SCENE9 オズの青い真珠

 先ほどまで広がっていた春の青空も、今ではすっかり夕日に染められて赤橙にその色を変えている。
 闇のような美しい黒髪を撫でる風を気にも留めず、彼女はカツカツとハイヒールを鳴らしてある建物へと足早に入っていった。
 彼女の携帯に電話があったのは、ほんの十数分前。
 電話の相手の第一声を聞いた彼女は、それだけで何かが起こったのだということが分かった。
 そして取り乱している電話の相手をとりあえず落ち着かせ、聞き出した連絡先へと足を運んだところだったのである。
 その場所とは――。
「さっきここに運ばれてきた大河内藍の身内の者なんですけど、病室はどこかしら?」
 病院の受付で弟のいる病室を聞き、大河内先生の姉・香夜は再び早足で歩き出す。
 それから病室の前で俯いて座っている、制服姿の那奈を見つけた。
 隣には、彼女と同じ制服を着た聡明そうな雰囲気を持つ少年の姿もみえる。
 香夜はふっと漆黒の瞳を細めてから、彼女たちに近づいて声をかけた。
「那奈ちゃん、大丈夫? アイちゃんはどう?」
「香夜さん……っ」
 その声にハッと顔を上げた那奈は、涙を溜めた瞳を彼女に向ける。
 そして気持ちを抑えられずに、ぽろぽろと涙を零し始めた。
 那奈の隣に座っている少年・悠はそんな那奈の背中を数度擦った後、色素の薄いブラウンの瞳を香夜に移す。
 それから、那奈に変わって彼女の問いに答えたのだった。
「先生のお姉さんですか? 先生の意識はまだ戻っていませんが、階段から落ちた時に頭を打って軽い脳震盪を起こしているとのことです。もう少ししたら意識も戻るだろうと、医者の先生はおっしゃていました」
「私を庇って……私のせいで、階段からっ」
 ひっくひっくと声を上げて泣き出した那奈の隣に座り、香夜は彼女の頭を優しく撫でる。
「那奈ちゃんのせいなんかじゃないわ。それに泣いてちゃ、せっかくの可愛いドロシーちゃんの顔が台無しよ? ね、悠くん」
 香夜は那奈を挟んだ隣に座っている悠に、にっこりと微笑みを向ける。
 悠はまだ泣いている那奈のことを気遣いながらも、香夜の言葉に驚いた表情を浮かべる。
「え? どうして、僕のこと……」
 香夜はそんな悠の疑問には答えず、那奈に上品なレースのハンカチを手渡した。
「香夜さん、先生にもしものことがあったら、私……」
 そう言ってぎゅっと瞳を伏せて俯く那奈に、香夜は笑う。
「大丈夫よ、アイちゃんはそんなヤワじゃないから。何てったって、この私の弟だもんっ。きっとケロッと起きてくるわ。起きてきた時に那奈ちゃんがそんな顔してたら、アイちゃん逆に心配しちゃうわよ?」
「でも私、どうしたらいいか……」
 大きく首を振ってそう言う那奈に、香夜は優しく言葉を続けた。
「那奈ちゃんができることは、アイちゃんが起きてきたらちゃんとあの子の話を聞いてあげることかな。ね?」
「香夜さん……」
 ふっと顔を上げ、那奈は香夜を見つめる。
 そんな彼女を励ますように、香夜は美人な容姿に微笑みを宿して頷いた。
 ……その時。
「大河内さんのお知り合いの方ですか? 大河内さんの意識が今、戻りました。少し頭を打って右足を軽く捻挫されていますが、もう大丈夫ですよ」
「さ、那奈ちゃん。行ってあげて」
 香夜は病室から出てきた医者の言葉を聞いて、那奈の肩を軽くぽんっと叩く。
 そんな香夜の手に後押しされるように急いで立ち上がり、那奈は涙を拭いて病室に入っていった。
「あら、悠くんは行かなくていいのかしら?」
 香夜は、病室に入っていく那奈の後姿を座ったままじっと見つめている悠に声をかける。
 悠はふっと苦笑し、サラサラのブラウンの前髪をかき上げて答えた。
「今入っていっても、見たくない状況を見ちゃうだけですから」
「そうねぇ、好きな女の子が別の男にガバッて抱きつく姿なんて見たくないわよねぇ」
「あの時、那奈ちゃんの隣にいたのは僕だったのに。気がついた時には、もう先生が那奈ちゃんを庇ってて……僕は、何もできなかった」
 悠はそう言って、ふと俯く。
 香夜は長い足を組み替えた後、ニッと笑みを浮かべた。
「まぁまぁっ、そう落ち込まないの。それにしても、ウワサの悠くんは思ったよりもずーっといい男だわぁ。なかなか頭も切れる策士みたいだしぃ、アイちゃんが焦るのも納得よね。アイちゃんってば単純だから、あまりイジメちゃダメよ? ま、アイちゃんのそーいう単純なところがカワイ子ちゃんなんだけどぉっ」
 きゃははっと笑う香夜に、悠はふっと微笑む。
 それから真っ直ぐに香夜に視線を向け、言った。
「今回は負けを認めますけど、僕はまだ諦めませんから」
 香夜は膝に肘を立て、頬杖をついて楽しそうに笑う。
「ふふっ。アイちゃんはもちろんだけど、お姉さんは悠くんみたいな子も大好きよぉ」
「貴女は、先生の味方じゃないんですか?」
 ブラウンの瞳を細めて、悠は香夜にそう聞いた。
 その問いに、香夜はくすっと笑ってこう答えたのだった。
「そうねぇ、確かにアイちゃんはカワイイけどぉ。お姉さんはドロシーちゃんの味方かな? ドロシーちゃんの強い味方、南の国のいい魔女だからぁっ」
「南の国の魔女……オズの魔法使いのグリンダ、ですね」
「あらぁ、さすが悠くん。那奈ちゃんの好きなものは、抜かりなくチェックしてるのねぇ」
 感心したように自分を見る香夜に、悠はにっこりと育ちの良さそうな笑顔を向ける。
 そして、自信に満ちたように大きく頷いた。
「ええ、当然ですよ。僕は那奈ちゃんのこと、誰よりも知ってる自信ありますから」
「いいわねぇ、悠くんってば男らしいわぁっ。ふふっ、頑張ってねぇっ」
 香夜はその強気な言葉に満足そうに漆黒の瞳を細めてそう言った後、悠の肩を労うようにぽんぽんっと叩いたのだった。 


 ――薄っすらと開いた瞳に映ったのは、見たことのない真っ白な天井。
 そして、鼻をツンとつくような独特の匂い。
 それが病院特有の薬の匂いだと気がつくのに、数秒を要した。
 先生はゆっくりと身体を起こし、少し残っている身体の痛みに僅かに顔を顰める。
「大河内さん、気がつかれましたか? 状況、分かりますか?」
 白衣を着た医者が、先生にそう聞いた。
 先生は記憶を辿るように瞳を伏せた後、こくんと頷く。
「階段から、落ちて……それで、気を失ってたんですね?」
「ええ。少し強く頭を打たれて、軽い脳震盪を起こしていたようです。それと、右足に軽い捻挫をされていました。念のため、後でもう一度頭部の検査しましょう。とりあえず生徒さんや身内の方が外にいらっしゃいますので、呼んで来ますね」
 そう言って、医者は病室から出て行く。
 ……そして、その数秒後。
「大河内先生っ!」
 病室に入って来た那奈は漆黒の瞳いっぱいに涙を溜めて、ベッドにいる先生に駆け寄る。
 先生は姉と同じ色を湛える漆黒の瞳を細め、那奈に向けた。
「那奈、おまえ怪我なかったか? 大丈夫か?」
 那奈はその言葉に大きく首を横に振って俯く。
「先生が庇ってくれたから、何ともなかったよ。でも私のことなんかより、先生の方が怪我しちゃって……私のせいで……」
「バーカ。おまえが怪我するくらいなら、自分が怪我した方がマシだからな」
 下を向いた那奈の頭をくしゃっと撫でて、先生はそう言った。
 那奈は顔を上げ、そして堪えていた涙を思わずぽろぽろと零す。
 先生はそんな那奈の身体をぐいっと引き寄せると、泣き出してしまった彼女の頭をぽんっと叩いた。
「本当におまえは泣き虫なんだからよ。ほら、もう泣くな」
「先生……」
 那奈はその言葉に頷いて涙を拭った後、先生に潤んだ瞳を向ける。
 そんな那奈の乱れた髪を手櫛で整え、先生は彼女を近くの椅子に座らせた。
 そして漆黒の瞳を真っ直ぐ彼女に向け、言ったのだった。
「那奈……俺の話、聞いてくれるか?」
 那奈は溜まった涙をぐいっと拭い、こくんと頷く。
 それと同時に、小さく那奈の黒髪が揺れた。
 先生は那奈が落ち着いたことを確認すると、ゆっくりと話し始めた。
「あのよ……俺、安西がおまえの額にキスするのをたまたま見ちまったんだ。それで、めちゃめちゃ嫉妬して……でもそんなガキみたいな大人気ない姿、おまえに見せられなくて、何も言えなくて……でもそんな気持ちを我慢することもできなくて、おまえに当たっちまってよ。本当に格好悪いったらねぇよな、まったくよ」
 先生はそこまで言って、ふっと苦笑する。
 そんな先生の話を、那奈はじっと聞いている。
 先生は改めて那奈に綺麗な漆黒の瞳を向け、続けた。
「でもそんなちっぽけなプライドにこだわってると、何よりも大切なものをなくしちまうってことにやっと気がついたんだよ。こんな格好悪いガキみたいな俺だけどよ、那奈……やっぱり俺には、おまえが必要だ」
「大河内先生……」
 その言葉を聞いて、那奈の瞳から再び涙が溢れ出す。
 それから立ち上がり、ぎゅっと先生に抱きついた。
「格好悪くったって構わない、私にも先生が必要だもん。この1週間、心に大きな穴が空いてるみたいですごく辛かった……先生がいないと私、生きていけない」
「那奈、泣くなって言ってんだろ? ちゃんと、そばにいるからよ」
 宥めるように彼女の頭を撫でた後、先生は那奈の身体を強く抱きしめる。
 ふわりとあたたかい彼女の温もりと、そして鼻をくすぐるシャンプーの香り。
 先生はそんな久々に感じる心地よい感触に、ホッと安心したように漆黒の瞳を細める。
 那奈も大きくてあたたかい先生の広い胸の中で、ふっと幸せそうに瞳を閉じた。
 そして那奈は先生に抱きついたまま、悪戯っぽく笑ってこう言ったのだった。
「それに前から分かってるもん、先生の精神年齢が子供だってこと」
「うるせーなっ、子供で悪かったな」
 先生はその言葉に、むうっと拗ねたような表情をする。
 那奈は先生から少し離れ、そして笑顔を浮かべた。
「また先生のためにお子様メニュー作ってあげるから。今度は何が食べたい? どうせまた、カレーとかハンバーグって言うんでしょ?」
「ていうか、お子様って言うなっ。まぁ、カレーやハンバーグもいいけどよ。でも、今は……」
 そこまで言って、先生はスッと那奈の頬に手を添えた。
 それからゆっくりと、綺麗な漆黒の瞳を閉じる。
 そして次の瞬間……大河内先生の唇が、そっと那奈のものと重なったのだった。
 羽のように軽くて優しいキスの後、那奈は嬉しそうに漆黒の瞳を細める。
 それから再び彼の胸に身体を預け、幸せをかみ締めるように呟いた。
「大河内先生、大好き……愛してるよ」
「ああ。俺も愛してるぜ、那奈」
 ふたりは改めてお互いの体温を全身で感じ、それと同時に心が安らぐ感覚を覚える。
 心に空いていた大きな穴が、一気に満たされた瞬間であった。
 那奈はそれから、ちらりと先生に目を向ける。
 そして思い出したように口を開いた。
「あ、そうだ。悠くんが額にキスしたことなんだけど、あれってただのおまじないだよ?」
「は? おまじない?」
「うん。オズの魔法使いの童話で、北の国の魔女がドロシーの安全を守るために額にキスしたでしょ? それがもとになってる、幸せのおまじないなんだって」
 那奈のその言葉に、先生は呆れたようにガクリと肩を落とし、はあっと大きく嘆息する。
「おまえな……本当にあいつが、おまじないって思ってキスしたと思ってるのかよ?」
「え? 何?」
 自分の言った意味が分からずきょとんとする那奈に、思わず先生は苦笑して呟いた。
「ったくよ、結構おまえって鈍いんだな……」
「何よ、それ?」
 その問いには答えず、まだ首を傾げている那奈に微笑んでから、先生はふと言った。
「そういえば、おまえストラップ切れたんだよな。あの魔法の赤い真珠……持ってるやつの身を守る、だったか」
「うん。階段から落ちた時に切れちゃったんだ。せっかくお揃いで買ったのにな」
 残念そうにそう言って俯く那奈に、先生はふっと笑う。
「んなもん、またお揃いで買えばいいだろーが。それに赤い真珠がなくったってよ……俺がおまえのこと、守ってやるからな」
「うん、大河内先生」
 嬉しそうに頬を赤らめてこくんと頷いた那奈に、先生は言葉を続けた。
「それで、俺の青い真珠は何だっけ? えーっと……」
「持ち主に強い力をもたらす、よ。ていうか、これからもちゃーんと私のことしっかり守ってよね、先生っ」
「何だよ、泣き止んだと思ったら途端に態度それかよっ。まぁ、この俺にドーンと任せとけ」
 そう言って笑い、先生は優しく彼女の頭を撫でた。
 先生の大きな手の感触に、那奈は照れたように微笑む。
 それからふたりはゆっくりと瞳を閉じ……そして再び、お互いの唇をふわりと重ねたのだった。