SCENE5 魔法くらべ、再び

 ――別荘に来て、3日目。
 5日間の滞在予定である今回の避暑地の休日も、ちょうど今日で中日である。
 だがこの日は、朝からあいにくの雨であった。
「今日は午前中テニスする予定だったのに、流れちゃって残念だね」
 ポツポツという雨音を聞きながら、那奈は漆黒の髪をそっとかき上げた。
 知美も那奈の言葉に頷き、はあっと溜め息をつく。
「残念だよねぇ。それにさ、今日の夜って近くで花火大会あるんだよね? この調子じゃ花火大会も中止かなぁ」
「どうだろうね。でも朝から比べたら小降りになってきたし、夜になったら晴れるって天気予報では言ってたよ、知美ちゃん」
 悠は淹れた紅茶をひとくち飲んでから、窓の外に色素の薄いブラウンの瞳を向けた。
 それから那奈はふと、隣で新聞を読んでいる大河内先生に目を移す。
 そんな彼女の視線に気がついた先生は、顔を上げて眼鏡の奥の漆黒の瞳を優しく細めた。
「天気予報では明日は晴れみたいですから、今日は雨の音でも聞きながら、静かに過ごすのも悪くないんじゃないでしょうか」
「……本当にすごい変わり様ねぇ、同じ人とは思えないわ」
 眼鏡をかけている穏やかな教師バージョンの大河内先生を見て、知美は思わずそう呟く。
 先生は知美の様子に首を傾げ、不思議そうな顔をした。
「? どうかしましたか、竹内さん?」
「いえ、何でもないですよ。大河内先生っ」
 あははっと誤魔化し笑いした後、知美はもう一度嘆息して言葉を続ける。
「それにしても、せっかく今日は身体動かすぞーって気分だったのに。あ、雨でもできるスポーツとかって何かないかなぁ?」
「室内でもできるスポーツ? そうねぇ……」
 知美の言葉に、那奈はうーんと考える仕草をした。
 ふたりの話を聞いていた悠は、その時ふと何かを思いついたように色素の薄いブラウンの瞳を細める。
 そして那奈と知美のふたりに、にっこりと微笑んで言ったのだった。
「駅前に、ボーリング場ならあったよね。確か、卓球台とかもあった気がするよ」
「ボーリングかぁっ。何かかなりやってないけど、ちょっと今ボーリングとかしたい気分かもっ」
 悠の言葉に、知美はパッと表情を変える。
 那奈は先生に視線を向け、悪戯っぽく笑って小首を傾けた。
「ボーリングなら、この間先生と行きましたよね」
「え? そ、そうでしたね……」
 先生は彼女の言葉に、少しバツの悪そうに頷く。
 かなりハンデをつけたとはいえ、その時先生は那奈とボーリングの勝負をして、僅かの差で負けたのだった。
 挙句、負けた罰ゲームとして自分の過去の恋愛遍歴を彼女に話す羽目になり、先生にとってあまり触れられたくない話題だったのである。
 悠はちらりとそんな先生に目を移し、いかにも作ったような笑顔を向けた。
「大河内先生、行きませんか? ボーリング」
「……僕は別に構いませんけど、安西くん」
 明らかに何かを企んでいるような悠の表情に気がついて微かに眉を顰めつつ、先生は頷く。
 そんな先生の様子に気がつかず、那奈はぽんっと手を打った。
「あ、じゃあ部屋で仕事してるお兄ちゃんにも声をかけてくるね。お兄ちゃんってボーリング好きだし、すごく上手だから。いつもスコア、軽く200越えるのよ」
「遼さんって、ホント何でもできるのねぇ」
 顔も良し、頭も良し、その上料理も上手でボーリングまで上手いという遼に、知美は感心するようにそう呟く。
 那奈は知美の言葉に、自分のことのように嬉しそうに微笑んだ。
「うん、お兄ちゃんって本当に何でもできるんだよ。じゃあ、呼んでくるね」
 そう言って、2階の部屋にいる兄を呼びに那奈はリビングを出て行く。
 そんな那奈の後姿を見送った後、大河内先生はかけていた眼鏡をふっと外した。
 そして鬱陶しそうに髪をかき上げてから、印象を変えた黒い瞳をじろっと悠に向ける。
「ていうか安西、おまえ何企んでんだよ」
「企んでる? 別に何も企んでなんかいませんよ。みんなで楽しくボーリングできればなって」
 にっこりとありったけの作り笑顔を浮かべ、悠は柔らかな声で先生にそう答えた。
 それから、わざとらしくこう言葉を続けたのだった。
「あ、そうだ。せっかくのゲームなんだから、もっと面白くしませんか? 大河内先生」
「もっと面白く、だって?」
 怪訝な顔をし、先生は読んでいた新聞をバサッとテーブルに置く。
 悠は先生とは逆に柔らかな表情のまま、ふっと口元に笑みを宿した。
 そして、言ったのだった。
「僕と勝負しませんか、大河内先生。那奈ちゃんを賭けて」
「……那奈を賭けて、だって?」
「ええ。今日の夜、花火大会ありますよね? 雨も夜にはあがるでしょうし、今日中止になっても明日あると思うし。それでボーリングで勝った方が、那奈ちゃんとふたりきりで花火大会に行くっていうのはどうですか?」
 何気に自分に挑戦状を叩きつけてきた悠に、大河内先生は険しい表情を浮かべる。
 知美は挑戦的に先生を見る悠と面白くなさそうな顔をしている先生を交互に見て、楽しそうに瞳を輝かせた。
「きゃあ、面白そーうっ! アイちゃん、ここは男として受けないとっ」
「ったく、おまえは。ミーハーなんだからよ」
 はあっと呆れた様に知美に視線を向けた後、大河内先生はもう一度漆黒の前髪をかき上げる。
 そして、悠の挑戦に対してこう答えたのだった。
「面白いじゃねーか。上等だ、受けてたってやる。負けた後でいろいろ言うなよ、コラ」
「大丈夫ですよ、僕は負けませんから。先生こそ、後悔しても知りませんよ」
 悠は先生の言葉に満足そうにブラウンの瞳を細め、煽るようにそう言った。
 そんな彼の態度にチッと舌打ちし、先生はすっかり冷めた紅茶をひとくち口に運ぶ。
「いいわねぇっ、ふふ、楽しみぃっ」
 知美は茶色のふわふわの髪を触りながら、興奮したように笑った。
 そんな楽しそうな知美の様子に、悠はにっこりと微笑む。
「楽しみにしてて、知美ちゃん。いつも言ってるけど、最後に笑うのは僕だから」
「あ? 寝言は寝て言えっ、俺に勝とうなんて一千万年早ぇんだよっ」
 大河内先生は妙に自信満々な悠の態度に顔を顰めつつ、テーブルに頬杖をつく。
 そして面白くなさそうに嘆息して、いつの間にか雨の止んだ窓の外に、ふっと戦意の漲った漆黒の瞳を向けたのだった。


 ――それから、数十分後。
 5人は、駅前のボーリング場に到着した。
「ねぇ、投げる順番どうする?」
 先生と悠の勝負のことなど全く知らない那奈は、にっこりと無邪気に微笑んで全員の顔を見回す。
「別に何番目でも変わんねーよ。ジャンケンでもするか?」
「ジャンケン……本当に先生って、何か発想が小学生よね」
 くすくすと笑う那奈に、先生はムッとした表情を浮かべた。
「うるせーなっ、ジャンケンが手っ取り早くていいだろーがっ。ていうか、小学生って言うなっ」
 それから結局、先生の提案通りに5人はジャンケンで投球順番を決めることにした。
 そしてジャンケンに一番に勝ったのは、悠だった。
 悠はふっと先生に視線を向けた後、言った。
「僕はもちろん、1番がいいな」
「先手必勝ってヤツねぇっ。相変わらず強気で、悠くんらしいわぁっ」
 事情を知っている知美は、きゃっきゃっと手を叩いて笑う。
「先手必勝?」
 勝負のことを知らない那奈は知美の言葉の意味が分からず、ふと首を捻る。
 そんな那奈に目を向け、次にジャンケンに勝った先生は言った。
「俺はじゃあ、2番目だ。安西が1番なら、分かりやすくていいだろ」
「分かりやすいって?」
「あ、那奈っ。えっと、じゃあ私は最後がいいなぁっ。私、あまりボーリング得意じゃないし」
 さらに不思議そうな顔をする那奈の言葉を遮る様に、次にジャンケンに勝った知美はすかさずそう口を挟む。
 那奈はまだ首を傾げつつも申込書に知美の名前を記入した後、兄である遼に目を向けた。
「おにいちゃんは3番目と4番目、どっちがいい?」
「那奈はどっちがいいんだい? 僕は余った順番でいいから」
 そう言って、遼は優しく妹の頭を撫でる。
「いいの? ありがとう、お兄ちゃん」
 那奈は優しい兄ににっこりと微笑んでから、自分の名前を4番目の欄に書いた。
 投球順番も決まって受付を済ませ、それから5人は思い思いにボールを選びに散らばる。
 ……そんな中。
「知美ちゃん」
 ふいに声をかけられ、知美は顔を上げた。
 そして、自分に声をかけてきた那奈の兄・遼ににっこりと笑う。
「あ、遼さん。ていうか、どのボール選んだらいいのか迷っちゃって。どれでも同じな気はするんですけどねぇっ」
「ボール選びも侮れないんだよ、知美ちゃん。親指の穴は、なるべく自分の指ギリギリの大きさのものがいいんだよ。隙間がないボールの方が投げる時、余計な力が入らないからね」
 遼の言葉に、知美は感心したように瞳を見開いた。
「へえ、そうなんですか? 本当に遼さんって、何でもできるんですねぇっ。ボーリングも教えてもらいたいなぁっ」
「構わないよ、僕で教えられるなら喜んで。それよりも、知美ちゃん……」
 柔らかな微笑みを彼女に向けた後、遼は那奈と同じ少しつり気味の漆黒の瞳を細める。
 それから、こう聞いたのだった。
「悠と大河内くん、何か賭けでもしているのかな?」
「えっ? やっぱり分かっちゃいます?」
 ニッと意味深に笑い、知美は自分の親指のサイズにぴったりなボールを選んで手に取る。
 遼はすかさずそんな知美の分のボールを受け取り、こくんと頷いた。
「あのふたりの様子を見たら、一目瞭然だよ。気がつかないのは那奈くらいかな」
「あ、ボール持ってくれてありがとうございます……それであのふたりなんですけど、那奈と花火大会デート賭けて勝負するんですよ。那奈は知りませんけどねぇっ」
「那奈とふたりで、花火大会デートね……なるほど」
 知美の言葉に、遼はふと視線を別の場所に移す。
 あきらかにライバル心剥き出しなふたりの様子を改めて見て、遼は納得したように小さく頷いた。
 それから、横にいる知美ににっこりと笑いかける。
「残念だな。その勝負、僕も是非参加したかったな」
「遼さんが参加しちゃったら、やる前から勝負決まってるんじゃないですか?」
 くすくすと笑い、知美は茶色の髪をかき上げる。
 そんな知美に再び紳士的な微笑みを向けた後、ふと遼は小声でこう呟いたのだった。
「大河内くんがどの程度の男なのか、この数日間でしっかりと見極めさせてもらうとするよ……」
 ……その、同じ時。
 遼の厳しいチェックが入っていることも知らず、大河内先生は早々と準備万端な様子で、買ってきた飲み物をぐいっと飲んでいた。
 那奈はいつも以上にやる気満々な先生の様子に笑い、漆黒の瞳を細める。
「先生ったら、こういうゲームになるとすぐにムキになるんだから。楽しく遊べればいいでしょ?」
 那奈のそんな言葉に、大河内先生は大きく首を振って眉を顰める。
「あ? 例えゲームでもな、俺は安西には絶対負けたくねーんだよ。あの余裕ぶっこいてる面、今に焦った表情に変えてやるからな」
 まさか、那奈とのデートを賭けて悠と勝負しようとしているなんて到底彼女には言えない先生なのだが。
 賭けがあってもなくても、元々負けず嫌いな性格上、悠にだけは何事に対しても負けたくなかったのである。
 そんな彼の心情も知らず、那奈はのん気に言った。
「でも悠くん、お兄ちゃんほどじゃないけどボーリングも上手よ。先生と同じくらいかな?」
「何でおまえはそう、あいつのことすぐ褒めるんだよっ。ったく……」
 面白くなさそうな顔をして、先生はふいっと那奈から視線を逸らす。
 那奈はそんな先生の様子に、くすくすと笑った。
「またもう、子供みたいに拗ねて。先生ったら、ヤキモチ焼きなんだから」
「子供扱いすんなって言ってんだろっ。それにな、ヤキモチとかじゃねーってのっ」
「はいはい。あ、みんな戻ってきたよ?」
 カッと頬を赤らめる先生の顔を見て微笑んだ後、那奈はボールと靴を用意して戻ってきたほかの3人に目を向ける。
 それから悠は全員の準備ができたことを確認し、サラサラの前髪をかき上げて最後に先生をちらりと見た。
「じゃあ、僕からですね」
「…………」
 大河内先生は怪訝な表情をして、悠に視線を返す。
 悠はふっと余裕の笑みを浮かべた後、第一投を投じた。
「げっ……何だよ、あれっ」
 悠の一投目の行方を見ていた先生は、ぎょっと瞳を大きく見開く。
 それと同時に、10本のピンが見事にすべて倒れたのだった。
「わあっ、すごーいっ。悠くん、最初からストライクだなんて」
 感心したように喜ぶ那奈とハイタッチした後、悠はにっこりとわざとらしい笑顔を宿し、先生に目を向ける。
「さ、次は先生の番ですよ?」
「うるせーなっ、分かってるよっ。ていうか、ボーリングの軌道までいやらしいんだな、おまえはよ」
 一見ガーターかのように溝スレスレに投げられた悠のボールは、レーンの途中で美しい弧を描くように絶妙に曲がったのだった。
 そしてど真ん中に当たり、見事にストライクだったのである。
「アイちゃーん、ここはビシッとアイちゃんも決めないとねーっ」
 きゃははっと笑って、知美はバシバシと先生の肩を叩く。
「んなコト分かってるってんだよっ。黙って見てろっ」
 明らかに自分たちの真剣勝負を楽しんでいる知美をじろっと睨み、先生は椅子から立ち上がってボールを手にする。
 那奈はふっと微笑みをその顔に宿すと、先生に言った。
「大河内先生、頑張ってね」
「ああ、見てろよ」
 那奈の声に、先生はニッと笑みを浮かべる。
 それからおもむろに漆黒の瞳を細めて狙いを定めると、第一投目を投げた。
 先ほどの悠とは正反対に、先生の投げたボールは真っ直ぐに軌道を取る。
 そしてそのまま真ん中に勢いよく当たり、ピンが豪快に弾けた。
「あっ、先生もストライクだって!」
 10本のピンすべてが危なげなく倒れたのを見て、那奈ははしゃいだように声を上げる。
 それから立ち上がり、戻ってきた先生に向かって手を掲げた。
 先生はふっと笑ってパシッと那奈と手を合わせた後、得意気に悠に視線を向ける。
「どうだ、安西。ちゃんと見てたかよ?」
「大河内先生って、ボーリングの軌道まで単純なんですね。でもすごいじゃないですか、ストライクだなんて」
 はあっと大きく嘆息し、悠はわざとらしくパチパチと手を叩いた。
 まだまだ余裕な悠の様子に面白くなさそうな顔をした後、先生はドカッと椅子に腰掛ける。
 そんな怪訝気な先生の様子には気がつかず、那奈はストンと彼の隣に座った。
 それから、嬉しそうに言ったのだった。
「ストライクなんてすごいね、大河内先生っ。すごく格好良かったよ」
「あ? 格好良いに決まってるだろ、何てったってこの俺なんだからな」
 無邪気に笑う那奈の顔を見てそう言って、先生はふっとその表情を緩める。
 そして彼女の頭をぐりぐりと愛しそうに撫でた後、絶対にこの勝負は負けられないと、改めて気持ちを引き締めたのだった。