SCENE6 つむじまがりの魔術師

 ――その日の夕方。
 大河内先生の運転する青のフェラーリはその時、賑やかになり始めた夕方の繁華街を走っていた。
 この日の学校の職務も終わり、先生は帰路についている途中なのであるが……。
「…………」
 先生は眼鏡の奥の綺麗な漆黒の瞳を伏せ、大きく溜め息をつく。
 ……もう、この道を通ったのはこれで何度目だろうか。
 仕事が終わったのは、小1時間程前。
 普段なら、学校から20分もあればとっくに自宅に着いている。
 だがこの日の彼は、自宅に帰るのを躊躇っていた。
 なかなか自宅へ進路を取ることができず、今まで同じ道をずっとグルグルと回っていたのである。
 その理由は……。
「きっと、もう家にいるでしょうね……」
 いつものように家で夕食を作って自分のことを待っているだろう恋人の姿が思い浮かび、先生は複雑な表情を浮かべた。
 それと同時に、昼に見てしまったあの出来事がどうしても頭から離れない。
 自分の恋人である那奈の額にキスをする、悠の姿。
 少し距離があったため、ふたりが何を話していたかまでは聞こえなかった。
 はじめは悠にキスをされて驚いた顔をしていた那奈であるが、そんな悠の行為に嫌がる態度も怒った様子もなかったのである。
 しかも那奈は自分がいることに全く気がついていなかったが、悠はキスをする前からすでに自分が見ていることを知っていた。
 それを分かっていて、彼はわざとあんなことをやってのけたのである。
 キスを目撃して唖然としている自分に、悠はどうだといった表情を浮かべていた。
 それが余計に腹立たしかったのである。
 あの時、場所が学校でなければ、そして自分が教師という立場でなければ、きっと悠の胸倉を掴んで彼を殴っていたかもしれない。
 だがそれも許されず、先生の嫉妬心は膨らむ一方であった。
 先生は深く嘆息し、ちらりと時計を見る。
 それから信号に引っかかったため、ブレーキを踏んだ。
 ……その時。
 おもむろに先生の携帯電話が鳴り、メールの着信を知らせる。
 先生は携帯を手にし、受信したメールを確認した。
 そして、もう一度大きな溜め息をついたのだった。
『お仕事、終わりましたか? もう先生の家でごはん作ってます。待ってるね! 那奈』
 他の男とキスしたにも関わらず、いつもと変わらない那奈からのメール。
 そんな恋人の考えていることが分からず、先生はますますどうしていいか分からない表情を浮かべた。
 だがこのまま数時間、あてもなく車を走らせてもきっと何も変わらない。
 そう腹を括り、先生はようやく自宅に向けて進路を取り始めた。
「どうするにせよ、帰らないわけにはいきませんからね……」
 自分に言い聞かせるようにそう呟いた後、先生は青のフェラーリのアクセルをグッと強く踏んだのだった。
 ――同じ時。
 そんな先生の心境など知る由もない那奈は、グツグツと煮込んでいるクリームシチューの味見をして満足そうに小さく頷いた。
「先生ってば、食べたいもの聞いてもいつもカレーかシチューしか言わないんだから」
 食べ物の好みが小学生のような恋人のことを思い出し、那奈はくすくすと笑う。
 それからシチューをかけている火を少し弱め、エプロンを外しながら時計を見た。
「それにしても先生、今日遅いな……」
 そう呟き、那奈はリビングに置いている自分のカバンから携帯電話を取り出す。
 そして携帯を開き、不在着信も未読メールもないことを確認すると小首を傾げた。
 いつもなら、帰ってくる時に電話かメールで連絡があるはずなのに。
 今日は何か特別な会議が入っているなど、そういうことも聞いていない。
 電話してみようかとも思った那奈だったが、周囲に内緒で付き合っているため、まだ先生が学校にいたら都合が悪い。
 そう思い、那奈は彼が帰ってくるまでの時間潰しにと買っておいたファッション雑誌を開いた。
 ……その時。
 那奈の携帯が、誰かからの着信を知らせる。
 先生からの着信かと急いで携帯を手に取った那奈だったが、電話をかけてきた相手を確認して一息おく。
 それから気を取り直し、通話ボタンを押した。
「もしもし?」
『あ、那奈ちゃん。僕だけど』
 電話の相手・悠は、相変わらず優しい声で那奈にそう言った。
 そして少し間を取り、遠慮気味に言葉を続ける。
『先生と一緒かなって思ったんだけど、今話しても大丈夫かな?』
「うん。まだ先生帰ってきてないから、大丈夫だよ」
『まだ帰ってきてない……そっか』
 那奈のその言葉から彼女が今先生の家にいることを察した悠は、少し複雑そうな声でそう呟いた。
 だが、すぐに気を取り直したようにいつも通りの声で話を続ける。
『明日の数学の小テストの範囲なんだけど、この前のところから10ページ分だったよね?』
「あ、確かそうだったと思うよ。ちょっと待ってね、手帳に書いてたから見てみる……」
 携帯を肩に挟み、那奈はカバンから手帳を取り出して開いた。
「うん、この間の続きから10ページ分が範囲だよ。明日って数学5時間目だったよね、点数悪かったら鳴海先生コワイし、勉強しとかなきゃね」
『そうだね、昼休みに最後の追い込みもしないとね』
 ……そんなことをしばらく電話越しに話していたふたりだったが。
 おもむろにガチャッと微かな金属音がして、那奈は電話を耳に当てたまま立ち上がる。
 そして玄関に漆黒の瞳を向け、嬉しそうに細めた。
 恋人である大河内先生が、ようやく帰って来たのである。
「ごめん、悠くん。先生今帰ってきたから……うん、じゃあまた明日ね」
 そう言って那奈は、ピッと電話を切った。
 玄関で靴を脱いでいた先生は、そんな那奈の言葉に思わず眉を顰める。
「悠くんって……安西くん、ですよね」
 眼鏡をかけたままの学校バージョンの先生にしては珍しく、怪訝な表情をしている彼の様子に気がついた那奈は首を傾げた。
「ええ、そうですけど。先生、どうしたんですか?」
「…………」
 那奈の問いには答えず、先生は無言でツカツカと玄関からリビングに足を運ぶ。
 那奈は先生の態度にもう一度首を捻った後、再びエプロンをつけた。
「今日は少し遅かったんですね。急に会議とか入ったんですか? あ、今夕食の準備しますから」
「……今宮さん」
 先生はおもむろにキッチンに入っていこうとする那奈を呼び止める。
 那奈は足を止め、先生に漆黒の瞳を向けた。
 そんな那奈を何故か真っ直ぐに見ることができず、先生はふと俯く。
 それから、ゆっくりとこう言ったのだった。
「すみませんが、今日は帰ってくれませんか」
「……え?」
 思いがけないその言葉に、那奈は驚いた表情を浮かべる。
 先生は大きく嘆息し、もう一度口を開いた。
「今宮さん、今日はもう帰ってください」
「どうしたんですか? 何かあったんですか、先生……」
 先生はスッと眼鏡を外し、心配そうに自分に駆け寄る那奈に視線を向ける。
 そして、グッと拳を握り締めて怒鳴った。
「とにかく、今すぐ帰れって言ってんだよっ!」
「先生!? 何でっ、どうして?」
「どうしてって……」
 途端に先生の脳裏に、悠にキスをされている那奈の姿が蘇る。
 それを振り払うように首を左右に振った後、鬱陶しそうにザッと前髪をかき上げて先生は言い放ったのだった。
「どうしてもこうしてもねーよっ、今日は帰ってくれっ!」
「理由言ってよ、どうして!?」
「言わなきゃ分かんねーのかっ!? ていうか、言いたくもねーよっ!」
 自分の腕を掴む那奈の手を振り払い、先生は彼女から視線を逸らす。
 那奈は漆黒の瞳いっぱいに涙を溜めながらも、キッと先生を見た。
「分かんないよ、言ってくれなきゃ! 私が何かしたのなら、そう言ってよっ」
「言いたくねーって言ってんだろっ!? くそっ、今日はとにかく帰れっ!」
 ダンッと思い切り拳で壁を叩き、先生は那奈に背を向ける。
 那奈は堪らずにポロポロと涙を零しながら、カバンと上着を手に取った。
 そしてエプロンを外して先生に投げつけ、バタバタと部屋を出て行く。
 バタンッと乱暴にドアの閉まる音を背中で聞きながら、先生は唇を噛み締めた。
「言えるわけねーだろ……くそっ」
 吐き捨てるようにそう呟き、先生は漆黒の瞳をぎゅっと瞑る。
 自分が昼の出来事を実は見ていたということも言いたくなかったし、それにこんなに悠に嫉妬している自分の姿をこれ以上那奈に見られたくなかったのである。
 そして何で自分がこんなに怒っているのか、全く心当たりのないような那奈の様子にも腹が立っていた。
 しかもよりによって、彼女は自分が帰ってくるまで悠と楽しそうに電話で話していた。
 那奈のそんな態度に苛立ちつつも、それ以上に大人気なく彼女を怒鳴りつけてしまった自分に、先生は大きな嫌悪感を抱いていた。
 そして彼女の作った美味しそうなシチューの匂いのする中、先生はもう一度拳を握り締め、それを思い切り壁に叩き付けたのだった。


 先生の部屋を飛び出した那奈は、ポロポロと流れる涙を拭いもせずにすっかり暗くなった街を俯きながら歩いていた。
 どうして先生があんなに怒り出したのか、那奈には全く思い当たらなかった。
 今日のキスのこともただのおまじない程度にしか思っていない上に、先生がそれを見ていたことを知らないこの時の那奈は、悠にキスされたことさえ忘れていたのである。
 昨日までは、あんなにふたりで楽しい時間を過ごしていたのに。
 さっきの先生は、自分のことを真っ直ぐ見てもくれなかった。
「言ってくれなきゃ……分かんないよ」
 自分に非があるのなら、謝って改善するのに。
 何も言ってくれないのなら、何で怒っているのかも分からない。
「先生……分からないよ、先生が今、何を考えてるのか……」
 那奈がそう呟いて、首を大きく振った……その時だった。
 ポケットに入れていた携帯電話がおもむろに鳴り出し、着信を知らせる。
 那奈はハッと顔を上げ、急いで受話ボタンを押して耳に当てた。
「先生っ!?」
『……え? 那奈ちゃん、どうしたの?』
 彼女の耳に聞こえてきたのは、恋人の声ではなかった。
 那奈はぐいっと涙を拭った後、ぽつんと口を開く。
「あ……悠くん」
『明日のことでもうひとつ聞き忘れたことがあって、電話したんだけど……那奈ちゃん、何かあったの?』
「…………」
 そんな悠の声を聞いて、那奈は再びポロポロと涙を流し始める。
 電話の向こうで那奈が泣いていることに気がついた悠は、優しく言葉を続けた。
『那奈ちゃん、今どこにいるの? 大丈夫?』
「今は、先生の家の近くなんだけど……今から、帰るところ……」
 途切れ途切れ、那奈はそう答えるのがやっとであった。
 悠は少し考えた後、言った。
『僕でよかったら迎えに行くよ。大丈夫? 今、どこ?』
「ごめんね、悠くん……でも家の近くの駅までは、自分で帰って来れるから……」
『謝らないで、那奈ちゃん。じゃあ、駅で待ってるから。無理だったら今いるところまで迎えに行っても構わないから、その時は遠慮なく電話して』
 那奈は何も言葉が出ず、そんな悠の言葉に頷くことしかできなかった。
 それから電話を切り、那奈はゆっくりと地下鉄の駅へと歩き出す。
 悠が電話してきてくれなかったらこのままどこに歩いて行っていたか分からないほど、那奈は精神的にショックを受けていた。
 あんな先生の姿、今まで見たことがない。
 しかも、どうして彼が怒っているのかも分からない。
 軽く頭痛のする頭を抱えるように額に手を当て、那奈は地下鉄の階段を下り始める。
 それから、自分がいつ電車に乗っていつ電車を降りたかすらも分からないくらいいっぱいいっぱいのまま、那奈は家の近くの駅へと到着した。
 そして改札で待っていた悠は、那奈の姿を見つけて彼女に駆け寄る。
「那奈ちゃん……大丈夫?」
「悠くん……私、もうどうしたらいいのか……」
 そう言った那奈の瞳から、再び涙が溢れ出した。
 悠は優しく彼女の肩を抱き、乱れた漆黒の髪を手櫛で整える。
 それから彼女を支え、ゆっくりと地下鉄の階段を上り始めた。
 那奈に歩調を合わせて地下鉄の駅から地上に出た悠はふと周囲を見回し、そして駅の近くの公園へと足を運ぶ。
 まだひっくひっくと小さな声を出して泣いている彼女をベンチへ座らせると、悠はそばにあった自動販売機でお茶を買った。
 そして彼女の隣に座って背中を優しく擦り、買ってきたお茶を那奈に手渡す。
「飲み物でも飲んで落ち着いて。大丈夫だよ、僕がそばにいるから」
「悠くん……」
 那奈は、ふっと涙の溜まった瞳を悠に向けた。
 自分を見つめる彼女の潤んだ視線にドキッとしながらも、悠は何も言わずに彼女の頭を撫でる。
 そして那奈の頬を伝う涙を優しく指で拭った後、彼女を自分の胸に引き寄せた。
 悠の温かい体温を感じ、那奈は堪えられないように彼に身体を預けて再び泣き出したのだった。
「…………」
 悠は自分の胸の中で泣いている那奈を、複雑な表情で見つめる。
 何も聞かなくても、悠には那奈の泣いている理由が分かっていた。
 恋人である大河内先生と、喧嘩になったのだろう。
 そしてその原因は、今日の昼の自分の行為にあるのだということも。
 那奈は悠の胸の中に身体を預けたまま、ぽつりと呟いた。
「帰って来てすぐ、先生、私に帰れって……先生の考えてることが分かんない……言ってくれなきゃ、分かんないよ……」
「那奈ちゃん……」
 彼女の頭を撫でながら、そんな彼女の言葉を聞いて悠はすべてを察した。
 先生は自分が那奈にキスをしている場面を見たことを、彼女には言っていないようである。
 いや、正確には言えなかったのだろう。
 他の男に恋人がキスされている姿を見てめちゃめちゃ嫉妬しているなんて、あのプライドの高そうな先生が正直に言えるとは思えない。
 きっと怒っている理由も言わず、自分の感情を彼女にぶつけたのだろう。
 だが……それも、悠の思惑通りである。
 悠はあの時、わざと大河内先生がいそうな社会科準備室の近くを通って那奈と書道教室に向かった。
 そして予想通り、その場を通りかかった先生の姿を確認して、あの行動を起こしたのである。
 少し揺さぶりをかけて先生がどうでるか様子を見ようと思っていたが、こうも早く反応があるとは。
 大河内先生はあれでいてかなり嫉妬深い性格なのだと思いつつも、悠はまだ泣き止まない那奈を見て少し罪悪感も感じていた。
 だが、その分……これからは、自分が彼女を幸せにしたいと悠は強く思ったのだった。
「……っ、ごめんね、悠くん……ごめんね……」
「謝らないでいいよ、那奈ちゃん。僕は全然構わないから」
 謝る那奈に優しくそう声をかけ、悠はそっと彼女の頭に手を添える。
 それからゆっくりと那奈の背中に腕を回し、ぎゅっと彼女の小さな身体を抱きしめたのだった。