SCENE2 暴れ者の木

 悠たちから1時間程遅れて、那奈と大河内先生のふたりも別荘に到着した。
 そんなふたりをソファーに促し、悠はまず那奈に紅茶を出した。
「はい、那奈ちゃん」
「ありがとう、悠くん。何だか気を使わせちゃって、ごめんね」
 黒髪を揺らしてお礼を言う那奈ににっこりと優しく微笑み、悠は首を振る。
「ううん。来てくれて僕も嬉しいから、那奈ちゃん」
 それから悠はもうひとつティーカップを丁寧にテーブルに置き、思い切り作った笑顔を浮かべた。
 そして、ソファーに座った大河内先生に言った。
「先生も、どうぞ」
「…………」
 あからさまに作ったその悠の胡散臭いくらいの爽やかな笑顔に、先生は怪訝な顔をする。
 それから、ふと彼の淹れた紅茶に視線を落とした。
 そんな先生の様子に、悠は笑う。
「警戒しなくても大丈夫ですよ。紅茶には何もしていませんから、大河内先生」
「おまえな、紅茶にはってな……」
 はあっと大きく嘆息して前髪をザッとかき上げると、先生はその紅茶をひとくち飲んだ。
 そして自分に向けられている別の視線を感じ、怪訝な表情のまま膝に頬杖をついて言った。
「何だよ、竹内。じろじろ人のこと見やがってよ」
「へーえ、何か学校と全然雰囲気違うねぇっ。こう見たら、なかなかアイちゃんもいい男じゃんっ」
 物珍しそうに自分を見る知美に、先生はもう一度嘆息する。
 そして眉間にしわを寄せ、言い放った。
「あ? 誰に向かって言ってんだ、いい男に決まってるだろっ。ていうか、何でおまえタメ口きいてんだよ。それに、何気にアイちゃんなんて呼んでんじゃねーぞっ」
 面白くなさそうにそう言う先生の言葉にも構わず、知美は楽しそうに笑う。
「だって今って“大河内先生”じゃなくて、“那奈の彼氏”としてここにいるんでしょ? それに学校のアイちゃんとは全然違うし、敬語の方が違和感あるってカンジなんだもん」
「そうよね、プライベートバージョンの先生に敬語って、何か違和感あるよね」
 知美の言葉を聞いてうんうんと頷く那奈に、先生は目を向けた。
「何だよ、そのプライベートバージョンってよ。ま、今は敬語じゃなくても構わねーけどよ、俺はおまえらの教師だってことは忘れんなよなっ。年上は24時間365日敬えよ、コラ」
 そう言って、大河内先生は悠に視線を移す。
「特に安西、分かったか?」
「僕ですか? 敬うに価する人はいつもちゃんと心から尊敬してますよ、僕は」
 先生に笑顔を向け、悠はわざとらしく柔らかな声でそう言った。
 その言葉に怪訝な顔をした先生は、もうひとくち紅茶を口に運ぶ。
 那奈はそんな先生を見て漆黒の瞳を細めた後、紅茶に砂糖を入れようと視線をテーブルに向けた。
 ……その時。
「あれ?」
 ふと何かに気がついた那奈は、不思議そうに小首を傾げて声を出す。
 そんな那奈の声を聞いて、先生は顔を上げた。
「那奈? どうしたんだよ」
 自分にそう聞く先生を見た後、那奈は悠に視線を移す。
 そして、テーブルに置かれたティーカップをちらりと見ながら言ったのだった。
「ねぇ、悠くん。テーブルに出ているティーカップの数、ひとつ多いみたいだけど……私たちのほかに、まだ誰か来るの?」
 リビングのテーブルに出ているティーカップの数は、全部で五組。
 そして今この場にいるのは、四人である。
 伏せられた一組のティーカップの存在に気がつき、那奈はもう一度首を捻る。
 そんな那奈の言葉に、悠は育ちの良さそうな顔にふっと笑みを浮かべた。
 それから部屋の時計に目をやった後、彼女の問いに答えたのだった。
「うん。実はね、みんなに内緒でもうひとり、特別ゲストを呼んでるんだよ。もうそろそろ、到着する頃なんじゃないかな」
「特別ゲスト?」
 悠の言葉を聞いて、先生はふと顔を上げて眉を顰める。
 大河内先生を見てくすっと意味深に笑った後、悠は那奈に目を向けた。
「その特別ゲストはね、那奈ちゃんがすごく会いたいって思ってる人だよ」
「私が会いたいって思ってる人? 誰なの、悠くん?」
 もう一度小首を傾げ、那奈がそう言った……その時だった。
 別荘の敷地に、車が入ってきた音が聞こえる。
 先生はおもむろにソファーから立ち上がり、カーテンを開けて窓の外に漆黒の瞳を向けた。
 そして、首を捻って呟いた。
「シルバーのベンツか? 誰の車だ?」
「えっ、シルバーのベンツ!?」
 先生のその言葉に、那奈はハッと何かに気がついたように瞳を見開く。
 それから先生の隣に立ち、同じように外を見た。
 そしてその車を確認した那奈は、驚いたように悠を振り返った。
 そんな那奈の様子に、悠は優しく微笑む。
「特別ゲスト、もう誰か分かった? 那奈ちゃん」
「何だよ、知ってるやつの車か?」
 那奈はまだびっくりしたような表情のままで、先生の問いかけにこくんと頷く。
「わあっ、高そうな車ねっ。アイちゃんの青のフェラーリも格好いいけど、あのベンツもいかにも金持ちっぽくていいなぁっ。ねぇ、誰なの? 特別ゲストって」
 きゃっきゃっとはしゃいだようにそう言う知美を見て、那奈は苦笑しつつ口を開いた。
「知美、実はあの車はね……」
 その時だった。
 愛車から降りて来た車の主が、別荘のチャイムを鳴らす。
 悠はその場にいる全員に笑いかけると、玄関へと足を向けた。
 那奈は少し考える仕草をしたが、悠に続いてリビングを出て行く。
 大河内先生と知美はその特別ゲストが誰なのか分からないまま、首を捻りつつもふたりに遅れて玄関に向かった。
 そして悠の別荘を訪れた、その特別ゲストとは。
「やあ、悠。元気だったかい?」
「お久しぶり、遼(りょう)兄さん」
 悠に遼と呼ばれたその人物は、大河内先生と同じ年くらいの青年であった。
 少しつり気味の黒い瞳と、同じ色をしたくせのない綺麗な黒髪。
 頭の良さそうな、紳士的な顔立ちをしたハンサムな好青年であった。
 それから遼という青年は、ふっとおもむろに視線を那奈に移す。
 そして。
「会いたかったよ、僕の那奈」
「なっ、ちょっ!?」
 彼の取った次の行動に、大河内先生は思わず声を上げて瞳を見開いた。
 先生の目の前で、遼はぎゅっと那奈の身体を強く抱きしめたのだった。
 知美は、いきなりの出来事に唖然としている大河内先生と現れたハンサムな男・遼の顔を交互に見て、きょとんとしている。
 それからハッと我に返った先生は、ぐいっと遼から那奈を引き離した。
 遼はそんな先生の行動に一瞬怪訝な表情をしたが、すぐに紳士的に微笑む。
 そして、よく響くバリトンの声で言った。
「もしかして君が、噂の大河内藍くんかな?」
「噂の? ていうか、あんた一体……」
 那奈を取り返してじろっと訝しげな視線を向け、先生は遼を見据える。
 そんな先生の問いに答えたのは、那奈だった。
「あっ、先生。あのね、この人は、私のお兄ちゃんよ」
「は? お兄ちゃん?」
 那奈の言葉を聞いて何度も瞳を瞬きさせる大河内先生に、遼はスッと手を差し出した。
 そして、にっこりと笑って言ったのだった。
「那奈の兄の、今宮遼です。よろしく、大河内くん」


 メンバーが全員揃って部屋割りが終わり、自分の荷物を整理した先生はあてがわれた部屋を出てリビングへと向かった。
 ちょうど部屋が5室あるため、ひとり一部屋が与えられたのだが。
 はあっと大きく溜息し、先生は漆黒の前髪をかき上げる。
 もちろんふたりきりではない上にまだ生徒と教師という関係上、彼女と同じ部屋というわけにはいかないだろうことは前もって分かっていた先生だったが。
 よりによってくじ引きで決めた先生の部屋は、那奈の部屋から一番遠くの部屋になってしまったのである。
 それに何だか、これからひと波乱もふた波乱もありそうな胸騒ぎがする。
 考えてみれば、何といってもここは、恋のライバルである悠の別荘なのである。
 その上に、那奈の兄である遼も現れる始末。
 身内のいる前で、しかも彼女の教師であるという立場上、那奈とふたりでベッタリというわけにはますますいかなくなった。
 それに先生には、少し気になることがあった。
 遼は那奈の兄なだけあり、品のいい紳士的な雰囲気を持っている青年である。
 だが時々自分に向けられる彼の刺すような視線に、先生は何か引っかかるものを感じていたのだった。
 そしてその引っかかることが何であるか……先生はこの後、すぐに知ることになる。
 各個人の部屋のある2階から1階へと降りてきた先生は、リビングのドアを開けた。
 そこにいたのは。
「あ、大河内くん。ちょうどよかった、君に話があったんだよ。どうぞ」
 リビングのソファーに座っていた遼は、先生を自分の目の前のソファーに促す。
「先生、何か飲み物でも飲みますか?」
 遼の隣に座っていた悠は、ふっと笑みを浮かべて先生にそう言った。
 その悠の笑みに怪訝な顔をしながらも、先生は首を振る。
「いや、何もいらねーよ」
 それだけ言って、先生は遼に言われた通り彼の前のソファーに座った。
 遼はふうっとひとつ溜息した後、口を開く。
「大河内くんは、年はいくつかな?」
「俺ですか? 28ですけど」
「ふーん、僕のひとつ年下ということは……那奈とは、12も違うんだね」
 そう呟いて少し考える仕草をした後、彼は言葉を続ける。
「今僕は、うちの銀行の海外事業部の役員をしているんだ。1年の殆どが海外だから、那奈とはなかなか会えないんだよ。今回は休暇を使って日本に帰ってきたんだが」
 そこまで言って、遼は一旦言葉を切る。
 それから少し長めの前髪をかき上げて声のトーンを変えると、こう言ったのだった。
「単刀直入に言うよ。僕はね、妹が可愛くて仕方ないんだよ。だから、変な虫が妹につくのを快く思わなくてね。それに君は、那奈の学校の教師だそうじゃないか。何て言って妹を丸めこんだのかは知らないけど、感心しないな」
 ふっと那奈と同じ色の瞳を細め、遼は先生に目を向ける。
 大河内先生はそんな遼に真っ直ぐ視線を返し、ハッキリと言った。
「確かに、俺と那奈は生徒と教師だし年も離れてます。でも、いい加減な気持ちで付き合っているわけじゃない。兄の貴方が不快に思う気持ちも分かりますが、俺は真面目に誠意を持って那奈と付き合ってるって、胸張って言えますよ」
 先生の言葉を聞いて、遼はその端正な顔に怪訝な表情を浮かべる。
 それから大きく嘆息し、立ち上がった。
「そんなに言うなら、君の誠意とやらをこの数日間、しっかりと見せてもらうよ」
 そして遼は、先生に視線を向けてこう続ける。
「でもね、大河内くん。これだけは覚えておいてくれ。僕は兄として、大切な那奈の男の存在なんて認めていないから」
「…………」
 先生はその遼の言葉を聞いて、思わず複雑な顔をした。
 ……その時。
 カチャリとリビングのドアが開き、荷物の整理を終えた那奈と知美が入ってくる。
 そしてリビングに姿を見せた那奈に優しい微笑みを向け、遼は言った。
「那奈、久しぶりにお兄ちゃんと話さないかい? 少しふたりで散歩でもしようか」
「うん、そうだね。お兄ちゃんと話したいこともたくさんあるし……行ってきてもいいかな?」
「久しぶりの兄妹水入らずだしね、行っておいで。夕食はホテルのケータリングサービスを19時に頼んでいるから、それまでに戻ってくれば大丈夫だよ」
 すかさずそう言った悠の言葉に嬉しそうにこくんと頷き、那奈は遼とともに再びリビングを出て行く。
 そんなふたりの後姿を神妙な顔で見送る大河内先生の様子に気がついた知美は、ふと首を傾げた。
「どうしたの、アイちゃん? そんなコワイ顔して」
「知美ちゃん、何か飲み物持ってこようか? ジュースでいいかな?」
 リビングのソファーにストンと座った知美に、悠は立ち上がってそう声をかける。
 そんな悠に、大河内先生はじろっと目を向けた。
「安西、おまえ……那奈の兄貴に、一体何言ったんだよ」
 先生の問いを聞いて、悠はふっと微笑む。
 それから、にっこりと笑って言った。
「何って、ただ那奈ちゃんに彼氏ができたって言っただけですよ、先生。遼兄さんは特に那奈ちゃんのことをものすごく可愛がってるから、心配で休暇取って飛んで帰って来ちゃったみたいですけど」
 そして悠は色素の薄いサラサラの髪をかき上げ、言葉を続ける。
「先生、オズの魔法使いで“暴れ者の木”って出てくるの、知ってますか?」
「“暴れ者の木”?」
 聞いたことのないその単語に、知美は小さく首を傾げる。
 そんな知美に笑顔を向け、悠は口を開いた。
「“暴れ者の木”はね、“オズの魔法使い”に出てくる、よそものを森に寄せ付けないための防衛隊なんだよ。よそものを森に寄せ付けない、ね」
 そう言ってふっと笑みを浮かべる悠を見て、先生は眉を顰める。
「安西、おまえってやつは……っ」
「あ、知美ちゃん。オレンジジュースとアップルジュース、どっちがいい?」
 じろっと自分に視線を向ける先生を後目に、悠はキッチンに向かいながら知美に微笑む。
「んー、アップルジュースがいいなぁっ。ありがとね、悠くん」
 悠の問いに答えた後、知美はちらりと大河内先生に目を向けた。
 そして、楽しそうに笑って言った。
「アイちゃーん、これから頑張ってねっ」
「……竹内、おまえ思いっきり楽しんでるだろ? この状況」
「あははっ、バレた? 那奈って結構自分のことになると鈍いし、アイちゃんもこれから大変ねぇ。ま、私はどうなるか温かく見守りながら応援してるからっ」
「あははっ、じゃねーぞ、コラ! ったくよ、冗談じゃねーぞ……」
 じろっと知美を見てから、大河内先生はザッと漆黒の前髪をかき上げる。
 それから面白くなさそうな表情をして膝に頬杖をつき、これから彼らと過ごす前途多難な数日間のことを思って大きく溜め息をついたのだった。