SCENE8 ドロシーの赤い真珠

 ――次の日の朝。
 職員室で1時間目の授業の準備をしながら、大河内先生はひとつ嘆息する。
 昨日の夜は、殆ど眠れなかった。
 那奈に自分の気持ちを素直に言おうと心に決めた先生であるが、実際にどう言えばいいか悩んでいた。
 那奈はこんな自分の大人気ない弱い部分を知って、一体どう思うだろう。
 それ以前に、交わした言葉も皆無に近いここ1週間のことを考えると、彼女がすんなりと自分の話を聞いてくれるかどうかも分からない。
 どう話を切り出せばいいか、うまく自分の思っていることを言葉に出せるのだろうか。
 しかも那奈と付き合いだして2ヶ月、本格的に彼女と喧嘩したのはこれが初めてであるため、一度距離のできた関係をどう修復していいのか先生はまだ掴めていなかったのである。
 その上にタイミングも悪く、今日那奈のクラスの時間割に日本史はない。
 だが那奈と話をしようと決めたからには、早い方がいいことも分かっている。
 いつ話をする約束を取り付け、いつ話をしようか。
 考えるときりがないことは分かっていたが、どうしてもぐるぐると考え込んでしまう。
 ……その時。
「大河内先生」
 ふと声をかけられ、先生は顔を上げる。
 それから眼鏡の奥の漆黒の瞳を数度瞬きさせた後、無意識的に背筋を伸ばした。
「あ、鳴海先生。何でしょうか?」
 大河内先生に声をかけてきたのは、同僚である数学の鳴海先生であった。
 いかにも頭がよさそうな端正な容姿は切れ長の瞳が特に印象的で、何だか近寄り難い雰囲気を持っている。
 大河内先生と年はひとつしか違わないが、自分にも人にも厳しい完璧主義者っぽい性格の鳴海先生のことが、大河内先生は実は少し苦手であった。
 苦手というよりも、あの威圧的な切れ長の瞳で見つめられると、何だか意味もなく叱られるのではないかと妙にビクビクしてしまうのである。
 だが彼に対して近寄り難いと感じながらも、同時に大河内先生は鳴海先生のことを尊敬していた。
 少々厳しいが教育に対する確固たる信念を彼から感じるし、ただ厳しいだけでなく意外と世話好きな人なのである。
 鳴海先生は同僚であると同時に高校時代の1つ上の先輩でもあり、大河内先生自身も昔から何かと面倒を見てもらっていたのだった。
 鳴海先生はブラウンの切れ長の瞳を大河内先生に向けると、口を開いた。
「数日前から顔色が優れないようだが、どうかされましたか」
「えっ?」
 その口調は相変わらず淡々としているが、どうやら鳴海先生は自分の様子を気にかけてくれているようだ。
 だが、まさか付き合っている生徒と喧嘩して悩んでいるなんて口が裂けても言えない。
「最近、少し寝不足で。でも大丈夫です」
 大河内先生はそう無難に答えて、ちらりと鳴海先生を見た。
 鳴海先生はふうっとひとつ嘆息した後、言葉を続ける。
「授業に支障を来たさないのなら結構だが、何か深刻な問題が発生しているのであれば、早期解決が必要だ」
「え? は、はあ……」
 鳴海先生の言葉に、大河内先生はきょとんとしながらも頷く。
 何かに対して明らかに悩んでいる自分の相談に、乗ってくれるというのだろうか。
 確かに深刻な問題は発生しているが、職務とは別の全くのプライベートなことである。
 しかも厳しい鳴海先生に自分が生徒と交際しているなんて言おうものなら、むしろ生活指導室に呼び出しをくらいそうなくらいである。
 だが鳴海先生は、特に大河内先生の悩んでいる理由を詳しく聞くわけでもなく、こう言ったのだった。
「何があったかは分からないが、時には大いに考え悩むことも人間が進歩する過程では必要なことだ。だが、ただ悩むだけで何も動かないままでは、いつまでたっても現状を打破できない。そうだな?」
「鳴海先生……」
 大河内先生は、その言葉にハッと顔を上げる。
 そして鳴海先生にふっと漆黒の瞳を向けた。
 そんな大河内先生の肩をぽんっと軽く叩いた後、鳴海先生は続ける。
「昔から君は、模範生なのか問題児なのか分からないな」
 鳴海先生は相変わらず表情を変えずにそう言うと、数学の教科書を小脇に抱えスタスタと歩き出す。
 大河内先生は振り返り、彼を呼び止めた。
「あの、鳴海先生」
 鳴海先生はその声に、無言で振り返る。
 大河内先生はそんな鳴海先生に向かって、軽く頭を下げた。
「ありがとうございます、鳴海先生」
「特に君に礼を言われるようなことをした覚えはない。1時間目の授業が始まる、担当のクラスに向かいなさい」
 まるで生徒に言うような口調でそれだけ言って、鳴海先生は職員室を出て行った。
 大河内先生は眼鏡の奥の漆黒の瞳を伏せ、鳴海先生から言われた言葉を思い出す。
「何も動かないままでは現状を打破できない、か……」
 ふとそう呟き、大河内先生は閉じていた瞳をそっと開いた。
 そんな彼の瞳には、先程まで渦巻いていた迷いの色はなかった。
 そして日本史の教科書を手にし、1時間目の担当クラスに向かうべく大河内先生も職員室を後にしたのだった。


 ――その日の午後。
 特別教室で行われた6時間目の生物の授業を終えた那奈は、悠とともに2年Cクラスの教室に戻っている途中だった。
 帰りのホームルームが終われば、今日はもう放課後である。
 隣を歩く那奈に、悠は優しい笑顔を向けて言った。
「今日、帰りにお茶して帰ろうか。駅前に新しいケーキ屋できたよね」
「うん。昨日からだっけ? 前からオープンするの楽しみにしてたお店なんだ」
 悠に微笑みを返して頷きつつも、那奈の心は複雑だった。
 そのケーキ屋は、喧嘩する前の大河内先生と一緒に行こうと約束していた店だったからである。
 だが今の調子では、いつその約束が果たせるかも分からない。
 もしかしたら、このままずっと先生とギクシャクしたままかもしれない。
 喧嘩してからの1週間、ふたりは学校ですれ違っても挨拶さえも交わしていない状態なのである。
 そして今日の那奈のクラスの時間割に、大河内先生の日本史の授業はなかった。
 正直、日本史の授業がなくて那奈はホッとしていた。
 普段なら楽しみで仕方ない先生の授業だが、ふたりの関係に溝ができてからは、そんな授業の時間もただの辛い時間と変わっていたからである。
 先生の姿が目に入るたび、その声が聞こえるたび、胸がぎゅっと締め付けられるような気持ちに陥る。
 そして授業をする先生もいつものような楽しそうな様子は全くなく、ただ淡々と教科書を読み進めている感じだった。
 ……すぐ近くにいるのに、すごく遠く感じる。
 那奈は日本史の授業を受けながら、あんなに近くに感じていた先生が今ではとてつもなく遠いところにいるような感覚を覚えるのだった。
 そして喧嘩した日からずっと、どうして先生が怒っているのか那奈にはいまだに分からないでいた。
 もしも自分が悪いのであれば、謝って改善しようと思っている。
 なのに、先生は何も自分に話してはくれない。
 もしかしたらもう自分のことが嫌いになって、話さえもしたくないのかもしれない。
 そう考えると、那奈は先生に声をかけることができなかったのである。 
 そんな思わず俯いてしまった那奈の様子に気がつき、彼女に歩調を合わせて階段を下りながら、悠はなるべく明るい声で話を続ける。
「ねえ、那奈ちゃん。僕のあげたラベンダー・グマは元気?」
「え? あ、うん。ベッドの上にいつもいるよ。時々おなか押してキューって鳴かせてみたりしてるんだ。本当に嬉しかったよ、オズの話に出てくるラベンダー・グマそのまんまなんだもん」
「那奈ちゃんなら、きっと喜んでくれると思ったんだ。よかったよ」
 にっこりと育ちの良さそうな聡明な顔に微笑みを浮かべ、悠はサラサラの髪をそっとかき上げた。
 那奈はそんな悠に対して、申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
 自分が先生と喧嘩して落ち込んでいることを知っている悠は、いつも自分の隣にいてさり気なく気を使ってくれている。
 先生と喧嘩したあの日も駅まで迎えに来てくれた上、詳しいことは一切聞かずにずっと自分の頭をその大きな手で撫でていてくれた。
 昔から悠は、すぐそばで自分のことを支えてくれている。
 今回のことも悠がいなかったら、精神的に正直どうなっていたか分からない。
 那奈は漆黒の瞳をふっと悠の整った顔に向け、そして言ったのだった。
「悠くん、いつもごめんね……」
「急にどうしたの、那奈ちゃん。何も僕、那奈ちゃんに謝られることなんてないよ?」
 那奈の言葉に、悠は優しく色素の薄い瞳を細める。
 那奈は大きく首を振った後、上目遣いで彼を見つめた。
「ううん。悠くんがそばにいてくれてよかったって、すごく思ってる」
「那奈ちゃん……」
 悠はそんな彼女の言葉を聞いて、本当に嬉しそうな表情をしたのだった。
 そしてふたりが、階段の踊り場に差し掛かった……その時。
 悠はおもむろに顔を上げて振り返ると、ぴたりとその足を止める。
 それから、聡明なその顔に怪訝な表情を浮かべた。
 那奈はそんな彼の様子に気がついて同じように背後に目を向け、彼の視線を追う。
 その、次の瞬間。
 漆黒の瞳を大きく見開き、那奈も思わずその足を止める。
 それから目の前の人物を瞳に映し、ぽつりと呟いた。
「大河内先生……」
 那奈たちの後ろから階段を下りてきたのは、誰でもない大河内先生だったのである。
 那奈たちの存在に気がついて一瞬足を止めた先生だったが、すぐに気を取り直してふたりのいる踊り場まで階段を下りてくる。
 それから眼鏡の奥の瞳を真っ直ぐに那奈に向け、ゆっくりと言ったのだった。
「今宮さん、貴女に話したいことがあります。時間、いただけませんか?」
「先生……」
 那奈は先生の口から出たその言葉に、驚いた顔をする。
 だが、すぐに彼から視線を逸らして俯いてしまった。
 悠はそんな那奈の様子を見てから、先生に目を向ける。
「大河内先生。今から僕たち、帰りのホームルームがありますから」
「僕は貴方でなく今宮さんに聞いているんですよ、安西くん」
 負けじと悠を見てそう言った後、先生は再び那奈に視線を戻した。
 那奈は自分に向けられた先生の真っ直ぐな瞳を見ることができず、まだじっと俯いている。
 今まで先生と話をしたかった那奈だが、実際にそう言われると躊躇してしまっていた。
 喧嘩して以来何も言わなかった先生が、どうして急に自分と話をする気になったのだろうか。
 もしかしたら、自分と別れ話をしようとしているかもしれない。
 そう考えると、那奈はなかなか先生の申し出に頷くことができないでいたのである。
「今宮さん、話だけでも聞いてくれませんか?」
 先生は返事ができずにいる那奈に優しくそう言って、彼女に一歩近づいた。
 那奈はそんな先生の様子に、思わず後退りしてしまう。
 だが耳に聞こえてくるその声は、自分の大好きな穏やかなバリトンの声。
 自分の大好きな先生が今、すぐそばにいるのである。
 那奈は漆黒の瞳いっぱいに涙を溜め、ふっと顔を上げた。
 そして、彼の言葉に頷こうとした……その瞬間。
「! きゃっ!!」
「那奈ちゃん!?」
 那奈の隣にいた悠は、ハッと視線を那奈に向けて顔色を変えた。
 刹那、ふわりと那奈の漆黒の髪が宙に揺れる。
 すぐ後ろの階段の段差に足を取られ、那奈の身体がバランスを崩したのだった。
「那奈っ!!」
 大河内先生は表情を変えてそう叫ぶと、思い切り腕を伸ばした。
 咄嗟に伸びた先生の手が、ガッと彼女の腕を掴む。
「くっ……!」
 だが腕を掴むだけで精一杯であり、すでに彼女の身体を引き上げることが無理な体勢になっていた。
 先生はそのまま那奈の身体を自分の胸に引き寄せると、彼女を庇う様にぎゅっと抱きしめる。
 それから周囲の風景がぐるりと回ったかと思うと、同時に背中に大きな衝撃がはしった。
「那奈ちゃん! 大河内先生!」
 悠は踊り場から下の階まで落ちたふたりに急いで駆け寄り、声をかける。
「先生っ、大河内先生っ!」
 那奈はすぐに起き上がり、必死に倒れている先生の名前を呼ぶ。
 先生に抱きしめられていた那奈は、全くの無傷だったのである。
 だが那奈を庇ってモロに背中から落ちた大河内先生は、一向に起き上がってくる気配をみせない。
「那奈ちゃんはそこにいて、誰か呼んでくるからっ」
 悠は倒れている先生を見てぽろぽろ涙を流す那奈にそう言うと、その場を駆け出した。
 そしてその時の先生は、落ちた時に生じた激痛に身体を動かせずにいた。
 痛みが全身を駆け巡り、吐き気がする。
「先生、ごめんなさいっ……先生っ!」
 先生は自分を呼ぶ那奈の声を耳にしながらも、スウッと目の前が暗くなっていくような感覚を覚える。
 そしてぼんやりと薄れていく視界の中、ふと漆黒の瞳にあるものを映す。
 おそらく落ちた時の衝撃で切れたのだろう、那奈の携帯についていたストラップの真っ赤なビーズが周囲に散らばっている。
(何か言ってたな……オズの、魔法の赤い真珠……持ち主の身をあらゆる危険から守る、だったかな……)
「先生っ、大河内先生っ!」
 那奈は漆黒の瞳から流れる涙を拭おうともせず、ずっと彼の名前を呼び続けている。
 すっかり闇に包まれた視界の中、遠くに聞こえる那奈の声は、取り乱してはいるが元気そうである。
 その声を聞きながら彼女に大きな怪我がなかったことを確信し、先生はホッと安堵する。
 そして……そこで、大河内先生の意識は途絶えたのだった。