SCENE3 ピンク・ピンカートン

 ――次の日。
 開け放たれた窓から吹く午前中の心地よい風を感じながら、大河内先生はひとりリビングで本を読んでいた。
 その時。
「大河内先生、読書ですか?」
 読書の時にもかけている眼鏡の奥の漆黒の瞳を細め、先生はリビングに入ってきた那奈に優しく目を向ける。
 そして、柔らかで穏やかな印象の声で言った。
「あ、今宮さん。はい、静かな環境で本を読むのもいいかと思って」
 那奈は先生のすぐ隣にストンと座り、彼の読んでいた本をふと覗き込む。
 それからにっこりと笑顔を浮かべて視線を上げ、大河内先生を上目使いで見て笑った。
「ふふ、先生らしいですね。『武田信玄』ですか?」
「ええ。もう何度読んだか分からないんですけど、たまに読み返したくなるんですよ。信玄が父親を追放して家督を継ぐところから始まって信州駒場で病死するまでが描かれているんですが、川中島の合戦の場面なんて迫力があって何度読んでも面白いんですよ」
 漆黒の綺麗な瞳を輝かせて本当に楽しそうに話をする先生を見つめ、那奈は満足そうに微笑む。
 そして、すぐ隣にいる先生の腕に自分の腕を絡めた。
 那奈の体温を感じて優しく彼女の身体を引き寄せると、先生は彼女の漆黒の髪をそっと撫でる。
 それから読んでいた本にしおりを挟み、おもむろにテーブルに置いた。
 そして。
「今宮さん」
 ふと柔らかい印象の声で、先生は優しく彼女の名前を呼ぶ。
「何ですか? 大河内先……っ」
 その声に改めて顔を上げた那奈は、次の瞬間、思わず漆黒の瞳を大きく見開く。
 だがすぐに幸せそうな笑顔を浮かべ、スッと瞳を閉じた。
 そして……ふわりと重なる、甘いキスの感触。
 互いの想いを改めて確かめるように唇を合わせるふたりの漆黒の髪を、爽やかな風がそっと揺らす。
 先生は那奈に唇を重ねながら眼鏡の奥の瞳を優しく細め、少し乱れた彼女の髪を手櫛で整えるように大きな手で撫でた。
 先生の唇がようやく離れた後、那奈は照れたように少し頬を赤らめながら笑う。
「あ、ごめんなさい。読書の邪魔しちゃいました?」
「いいえ。武田信玄よりも読書よりも、ずっと夢中になれる人がそばにいますから」
「ふふっ、信玄よりも夢中に?」
 大河内先生らしいその言葉に、那奈は嬉しそうに微笑んだ。
 それから、ぎゅっと彼に抱きついて彼の耳元で彼女はゆっくりと言葉を続ける。
「大河内先生……大好き」
「僕も大好きですよ、今宮さん」
 先生は彼女の言葉に優しく答え、恋人の華奢な身体を強く抱きしめた。
 それと同時に、彼女の綺麗な黒髪からするシャンプーの香りがふわっと鼻をくすぐる。
 そして大河内先生は、改めて今彼女と一緒にいられるこの瞬間の幸せをかみ締めたのだった。
 ……その時。
 那奈と先生は、突然ふっと表情を変えて相手から離れる。
 その数秒後、リビングのドアがカチャリと開いた。
「那奈ちゃんと、大河内先生」
「あ、もしかして邪魔しちゃった?」
 リビングに姿を見せたのは、悠と知美のふたりであった。
 那奈と先生が一緒にいる様子を見て、悠は一瞬怪訝な表情をみせた。
 逆に知美は、楽しそうにふたりを交互に見て意味ありげに笑う。
 那奈は顔を赤らめながら、知美の言葉に首を振った。
「じ、邪魔なんてっ。べ、別にふたりで話してただけだし……」
「ふーん、何の話してたのかなぁ? 愛を語り合ってたとか? ラブラブねぇっ」
「そ、そんなんじゃないよ……武田信玄の話をしてたんですよね、大河内先生っ」
 慌てる那奈の様子に眼鏡の奥の瞳を細め、先生は頷いて知美に視線を向ける。
「ええ。武田信玄のことを話してたんですよ、竹内さん」
 知美はそんな大河内先生を見て、きょとんとした。
 それから、数度瞳を瞬きさせて呟く。
「あれ? 学校でのアイちゃんみたいになっちゃってる?」
「え? 学校での、僕?」
 知美の言葉に、今度は大河内先生が不思議そうな顔をした。
 先生の性格変化の事情を知らない知美と、そんな自分の変わり様に全く自覚がない先生は、お互いがお互いの様子に疑問を覚えたのであった。
 事情が分かっている那奈はそんなふたりを交互に見て、楽しそうにくすくすと笑う。
 それから、ふと手を伸ばした。
 次の瞬間。
「なっ、おまえイキナリ何すんだよ、勝手に眼鏡取るなっ」
「へ?」
 那奈に眼鏡を外されてそう言った先生に、知美はさらに驚いた表情を浮かべる。
 大河内先生は印象を変えた神秘的な瞳を細め、そしてザッと前髪をかき上げた。
 そして那奈から眼鏡を取り返してシャツの胸ポケットに入れると、自分をじっと見ている知美にじろっと視線を移す。
「あ? いくら俺がいい男だからって、じろじろ見てんじゃねーぞ、竹内っ」
「……アイちゃん、大丈夫?」
 那奈を見て、知美はそう思わず口を開いた。
 那奈はソファーから立ち上がって知美の肩をぽんぽんっと叩くと、くすくす笑いながら言った。
「後で説明するから、知美」
「何だよ? ったく」
 先生は首を傾げてそう呟き、那奈と知美を訝しげに見る。
「…………」
 そんな3人のやり取りを今まで黙って見ていた悠は、先生の読んでいた本に目を移した。
 それからふっと何かを思いついたように笑うと、大河内先生の真正面に座って口を開く。
「先生は、甲州の虎・武田信玄と越後の竜・上杉謙信、どっちが好きですか?」
「あ? 信玄と謙信か?」
 いきなり思いもよらないことを聞かれ、先生は悠に視線を向けた。
 それから少し考え、彼の問いに答える。
「そうだな……どっちも魅力的で好きだけどよ、どっちかと言うと人間味あって男らしい信玄の方が好きかな。謙信のあの神秘的で天才肌で理想主義な生き様も憧れるけどよ、人の上に立って人を使う才に秀でてたのは信玄だと思うし、信玄の家臣・武田二十四将も好きだしな」
 悠はそんな先生の言葉を聞き、ふうっとひとつ嘆息して言った。
「僕は謙信の方が好きですね。神がかり的で神秘的な魅力があるし、軍神と呼ばれるほどの強さ、義のために戦うという無欲なところ、そして病的なまでの理想主義。あの謙信の軍事的天才性と清潔さが僕は好きですね。本気で謙信が天下統一しようとしてたら、信長だって信玄だって倒されてたんじゃないですか?」
「確かに謙信は戦が強かったけどよ、でもふたりが戦った川中島の合戦は、どっちかと言うと信玄の勝ちじゃねぇか? 合戦自体の損害は双方互角で両軍何も得るもののなかったけどよ、考えたら川中島を攻め取る事ができなかった謙信より、守りきった信玄の勝ちなんじゃねーかってな」
 熱く語りだした先生の話についていけず、那奈と知美は口を挟む余地なくきょとんとする。
 悠はそんな女の子ふたりの様子をちらりと見てふっと笑うと、先生にさらに話を振った。
「川中島の合戦といえば、謙信と信玄の一騎打ちが有名ですよね、先生」
 その悠の言葉に、大河内先生は少し興奮気味で言った。
「まぁ確証はないにしろよ、謙信が単騎信玄本陣に切り込んだのを、信玄が軍扇で受けたって言われてるよな。あ、それで川中島の合戦って言ったらよ……」
「那奈、アイちゃんの彼女って何か大変そうねぇ。授業受けてるみたいっていうか、むしろ授業よりも濃くない? 私には無理だわ」
 嬉しそうに歴史の話をしだした先生を見て、知美はぽつりとそう呟く。
 那奈は逆に先生の生き生きとした姿に微笑み、言った。
「自分の好きなことになったらすぐ夢中になっちゃう、ああいう子供っぽいところが可愛いのよね、先生って」
「可愛い? そうかなぁ……」
 うーんと考える知美にこくんと頷いてから、那奈は続ける。
「先生と歴史系の博物館の展示とか行くとね、本当にいろいろ何でも教えてくれるんだ。まるで“オズシリーズ”に出てくる、ピンク・ピンカートンみたいだなっていつも思うの」
「ピンク……? 何、それ?」
 首を捻る知美に、那奈は漆黒の瞳を細めて答えた。
「ピンク・ピンカートンってね、ぜんまいで動くピンクのクマなの。問いかけられた質問すべてに、正確に答える事が出来るクマなんだよ。何聞いても、先生分かりやすく教えてくれるから」
「博物館デートねぇ、その時点で私はパスってカンジだけどね。ていうか、マニアック同士でお似合いよ、那奈とアイちゃんって」
 はあっと溜め息をついてそう言う知美に、那奈は瞳をぱちくりさせる。
「マニアックって、私も? 先生は確かにマニアックだけど」
「十分すぎるくらいマニアックよ、那奈」
 知美は那奈に笑いかけ、彼女の肩をぽんっと軽く叩いた。
 ……その時だった。
「那奈、知美ちゃん」
 リビングのドアが再び開き、那奈の兄である遼が顔をみせる。
 那奈は兄と同じ色の瞳を彼に向け、にっこりと笑った。
「あ、お兄ちゃん。持ち帰ってたお仕事、終わったの?」
「仕事と言ってもちゃんと休暇貰って来ているからね、大したことないよ。それよりも……」
 優しく妹に微笑んでから、遼はちらりと悠と大河内先生の方に視線を向ける。
 そして、まだ夢中で武田信玄と上杉謙信について語っている先生の様子を見て、ふっと笑みを浮かべた。
 それから、改めて那奈と知美に視線を戻して言った。
「ふたりとも、駅前のショッピングモールがリニューアルしたらしいから行ってみたらどうだい? 僕が車で送ってあげるよ」
「うん、行きたいな。何か買い物とかしたい気分だもん。知美は?」
「私も行きたーいっ。すごくいっぱい店もあるんでしょ? 行こうよ、那奈」
 きゃっきゃっとはしゃぐ知美に頷いてから、那奈はふと大河内先生の方を見る。
 そんな那奈の視線に気がつき、遼はすかさず言った。
「那奈、楽しそうに悠と話をしている大河内くんの邪魔するのもなんだから、僕たちだけで行こうか」
「え? あ、うん……そうだね」
 兄の言葉に少し考える仕草をした那奈だったが、こくんと小さく頷く。
 遼は那奈の様子に満足そうに微笑み、女の子ふたりを促した。
「じゃあ行こうか。用意しておいで、車を出しておくから」
 遼は出かける準備をしにリビングから出て行った女の子ふたりの姿を見送った後、悠に目を向ける。
 悠はそんな遼の視線に気がつき、軽く手を上げてふっと笑った。
 その表情を見て、遼はポケットから車のキーを取り出して外に出て行ったのだった。
 ……それから、数十分後。
「あれ? 那奈、どこに行ったんだ?」
 ようやく話がひと段落し、大河内先生はリビングに彼女の姿がないことにやっと気がつく。
 悠は色素の薄いサラサラの前髪をかき上げ、そんな先生の問いに答えた。
「那奈ちゃんなら、知美ちゃんと遼兄さんと一緒に駅前のアウトレットモールに行きましたよ。あそこって広いらしいから、夕方まで帰ってこないんじゃないですか?」
「いつの間に行ったんだよ……ったく」
 話に夢中になっていて、那奈が出て行ったことに全く気がついていなかった先生は嘆息する。
 そんな先生に、悠はソファーから立ち上がって言った。
「まぁ、先生。僕と仲良く一緒に昼食でも食べましょうよ。これから数時間、僕とふたりっきりなんだから」
「あ? 何で俺が、おまえなんかとっ。冗談じゃねーぞっ」
 悠の言葉に、大河内先生は怪訝な表情を浮かべる。
 悠はそんな大河内先生に、あからさまに作った満面の笑顔を向けた。
 そして、言ったのだった。
「何でって、いやがらせに決まってるじゃないですか、先生」
「いやがらせってなっ、おまえってヤツは……ったくよっ」
 はあっと大きく溜め息をつき、先生は面白くなさそうな表情をする。
 それから眉間にしわを寄せテーブルに頬杖をつくと、仕方ないように『武田信玄』の本を再び開いたのだった。


 ――その日の夕方。
 ショッピングモールから帰って来た那奈は、先生を自分の部屋に呼んでいた。
 そしてベッドに腰掛け、購入した戦利品の数々を楽しそうに先生にお披露目していた。
「ねぇ、これも可愛いでしょ? 色が白とピンクとあったんだけどね、試着したらピンクの方が可愛かったの」
「ああ、似合うんじゃねーか?」
 楽しそうに自分に笑いかける那奈に微笑みを返し、先生は漆黒の瞳を細める。
 あれから数時間、さり気ない悠の嫌がらせでやきもきしていた先生にとって、恋人が別荘に戻ってきたことが心から嬉しかったのである。
 先生はちらりと部屋に置かれている時計に目をやった。
 そんな先生の様子に気がつき、那奈もつられて時計に視線を向けて言った。
「あ、今日の夜って、庭でバーベキューするんだよね。19時からだっけ、あと1時間半くらいだね」
 そう言って那奈は、たくさんある紙袋の中から綺麗に包装された箱を取り出す。
 そして、それを大河内先生に手渡したのだった。
「はい、先生。大河内先生にプレゼント」
「……俺に?」
 思いがけない那奈の言葉に、先生は漆黒の瞳をぱちくりさせる。
 それから、嬉しそうにその瞳を細めた。
 先生は那奈から包みを受け取り、那奈を見る。
 那奈はこくんと頷き、先生を促した。
「先生、開けてみて」
「ああ」
 那奈の言葉に、先生は丁寧に包装を外す。
 そして、出てきたものは。
「先生、さっき本読んでたでしょ? それで、買い物してる時にたまたま見つけたの」
 那奈はそう言って、彼の反応をうかがう様に顔を覗き込む。
 先生はそのプレゼント――革製のブックカバーと1枚のしおりを手に取った。
「ブックカバー、ちょうど持ってなかったんだよ。サンキュー」
 お礼を言われて嬉しそうに微笑んでから、那奈はブックカバーと一緒に入っているしおりに目を向けて言った。
「このしおりも可愛いでしょ? ふふ、この絵柄見つけてね、先生にあげたいなって思ったの」
 那奈はそう言って、そのもうひとつのプレゼント――魔法使いの絵柄のしおりを手に取る。
「先生は、私の魔法使いだからね」
 にっこり笑う那奈に、先生はふと首を傾げて言った。
「でもよ、“オズの魔法使い”の魔法使いって、実はインチキだったんだろ? 言っとくけどよ、俺はインチキじゃねーぞ」
「確かに童話のオズの魔法使いは本当は魔法使いなんかじゃなかったんだけど、ちゃんとそれから修行して魔法使いになったんだよ? それにね、先生はオズの魔法使いじゃなくて、私だけの魔法使いなの」
「おまえだけの、魔法使い?」
 再び不思議そうな顔をする大河内先生に、那奈は少し照れたようにこくんと頷く。
 そして先生の顔をじっと見つめ、こう言葉を続けたのだった。
「うん。いつも私だけに、とっておきの魔法かけてくれるから。ね? 大河内先生……」
 そう言って、那奈はスッと漆黒の瞳を閉じる。
 そんな那奈の仕草を見て、大河内先生はふっと笑った。
「魔法、な。本当におまえって、乙女ちっくというか夢見がちというか」
 それから漆黒の髪をかき上げ、彼女の少し赤くなった頬に手を添えて続ける。
「まぁおまえのそういうところも、好きなんだけどな……」
 先生は漆黒の瞳を伏せ、ゆっくりと彼女に顔を近づける。
 そして……キスという名の優しい魔法を、彼女にかけたのだった。
 彼女のみずみずしい唇の感触に微笑み、先生はそっと彼女の黒髪を優しく撫でる。
 その時だった。
「きゃっ、先生……っ?」
 ぐいっと急に先生の腕が伸びたかと思うと、那奈は座っていたベッドに押し倒される。
 先生は漆黒の瞳を再び伏せると、ベッドに横になった那奈にもう一度ゆっくりと顔を近づけた。
 大河内先生の長いまつ毛が神秘的な瞳にかかり、那奈の胸が一段と早い鼓動を刻む。
 そして、彼の唇が那奈のものと重なろうとした……次の瞬間。
「……!」
 ふっと瞳を開き、先生は身体を起こす。
 それと同時に、コンコンと部屋のドアをノックする音が聞こえた。
 那奈は慌てて起き上がり、まだドキドキしている胸を押さえて言った。
「は、はい?」
「那奈ちゃん、僕だけど。入ってもいい?」
 ドアの向こうから聞こえてきたのは、悠の声だった。
 那奈は急いで乱れた髪を整えると、小さく深呼吸をしてからドアを開ける。
「あっ、ゆ、悠くん。どうしたの?」
「……あれ、先生もいたんだね」
 わざとらしくそう言って、悠はちらりと部屋にいる大河内先生に目を向けた。
 分かってて来たくせに、と小さく呟き、先生は小さく舌打ちをする。
 悠の性格をよく知っている先生は、自分と那奈の姿が見えないことに気がついた彼が自分たちの邪魔をするためにここにやってきたのが容易に分かったのだった。
 悠はじろっと先生に訝しげな視線を一瞬投げた後、すぐにその育ちの良い顔に微笑みを宿す。
 そして那奈に、優しい声で言ったのだった。
「リビングでケーキとお茶用意しているから、下りておいでよ」
「あ、うん。すぐ行くね」
 那奈はそう言って、悠の言葉に頷く。
 それから悠が先に1階に下りていったのを確認して、那奈は大きく深呼吸をした。
 そして漆黒の髪をもう一度手櫛で整え、言ったのだった。
「リビングに行こうか、大河内先生」
「ああ……そうだな」
 苦笑しつつ頷いて、先生はふうっと嘆息する。
 それから気を取り直し大事そうに彼女からもらったプレゼントに目を移すと、ぽんっと彼女の頭に大きな手を添えたのだった。