、駅前の巨大なショッピングモールの喫茶店で、那奈と知美と悠の3人はお茶をしていた。
小雨から本降りになってきた窓の外を見つめ、那奈はアイスティーをゆっくりかき混ぜながらぽつりと呟く。
「大河内先生、風邪ひかないかな……」
心配そうな表情の那奈の姿に複雑な顔をしながら、悠は小さく嘆息した。
それからにっこりと笑顔を向け、優しい声で彼女に言った。
「遼兄さんも一緒だし、先生だって子供じゃないんだから大丈夫だよ」
悠の言葉に漆黒の瞳を細め、那奈は小さく微笑む。
「そうなんだけど、つい心配しちゃうのよね。先生って、妙に子供っぽいところあるから」
「あーそれって、母性本能をくすぐられるってヤツ?」
パクッと頼んだフルーツタルトをひとくち食べ、知美はニッと笑った。
知美の言葉に那奈は照れたように頷き、幸せそうに言葉を続けた。
「うん、そうかもしれないな。先生ってね、何が食べたいか聞いてもいつもカレーしか言わないし、それなのにニンジン嫌いで食べられないんだよ? 子供みたいでしょ」
嬉しそうに先生の話をする那奈に、悠は色素の薄いブラウンの瞳を細める。
それから同じ色のサラサラの前髪をそっとかき上げ、何かを考えるような仕草をした。
そして、すかさず話題を変えた。
「それよりも、ここ出たらどこを見る? どこか見たいところある?」
持っていたショッピングモールの地図を、悠は那奈と知美の目の前に広げる。
「うーん……あっ、ここってサマンサ・タバサも入ってるんだね。行ってもいいかな?」
「あ、私も行きたーい。アウトレットってちょっと安めだから、ついたくさん買っちゃうよねぇっ」
女の子ふたりはパンフレットのショップリストをチェックしながら、きゃっきゃっと買い物の予定を立て始めた。
悠はそんな彼女らに柔らかな笑顔を向けつつも、もう一度小さく溜め息をつく。
数時間前……雨の午前中。
5人は別荘で、思い思いにゆったりとした時間を過ごしていた。
那奈と知美は2階で女の子同士お喋りを楽しみ、遼は持ち帰ってきている仕事をし、悠はリビングで雑誌を読みながら紅茶を飲んでいた。
そして、大河内先生はというと。
静かなリビングでしばらく読書に勤しんでいたのだが、いつの間にかソファーの上で眠っていたのである。
もちろん同じリビングにいた悠が、この機会を逃すはずはない。
悠はすかさず那奈と知美を誘い、遼の車で送ってもらってまんまと先生を出し抜き、駅前のアウトレットモールに来ているのである。
だが先生のいないところで那奈と過ごせることを嬉しく思いながらも、悠は反面複雑な心境でもあった。
那奈の口から出るのは、大河内先生の話題ばかりで。
そしてそんな先生の話をする彼女の顔は、何よりも幸せそうなのである。
「悠くんは、どこか行きたいところってある?」
那奈は漆黒の瞳を悠に向け、ふと小首を傾げる。
悠は俯いていた顔を上げると、優しく彼女に微笑んだ。
「僕はもう大丈夫だよ。あ、サマンサ・タバサって言えば、この間一緒に買い物に行った時に那奈ちゃんが買おうか迷ってたバッグ、あれもあるかな?」
「あの悠くんと買い物行った時に見た、ハートモチーフのバッグでしょ? 安かったし、やっぱりあの時買っとけばよかったかなーって、後で後悔してたんだ。あれ、あるかなぁ」
楽しそうに瞳を細め、那奈はアイスティーをひとくち飲む。
それから、再び漆黒の瞳をショップリストに向けた……その時だった。
「あっ、携帯鳴ってる? ちょっと、ごめんね」
そう言って那奈は、持っていたバッグを開く。
そして着信を知らせてブルブルと震えだした携帯電話を手に、席を立った。
それから携帯電話の受話ボタンを押し、耳にあてながら店の外に出て行く。
黒髪が微かに揺れる彼女の後姿を見送った後、知美はふと悠に目を向けた。
「ねぇ、悠くん。本当は、那奈とふたりで買い物に来たかったんじゃない?」
知美は少し申し訳なさそうに、そう口を開く。
悠はそんな知美の問いに、大きく首を振った。
「気を使ってくれなくても大丈夫だよ。前にも言ったけど、知美ちゃんも大切な友達だから。逆に感謝してるんだよ、いてくれて」
「本当に那奈って、あれでいて結構鈍いんだから。ま、アイちゃんと付き合いだしてまだ半年も経ってないから、今が一番楽しいんだろうけどねぇ」
大河内先生の話を夢中でしている那奈の様子にもちろん気がついていた知美は、悠をさり気なく気遣うようにそう言ってケーキを口に運ぶ。
悠はコーヒーをひとくち飲んで、育ちのよさそうな顔に微笑みを宿した。
「気を使ってくれてありがとう。知美ちゃんって、本当にいい子だよね」
「いい子? ふふ、そんなに褒めたって何もないわよ? 悠くん」
そして悪戯っぽく笑う知美を見てから、悠は言葉を続ける。
「それに遼兄さんに言われてたんだよ、先生とふたりきりになる機会をできれば作って欲しいってね」
「遼さんが先生と? もしかして、妹にちょっかい出すなーっ、とか言うのかなぁっ」
きゃははっと笑って、知美はワクワクしたように瞳を輝かせる。
悠は小首を傾げながらも、ブラウンの瞳を細めた。
「さあ、遼兄さんが何をしようとしてるのかは分からないけど……でも初日に遼兄さん、先生にはっきり言ってたよ。先生のこと認めないって」
「うそっ!? うわー、その場にいたかったぁっ」
人の色恋沙汰に興味津々な知美は、興奮したように目を見開く。
それから那奈が店内に入ってきたことに気がつき、ふと口を噤んだ。
ふたりが何を話していたか知る由もない那奈は、小さく揺れる黒髪を手櫛で整える。
そして携帯電話を片手に、ふたりが座っている席の前まで歩いてきた。
それからおももうろに携帯電話を差し出し、悠にこう言ったのだった。
「ねぇ、悠くん。悠くんに、ちょっと電話代わって欲しいって言われたんだけど……」
「え? 僕? 誰からの電話なの、那奈ちゃん」
突然の那奈のその言葉に、悠は少し驚いたような表情をする。
そして彼女の口から出た電話の相手の名前に、さらに意外そうにその瞳をぱちくりとさせたのだった。
――同じ頃。
「ん……」
薄っすらと瞳を開き、大河内先生はゆっくりと身体を起こす。
耳には、優雅で心地よいクラシック音楽が聞こえている。
まだ寝起きの先生は、どうやら自分が読書中に寝てしまったと気がつくのに数秒を要した。
そしてふわっとひとつあくびをした後、大きく伸びをする。
そんな先生の様子を見て、目の前のソファーで新聞を読んでいた遼はふっと紳士的な顔に微笑みを浮かべた。
「目が覚めたかな、大河内くん。随分とよく眠っていたね」
「え? 俺、そんなに寝てましたか?」
ちらりと部屋の時計に目を向け、自分が思ったよりも時間が経っていることに先生は気がつく。
それから周囲をふと見回し、遼にこう聞いたのだった。
「那奈たちは、どうしたんですか?」
遼はその先生の問いに、上品な笑顔で答える。
「那奈なら、悠と知美ちゃんと一緒にまた駅前のショッピングモールに買い物に行っているよ」
「え?」
その言葉を聞き、先生は表情を変えた。
それから漆黒の前髪をザッとかき上げ、眉を顰める。
「ったく、安西のヤツ……人が寝てるのをいいことに、那奈を連れ出しやがって。竹内も一緒だから、まだいいものの」
はあっと溜め息をつく先生に目を向けてから、遼はソファーから立ち上がった。
「何か飲むかい? 大河内くん」
「あ、いいです。自分で取りに行きますから」
遼を制して立ち上がり、先生はまだ少し寝ぼけた様子でキッチンへと向かう。
それから冷蔵庫に入っている冷えたミネラルウォーターをコップに注いでゴクゴクと飲んでから、はあっとひとつ溜め息をついた。
隙を見せた自分が悪いのであるが、改めて悠の抜かりなさを思い知り、先生は表情を険しくする。
考えればこの数日間、那奈とふたりきりだった時間はごく僅かである。
ふたりで那奈の部屋にいてもすかさず悠か遼が邪魔をしにくるし、花火大会の時もふたりだったのはほんの数分間だけ。
那奈は親友である知美と一緒にいることも多く、その上に下手に彼女の身内である遼がいる手前、ふたりで行動することもできない。
那奈とは恋人同士であるが、教師と生徒という関係でもあるからだ。
何だか悠の術中にはまっている気がして、先生はもう一度大きく嘆息する。
それからコップに再びミネラルウォーターを注ぎ、それを持ってリビングへと戻った。
クラシック音楽を聴きながら新聞を読んでいた遼は、先生が戻ってきたのを確認しておもむろに瞳を細める。
それから新聞を几帳面にたたんでテーブルに置き、口を開いた。
「大河内くん」
「……何ですか?」
呼ばれて顔を上げ、先生は漆黒の瞳を遼に向ける。
そして遼は紳士的な顔に笑みを浮かべたまま、先生にこう言ったのだった。
「昨日君は悠と勝負していたけど……じゃあ今日は、僕と勝負してもらおうかな」
「え?」
その思いもよらない言葉に、先生は驚いたような表情を浮かべる。
そんな先生を見て、遼は言葉を続けた。
「君に勝負を申し込んだのは、僕の方だからね。君が得意だと思うもので勝負しよう。何でも僕は構わないよ?」
「って、いきなりそんなコト言われても……」
突然そう言われて困ったような様子の先生に、遼は真っ直ぐ視線を向ける。
そして、声の印象を変えて言った。
「僕との勝負、受けてもらえないのかな?」
「…………」
自分を射抜くように見る遼に瞳を返し、先生は表情を変える。
それから黒髪をかき上げて、答えたのだった。
「分かりました、いいですよ」
先生の言葉を聞き、遼はいつも通りの柔らかい表情を浮かべる。
「そうこなくてはね。さっきも言ったように、僕は何で勝負してもいいよ。君が誇れることで構わないから」
そんな遼の言葉にうーんと考える仕草をして、先生はおもむろに瞳を伏せる。
ここ数日一緒に過ごしただけであるが、遼は何でもこなせる器用な人物であることが先生には分かっていた。
器用なだけでなく、博学で頭も良さそうであるし。
下手にまともに勝負をしても、正直勝てる見込みはなさそうだ。
「俺の、誇れること……」
そう呟き、そして先生はふと顔を上げる。
それから遼に目を向けて、こう言ったのだった。
「勝負とは関係ないですけど……今の俺にとって一番誇れることは、那奈への気持ちです。俺は確かにあいつの教師という立場ではありますが、誠意を持って真剣な気持ちで付き合っています。那奈のこと誰よりも大切に思っている自信があるし、お兄さんにもそのことを俺は分かってもらいたいと思ってます」
「…………」
真剣な表情の先生に、遼は無言で視線を向ける。
それから那奈と同じ漆黒の瞳を細め、ポケットの財布から1枚の10円玉を取り出した。
「じゃあ、君のその誠意とやらを、このコインに賭けてみないかい?」
「え?」
遼の意図が分からず、先生は首を傾げる。
紳士的な笑顔を浮かべたまま、遼は続けた。
「今からコインを投げて、僕の手の甲に伏せるから……裏か表、どちらかに賭けるんだ」
大河内先生は、遼の手の中の10円玉をじっと見つめる。
そして、こくんと頷いた。
「ええ、いいですよ。やりましょう」
「じゃあ、いくよ。こちら側が表、反対側が裏だ」
遼はふっと漆黒の瞳を細め、確認するように10円玉を先生に見せる。
それから、スッとコインを投げた。
「さあ、どっちに賭けるかい?」
宙に舞ったコインを手の甲に伏せた後、遼は先生の答えを待つ。
優雅に流れていたクラシック音楽のCDは、いつの間にか終わっていた。
リビング内に、一瞬だけシンとした静寂がおとずれる。
大河内先生は遼の言葉に、迷いなくすぐに口を開いた。
「表です、表に賭けますよ」
「表、だね」
遼はそう言って、コインの上に重ねていた手をそっと外した。
先生は、真剣な眼差しで彼の手に視線を向ける。
その結果は……。
「……俺の勝ち、ですね」
遼の手の甲のコインは、表側を向いていた。
それを確認してホッとしたように、先生は緊張していた表情を緩める。
遼はふっと笑い、先生に言った。
「そのようだね。どうして表だと?」
「いくら考えたって分かることじゃないし、那奈とは裏のない付き合いをしてるって自信あるから……だから、迷わず表だと」
「なるほどね」
遼はそう言って、紅茶をひとくち飲む。
それから、柔らかな笑顔でこう続けた。
「この数日間見てきたが……面白い男だな、君は」
「じゃあ、俺たちのこと」
期待したように顔をあげた先生に、遼はにっこりと微笑む。
「それとこれは別だよ、大河内くん。君の誠意を見せてもらうとは言ったが、何も勝負に勝ったらふたりの交際を認めるなんて、一言も言っていないだろう?」
「なっ、そ、そんなのアリか!? 確かにそんなこと、言ってないけどよ……」
全く悪びれのない遼の様子に、先生はガクリと肩を落として思わずそう呟く。
そんな先生に、遼はちらりと目を向ける。
それから再び先ほどの10円玉を手に、続けた。
「まぁ、勝負に勝ったのは君だからね。特別にチャンスをあげよう」
「え?」
その言葉に、大河内先生は瞳をぱちくりさせる。
遼はふっと笑うと、こう先生に言ったのだった。
「今から僕のかける魔法を見破れたら、那奈との交際を認めてあげるよ、大河内くん」
「……魔法?」
不思議そうな顔をする大河内先生を後目に、再び遼はコインを上空に投げる。
そして先ほどと同じように手を重ね、同じように先生に問いかけた。
「さあ、どちらだと思うかい?」
先生は遼の思惑が分からず、考える仕草をする。
しばらくの沈黙の後、先生はおそるおそる言った。
「表、です。今回も表だと」
先生の答えを聞いて、遼はふっと口元に笑みを浮かべる。
それから、手を外して笑った。
「残念だったね、大河内くん」
「えっ!? あれ?」
遼の手の甲を見た先生は、思わず声を上げる。
それもそのはず、あるはずのコインの姿がそこにはなかったのである。
驚く先生に、遼はにっこりと微笑む。
「大河内くん、君のシャツの胸ポケットを見てごらん?」
「え? ポケット……?」
先生はその言葉通りに、真っ白い自分のシャツの胸ポケットを探った。
そして。
「ええっ!? な、何でだよ!?」
ポケットから出てきた10円玉を手に、先生は驚いたように瞳を見開く。
何度も瞬きする先生に、遼は言葉を続ける。
「明日帰るまでの宿題だよ、大河内くん。どうやってその10円玉が君の胸ポケットに移動したのか、その魔法を見破れるかな」
10円玉と遼の顔を交互に見つめ、大河内先生はまだ目をぱちくりとさせている。
遼はそんな先生の様子に、楽しそうに笑った。
そして、彼に聞こえないくらいの声でこう呟いたのだった。
「本当に面白い男だな、君は……」