SCENE6 オズの虹の国

 ――ゲーム開始から、数十分後。
「またストライク!? ……一体何者だよ、あの人は」
 危なげなく綺麗に倒れた10本のピンを見て、大河内先生は思わずそう呟く。
 そして、何度目か分からないストライクを容易く出す遼に、改めて感心したように嘆息した。
 那奈は先生の隣で、自分のことのように少し誇らしげに笑う。
「お兄ちゃんって、ボーリングでも何でも上手なんだよ。すごいでしょ」
 兄と同じ漆黒の瞳を嬉しそうに細めてから、那奈はスコア表を眺める。
 先生もつられるように視線を移し、今までの成績を見つめた。
 そして、ふっと怪訝な表情を浮かべる。
 その時。
「那奈、次は那奈の番だよ」
 ストライクを出して戻ってきた遼が、にっこりと優しく那奈に微笑む。
 那奈は兄の言葉にこくんと頷き、漆黒の髪をかき上げて立ち上がった。
 そして。
 遼は妹を優しく送り出すようにぽんっと彼女の肩を叩いた後、何を思ったのか、那奈が今まで座っていた大河内先生の隣に腰をおろしたのだった。
 それから紳士的な顔に作ったような笑顔を宿すと、ゆっくりと先生に言った。
「僕も混ぜて欲しかったな、大河内くん。君と悠の賭けにね」
「えっ!? どうしてそれを……」
 ぎょっと瞳を見開いてそう呟いた先生は、ふと背後を振り返る。
 そして眉を顰め、のん気にアイスクリームを食べている知美をじろっと見た。
「竹内っ、おまえだろ!? ったく、ペラペラ喋るなっ」
「ん? だって、別に黙ってろとか言われてなかったからさぁ。ていうかアイちゃん、そんなコト言ってる場合じゃないんじゃなーい?」
「うるせーなっ。今からだよ、今から。ちゃんとしっかり見てろよ、おまえっ」
 相変わらず楽しそうな表情を浮かべる知美にそう言って、先生は鬱陶しそうに前髪をかき上げる。
 そんな先生の横で、遼はスコア表を見ながら言った。
「8フレ終了時点で、悠との差が10ピンか。結構厳しいんじゃないかい?」
「……今から、挽回してみせますよ」
 ちらりと遼に目を向け、先生は漆黒の瞳を細める。
 先生のその言葉に、悠はふっと笑った。
「でも僕が残り全部ストライクだったら、どう足掻いても先生の負けですよ?」
「うるせーなっ、まだ終わるまで分かんないだろーがよ」
 むうっと訝しげに悠を見て、先生は膝に頬杖をつく。
 そして、改めてスコア表に視線を向けた。
 8フレーム目を終わった時点で、悠がスコア159、先生が10本差の149。
 ゲーム終盤に差し掛かってのこの10本差は、正直かなり厳しい。
 絶妙に曲がるボールを自在にコントロールして手堅くピンを倒していく悠と、真っ直ぐ軌道を取る力強い先生の投球の特徴の差が、ここにきて成績に影響してきているのだった。
 険しい表情を浮かべる先生に、悠はにっこりと微笑む。
 そして、自信満々に言った。
「先生、ちゃんと約束は守ってくださいよ?」
「あ? まだ終わってねーだろーがっ。もう勝った気になってんじゃねーぞ、コラ」
 チッと舌打ちし、先生は悠に視線を投げる。
 悠は余裕の笑みを先生に返した後、投球が終わって戻ってきた那奈に優しく笑った。
「惜しかったね、那奈ちゃん。もう少しでスペアだったのに」
「うん、もうちょっと右だったらよかったんだけどね」
 水面下で白熱した真剣勝負が行われていることなど知る由もない那奈は、純粋にゲームを楽しんでいるように悠に微笑む。
 次の投球者である知美は残ったアイスをぱくっと食べると、椅子から立ち上がった。
 そしてぽんっと大河内先生の肩を叩き、無邪気に笑う。
「大河内セーンセ、もうちょっと粘って勝負を面白くしてくださいよねーっ。応援してますからっ」
「面白がってる暇あったらさっさと投げろ、おまえは」
 はあっとわざとらしく溜め息をつき、先生は知美にじろっと目を向ける。
 知美は悪戯っぽく笑うと、ひらひらと手を振ってボールを手に取った。
 那奈はふたりの会話にきょとんとしつつも、気を許せる友達や兄、そして愛しの恋人たちをぐるりと見回す。
 そして勝負のことを知らない彼女は、この楽しい時間に満足そうに瞳を細めたのだった。
 ――それから、さらに数分後。
「これ、どっちがどうなってるの?」
 9フレーム目の投球が全員終わった時点で、知美はスコア表を見て首を傾げる。
 そんな知美に、遼は柔らかな声で答えた。
「9フレで悠が9本、大河内くんがスペアだっただろう? この時点で悠のスコアが168、大河内くんはスペアだから10フレの1投目の投球が終わるまでまだ分からないんだよ。悠が圧倒的に優位だってことは変わらないけどね」
「悠くんが優位?」
 遼の言葉に、那奈は不思議そうな顔をする。
 そんな事情を知らない那奈に、知美は慌てて言った。
「あっ、那奈、何か飲み物買いに行かない?」
「うん、行こうか。でも知美、さっきアイス食べたばかりじゃない?」
「え? あ、でも喉渇いちゃったかなーってっ」
 あははっと誤魔化すように笑い、知美はまだ首を傾げている那奈を伴ってジュースを買いにこの場を離れる。
 那奈がいなくなったことを確認し、悠は先生に目を向けた。
「最後の10フレですね。ちゃんと3回投げて勝負決めますから、しっかり見ててくださいね、先生」
「うるせーよ、さっさと投げろ。ったくよ」
 むっとした表情を浮かべる先生を後目に、悠はキュッと拭いてからボールを手に取る。
 そして今までと変わらず綺麗なフォームで、最終フレームの投球を始めた。
 そして。
「げっ、スペアにストライクかよっ。本当にイヤなヤツだな……」
 宣言通りスペアを取って3回の投球をし、悠は一足先にゲームを終える。
 結局最終フレームでスペアとストライクだった悠のスコアは、合計188であった。
「さ、先生の番ですよ」
「…………」
 大河内先生は無言で悠に視線を向け、怪訝な表情を浮かべる。
 それからゆっくり立ち上がり、ひょいっとボールを手に取った。
 そして深い漆黒を湛える瞳を細めて狙いを定めると、最終フレームの第一投目を投じた。
 相変わらず先生の投げたボールは一直線に軌道を取り、勢いよくピンにぶつかる。
 ……だが。
「ちっ、1本残ったのかよ」
 グラグラと揺れながらも倒れなかった1本のピンを見て顔を顰め、先生は舌打ちをした。
「あっ、ねぇねぇっ、どうなった?」
 その時ジュースを買い終わって戻ってきた知美が、興味津々な様子で悠にそう聞く。
 遼はスコア表を見つめながら、少し考える仕草をする。
 そして、悠に代わって知美の問いに答えた。
「とにかく大河内くんは残りの1本を倒してスペアを取らなかったらその時点で負けだし、たとえスペア取っても次がストライクじゃなければ悠には追いつかないね」
「マジで? ちょっとアイちゃん、ここが男の見せ所よぉっ」
「おまえに言われなくったって、んなこと分かってるってんだよ」
 きゃっきゃっと楽しそうにそう茶化す知美に、先生はじろっと目を向けて嘆息する。
 那奈は異様にはしゃいでいる知美に、瞳をぱちくりとさせた。
「知美ってさ、そんなにボーリング好きだったっけ? 何か、すごく楽しそうだよね」
「え? もうめちゃめちゃ楽しいわよぉっ。いいわねぇ、真剣勝負っ」
「真剣勝負?」
 知美の言葉の意味するところが分からず、那奈は首を捻る。
 そんな那奈に、知美はふふっと笑った。
「ほら、那奈。アイちゃん応援してあげなきゃっ」
「え? あ、うん」
 知美の言葉に頷いて、那奈は漆黒の瞳を先生に向ける。
 そして、にっこりと微笑んで言った。
「大河内先生、頑張って」
「おう、任せとけ。見てろ」
 那奈の声にふっと表情を緩め、先生はニッと笑う。
 それから気を取り直して狙いを定めると、最終フレームの第二投目を投じた。
 その結果は……。
「よしっ」
 勢いよく弾けて倒れたピンを見て、先生は思わず声を上げる。
「きゃあっ、アイちゃんスペアじゃなーいっ。やっぱりこうでなくちゃねーっ」
「先生、よかったねぇっ。スペアなんてすごーいっ」
「…………」
 嬉しそうにはしゃぐ女の子ふたりを後目に、悠は一瞬面白くなさそうな表情を浮かべた。
 そんな悠を見て、先生は瞳を細める。
「どうだ安西、ちゃんと見てたかよ?」
「ええ。でも最後の一投がストライクじゃないと、追いつきませんよ?」
 悠のその言葉に、大河内先生はふっと笑う。
 そして、こう言ったのだった。
「あ? ストライク取るに決まってるだろーがよ。しっかり見てろ」
 先生はそれから、ふと漆黒の瞳を那奈に向けた。
 那奈はそんな視線に気がついて微笑むと、おもむろに先生の近くまで歩み寄る。
 そして。
「先生なら、絶対にストライク取れるよ。頑張って」
 ぎゅっと大河内先生の手を握り、那奈はにっこりと笑った。
 そんな強く握られた那奈の手の温もりを感じ、先生はふっと表情を緩める。
「那奈……」
 先生は嬉しそうに微笑むと、彼女の頭を優しくそっと撫でた。
 それから改めてボールを手に取り、意識を集中させる。
 そして、最後の一投を投じたのだった。
 球威のあるボールがど真ん中に当たり、ピンが弾け飛ぶ。
 その結果は……。
「あっ、すごーいっ! 先生、ストライクだよっ」
「本当だ、アイちゃんやったねっ。それで結果は!?」
 見事に有終の美を飾るかのようにすべてのピンを倒した先生から視線を外し、知美はスコア表に目を向けた。
 そして次の瞬間、瞳を大きく見開くと興奮したように言った。
「あっ! 悠くんとアイちゃん、同じスコアだっ」
 結局先生の合計スコアは、最終的に悠と同じ188だった。
 那奈はパチパチと手を叩き、大河内先生に近づいた。
「先生、言った通りストライクだったねっ」
 自分のことのように喜ぶ那奈に微笑んだ後、先生は自分でスコアを確認するとホッと胸を撫で下ろす。
 それから悠に目を向け、ニッと笑った。
「言っただろ、ストライク取るに決まってるってな」
「往生際が悪いと言うか、しぶといと言うか……でも、僕だって負けてないんですからね。勝ったような顔しないでくださいよ、先生」
 悠はサラサラなブラウンの前髪をかき上げ、そう言って小さく溜め息をつく。
「ま、この勝負は引き分けってことでいいじゃんっ。また決着は次の機会に持ち越しってカンジでっ」
「決着?」
 楽しそうに言った知美のその言葉に、那奈は不思議そうな顔をした。
 大河内先生はそんな首を傾げている那奈をぐいっと引き寄せ、ぐりぐりと彼女の頭を撫でる。
 それから、瞳を細めて言った。
「サンキュー、那奈。ストライク取れたのも、おまえのおかげだよ」
「どうしたの、先生? 何だか大袈裟ね」
 先生の大きな手の感触に微笑みながらも、那奈はもう一度首を傾げる。
 大河内先生はふっと笑みを浮かべると、彼女の耳元でこう続けたのだった。
「今日はおまえが手ぇ握って、俺に魔法かけてくれたんだよ」
「魔法? ふふっ、先生ってば、ボーリングくらいで大袈裟なんだから」
 そう言いつつも嬉しそうに笑い、那奈は漆黒の髪をそっとかき上げた。
 那奈にとって今回のボーリングはただの遊びでも、先生にとっては恋人とプライドを賭けた真剣勝負だったのである。
 知美はラブラブなふたりをちらりと見た後、悠の肩を軽く叩く。
「もうちょっとだったのに、惜しかったねぇ。でもまだ機会はたくさんあるよ、悠くん」
「そうだね。今回は残念だったけど勝負に負けたわけじゃないし、今度こそは絶対にチャンスをものにしてみせるから」
 さほど気にしているようでもなく普段と何ら変わらない表情で、悠は知美にそう答えた。
 遼は全員の様子をぐるりと見回し、そしてふっと笑う。
 それから立ち上がり、こう呟いたのだった。
「なるほどね……なかなか面白いものを見せてもらったよ」




 ボーリングを終え、5人はボーリング場をあとにする。
 先程まで降っていた雨もいつの間にか止んで、うっすらと晴れ間がのぞいていた。
「それにしても、遼さんってすごいですねーっ。ボーリング、余裕でスコア200オーバーだなんてっ」
「そう言う知美ちゃんも頑張ってたよね。今まで100越えたことなかったんだろう? 今までの最高スコア出したなんてすごいじゃないか」
「100超えたって言っても、101だったんですけどねっ。それにコーチがよかったから。何かいろいろ分かりやすく教えてくれてすっごく勉強になりました、遼さん」
 知美は品のいい遼の顔を見て、にっこりと微笑む。
 それから悠に視線を移し、ふっと笑った。
「なかなか何気に手強いみたいねぇ、アイちゃんって」
「そうみたいだね。でも、このくらい張り合いがないとね」
「ふふ、相変わらず強気ねぇっ。頑張ってね、友人として応援してるから」
 悠は知美の言葉に、色素の薄いブラウンの瞳をふっと細める。
 そしてにっこりと笑顔を浮かべ、言ったのだった。
「うん、ありがとう。きっと最後は、この僕が笑う結果になっているから」
 ――そんな3人の、数メートル後方。
 那奈と大河内先生は、ふたりでゆっくりと歩いていた。
「雨も止んでよかったね。今日の夜の花火大会、この調子だったらあるかな?」
「ああ。このまま晴れてればあるんじゃないか?」
「うん、そうだね。あるといいな、花火大会」
 祈るようにそう呟き、那奈は風に揺れる漆黒の髪を手櫛で整える。
 そんな那奈を愛しそうに見て、先生はふっとその端正な顔に微笑みを宿した。
 その時。
「あ……」
 ふと何かに気づき、大河内先生は立ち止まって漆黒の瞳を見開く。
 そして、隣を歩く那奈の肩を軽く叩いた。
「おい、那奈。見てみろよ」
「え? あっ」
 先生の言葉に顔を上げた那奈は、パッと表情を変えて声を上げる。
「わあっ、綺麗……!」
 那奈の漆黒の瞳に飛び込んできたのは……空に架かる、美しい虹。
 雨が止んだばかりの空に、色鮮やかな虹の橋が綺麗な弧を描いていた。
 那奈は見惚れるように虹を見つめた後、ゆっくりと口を開く。
「先生、『Over The Rainbow』って曲、知ってるよね?」
「ああ、有名な曲だからな」
 突然そう聞かれ、先生は首を傾げながらも頷いた。
 そんな先生を見て、那奈は言葉を続ける。
「その『Over The Rainbow』ってね、映画の『オズの魔法使い』の主題歌だったんだよ。その映画ではね、現実世界のシーンがモノクロで、夢の世界がカラーで……それがすごく印象に残ってるの。だから主題歌だったこの曲もね、大好きなんだ」
「へえ、『オズの魔法使い』の映画の主題歌だったのかよ、知らなかったぜ。映画で『Over The Rainbow』っていえばよ、確か『フェイス/オフ』にも使われてたよな」
「あ、そうそう。ジョン=トラボルタとニコラス=ケイジの出てた映画ね。この間一緒にビデオ借りて見たよね、先生」
 そう言って那奈は、そっと先生の腕に自分の腕を絡めた。
 先生は急に感じた恋人の体温に漆黒の瞳を細め、それから口を開く。
「ていうかよ、本当におまえって『オズの魔法使い』好きだよな。何気にめちゃめちゃマニアックだしよ」
「マニアックって言うなら、先生の方がマニアックで歴史オタクじゃない」
「あ? うるせぇな、オタクって言うなっ」
 先生は不服気に那奈に目を向け、くしゃっと彼女の髪を撫でた。
 そんな様子の先生を見てくすくす笑った後、那奈は改めて空を見上げ、こう呟いたのだった。
「本当に今回、別荘に来てよかった……先生とこうやって、たくさん一緒にいられるんだもん」
 那奈のその言葉を聞いて、先生はふっと笑みを宿して頷く。
「ああ、そうだな」
 いろいろと先生にとって問題はあるにしろ、那奈の言う通り、こうやって彼女と一緒の時間を過ごせることは幸せである。
 今日も何とか、悠の目論みを阻止できたことだし。
 改めてボーリングの結果にホッとしつつ、先生はふと天を仰いだ。
 そして空に架かる虹の橋を見つめた後、隣を歩く那奈の身体をそっと自分の胸に引き寄せたのだった。