SCENE7 魔女の白い真珠

 那奈と先生の仲に暗雲が立ち込めるきっかけとなったあの日から、1週間が経った。
 だがこの1週間、ふたりの間で交わされた会話は殆どなかった。
 それどころか、学校ですれ違っても目さえも合わせられない。
 逆に今のふたりにとって、日本史の授業はただの気まずい辛い時間でしかなくなっていた。
 この日の4時間目の授業もやはり、ぽかぽかと晴れた空とは裏腹にふたりの表情は浮かない。
「……少し早いですが、今日の授業はここまでにしておきます」
 いつもならチャイムがなる直前まで授業をする大河内先生は、そう言うと教科書を閉じる。
 そして終業の号令が終わると、すぐに2年Cクラスの教室を出て行った。
「…………」
 那奈は授業が終わって賑やかな声で溢れ出した教室で、ひとりぎゅっと唇を結んだ。
 先生の後姿を見送りもせず、その漆黒の瞳は伏せ目がちに下に向けられている。
 大人気ない自分の姿を正直に那奈に晒すことができないでいる先生と、そんな先生の心情を知らない那奈は、歩み寄りたくても歩み寄れない状態であった。
「那奈ちゃん、昼休みだね。お昼、食べようか」
 俯いて暗い顔をしている那奈の肩を軽くぽんっと叩き、悠は彼女に優しく声をかける。
 そんな悠の声に我に返り、那奈は少し無理をして作った笑みを彼に返す。
「うん、そうだね」
 悠はあの日以来、俯いてばかりの那奈の様子を複雑な表情で見守りながらも、先生の話は彼女と敢えてしなかった。
 話を聞かなくても、ふたりの態度を見ていれば今の状況は十分見て取れるからである。
 まだ仲直りという段階以前のふたりの様子に、悠はもう少しだけ機会を伺うことにしていた。
 そしていずれは、誰でもない自分が那奈の心の支えになりたいと悠は考えていたのだった。
 那奈はようやく日本史の教科書をしまい、昼食の準備を始める。
 それから漆黒の髪をかき上げ、大きく嘆息した。
 ……その時だった。
「那ー奈っ。今日は天気いいからさ、中庭でお弁当食べない? さ、行こっ」
 那奈の隣の席の知美はそう言って立ち上がると、彼女の手を促すように引く。
 那奈はそんな知美の言葉に驚いた表情を浮かべたが、強引な彼女につられて席を立った。
 それから知美はちらりと悠に視線を向け、手を振る。
「そーいうことで、今日のお昼は那奈のこと独占させてねー、悠くん」
「えっ?」
「あっ、ちょっと知美っ」
 那奈の荷物を手に取ると、知美はスタスタと教室を出て行った。
 那奈は一度だけ悠を振り返ったが、それから慌てて知美の後に続く。
 そんなふたりの後姿を黙って見守っていた悠は、ふと時計を見て何かを考える仕草をした。
 それから色素の薄い瞳を細め、そして彼もおもむろに教室を出て行ったのだった。
「知美、どうしたの? 急に中庭でお弁当なんて」
 ようやく知美に追いついた那奈は、突然の彼女の行動に首を傾げる。
 4時間目の日本史の授業が少し早めに終わったため、校舎はまだシンとしていた。
 そんな中、階段を下りて中庭に出た知美は周囲に誰もいないことを確認すると、ようやく口を開いた。
「あのね、那奈。那奈に聞きたいことあったんだ。でも教室じゃちょっと都合悪くて」
「聞きたいこと?」
 中庭に設置してあるベンチに座り、那奈は漆黒の瞳を知美に向ける。
 知美はそんな那奈に、こう聞いたのだった。
「那奈の彼氏ってさ、もしかしてアイちゃんなんじゃない?」
「えっ!? どうして、そのことっ……」
 知美の問いに思わずそう言ってしまった那奈は、ハッと表情を変えて慌てて口を噤む。
 だが時すでに遅く、そんな那奈の言葉を聞いて知美は確信したように小さく嘆息した。
「やっぱりそうなんだ。そうかなーって思ってたんだよねぇ」
「でも知美、何で分かったの?」
 言い訳しても無駄だと判断した那奈は観念したようにそう言って、風に揺れる漆黒の髪を手で押さえる。
 知美はふっと笑って答えた。
「だって那奈が彼氏と喧嘩したって言ってた日からさ、那奈のアイちゃんに対する態度ずっとおかしかったし、アイちゃんも何か最近いつもと様子違うし。あんたたち見てたらモロ分かるわよ」
「そっ、そんなに分かるかな?」
「ほかの人はどうか知らないけど、この知美さんにはバッチリ分かったわよぉっ」
 そう言って知美は、持っていたジュースを開けてひとくち飲んだ。
 それから改めて那奈に視線を戻し、言ったのだった。
「それで、何でアイちゃんと喧嘩しちゃったわけ? 最近の那奈ってば元気ないから、心配してるんだよ? もう喧嘩して1週間くらい経つよね」
 那奈はその知美の言葉を聞いて、ふっと顔を上げる。
 それから漆黒の瞳を潤め、知美に向けた。
「知美……私、どうしていいか分からないの……」
 今まで抑えていた気持ちが溢れ出し、それと同時に那奈の瞳からぽろぽろと涙が零れ始める。
 知美はそんな那奈の頭をぽんぽんっと撫でると、ふうっと苦笑した。
「アイちゃんってば、あれでいて罪な男ねぇっ。那奈みたいな可愛い女の子泣かせるなんてさ」
 泣き出した那奈を宥める知美の耳に、ようやく鳴り始めた4時間目の終業のチャイムが聞こえてくる。
 知美は泣いている那奈にハンカチを差し出し、もう一度彼女の頭を優しく撫でたのだった。
 ――4時間目の終業のチャイムが鳴り出した、その同じ時。
 悠は教室を出て、特別教室のある別館校舎へと足を運んでいた。
 そして。
「大河内先生」
 先に教室を出た大河内先生に追いつき、悠は彼に声をかける。
 先生はその声を聞いてふと表情を変えたが、足を止めて振り返った。
「何ですか、安西くん」
 言葉は相変わらず丁寧な学校バージョンのものだったが、もちろんそんな先生の顔にいつもの穏やかさはなかった。
 悠は先生を見て、ふうっと大きく溜め息をつく。
 それから育ちの良い整った顔に笑みを浮かべ、わざと柔らかな声で聞いた。
「先生、いつになったら那奈ちゃんと別れてくれるんですか?」
「……貴方には関係のないことでしょう?」
 悠の問いに答えず、眉を顰めて先生は再び歩き出そうとする。
 悠はそんな先生に向かって、言葉を続けた。
「いやいや。こうなったのって、僕にも十分関係あるんでしょう? ね、大河内先生」
「…………」
 ふっと眼鏡の奥の漆黒の瞳を向けて、先生は悠の言葉に再び立ち止まる。
 悠は、さらにたたみかけるように口を開いた。
「これ以上貴方と付き合ってても、那奈ちゃんは幸せになりません。言いましたよね、僕は誰よりも彼女を幸せにする自信がある、と。早く彼女と別れてくれませんか?」
 その言葉を聞いて、先生はキッと視線を悠に投げる。
 そして溢れ出した怒りを抑えきれず、思わず悠の胸倉をガッと掴んだ。
「こうなったのも、誰のせいだと……っ!」
 学校バージョンの先生とは思えない彼の険しいその表情を見た悠は、慌てることもなくふっと口元に笑みを浮かべる。
 それから掴まれた手をバッと振り払い、言ったのだった。
「こういう状況になったのを僕のせいにしないくださいよ、大河内先生。先生の自業自得なんじゃないですか?」
 自分に鋭い視線を投げる先生に、悠は負けじと目を向ける。
 それからうって変わって、にっこりと笑顔を作った。
「じゃあ先生、これで失礼します」
 それだけ言って先生に背を向け、悠は歩き出す。
「…………」
 先生はぐっと唇を噛み締め、悠とは逆に進路を取って歩き始めた。
 悠の挑戦的な態度に苛立ちつつも、彼に言われたことが頭の中から離れない。
 確かに那奈と気まずくなったきっかけは、悠の行動にあるかもしれない。
 だがこういう状況になったのは、誰でもない自分のせいなのだ。
 自分の大人気ない言動が、1週間経った今でも彼女と正直に向き合えない理由なのも分かっていた。
 そうは分かっていても、まだどうすべきなのか気持ちの整理がつかない先生は、今はまだ那奈と冷静に向き合える心境ではなかったのである。
 先生は眼鏡の奥の瞳を伏せて大きく溜め息をつき、そして漆黒の前髪をそっとかき上げたのだった。


 ――その日の夜。
 都内の高級マンションの一室で、先生は何本目か分からないビールの缶を開ける。
 いつもなら愛用のビアカップに注いでビールを飲む先生だったが、今日はもうそんなことを悠長にしている心境ではなかった。
 ゴクゴクとビールを缶のまま飲んだ後、先生はガンッとテーブルを叩く。
「んだよ、みんなで余計な説教しやがってよ……分かってるってんだよっ」
 何もかも忘れて、酔っ払ってしまいたい。
 そんな気持ちとは裏腹に、考えれば考えるほど深みに嵌っている今の現状。
 先生は大きく溜め息をつき、今日の放課後あったある出来事を思い出していた。
 ――この日の放課後。
 那奈と険悪になってからのここ数日、仕事をバリバリする気にもなれなかった先生は、早々に家路に着こうと職員室を出た。
 まだ時間も遅くないため、運動場で部活動に勤しむ運動部員の掛け声が耳に入ってくる。
 そして窓の外は、春の爽やかな青空が広がっていた。
 だがそんな清々しい風景とは逆に、先生の心はどんよりとしていて全く晴れ間が見えなかった。
 この1週間、恋人である那奈とはろくに言葉を交わしてさえいない。
 付き合う前から考えても、こんなに彼女と話をしなかったことはないのではないか。
 そう、先生が思った……その時だった。
「あの、大河内先生」
 ふと呼び止められ、先生は顔を上げる。
 そして声の主を確認すると、意外そうな表情を浮かべた。
 目の前にいたのは、那奈の友人の竹内知美という生徒であった。
 肩までの少し癖のあるウェーブがかった茶色いふわふわの髪に、いかにも今時の女子高生風な短いスカート。
 あまり彼女とは話をしたことはなかったが、那奈とは対称的なミーハーな印象を先生は持っていた。
 知美は周囲に人がいないことを確認すると、不思議そうな顔をしている先生に言った。
「今日那奈から、先生との関係を聞きました。あの子見てて、そうじゃないかなぁとは前から思ってたんですけど」
「……え?」
 先生は知美の言葉に、眼鏡の奥の漆黒の瞳を驚いたように見開く。
 知美はそんな先生の反応にも構わず、言葉を続けた。
「どうして喧嘩になったのかもちょっとだけ聞いたんですけど……最近のあの子、友人として見ていられません。あの子も、自分に非があるのなら改めたいって今日も泣いてました。あの子が何かしたのかもしれないけど、何も理由言わない先生もずるいと思います。先生の下手な意地やプライドでこれ以上那奈のことを傷つけるのなら、いっそあの子と別れてください」
 知美ははっきりと、そして一気にそう言った。
 それからぺこりと一礼し、先生に背を向けて歩き出したのだった。
 大河内先生はそんな知美に何も言えず、しばらくその場で立ち尽くしたまま彼女の後姿を見送ることしかできなかったのだった。
「分かってるっつーのっ、俺のちっぽけなプライドなんて、捨てちまえばいいってこともよっ。でも、言えるかって……めちゃめちゃ嫉妬して、我慢できねーなんてよ」
 そう言って大河内先生は、ぐびぐびとビールを煽った。
 それから頭を抱えるようにテーブルに肘を立て、大きく溜め息をつく。
 そして、ぽつんと呟いたのだった。
「あいつ、今日も泣いてたんだな……」
 漆黒の瞳いっぱいに涙を溜めている那奈の顔を思い浮かべ、先生はさらに自己嫌悪に陥る。
 それと同時に、那奈が自分のすぐ隣で楽しそうに笑っていた日々が、かなり昔のことのように感じた。
 そして残っているビールを一気に飲み干し、空き缶を投げるようにテーブルに置いた。
 ……その時だった。
 突然カチャッという金属音がシンとした広い部屋に響き、先生はハッと顔を上げる。
 もしかして、那奈が部屋を訪ねてきたのかもしれない。
 そんな微かな望みを抱いて、先生は玄関に足を向ける。
 そして、おもむろに開いたドアの向こうから現れたのは……。
「アイちゃーんっ、はぁいっ」
「何だよ、おまえかよ……ていうか、勝手に人んちに入ってきてんじゃねーよっ。住居侵入罪で訴えて勝つぞって言ってんだろーがよっ」
 ガクリと肩を落とす先生に、突然尋ねてきた先生の姉・森崎香夜はふふっと笑う。
「本当はお姉様に会えて嬉しいくせにーっ。あ、言っとくけど、訴えたら返り討ちにしちゃうぞーっ」
 そう言って笑い、香夜はスタスタと先生の家に上がりこんだ。
 そんな姉の相変わらずな様子に大きく嘆息し、先生はリビングに戻る。
「何しに来たんだよ、今日はおまえの暇つぶしに付き合えるような心境じゃねーんだよ」
「何って、今日旦那の会社の社員の身内に不幸があってお通夜に行ってきたんだけど、帰りにこの近く通ったから寄ったのよぉっ」
 いつも派手な衣装である香夜にしては珍しく、この日の彼女はシンプルで質素な真っ黒のワンピースに真っ白な真珠のネックレスをつけていた。
 先生はドカッとソファーに座ると、呆れたようにじろっと姉に目を向ける。
「つーか、さっさと帰れよなっ。むしろ、勝手に作りやがった合鍵返せっ」
 先生のそんな言葉が聞こえないかのように、ふと香夜は小首を傾げた。
 そして、先生と同じ漆黒の前髪をかき上げる。
「んー、アイちゃんちに寄ったらドロシーちゃんにも会えるかなーって思ったんだけどさぁ……」
 テーブルに無造作に置かれているビールの空き缶を見て香夜はニッと笑い、それからこう言葉を続けたのだった。
「ふーん、那奈ちゃんと喧嘩して自棄酒してんだぁっ、きゃははっ」
「きゃははっ、じゃねーよっ! ぶっ飛ばされたくなかったら、10秒以内に帰れっ!」
「それで、何があったのぉ? お姉ちゃんがじーっくり聞いてあげるからっ」
 先生の言葉に全く構わず、香夜はストンと近くの椅子に座る。
「日本語ちゃんと理解しろっ、俺は10秒以内に帰れって言ったんだよっ」
「それで、何で喧嘩したの? あ、強引にガバッて襲っちゃって拒否られたとか? やだぁ、アイちゃんってばぁっ」
「おまえなっ、マジでぶっ飛ばすぞっ!? んなコトじゃねーよっ」
 はあっと溜め息をつき、先生は頭を抱える。
 だが姉の性格をよく分かってる先生は、これ以上何を言っても香夜は絶対に帰らないだろうと諦めて口を噤む。
 それからちらりと香夜に漆黒の瞳を向け、ゆっくりと素直に口を開いたのだった。
「ったくよ……事の発端は、1週間前のことなんだけどよ」
 香夜が性格的に那奈との喧嘩の理由を聞くまで帰らないだろうということもあったが、それ以上に先生は誰かに話を聞いてもらいたかったのである。
 先生は悠のことや額のキスのこと、そして今の自分の心境を姉に話した。
 そんな先生の話をすべて聞いた後、香夜はうーんと何かを考える仕草をする。
 そして、美人な顔に微笑みを浮かべて言った。
「ねぇ、アイちゃん。那奈ちゃんの大好きなオズシリーズでさ、魔法の白い真珠が出てきたのって知ってるぅ?」
「……は?」
 今まで自分がした話と全く関係のない姉の言葉に、先生は眉間にしわを寄せる。
 香夜はふっと笑って胸の真珠のネックレスを指で摘み、構わずに言葉を続けた。
「魔法の白い真珠はね、常に適切な助言を与えてくれるってものなのよぉ。だから、よぉーく今からお姉様が言うコト、聞くのよ?」
 そこまで言って、香夜はおもむろに立ち上がる。
 それからスタスタと先生の近くにやってきた。
 そして、次の瞬間。
「……っ! おまえっ、何しやがるんだよっ!?」
 バシンと大きな音がしたかと思うと、先生は思わず声を上げる。
 ……香夜の平手が、突然先生の頬に思い切り炸裂したのだった。
 じろっと自分に視線を投げる弟に、香夜はふうっと大きく嘆息する。
 それからソファーに座っている先生の胸倉をグイッと掴み、ザッと弟と同じ色の漆黒の前髪をかき上げて言い放ったのだった。
「あ? 何しやがるじゃねーよっ、ウジウジしてんじゃねーつってんだよ、男だろ!? そんなんじゃ那奈ちゃんに愛想つかされて当然だ、ボケッ! ちっちゃいコトでガタガタ言いやがって、それでもこの私の弟かっ」
「なっ……」
 突然の姉の言葉に、先生はきょとんとする。
 香夜は胸倉を掴んでいた手を離してドンッと先生の身体を突き飛ばし、もう一度溜め息をついた。
 先生は押された反動で再びソファーに座り、瞳をぱちくりさせる。
 香夜はそんな弟に凄みのある視線を向け、続けた。
「確かに那奈ちゃんにもちょっと軽率なところもあるけど、その那奈ちゃんの友達って子の言う通り、彼女に何も言わないのはずるいわよ、アイちゃん。このままズルズル引きずるくらいなら、スッパリ別れなさいっ。それがイヤだったら、ちゃんと自分の気持ちを言えっつーの! 今のままの方がよっぽど格好悪いわよ、アイちゃん」
「うるせーなっ、んなコトおまえに言われなくたって分かってるんだよっ」
「じゃあ、いつまでもウジウジしてんじゃねーよっ、分かった!?」
 ずいっと指を指され、先生はその迫力に負けて言葉を詰まらせる。
 それからテーブルに頬杖をつき、姉からふいっと視線を逸らした。
 香夜はストンと再び椅子に座って綺麗な長い足を組んだ後、先程とはうって変わって美人な顔ににっこりと微笑みを浮かべる。
 そして、きゃははっといつも通り無邪気に笑い声を上げて言った。
「アイちゃんってば、悩んでる顔もハンサムなんだからぁっ。お姉様の言うコト聞いて、早くドロシーちゃんと元通り仲良くしなさいよぉっ」
「その弟のハンサムな顔を思いっきり引っ叩きやがったのは、どこのどいつだってんだよ」
 むうっと面白くなさそうな表情を浮かべ、先生はわざとらしく嘆息する。
 香夜はそんな先生の様子を気にもせず、それからふっと笑った。
「でも、殴られてちょっとスッキリしたでしょ? アイちゃんに愛のムチよぉっ、なーんちゃってぇっ」
「全然面白くもなんともねぇよっ。くだらねーこと言ってんじゃねーぞ、コラ」
 そう言いつつも、そんな先生の表情は、先程と比べて少しだけ明るさを取り戻していた。
 今までひとりで悶々と考えていたことを話せただけ、少しだけ心が軽くなった気がしたのである。
 それから何かを考えるように漆黒の瞳を伏せ、先生はぽつりと呟いた。
「自分の気持ちを、素直に……か」
 そして先生のその言葉を聞いて、香夜は胸の白い真珠をそっと触りながらにっこりと微笑んだのだった。