SCENE4 森の魔術師
カチカチと時を刻む時計の針は、夕方の18時半を指していた。
予定では、19時から別荘の庭でバーベキューパーティーをすることになっている。
その準備のため、那奈はキッチンで材料を切っていた。
トントンという軽快な音が響く中、那奈はふと手を止めると、隣にいる兄・遼に視線を向ける。
そして、懐かしそうに笑った。
「お兄ちゃんって、昔から料理も上手よね。小さい頃から仕事で親が家にいないこと多かったから、よくお兄ちゃんがごはん作ってくれたでしょ」
遼はそんな那奈の言葉を聞いて、品のいい顔に優しい微笑みを浮かべる。
「そうだったな、その頃が懐かしいな。もともと料理をするのは好きだし、那奈は昔から好き嫌いのない子で何でも食べてくれたから、作り甲斐もあったよ。そういう那奈こそ、料理上手くなったんじゃないかい?」
遼のその言葉に、那奈は嬉しそうな顔をして言った。
「本当に? やっぱり、最近よく大河内先生にご飯作ってあげてるからかな」
漆黒の瞳を細めて幸せそうにそう言う那奈を見て、遼はふと表情を変える。
それから包丁を握っている手を休めると、ゆっくりと口を開いた。
「那奈は、大河内くんのどういうところが好きなんだい?」
「え?」
兄の思わぬ質問に、那奈は一瞬きょとんとする。
だが、すぐにその顔に笑顔を宿して遼の問いかけに答えた。
「先生は、私の理想のカタマリなの。縁側でお茶を飲みながら、一緒に穏やかな時間を過せるような人。一緒にいるだけで、心が和やかになるの」
「大河内くんがかい?」
一見都会的な印象で俺様口調なプライベートバージョンの大河内先生しか知らない遼は、那奈のその答えに首を傾げる。
兄の言葉に大きくこくんと頷き、那奈は続けた。
「うん。それに先生ってね、すごく子供っぽくて可愛いの。年が離れてるって全然思えないくらいよ。好きなことを話し出すともう夢中だし、それに食べ物の好みも小学生みたいなの。好き嫌いも多いし」
くすくす笑いながら、那奈は楽しそうに恋人である大河内先生のことを語っている。
遼は、そんな妹の表情を複雑な心境で見つめていた。
仕事で現在海外に住んでいるため、那奈には年に何度かのペースでしか会えない。
年がかなり離れているからか、遼と那奈は今までほとんど喧嘩したことのないほど仲が良い兄妹である。
特に、兄の遼が那奈のことを溺愛して可愛がっているのだった。
そして遼は、昔から大切な妹のことを一番身近で見てきたのだが。
こんなに楽しそうに笑っている那奈の顔を見るのは……久しぶりのような気がする。
そして最愛の妹にこんな表情をさせているのは、自分の気に食わないあの男。
いや、正しく言えば、遼にとって大河内先生自体はどうでもよかった。
ただ、大切な妹の彼氏という存在が気に食わないのである。
実際に見た妹の彼氏・大河内先生は、端整な顔立ちをしていて、教師をしているということもあり頭の良さそうな雰囲気も持っている。
愛車の青のフェラーリや彼の着ているさり気ないお洒落な服を見ても、家もどうやら金持ちのようであるし。
だが、たとえどんなに大河内先生が完璧な男だったとしても、遼は兄として妹の彼氏の存在を認めることはできないのだった。
まして、妹はまだ高校生である。
その上にその彼氏が、こともあろうに自分と年が大して変わらない那奈の教師だなんて。
那奈が教師と付き合いだしたと悠に聞いた遼は、すぐさま休暇の手続きを取って日本に帰国してきたのだった。
遼のそんな心境を知らない那奈は、純粋に兄の帰国を喜んでいる。
家庭を省みず仕事主義な父親は嫌いな那奈だったが、自分のことを大切に思ってくれている兄は大好きなのだった。
しかも遼は優しいだけでなく、容姿端麗で才色兼備、何でもそつなくこなすことのできる那奈にとって憧れの存在でもあった。
大好きな兄や、一緒にいて気を使わない友人たち、そして恋人である先生と一緒にこの数日間を過せることが、那奈にとってとても嬉しいのである。
そんな幸せそうな表情をしている那奈を見て、遼は複雑な表情を浮かべて小さく嘆息する。
それから気を取り直すと、柔らかな微笑みを妹に向けた。
「那奈、もうほとんど材料の下準備はできたから、先に外に行っていても構わないよ。後は僕がやっておくからね」
「いいの? 私も手伝うよ?」
遼は自分と同じ色をしている那奈の黒髪を優しく撫で、柔らかな声で続ける。
「もうここは大丈夫だよ、那奈。じゃあ、この食器をついでに外に持って行ってくれないかな」
「あ、うん。分かった、先に外に行ってるね」
兄のその言葉に頷き、那奈は着けていたエプロンを外した。
そして食器を持って、キッチンを出て行こうとする。
その時。
「あ、那奈」
ふと遼は、妹を呼び止めた。
那奈はそんな兄の声に振り返り、首を傾げる。
「何? お兄ちゃん」
自分の声に足を止めた妹に、遼はにっこりと笑った。
そして。
「那奈、ひとつ言付けがあるんだけどいいかな? 外に行ったら……」
遼は漆黒の瞳を細めると、あることを那奈に頼んだのだった。
「え? あ、うん。分かったよ」
那奈は兄の言葉にふと不思議そうな顔をしたが、すぐに頷いて再び歩き出す。
遼はキッチンを出て行く妹の後姿を見送ると、ふっとその紳士的な顔に笑みを浮かべた。
一方、兄と分かれてキッチンを出た那奈は、外に出るために玄関へと向かう。
それから靴を履き、ドアを開けようとした……その時。
「あっ、那奈」
「大河内先生? どうしたの?」
カチャリとおもむろに玄関が開いたかと思うと、恋人である大河内先生が別荘に入ってきたのだった。
「どうしたって、その……」
那奈の問いに、先生は何故か口ごもって漆黒の前髪をザッとかき上げる。
それから神秘的な色を湛える黒い瞳をちらりと那奈に向けると、言いにくそうに口を開いた。
「いや……おまえがいないから、どうしてるのかなって思ってよ」
そんな先生の言葉に、那奈は一瞬きょとんとする。
それから、突然くすくすと笑いだした。
「なっ、何笑ってるんだよ、おまえっ」
「ふふっ、私がいなくて寂しかった? 先生」
「ばっ、バカ! そんなんじゃねーよっ。ていうか、笑うなっ!」
まだ笑い止まない那奈にじろっと視線を向けつつ、先生はカッと顔を赤くする。
それから拗ねたように那奈から目を逸らすと、はあっとわざとらしく溜め息をついた。
那奈は大河内先生の様子に楽しそうな表情を浮かべた後、にっこりと彼に笑う。
「本当に先生って、子供っぽくて可愛いんだから」
「うるせーなっ。だいたい可愛いって、教師に向かって言う言葉かよ!? ったくっ」
そう言ってむうっと怪訝な顔をする先生に、那奈はふっと漆黒の瞳を細める。
そして、こう言葉を続けたのだった。
「でも、そんな子供っぽいところも全部大好きだよ、大河内先生」
那奈の思いがけない言葉に、先生は神秘的な漆黒の瞳を見開く。
それから照れたように、瞳と同じ色をした前髪をザッとかき上げた。
「……ったく、どうしてそんなに恥ずかしいこと平気で言えるんだよ、おまえは」
「恥ずかしくないよ、だって本当のことだもん」
「本当のことって……ま、おまえらしいけどよ」
先生は那奈にふっと目を向けると、おもむろに彼女の頭に手を添えた。
そして端整な顔に笑みを宿し、彼女の頭を少し乱暴にぐりぐりと撫でる。
大きな先生の手の感触に、那奈は幸せそうな微笑みを浮かべたのだった。
那奈はそれから、ふと思い出したように改めて先生に視線を向ける。
「あっ、そうだ。お兄ちゃんに言われてたんだった。お兄ちゃんが、先生にキッチンに来て欲しいって」
「え? 俺か?」
「うん、何か用事があるんだって」
ふと怪訝な表情を浮かべる先生に、那奈はこくんと頷く。
そして、にっこりと彼に微笑んで言った。
「じゃあ私、先に外に行ってるね。大河内先生……大好きだよ」
「ああ。俺も好きだぜ、那奈」
那奈の言葉に漆黒の瞳を細め、先生はもう一度ぽんっと彼女の頭に手を添える。
それから歩き出した那奈の後姿を見送った後、先生はパタンと玄関のドアをしめた。
靴を脱いで別荘にあがった先生は、とりあえず遼の待つキッチンへと向かう。
遼は一体、自分に何の用事があるのだろうか。
自分のことを良く思っていないはずの遼に呼び出される理由が思い当たらず、先生はふと首を傾げた。
そして。
「やあ、大河内くん。呼び出して悪かったね」
キッチンのドアをカチャリと開けるやいなや、遼の穏やかな印象の声がそう先生を招きいれる。
「俺に用事って、何ですか?」
自分を呼び出した彼の真意を計るように、先生は漆黒の瞳を遼に向けた。
そんな大河内先生の言葉に紳士的な微笑みを浮かべた後、遼は悪びれなく言ったのだった。
「用事? ああ、特にないよ」
「……は?」
思いもよらなかった遼の答えに、先生は怪訝な表情をする。
遼はふっと笑うと、さらにこう言葉を続けた。
「僕のいないところで、那奈と一緒にいてもらいたくなかったからね。あ、じゃあ、そこの皿を取ってくれないかい?」
「…………」
先生は眉を顰めつつ、言われた通り近くにあった大皿を彼に手渡す。
遼は上品な顔に作ったような満面な笑みを浮かべ、それを受け取る。
そして、わざとらしいくらい柔らかな声で言ったのだった。
「ありがとう、大河内くん」
――同じ頃。
「あ、そういえば飲み物切れてたよね? 近くに自動販売機あったから、何か買ってこようか」
那奈はそう言って、その場にいる悠と知美に目を向ける。
悠はそんな彼女の言葉に、おもむろに首を振った。
「近くって言っても少し距離あるし、もう暗くなってきたからね。女の子ひとりじゃ心配だよ」
知美はふたりの会話を聞き、何かを思いついたようにぽんっと小さく手を打つ。
そして、ニッと笑って言ったのだった。
「じゃあ、ふたりで行ってきなよ。私がここにいるし、もう外の準備はほとんど出来てるしさぁっ。ねっ?」
その知美の言葉に、悠は育ちの良さそうな顔ににっこりと微笑みを浮かべる。
それからすぐさま、那奈を促すように歩き出した。
「ありがとう、知美ちゃん。行こうか、那奈ちゃん」
「え? あ、うん。じゃあ行ってくるね、知美」
「はいはーい。いってらっしゃーいっ」
ひらひらと手を振り、知美は楽しそうにふたりの後姿を見送る。
そしてふわふわの茶色い髪を触りながら、ふふっと笑った。
「楽しくなりそうねぇっ、何だか」
……それから、ほんの数分後。
買出しに行ったふたりの姿が見えなくなった、その時だった。
「あれ? 竹内、那奈と安西はどこ行った?」
ようやくキッチンから外に戻ってきた大河内先生は、知美にそう聞いた。
知美はそんな先生の問いに、笑いながら答えた。
「アイちゃんが隙見せるから、悠くんバッチリ抜け駆けしちゃってるわよ? ダメじゃなーい、アイちゃんってば」
「あ!? 何だって!? 安西のヤツ……ていうかやっぱりおまえ、あいつの味方かよっ!?」
きゃははっと楽しそうに笑う知美に、先生はじろっと視線を向ける。
知美は茶色を帯びたふわふわの髪を触りながら、悪びれなく首を振った。
「ううん、別に私、誰の味方ってわけじゃないってば。でもほら、こういう展開の方が面白くなるかなーって。ねっ、アイちゃんっ」
「面白くなるって、おまえな……ていうか、何気にアイちゃんなんて呼んでんじゃねーぞっ」
大河内先生は知美の言葉に眉を顰め、漆黒の前髪をかき上げる。
そんな先生に、知美はニッと意味深に笑った。
「悠くんって抜かりないからねー。あー今頃何やってんだろーなー、ふたりで」
「…………」
先生はふと口を噤み、訝しげな表情を浮かべる。
そして心配そうに遠くに視線を向け、大きく溜め息をついたのだった。
……その頃。
「この先だったよね、飲み物売ってるの」
「うん。あ、みんなに何がいいか聞いてから来ればよかったね」
まんまと那奈とふたりきりになれた悠は、嬉しそうに隣を歩く彼女に優しい視線を向ける。
だが、那奈は彼のそんな視線に気づかず、ぐるりと周囲を見回した。
「悠くんの言ってた通り、暗くなってきたね。それに、夏でもやっぱり夜はちょっと冷えるね」
木々のそびえる別荘地の道は、実際よりもより暗く感じる。
車も人通りも疎らで、ぽつりと周囲の別荘の明かりが見える程度である。
悠はおもむろに自分の着ている上着を脱ぐと、那奈の肩にそっとかけた。
「夜は肌寒いよね。那奈ちゃん、大丈夫?」
「あ、ごめんね。ありがとう、悠くん」
悠の気遣いに、那奈はにっこりと微笑みを返す。
悠は自分に向けられた那奈の漆黒の瞳を見つめ、満足そうに笑った。
……その時。
「きゃっ」
突然の強風が吹きつけ、那奈の黒髪を大きく揺らす。
ざわざわと周囲の木々が鳴り、那奈の肩にかかった悠の上着がバサバサと音をたてた。
飛ばされないように彼の上着を押さえた後、那奈は瞳を数度瞬きさせる。
「びっくりした……強い風だったね」
「うん、そうだね」
悠は彼女の言葉に頷きながら、さり気なく風で乱れた那奈の髪を優しく手櫛で整えた。
そして、ふとその足を止める。
「悠くん?」
那奈もつられて歩くのをやめ、小首を傾げて悠を上目使いで見上げた。
不思議そうに自分を見つめる那奈ににっこりと笑みを向けた後、悠はふっと色素の薄いブラウンの瞳を伏せる。
そして。
「……え?」
ハンサムな悠の顔がゆっくりと近づいてくるのを感じ、那奈は思わずドキッとしてしまう。
いきなりの思いがけない出来事に、那奈はどうしていいか分からず動けないでいた。
悠はそっと那奈の頬に手を添え、柔らかな笑顔を彼女に向ける。
それから瞳を閉じると、さらに彼女に顔を近づけようとした。
……その時だった。
「! きゃっ」
那奈は声を上げ、ビクッと身体を振るわせる。
悠も閉じていた瞳をふっと開くと、おもむろに彼女から離れた。
那奈はまだドキドキと鼓動を刻む胸を押さえつつ、突然鳴り出した携帯電話を持っていたカバンから取り出す。
そして、慌てて耳に当てた。
「も、もしもし?」
『那奈、俺だけどよ』
「お、大河内先生?」
那奈のその言葉に、悠はふと怪訝な表情を浮かべる。
そんな悠の表情の変化にも気がつかず、那奈は言葉を続けた。
「ど、どうしたの、先生? あ、今悠くんと飲み物買いに行ってるんだけど、何かいる?」
『飲み物は別に何でもいいけどよ……何かおまえ、様子変じゃないか?』
電話の向こうの大河内先生は、那奈の様子が普段と違うことに気がつき、訝しげな声でそう言った。
「えっ!? 変って、何が? やだな、先生ってば。すぐ戻るから待っててね、じゃあっ」
それだけ言うなり、那奈は携帯の通話終了ボタンを押す。
悠はそんな那奈をちらりと見て、彼女に聞いた。
「今の電話、大河内先生から? 先生、飲み物何がいいって言ってた?」
「え? あ、何でもいいって」
「そっか。じゃあ何がいいかな、やっぱり無難にお茶かな?」
「うん……そ、そうだね」
那奈はちらりと隣の悠に目を向けつつ、首をゆっくりと縦に振る。
漆黒の瞳に映っている悠の様子は、普段と何ら全く変わりがない。
まだ落ち着かない胸をぎゅっと握り締めつつ、那奈はうーんと考える仕草をする。
きっと……気のせいだったんだろう。
――悠が、自分にキスしようとしたように見えたのは。
彼のハンサムな顔が近づいてきた時、思わずドキッとしてしまった。
だが悠は、自分の幼馴染みで友達である。
そう思い直し、気持ちを落ち着かせるために那奈は大きく深呼吸する。
そして、気を取り直して悠に言ったのだった。
「みんな待ってるよね、早く別荘に帰ってバーベキューしたいね」
「うん、そうだね。楽しみだな、バーベキューだなんて久しぶりだよ」
「東京じゃ、なかなかできないもんね」
普段と変わらない悠の物腰柔らかな声に、那奈は少しホッとしたように頷く。
それから、風に揺れる黒髪をそっと手で整えたのだった。
「…………」
悠はそんな那奈の様子を、じっとブラウンの瞳で見つめている。
先生の邪魔が入らなければ、もう少しで那奈にキスできたところだったのに。
悠はサラサラの髪をそっとかき上げ、那奈に気づかれないように小さく嘆息した。
そしてちらりと時計に視線を向けた後、那奈に歩調を合わせるようにゆっくりと再び歩き出したのだった。