SCENE11 虹の彼方に

 ――別荘生活・最終日。
 大河内先生はふわっとひとつあくびをし、部屋のカーテンと窓を開けた。
 そして差し込める眩しい朝の光に漆黒の瞳を細めた後、うーんと大きく伸びをした。
 開け放たれた窓から吹く爽やかな風が、瞳と同じ色の彼の黒髪を揺らす。
 それから先生は一通り着替えと身支度を済ませ、一階のリビングへと足を向けた。
 まだ少し早い時間であったが、リビングには明かりがついている。
 カチャリとそのドアを開け、先生は中へと足を踏み入れた。
「おはよう、大河内くん」
 ソファーに座っていた遼は、先生の姿を見て紳士的な顔に上品な微笑みを浮かべる。
「あ、おはようございます」
 遼に挨拶を返した後、先生はふと視線を別の場所へと移した。
 そして、はあっと溜め息をつく。
「弱いくせに酒なんて飲むからだよ、ったく」
 テーブルにうつ伏せになってスヤスヤと寝ている姉・香夜の姿を見て、先生は呆れたように前髪をかき上げた。
 遼は目の前で眠っている香夜に柔らかな視線を向けた後、笑う。
「朝まで耐久トークするとか言っていたのは、香夜の方なのにな。アルコールが入ったら、この通りだよ」
 香夜の肩には、タオルケットが掛けられていた。
 きっと、遼が眠ってしまった彼女に掛けたのであろう。
「遼さん、まさかコイツに付き合って、ずっと起きてたんですか?」
 先生は寝ている姉の隣のソファーに座り、彼にふと訊いた。
 遼は瞳を細め、小さく頷く。
「ああ。香夜ひとりをここに置いておくわけにはいかないだろう? 仕事で徹夜することも少なくないし、昔からよく香夜には振り回されていたからね。慣れてるよ」
 何でもないようにそう言う遼に、先生は感心したように呟いた。
「人間出来てるなぁ……俺なら魔女なんて放ったらかしで、余裕で寝るけどな」
 先生のその言葉に、遼はふっと笑う。
「それは、姉の香夜だからだろう? 考えてごらん、相手が那奈だったら君も同じことをしたんじゃないかな」
「那奈だったら……」
 相手が姉でなく那奈だったら、やはり遼と同じように朝まで一緒にいただろう。
 そう思い直し、先生は納得したように小さく頷いた。
 遼はそんな先生に、ちらりと視線を向ける。
 そして、ゆっくりと口を開いた。
「ところで、大河内くん。魔法の宿題の答えを、そろそろ聞こうか」
 先生はその言葉に、ふと表情を変える。
 それからおもむろにズボンのポケットをあさって、1枚の10円玉を手に取った。
「10円玉が消えた魔法は、分かりましたよ」
 そう言って先生は、スッと天に10円玉を投げる。
 そしてそれを受け止めるように手を伏せ、遼に視線を向けた。
 遼は無言で先生の手のひらに目を落とす。
 彼のそんな様子を確認した後、大河内先生はゆっくりと伏せていた手を外した。
 先生の手の甲にあるはずの、10円玉。
 だがそれは、どこにも見えない。
 先生はふうっとひとつ息を吐き、そして遼の様子をうかがうように一呼吸置いた。
 それから、おもむろに右足を上げて言ったのだった。
「消えた10円玉の行方は、ここだったんですね」
 遼はおもむろに立ち上がり、彼の足元の絨毯に視線を向ける。
 そこには、先ほど先生が投げた10円玉が落ちていた。
「投げた10円玉を受けとめるフリをして、絨毯の上に落とした。それをさり気なく足をずらして踏んで、足の下に隠したんですね。そして、あたかも手の上に10円玉があるように振舞った。違いますか?」
 落ちている10円玉を拾った後、先生は遼の次の言葉を待つ。
 遼は再びソファーに座ると、パンパンと数度手を鳴らした。
「なるほどね。確かに君の言う通りだよ、大河内くん。10円玉にかけた、僕の魔法」
 そう言ってから、遼は楽しそうに笑って言葉を続ける。
「では、それがどうやって君のポケットに移動したのかな?」
 大河内先生は、その言葉にふと表情を変えた。
 そして、首を横に振る。
「消えた理由までは分かったんですけど……何でそれが俺のポケットにあったのか、それは分かりません」
 手の中にある10円玉をぎゅっと握り締め、先生は俯いた。
 昨日、那奈と夜のデートを終えて帰ってきた後も、一生懸命考えたのだが。
 どうしても、それだけは分からなかったのだった。
 そんな悔しそうに瞳を伏せる先生を見て、遼は突然くすくすと笑い出す。
「本当に面白い男だな、君は」
 そう言った後、遼は穏やかな微笑みを先生に向けた。
 そして、言ったのだった。
「君のポケットの10円玉だけど、それはもともと、最初から君のポケットの中にあったものなんだよ」
「……え?」
 遼の言葉に、先生はきょとんとした表情をする。
 クックッと笑った後、遼は続けた。
「君はあの日、真っ白い薄手のシャツを着ていただろう? 胸ポケットから、10円玉が透けて見えたんだよ。だから僕も10円玉を使って、あたかもそれがポケットに移動したように見せかけた。それが、魔法の答えだよ」
「なっ……もともと入ってたヤツかよ、この10円玉っ」
 あまりにも拍子抜けする答えに、先生は思わずそう呟く。
 そして自分の間抜けさを痛感し、はあっと大きく溜め息をついた。
 遼はふっとそんな先生の様子に笑って、漆黒の瞳を細める。
「まぁ100点はあげられないが、10円玉が消えた魔法は分かったからね。それだけでも驚いたよ。おまけして、70点と言ったところかな」
「70点……」
 魔法を見破って、那奈との交際を認めてもらおうと思ったのに。
 もう少しのところで、及ばなかった。
 先生は、悔しそうにザッと前髪をかき上げる。
 遼はそんな先生に、穏やかな声で言った。
「那奈との交際を認めるとまではいかないが……元々昨日の勝負の勝者は君だし、魔法の宿題も70点はギリギリで合格点といったところかな」
 その遼の言葉に、先生は顔を上げる。
 そして、漆黒の瞳を見開いて言った。
「え? じゃあ、俺たちのこと……」
 期待に満ちたように自分に視線を向ける先生に、遼はふと首を横に振る。
「いや、さっきも言ったように、そう簡単に交際は認めないよ。那奈は僕の大切な妹だからね」
 先生の期待を裏切るように、そうはっきりと口を開いた遼だったが。
 その知的な顔に柔らかな笑顔を浮かべると、こう続けたのだった。
「だが僕は、明日からまた仕事で海外に戻らないといけない。那奈のそばにいたくても、いてやれないんだ。だから、僕が仕事で日本にいない間は……大切な妹のこと、よろしく頼んだよ。大河内くん」
「遼さん……」
 先生は遼に真っ直ぐ視線を向けた後、こくんと大きく頷く。
 それからニッと口元に笑みを宿して、言った。
「遼さんが日本にいない間、那奈は俺が全力で大切にします。そして次に貴方が日本に帰ってきた時、今よりもっといい男になった俺のこと、今度こそ認めてもらいますから」
 遼はふっと漆黒の瞳を細め、先生の言葉ににっこりと笑う。
「楽しみにしているよ、大河内くん」
 ……その時。
「う……ん、おはよー。遼ちゃんに、アイちゃん」
 むくっと体を起こし、香夜は眠そうに目を擦ってからふたりを交互に見た。
「やっと起きやがったのかよ、この魔女」
「おはよう、香夜」
「でも、もうちょっと寝るぅ……」
 それだけ言うと、香夜は再びテーブルにうつ伏せになる。
 先生ははあっと嘆息し、姉の肩を揺すった。
「また寝る気か、おまえっ。ていうか、寝るんなら俺の使ってた部屋で寝ろ。二階上がってすぐの部屋だからよ」
「アイちゃーん、じゃあその部屋まで連れてって」
「あ? ふざけんな、知るかおまえ。さっさと起きて、自分で行きやがれ」
 甘えた声を出してぴたりと腕にくっつく香夜に、先生はじろっと目を向ける。
 そんな姉弟の様子を微笑ましく見た後、遼はソファーから立ち上がった。
「じゃあ、僕も少し休ませてもらおうかな。2階に行こうか、香夜」
「んー……じゃあ、アイちゃんの部屋貸してねぇ」
 香夜は額に手を当ててから、ひらひらと先生に手を振る。
 そして遼と香夜のふたりは、リビングを出て行った。
 広い部屋でひとりになり、シンとした静寂がおとずれる。
 那奈たちも、まだ起きてくる気配はない。
 先生は読書でもしようかと、本を手に取った。
 それから、ふっとその瞳を細める。
「そういえばこのブックカバー、あいつに貰ったんだっけな……」
 那奈からプレゼントされたブックカバーとしおりに目を向け、先生は少し考える仕草をした。
 そして持っている本は開かず、何かを思いついたようにおもむろにリビングを出て行ったのだった。


 ――その日の夕方。
 別荘生活最後のこの日をゆったりと過ごした5人は、帰り支度を終えて悠の別荘を出る。
 それから、車が止めてある車庫へと向かった。
「じゃあ、また東京でね。悠くん、お世話になりました」
 大河内先生の青いフェラーリに乗った那奈は、悠ににっこりと微笑む。
「何も特にお構いしなかったけど、僕もとても楽しかったよ。またね、那奈ちゃん」
 悠は優しく彼女に笑顔を向け、軽く手を上げた。
 そして、先生と那奈の乗ったフェラーリが最初に別荘を後にする。
 香夜は手を振って青のフェラーリを見送ってから、ちらりと悠に視線を移す。
 それから、ふっと綺麗な顔に笑みを宿して言った。
「悠くん、お姉さんはアイちゃんも大好きだけど、悠くんにも頑張ってもらいたいわぁ」
 楽しそうに笑う香夜に、悠は色素の薄い髪をそっとかき上げる。
 その後、自信満々な表情で香夜にこう返したのだった。
「まだまだこれからですよ、香夜さん。きっと、那奈ちゃんを振り向かせてみせますから」
「私も友達として応援してるからねぇっ。期待してるよ、悠くんっ」
 ぽんっと悠の肩を叩き、知美も悪戯っぽく笑った。
 遼は残ったメンバーを見て、そして口を開く。
「じゃあ、誰がどっちの車に乗るんだい?」
 その問いに、知美はすぐにこう答えた。
「私、香夜さんの車に乗ろっかなぁ。香夜さんってすごく素敵で憧れだから、いろいろ教えてもらいたいなぁって」
「あらぁ、知美ちゃんって、ものすごーくいい子ねぇっ。いいわ、一緒に帰りましょ」
 きゃははっと笑い、香夜は白のジャガーに知美を促す。
 遼は知美を見つめ、ふっと苦笑した。
「知美ちゃん、香夜の悪い影響受けないようにね」
「あら、それってどーいう意味かしら、遼ちゃん? んじゃ、またねぇっ」
 香夜は純白のジャガーに乗り込んだ後、残った男ふたりに手を振って車を発進させる。
 それを見送ってから、遼はふと紳士的な顔に微笑みを浮かべた。
 そして隣の悠に、満足そうに言ったのだった。
「悠、今回は楽しい休暇をありがとう。本当に楽しかったよ……」
 ――同じ頃。
「遼さん、明日もう日本発つんだろう? いいのかよ、あの人と帰らなくて」
 青のフェラーリを運転しながら、大河内先生は遠慮気味に助手席の那奈に訊いた。
 那奈はこくんと頷き、漆黒の瞳を細める。
「うん。明日の飛行機の時間まで、お兄ちゃんとはずっと一緒にいられるから」
「そっか、でも明日から寂しくなるな」
 この5日間一緒に過ごしただけでも、遼が那奈のことを大切にしていることがよく分かった。
 何せ、妹に彼氏ができたというだけで外国から飛んで帰ってくるほどである。
 そんな兄のことをまた、那奈も大好きなのだということも先生は強く感じた。
 那奈は少し寂しそうな表情をしたが、すぐに笑顔を先生に向ける。
 それから、言ったのだった。
「お兄ちゃんが日本発っちゃうのは寂しいけど……私のそばには、いつも先生がいてくれるから」
「那奈……」
 信号が赤に変わったため、先生はブレーキを踏んだ。
 車を止めた後、先生はふっと隣の恋人を見つめる。
 そしてふと、バッグから何かを取り出して那奈に差し出した。
「なぁに、先生?」
 それを受け取って、那奈は不思議そうに小首を傾げる。
 先生はニッと笑みを浮かべ、腕を伸ばして彼女の頭をぐりぐりと撫でた。
 それから、ゆっくりと彼女の問いに答えたのだった。
「おまえによ、ブックカバー貰っただろ。だから、お返しに俺からも、おまえにプレゼントだ」
「えっ、プレゼント? すっごく嬉しいよ、開けてもいい?」
「ああ。開けてみろ」
 信号が青に変わってゆっくり車を発進させながら、先生は頷く。
 那奈は丁寧に小振りの包みを丁寧に外した。
 そして、出てきたものを見てパッと表情を変える。
「わあっ、すっごい可愛い!」
 那奈の漆黒の瞳に映っているのは、ウサギの人形のオルゴール。
 那奈はウサギの人形の頭を撫でた後、オルゴールのネジを回す。
 それと同時に、青のフェラーリの車内に綺麗な音色が響いた。
 那奈はその音色を聞き、ハッと顔を上げる。
 そして、先生を見つめて呟いた。
「あ、この曲……!」
「ああ。おまえ、この曲好きだって言ってただろ? 今日の午前中時間あったから買い物に行ったんだけどよ、その時ちょうどこの曲のオルゴール見つけたんだ」
 耳に優しく聴こえるその曲は――『Over The Rainbow』。
 数日前、七色の虹の架かる雨上がりの空の下。
 那奈は先生に、映画のオズの魔法使いで使われていたこの曲が好きだと話していた。
 それを、大河内先生は覚えていたのだった。
 美しいオルゴールの音を聴きながら、那奈はそっとハンドルに添えられている先生の手に自分のものを重ねる。
 それから嬉しそうにオルゴールを見つめ、にっこりと微笑んだ。
「ありがとう、大河内先生。すっごく嬉しいよ……」
 先生は再び信号に引っかかって車を止めた後、腕を伸ばして那奈の頭を自分の方に引き寄せる。
 そして助手席の那奈を見て、ふっと笑った。
「何で泣いてるんだよ、おまえは。本当に泣き虫なんだからよ」
 嬉しくてポロポロと涙を零す那奈の頭を優しく撫でてから、先生はスッと指で彼女の頬を伝う涙を拭う。
 それから、ゆっくりと彼女の顎を持ち上げた。
「那奈……俺がおまえのこと、いつまでも大切にするからな」
「うん、先生」
 涙で潤んだ瞳を嬉しそうに細め、那奈はコクンと頷く。
 そしてふたりは、同時に瞳を閉じた。
 次の瞬間……柔らかい唇が、そっと優しく重なり合う。
 お互いの気持ちを甘いキスで再確認し、ふたりは唇を離した後、見つめ合って幸せそうな表情をする。
 照れたように頬を赤らめながら、那奈は隣の恋人の手をぎゅっと握った。
 そして、満面の笑顔で言った。
「この5日間、すごく楽しかったね」
 先生は、いろいろあったこの夏の5日間をふと思い出す。
 それから那奈に微笑みを返し、彼女の手を握り返して頷いた。
「ああ、楽しかったな」
 悠や遼の妨害にあったり、思わぬ姉の登場に驚いたりもしたが。
 自分の隣にいる、恋人の楽しそうな笑顔。
 それが――大河内先生にとって、何よりも大切な宝物なのである。
 耳に優しく聴こえるオルゴールの『Over The Rainbow』の音色にふっと微笑み、それから大河内先生は再び青のフェラーリのアクセルを踏んだのだった。


Summer Season -FIN-