SCENE10 ラブ・マグネット

 ――5月23日・月曜日。
 那奈は漆黒の髪をかき上げ、待ちきれないようにそわそわした様子で時計を見た。
 そんな那奈の様子に、隣の席の知美は笑う。
「那奈、そんなに焦らなくても、アイちゃんの授業は逃げないよ?」
「そうなんだけど、しばらく授業なかったでしょ? 何だかちょっと久しぶりじゃない、大河内先生の授業」
「久しぶりって言っても1週間も経ってないってのにね。ま、仕方ないか」
 知美は幸せそうな表情をしている那奈を見て、瞳を細めた。
 先生が那奈を庇って階段から落ちて、数日。
 先生はあれから念のために病院で検査してもらい、その後足の捻挫もあって数日学校を休んでいた。
 そして検査の結果も異常はなく、晴れて今日からまた職場復帰していたのだった。
 先生と仲直りして以来初めての授業ということもあり、那奈は授業が始まるのを今か今かと待っているのである。
 知美はウキウキ状態の那奈から、ふと視線を彼女の後ろの席の少年へと向けた。
 それから、その少年・悠の肩をぽんっと軽く叩いて笑った。
「悠くーん。ライバルが復帰してきた、今の心境は?」
「何てことないよ、知美ちゃん。最後に笑うのは、きっとこの僕だからね」
 にっこりと微笑みを浮かべ、悠ははっきりとそう答えた。
「さすが余裕ねぇっ。でも当の本人が鈍いと大変ね、いろいろ」
 知美はそう言って、ちらりと那奈に目を向ける。
 その視線に気がつき、那奈は小首を傾げた。
「え? 何、知美?」
「ううん、何でもないよ。ね、悠くんっ」
「うん、何でもないから。那奈ちゃん」
 聡明な顔に柔らかな笑顔を宿し、悠は優しく那奈に言った。
 それから、知美に目を向けて続ける。
「その鈍いところも可愛いんだよ、知美ちゃん」
「なるほどねぇ。ま、これからどうなるか、楽しみに期待してるから」
「うん、期待してて。このままじゃ終わらせないよ」
 ふっと笑い、悠は机に頬杖をついて笑った。
 そして那奈はそんなふたりの会話の意味が分からず、きょとんとしていたのだった。
 ……それから、数分後。
 授業開始を告げるチャイムが鳴り始めたと同時に、ガラッと2年Cクラスのドアが開いた。
 那奈はその瞬間、表情をパッと変える。
 彼女の漆黒の瞳に映っているのは、大好きな憧れの人の姿。
 相変わらず何故か着ている胡散臭い白衣に、冴えない分厚い眼鏡。
 だがその眼鏡の奥に見える瞳は穏やかな色を湛え、キラキラと輝いていた。
 始業の号令の後、大河内先生はふと視線を那奈に向ける。
 そしてにっこりと微笑んだ後、言った。
「数日間お休みをもらって、すみませんでした。もう体調も万全になりましたので、これからもよろしくお願いします。それでは、授業を始めます」
 そう言って大河内先生は、日本史の教科書を開く。
 那奈は楽しそうに授業を始めた先生の姿を見つめ、思わず涙腺が緩くなる。
 あんなに楽しそうに教壇に立つ先生の姿を見たのは、いつ以来だろうか。
 自分と喧嘩をしている時の先生の授業は、ただ教科書を読み進めるだけのものだった。
 だが、今自分の目の前で授業をする先生の姿は、生き生きとしている。
 そしてそれが、那奈の大好きな大河内先生の本来の姿なのである。
 心なしか瞳の潤んだ那奈に、隣の席の知美はふっと微笑む。
 少し前までは、あんなに日本史の授業中辛そうな顔をしていた那奈だったのに。
 今の那奈は、幸せそうな穏やかな表情を浮かべている。
 そして知美は、そんな那奈の腕をペンで突付いた。
 那奈は涙の溜まった瞳を慌てて擦った後、知美に目を向ける。
 それから知美のノートに書かれた文字に気がつき、にっこりと嬉しそうに微笑んだのだった。
 『よかったね、那奈』
 彼女のノートには、そのひとことだけが書かれてあった。
 那奈はそんな知美の心遣いに笑顔で大きく頷く。
 それから、再び教壇の先生に視線を戻した。
「1877年、西郷隆盛を盟主として士族の政府に対する反乱が起こりました。これが西南戦争と呼ばれるものであり、西南の役とも言われています。この戦争をもって、政府に対する武力の対抗は終焉を迎えたのですが……」
 耳に心地よく響く、最愛の人の声。
 那奈はそんな大河内先生の授業を聞きながら、何の変哲もない日常でありそれと同時に最高に幸せなこの時間をかみ締めるように、彼と同じキラキラと輝いている漆黒の瞳をふっと細めたのだった。


 ――その日の夕方。
 この日の職務を終えた大河内先生は愛車の青のフェラーリを車庫に止め、足早に高級マンションのエントランスを抜ける。
 それからエレベーターのボタンをじれったそうに連打し、自宅に向かった。
 那奈と喧嘩している間の先生は、自宅に帰ることが苦痛だった。
 ガチャッという無機質な鍵の音、そして真っ暗な室内。
 シンと静まり返っている部屋に帰ることが、その時の先生には耐えられなかったのだった。
 だが……今は、違う。
 いつものようにポケットからジャラジャラと鍵を取り出し、先生は自宅のドアを開ける。
 その瞬間、室内の暖かい空気をふわりと肌で感じた。
 目の前に広がった部屋の中は明るく、帰ってきた自分をあたたかく迎え入れてくれる。
 そして。
「大河内先生、お帰りなさい」
 漆黒の瞳に映る、恋人の嬉しそうな笑顔。
 先生は穏やかな笑みを浮かべ、彼女の言葉に答えた。
「ただいま、今宮さん」
 先に自分の部屋で待っていた那奈の頭を優しく撫で、先生は室内に足を踏み入れる。
 それからスッと眼鏡を外してポケットに入れ、ザッと前髪をかき上げた。
 そんな先生をちらりと見て、那奈はくすくすと笑う。
「やっぱり先生、忘れてる」
「あ? 忘れてるって、何をだよ」
 那奈のその言葉に、先生は首を傾げた。
 那奈は漆黒の髪を耳にそっとかけた後、こう先生に言ったのだった。
「先生、今日は何月何日?」
「今日? えっと、今日は……」
 そう呟いた先生はハッと顔を上げ、続ける。
「今日は、5月23日か」
「よくできました、今日は5月23日ですっ。ということで、お誕生日おめでとう先生!」
 那奈はそう言って、目の前の先生にぎゅっと抱きついた。
 先生はそんな那奈の身体を受け止め、ふっと微笑む。
「すっかり忘れてたぜ。ていうかおまえ、よく俺の誕生日覚えてたな」
「忘れるわけないでしょ、大好きな先生の誕生日だもん。先生が生まれてきて、本当によかったって思うもん……」
 那奈は先生の胸に身を任せ、彼のあたたかい体温を感じながらしみじみとそう呟いた。
 大河内先生はそんな彼女の頭を少し乱暴に撫で、笑う。
「もう28だからよ、誕生日を盛大に祝うような年でもねーけどな。でも……ありがとな」
 そう言って先生は、彼女にキスをしようと顔をゆっくりと近づけた。
 だが那奈は、慌ててそんな先生を制止する。
「あっ、先生っ! ちょっと待ってっ」
「あ? 何だよ?」
 思いがけない那奈の様子に、先生はきょとんとした表情を浮かべた。
 そんな先生に、少し恥ずかしそうに那奈は言ったのだった。
「今日は先生の誕生日だからね、私から先生にキスしてあげるの」
 そう言って那奈は、先生の首に腕を回す。
 そして漆黒の瞳を閉じ、自分の唇をそっと彼のものと重ねた。
 先生はその柔らかな唇を受けとめた後、もう一度彼女の身体を強く抱きしめる。
「サンキュー。最高の誕生日プレゼントだよ」
 そんな先生の言葉に照れたように耳まで真っ赤にさせながら、那奈は首を振る。
「先生、まだ先生のプレゼントは終わってないよ? 早くリビングに来て」
 自分の手を引っ張る那奈に促され、先生は言われたようにリビングへと向かった。
 そして、目の前の光景に瞳を細めた。
「おまえな、人んち勝手に飾りつけてるんじゃねーよ。小学生の誕生日パーティーじゃねーんだからよ」
 そう言いつつ、先生は愛しそうに隣にいる彼女の肩を自分の方へと引き寄せた。
 見慣れているはずのリビングは、簡単ではあるが可愛い飾りつけが施されており、その雰囲気を変えていた。
 そしてテーブルの上には、小振りのホール型のチョコレートケーキと綺麗に包装されたプレゼントが置かれている。
 那奈は急かすように先生をソファーに座らせ、彼に視線を向けた。
「先生、お誕生日おめでとう! このケーキね、手作りなんだ。プレゼントも早く開けてみて」
「すげーな、このケーキ手作りかよ。まぁケーキ食べる前に、まずプレゼントからだな」
 そう言って先生は、目の前のプレゼントを手に取った。
 そして几帳面に包装紙を外し、箱を開けた。
 那奈は先生の反応を探るように、じっと彼を見つめている。
 それから大河内先生は、箱の中身を取り出して漆黒の瞳を嬉しそうに細めた。
「おっ、ネクタイか?」
「うん。仕事中でも、私のこと近くで感じられるようにって」
 那奈のその言葉に、先生はふっと微笑む。
「ありがとな。ていうかよ、その職場におまえもいつもいるじゃねーかよ」
 それからスルリと今しているネクタイを外し、那奈からのプレゼントの青いネクタイを締める。
 そしてニッと笑い、言った。
「どうだ、似合うか? ま、俺は何でも似合うけどな」
「よく言うわねぇ、でもすごく似合ってるよ。先生の車の色とね、同じ色にしてみたんだよ? あ、ケーキも食べてみてっ」
 那奈は満足そうにそう言ってから、次に小振りのケーキにナイフを入れる。
 それを取り分けると、にっこりと微笑んでフォークを握った。
 そして。
「はい、先生。あーんっ」
 屈託のない笑顔でケーキを差し出す那奈に、先生は照れたように言った。
「なっ、ケーキくらい自分で食べれるってのっ」
「いいから。はい、あーんっ」
 ずいっと那奈に迫られ、先生はうっと言葉を失う。
 それから顔を真っ赤にさせつつ、パカッと口を開けたのだった。
「先生、美味しい?」
「ん? ああ、美味いよ。チョコレートケーキも大好きだからな」
 口をモゴモゴさせながらそう言う先生に、那奈はくすくすと笑う。
「先生ってお子ちゃまだから、きっとチョコレートケーキ好きだと思った」
「うるせー、笑うなっ。でもすごく美味しいぜ、サンキューな」
 それから先生は、ぐいっと那奈の身体を自分の胸に引き寄せた。
 そして……ゆっくりと那奈の唇に、文字通り甘い口づけをしたのだった。
 軽いキスの後、閉じていた漆黒の瞳を開いた那奈は頬を赤らめながら言った。
「ふふっ、先生のキス、チョコレートの味がする」
 先生はもう一度強く那奈を抱きしめた後、彼女のぬくもりを感じながら漆黒の瞳を細める。
 それから彼女の綺麗な黒髪を愛おしそうに撫でながら、心からこう言ったのだった。
「ありがとな、那奈……愛してるよ」
「うん、私も先生のこと大好き。愛してるよ、先生……」
 先生はそう言った那奈の顔を見て、そして笑った。
「バーカ。ったく、おまえはすぐ泣くんだからよ」
 ぽろぽろと零れる那奈の涙をそっと指で拭った後、ぽんっと彼女の頭を軽く叩く。
 そして先生は彼女の顎をふっと持ち上げ、もう一度那奈に甘いキスをしたのだった。
 那奈は涙で潤んだ瞳を先生に向けた後、にっこりと幸せそうに微笑む。
 それからふたりはお互いの愛を確かめ合うように、再び強く抱き合ったのだった。

 先生にとっての、最高の誕生日プレゼント。
 それは……自分だけに向けられた、那奈の幸せそうな笑顔。
 そしてふたりだけの、心が安らぐ穏やかな時間。


Spring Season -FIN-