SCENE10 月への長梯子

「遼さんと香夜さんって、どのくらい付き合ってたんですか?」
 ようやく落ち着いたリビングで、知美はふとふたりにそう訊いた。
 遼はその質問に、思わず苦笑する。
 そんな彼の様子にくすっと笑い、香夜は彼女の問いに答えた。
「遼ちゃんとはねぇ、1週間だっけ?」
「早っ! ていうか、何でよりによってこの魔女なんかと……」
 半ば同情するような視線を向けてそう呟いた大河内先生に、遼はふうっとひとつ溜め息をついて言った。
「僕にとって香夜は、理解できない思考の持ち主だったからね。すごく興味があったんだよ。だが、ものすごく後悔する結果になるとはね。1週間というのも最短記録だけど、女性からフラれたのも初めてだったからな」
「は? もしかして、姉貴の方がフッたのかよ!? てっきり、遼さんがこいつに愛想つかしたのかと思ったのに……いてっ」
 バシンとおもいっきり先生の背中を叩き、香夜はじろっと弟に視線を向ける。
「あーらアイちゃん、そんなコト言っていいワケ?」
「痛ぇな、この魔女っ。だいたい、何でおまえみたいな女が遼さんのことフッてるんだよ」
「んー、何でって? あまりに遼ちゃんが完璧な男だったからさー、彼氏よりも友達がいいかなって」
「……分かんねーな、ったく」
 香夜の言葉に首を捻り、そして先生はソファーから立ち上がった。
 那奈はそんな先生の様子に、ふと小首を傾げる。
「どこ行くの、先生?」
「あ? こんな居心地の悪いとこにいられるかよ。風呂でも入ってくる」
 そう言ってから、先生はおもむろにちらりと知美に目を向けた。
 知美はそんな先生の視線に気がつき、にっこりと微笑んでひらひらと手を振る。
 そして先生は、リビングを出て行った。
「あれ、大河内先生は?」
 その時、香夜の分の紅茶を淹れてキッチンから戻ってきた悠は、先生の姿が見えないことに首を傾げる。
 那奈は漆黒の瞳を彼に向け、彼の問いに答えた。
「先生、お風呂に入ってくるって」
「そっか。あ、香夜さんどうぞ」
「あらぁ、ありがとっ。お構いなく、悠くんっ」
 美人な顔に笑顔を浮かべて悠に向け、香夜は笑った。
 それから知美はふと全員を見回した後、那奈に視線を移す。
 そして、彼女に言ったのだった。
「あー何か今、炭酸とか飲みたい気分。那奈、散歩ついでに買いにいかない?」
「え? うん、いいよ。外涼しそうだし、散歩に出たいかも」
 急に誘われて少し驚いた様子の那奈だったが、すぐにコクンと頷く。
 知美はその返事を聞いて立ち上がり、那奈の手を引いた。
「んじゃ、行こっ。そーいうことで、ちょっと外に行ってくるね」
「あまり遅くならないようにね。気をつけてね、ふたりとも」
 悠は育ちの良さそうな顔に笑みを宿し、リビングを出て行くふたりに手を上げる。
 ふたりが出て行ったことを確認した後、香夜はおもむろにリビングに残った男ふたりに目を向けた。
「ていうかさ、ふたりでうちのアイちゃんのコト、いじめたでしょ」
「いじめたとは心外だな、香夜」
 遼はちらりと香夜に視線を向け、ふうっと嘆息する。
「重度のシスコンな遼ちゃんと、策士な悠くんが相手だもん。アイちゃんって単純だから、すーぐ策にはまるでしょ? ね、悠くん」
「何のことですか? 香夜さん」
 にっこりと作り笑顔を浮かべ、悠はわざとらしく小首を傾げる。
 それから、言った。
「ていうか、香夜さん。やっぱり、先生の助太刀に来たんですか?」
「アイちゃんの助太刀? 前に言ったでしょ、私はドロシーちゃんの味方だって。それよりも悠くん、こんなところにいていいのかなーっ」
 きゃははっと笑う香夜の言葉に、悠は一瞬きょとんとする。
 そしてハッと顔を上げると、おもむろに立ち上がった。
「! もしかしてっ」
 そう呟き、悠はバタバタとリビングから出て行く。
 そんな彼の姿を見送り、香夜はくすっと笑った。
 そしてその後、改めて遼に微笑む。
「それにしても久しぶりね。いつ日本に? まさか那奈ちゃんが遼ちゃんの妹だなんて、びっくりしたわ」
「日本に帰ってきたのは4日前だよ。それよりも、よく言うよ。那奈が僕の妹だと知った上で、面白がって今回ここに来たんだろう? それにこの付近で用事なんて、本当はなかったんだろう?」
「さすが遼ちゃんっ。でも貴方たちが兄妹だって気がついたのはほんの数日前よ、驚いたわぁ。んで、面白そうかなーって思って来ちゃったっ」
 悪びれなく楽しそうに笑う香夜に、遼はもう一度溜め息をつく。
 それから、紳士的な顔にふっと笑みを宿した。
「おまえも変わってないな。会えて嬉しいよ、香夜」
「ふふ、遼ちゃんも相変わらずいい男ね」
 先生と同じ色を湛える神秘的な彼女の両の目を見つめた後、遼は瞳を細める。
 そして、納得するように頷きながら言ったのだった。
「大河内建設の跡取り息子と聞いて、まさかとは思ったんだが……考えると、おまえの弟なら納得だな。大河内くんは、とても面白い男だからね」
 その言葉に、香夜はニッと笑う。
「当たり前じゃない、この私の可愛い弟だもの。それに、単純だけど結構ちゃっかりもしてるのよ?」
「そうだな、そのようだな」
 漆黒の前髪をかき上げ、遼は紅茶をひとくち口に運んだ。
 そんな遼を見つめ、香夜は悪戯っぽい笑顔を彼に向けた。
「さ、まだまだ朝までたっぷり時間あるわよぉっ。久しぶりなんだから、朝まで耐久トーク、楽しみましょうねーっ」
「なっ、本気で朝まで喋る気なのか!?」
 驚く遼にくすくす笑い、香夜は大きく頷いてきっぱりと言った。
「当然でしょ、遼ちゃん」
「まったく……おまえは」
 遼はふっと苦笑しつつも漆黒の瞳を細め、香夜の美人な顔を見つめたのだった。
 ――その頃。
「やっぱり……」
 リビングを出た悠は、そう呟いて色素の薄い髪をふっとかき上げる。
 そして、大きく溜め息をついた。
 風呂場にも2階の部屋にも、大河内先生の姿がどこにも見えない。
 それから念のために玄関に彼の靴があるかを確認しようと、悠は歩き出す。
 ……その時だった。
 カチャリと玄関が開き、ひとりの人物が別荘に戻ってきた。
「あっ! ゆ、悠くんっ」
「知美ちゃん」
 戻ってきたのは、知美だった。
 悠の顔を見て苦笑し、彼女は手を合わせる。
「ごめんね、悠くん。アイちゃんに頼まれちゃって」
「やっぱり、そうだったんだね」
 知美は大河内先生に頼まれて、那奈を外に連れ出したのだった。
 もちろん、頼んだ張本人の先生はすでにこの別荘にはいない。
 遼や悠に今まで散々邪魔されていた先生は、何とかして彼女とふたりになりたかったのである。
「追いかけないの? 悠くん」
 知美は靴を脱いで別荘に上がり、悠にそう訊いた。
 悠は小さく首を横に振り、苦笑する。
「追いかけようにも、どっちにいったか分からないし……例え見つけられても、見たくないもの見ちゃうかもしれないからね、今回は仕方ないよ。リビングに戻ろうか、紅茶でも淹れるよ、知美ちゃん」
「ごめんね、悠くん」
 もう一度手を合わせる知美に、悠はいつもの柔らかい笑みを向けた。
 そして、スッとそのブラウンの瞳を細めて言ったのだった。
「ううん、知美ちゃんが謝ることじゃないよ。それに……いずれは、先生から那奈ちゃんを奪ってみせるから」


「先生も偶然お風呂入る前に散歩に出てたなんて、驚いちゃった」
 まさか事前に先生と知美が示し合わせ、今のこの状況になっているなんて知る由もない那奈は、そう言って漆黒の髪をそっとかき上げる。
「え? ああ、そ、そうだな」
 大河内先生はちょっとどもりつつも、恋人とのふたりだけの幸せをかみ締めていた。
 何かと男どもの邪魔が入ったり、那奈と知美が一緒にいたりと、今までなかなかふたりだけの時間を持てなかった。
 姉である香夜のいきなりの登場は驚いたが、それも遼を引きつけるのに都合が良かったし。
 その上、事前に知美に協力を頼んでおいて、今考えたら正解である。
「大河内先生、どうしたの?」
 ふと那奈の漆黒の瞳が真っ直ぐ自分を映していることに気がつき、先生は端正な顔に微笑みを浮かべる。
「ん? いや、何だかこうやっておまえとふたりきりってのも、久しぶりな気がしてな」
「そうだね、別荘ではみんないるしね」
 那奈は頬に吹く夏の風を感じて瞳を細めた後、先生の腕に自分の腕を絡めた。
 彼女のひやりとした腕の感触は、すぐに自分の体温と混ざり合ってあたたかくなる。
 那奈は恋人の腕に身体をぴたりと寄せた後、ふと天を仰いだ。
 そして、楽しそうに笑って言った。
「先生、見て。月が綺麗だよ」
「本当だな。ちょうど雲が途切れて綺麗に見えるな」
 那奈の視線を追うように空を見上げ、先生も漆黒の瞳に柔らかな光を放つ月を映す。
 それから、自動販売機のそばにあるベンチを見つけた。
「お茶でも飲みながら、座って話でもするか?」
「うん、先生」
 那奈は先生の言葉にコクンと頷いて、素直にベンチに腰を下ろす。
 大河内先生は那奈の隣に座ると、そっと彼女の肩を抱いた。
 肩に伝わる先生の手の感触に微笑み、そして那奈はもう一度夜空を見上げる。
「そうそう、オズの魔法使いのシリーズでね、月へ届くくらいの長いはしごを作った人がいるんだよ」
「出た、オズの魔法使い」
 茶化すように少し乱暴にぐりぐりと頭を撫で、先生はふっと笑みを浮かべた。
 那奈はむうっと拗ねたような表情をして手櫛で髪を整えると、ふいっと先生から目を逸らす。
「何よ、先生だってマニアックな話よくするでしょ?」
「そんなに怒るなって。それで、その月まで届くような長いはしごを作って、作ったヤツはどうしたんだ?」
 先生の言葉に気を取り直した後、那奈は楽しそうに話を続けた。
「それを作ったのってティンカーって人なんだけど、作った長いはしごを上って、結局月に住むことにしたんだよ」
「月への長いはしご、か」
 先生はそう呟き、宙に向けた漆黒の瞳を細める。
 そして。
「先生……」
 月から自分へと戻ってきた大河内先生の視線に、那奈はドキッとする。
 自分だけを見つめる彼の両の目は、闇のように深くて神秘的で。
 それでいて、月のような柔らかな優しさも不思議と感じる。
 先生は、那奈の顎をそっと持ち上げる。
 そして漆黒の瞳を閉じ、彼女に唇を合わせた。
「んっ……大河内、先生……っ」
 いつもより長い口づけに、那奈は思わず恋人の名前を呼ぶ。
 先生は彼女の頭を撫でてから自分に引き寄せ、恋人を慈しむように唇を重ねていく。
 体温が急激に上がり、カアッと顔が赤くなる感覚を那奈は覚えた。
 それから先生は、ゆっくりと余韻を持たせるように、ようやく彼女の唇から自分のものを離す。
 那奈は心地良さと、ドキドキと鼓動を刻む胸の高鳴りの両方を感じながら、照れたように笑った。
「先生、月に住んでるティンカーに、キス見られちゃったよ」
「構わねーよ、見られたって」
 彼女らしい言葉に微笑み、もう一度先生は那奈に軽いキスをする。
 そして、彼女の耳元で囁いたのだった。
「おまえのこと、愛してるからな……那奈」
「私も……私も愛してるよ、先生」
 那奈はそう言って微笑み、先生にぎゅっと抱きついた。
 先生はポンッと優しく彼女の頭に手を添えた後、思い出したように口を開く。
「あ、お茶飲みながらって言ってたけど、忘れてたぜ」
「じゃあ、今からお茶飲みながら話そうよ、先生」
 くすっと笑い、那奈は立ち上がる。
 それから財布を覗き込み、先生に言った。
「私、大きいのしかないけど……先生、小銭ある?」
「ん? ああ。ほら、投げるぞ」
 先生はポケットからまず100円玉を取り出し、彼女に投げる。
「えっ? あっ」
 那奈は急に弧を描いて飛んできた100円玉をキャッチすることができず、瞳を見開いた。
 それと同時に、チャリンと硬貨の転がる音がした。
「あれ、どこ行っちゃった?」
「足元だよ。あ、今踏んだぞ、おまえ」
 きょろきょろと地面を探す那奈の様子に、先生はふっと笑う。
 那奈はようやく自分の足の下にある100円玉を拾い、恥ずかしそうに言った。
「足の下だなんて、気がつかないよね。消えちゃったかと思ったよ」
「消えるって、魔法じゃないんだからよ……あっ」
 その時ふと先生は何かに気がつき、思わず声を上げる。
 そして、考え込むように口を噤んだ。
 那奈は急に黙った先生に、不思議そうな顔を向けた。
「どうしたの、先生?」
「10円玉が消えた理由……そっか、そーいうことかよ。あとは、何で俺のポケットにあったか、だよな……」
 ブツブツと呟きながら頷く先生に、那奈はますます首を傾げる。
 そんな那奈を後目に先生は立ち上がり、ジャラジャラと取り出した小銭を自動販売機に入れてお茶のボタンを押した。
 そしてお茶の缶を取り出し、那奈の頬に当てる。
「わっ、冷たいよ。先生っ」
 いきなり感じたひやりとした感触に、那奈は思わず声を上げた。
 先生は自分の分のお茶を買ってからそんな彼女の様子に笑うと、再びベンチに座る。
 頬についた水滴を手でそっと拭い、那奈も彼の隣に腰を下ろす。
 大河内先生は那奈の黒髪を優しく撫でながら、ふっと微笑んで言った。
「じゃあ、何の話してやろうか? あ、そういえば月っていえばよ、上杉謙信の辞世の句にこんなのがあったな。“極楽も地獄もともに有明の月ぞこころにかかる月かな”ってな。あ、あと伊達政宗の辞世の句にも月が出てきてたな。“曇りなき心の月を先立てて浮世の闇を照らしてぞ行く”、だったかな」
「出た、戦国武将」
 くすくすと笑い、那奈は悪戯っぽく言った。
「うるせーな、悪かったなっ」
 先生はふっと微笑み、わざとぐしゃぐしゃと那奈の頭を撫でる。
「もーうっ、先生ったらっ」
 ぐしゃぐしゃにされた頭に手を当て、那奈は大河内先生に目を向けた。
 先生はそんな彼女の髪を大きな手で整えた後、それから彼女に笑顔をみせる。
 そして、おもむろに漆黒の瞳を伏せた。
 那奈も先生に合わせるように、ゆっくりと目を閉じる。
 そしてふたりは淡い月が見守る下で、もう一度お互いの気持ちを確かめるかのように、そっと柔らかな唇を合わせたのだった。