SCENE5 額の印

 すっかり暖かくなり、始業式の時満開だった桜も今は葉桜になっている。
 そんな春風が爽やかに頬を撫でる、気持ちのよい日の朝。
 家がすぐ近くのため一緒に登校していた那奈と悠は、学校の校門をくぐった。
 悠は自分の隣を歩く那奈に優しい視線を向けて、満足そうに微笑む。
「那奈ちゃん、今日の鳴海先生の数学の課題やってきた?」
「一応やってきたんだけど鳴海先生の課題って難しいでしょ、何問か分からないところがあって。あ、悠くん数学得意だよね、学校着いたら教えてくれないかな」
 悠は那奈の言葉に、にっこりと微笑んで頷く。
「うん、僕で分かるところなら喜んで」
「ありがとう、悠くん」
 那奈の綺麗な瞳が自分の姿を映し、嬉しそうにふっと細くなる。
 悠はそんな彼女に応えるように優しく笑顔を返した。
 ――悠が大河内先生に宣戦布告をして、数日。
 一見表向きには、何事もない平和な日が続いている。
 少なくても、悠の宣戦布告のこと、そして悠の自分への想いを知らない那奈にとっては、なのだが。
 那奈の知らないところでは、静かに男たちの戦いが繰り広がられていたのである。
 靴箱で靴を履き替えた那奈は、悠と楽しく話をしながら2年Cクラスの教室へと向かう。
 そして、すれ違う同級生たちに軽く朝の挨拶をしながら階段を上っていた。
 ……その時。
 ふと顔を上げ、おもむろに那奈はその顔に笑顔を浮かべる。
 そんな彼女の視線の先には。
「大河内先生、おはようございます」
 立ち止まって、那奈は正面から歩いてきた大河内先生に軽く頭を下げる。
 先生は那奈を見つめて眼鏡の奥の瞳を細め、いつも通り柔らかな声で答えた。
「おはようございます、今宮さん」
「…………」
 悠は本当に嬉しそうな顔をしている那奈の顔を見て少し複雑な表情をしたが、すぐさま気を取り直し、大河内先生に視線を向ける。
 それから育ちの良い端正な容姿に作り笑顔を浮かべ、言った。
「おはようございます、大河内先生」
「……おはようございます、安西くん」
 先生も穏やかな姿勢を崩さず、言葉を返す。
 悠はふっとそんな先生から視線を外し、そして那奈に目を向けた。
「さ、教室に行こう。那奈ちゃん」
「うん」
 那奈は悠の言葉に頷いた後、もう一度ぺこりと先生に一礼する。
 それから促す悠に続いて教室へと歩き出した。
「…………」
 先生は一瞬だけ、ちらりとふたりを振り返る。
 そして小さく溜め息をつき、再び彼女たちとは逆に階段を下り始めた。
 宣戦布告されて以来、先生は彼のことを強く意識するようになっていた。
 だが、自分がそのことを過度に気にしていることを誰にも知られたくなかったし、まして那奈は悠が自分のことを好きだということに気がついていない。
 そんな那奈に、悠に宣戦布告されたなんて言えるはずがなかった。
 那奈に対する気持ちは、絶対に誰にも負けていない。
 そう自信を持って思っている先生ではあったが。
 学校では、圧倒的に教師である自分よりもクラスメイトの悠の方が那奈と一緒にいる時間が多い。
 正直先生は、ふたりが仲良く一緒にいるのを見るだけで、隠してはいるが強い嫉妬心を感じていたのである。
 そして妙に自信満々な悠の態度も、先生の不安を煽る要素になっていた。
 ……それに加えて。
「あんたのAクラスって、蒼井くんとか瀬崎くんとかカッコイイ人多いよねぇ。羨ましいよ」
 先生と同じく職員室へ向かっているのだろう女生徒たちが、楽しそうに噂話をしているのが耳に入る。
 そう言われた女生徒のひとりは、きゃっきゃっとはしゃぎながらこう続けたのだった。
「そうなのよねぇっ。でもそういうあんたのCクラスだって、カッコイイ転校生来たみたいじゃない。かっこいい上に、頭もいいんだってね。外国帰りだし、憧れちゃうよねぇっ」
 先生は後ろから彼女たちのそんな話を聞き、思わず苦笑する。
 容姿端麗で成績優秀、その上に育ちの良さそうな柔らかな印象。
 いわゆる悠は、絵に描いたようないい男なのである。
 先生はふっと漆黒の瞳を伏せた後、まだ噂話に興じている女生徒たちを追い抜いた。
 それからすっかり悠のペースに巻き込まれている自分に、大きく溜め息をついたのだった。
 その頃――2年Cクラスの教室。
「那奈っ、おはよーっ」
「おはよう、知美」
 ぎゅっといつものように後ろから抱き付いてきた知美に微笑み、那奈はカバンを机の上に置いた。
 知美はそんなカバンから出てきたものを見て、ふと首を傾げる。
 それから、那奈に聞いたのだった。
「ねぇ、那奈。このストラップ、前からつけてたっけ?」
 那奈の携帯電話を手に取り、知美はビーズのストラップを指で摘んだ。
 那奈はそんな知美の言葉に頬を緩め、彼女の問いに答える。
「あ、それね、彼氏と色違いでこの間買ったんだ。綺麗でしょ、そのストラップ」
「へーえ、彼氏とお揃い? ラブラブねぇっ」
 冷やかすように肘で那奈を突付き、知美は笑った。
 それからふうっとわざとらしく嘆息し、続ける。
「それよりも、いつ彼氏の写真見せてくれるの? プリクラとかでもいいからさぁ」
「えっ? あ、うん……そのうち、ね」
 誤魔化すように笑い、那奈は漆黒の髪をそっとかき上げた。
 あの大河内先生が那奈の恋人であることを知らない知美はさらに口を開く。
「その彼氏のこと、そういえばまだ詳しく聞いてないよぉ。今更秘密主義なんて、私たちの仲なんだからナシよ?」
 那奈はどう答えていいか分からない様子で、うーんと考える仕草をする。
 教師と生徒という関係上、ふたりが恋人同士だということを知られるわけにはいかないからである。
 ……その時だった。
 そんな困ったような彼女をちらりと見てから、悠は知美に目を向けた。
「あ、知美ちゃん。昨日言ってた英語のノートなんだけど、見る?」
 困っている那奈に助け舟を出すように、悠は知美に微笑んで自分の英語のノートを手渡す。
「あっ、ありがとう、見る見る! 今日の英語、私あたりそうなんだよねぇ。悠くんってアメリカ行ってただけあって、英語ペラペラなんでしょ? すごいよねぇ」
 パッと表情を変えて手を合わせた後、知美は悠の差し出した英語のノートを受け取った。
 そして席に戻り、彼の英語のノートを写し始める。
 那奈はそんな彼女の姿を見て質問から逃げられたことにホッと胸を撫で下ろし、それから悠に目を向けた。
 そんな視線に気がつき、悠はにっこりと彼女に微笑む。
 そして那奈は悠のさり気ない気遣いに感謝しながら、彼に笑顔を返したのだった。


 ――その日の昼休み。
「那奈ちゃん、教室移動しようか」
「うん、そうだね。次は書道だから書道教室だもんね」
 昼食を取り終わって次の書道の準備をしながら、那奈は悠の言葉に頷いた。
「じゃあ私の選択は音楽だから、お先にーっ」
 芸術科目の選択が書道のふたりは、そう言って教室を出て行く音楽選択の知美に手を振る。
 それから知美に少し遅れて、那奈と悠も2年Cクラスを出て書道教室へと向かった。
 特別教室のある別館校舎は、教室のある本館から少し離れた場所にある。
 昼休みで賑やかな本館を通り過ぎて、ふたりは別館校舎へと足を運んだ。
 生徒たちの声で溢れていた本館とは違い、まだ少し昼の授業開始時刻より早い別館校舎は静かであった。
 悠は周囲をちらりと見て人がいないことを確認した後、那奈に色素の薄いブラウンの瞳を向ける。
 それから、彼女に聞いたのだった。
「那奈ちゃん……大河内先生とは、うまくいってる?」
 突然の悠の質問に、那奈は少し驚いた表情を浮かべる。
 だがすぐにその顔に微笑みを宿し、コクンと頷いた。
「うん、うまくいってるよ。すごく今、幸せだよ」
 悠の気持ちを知らない那奈は、本当に幸せそうな表情でそう答える。
「そっか、うまくいってるんだね」
 彼女に優しく微笑みを返した後、悠は那奈の言葉に複雑な表情を浮かべた。
 そんな悠の様子には気がつかず、那奈は彼に視線を向ける。
「今日の朝のこともだけど、悠くんには本当に感謝してるんだ。先生とのこと黙っていてくれてるだけじゃなくて、それ以上にいろいろ気を使ってくれて。悠くん、小さい頃からいつも私のことたくさん助けてくれたよね」
「そんなに大したことはできないかもしれないけど、僕にできることはしてあげたいって昔から思っているよ」
 そう言って笑顔を那奈に向けた後、悠はふっと一瞬瞳を細める。
 それから小さく溜息をつき、隣の那奈にも聞こえないくらいの声でぼそっと呟いたのだった。
「だから僕は……本性を偽って那奈ちゃんのことを丸め込んでるあいつが、許せないんだよ」
「え? 何、悠くん?」
 悠の言葉がよく聞こえなかった那奈は、小首を傾げてきょとんとする。
 そんな那奈に普段通り穏やかな色を湛えた瞳を戻した後、悠はサラサラの前髪をかき上げた。
 そして。
「…………」
 何かに気がついたように一瞬背後に視線を向けた後、悠はふっと口元に笑みを浮かべる。
 それから改めて、こう口を開いたのだった。
「そうだ。幸せになれるおまじない、那奈ちゃん知ってる?」
「幸せになれるおまじない? どんなおまじない?」
 人一倍女の子らしい性格の那奈は、おまじないという言葉に興味を示す。
 悠は彼女の反応を見てから、育ちの良い顔ににっこりと微笑みを浮かべた。
 そして足を止めて彼女と向き合い、ゆっくりと言ったのだった。
「僕が那奈ちゃんに、その幸せのおまじないをしてあげるよ。那奈ちゃん、こっちを向いて……」
 ――同じ頃。
 昼食を取り終えた大河内先生は、職員室から社会科準備室へと向かっていた。
 最近は、めっきり社会科準備室で那奈と話をすることが少なくなった。
 その理由は言わずもがな、学校で会わなくても彼の自宅でふたりきりで会えるからである。
 逆に学校では、周囲にふたりの関係が知られないように自然に接するよう心がけている。
 付き合う前に社会科準備室で一緒にお茶をしていたことを懐かしく思いながら、大河内先生は眼鏡の奥の漆黒の瞳をふっと細めた。
 思えばここ数ヶ月で、先生の周囲の状況は大きく変わった。
 その変化の始まりは、今年のバレンタインの日。
 那奈から手作りチョコレートを貰い、そして同じ日に彼女の祖父の会社で自分の秘密を知られた。
 先生は彼女の祖父の会社で、自分を見つめる那奈の瞳から零れ落ちた涙を見て以来、彼女をただの生徒として見ることができなくなったのだった。
 そして那奈のことをいろいろと知るたび……自分の心の中に、彼女が深く入り込んでいることを感じた。
 そんな自分の気持ちを素直に彼女に伝えたのが、その1ヵ月後のホワイトデーで。
 お互いの気持ちを確かめ合い晴れて恋人同士になったふたりは、たくさんの同じ時間を分かち合いながら今まで愛を育んできたのだった。
 まだバレンタインから2ヵ月半程度しか経っていないが、不思議とこの始まりの日がかなり前のように感じる。
 そんな感覚を覚える理由は、ふたりが共に過ごしてきた時間の濃さ所以であろう。
 確かにライバルである悠は、幼い頃からの那奈のことを自分の何倍も知っているかもしれない。
 今はまだ、自分よりも彼の方が那奈のことを知っているかもしれない。
 だが、自分たちの関係はこれからなのだ。
 那奈がいつも言っているように、ゆっくりとお茶を飲みながら穏やかな時間を共に過ごせるような、そんな関係をふたりで築いていきたい。
 大河内先生は社会科準備室に向かいながら、今まで那奈と交わしたたくさんの会話を思い出して強くそう再認識する。
 そして、ふっと苦笑した。
 自分は今まで、何であんなに焦っていたのだろうか。
『心配しなくても大丈夫だよ。私は先生のことが大好きだから』
 数日前、嫉妬して拗ねている自分に那奈はこう言った。
 その時の真っ直ぐ自分に向けられた漆黒の瞳の色を思い出し、先生は目を伏せる。
 そしてポケットから携帯電話を取り出して、彼女とお揃いのストラップに視線を向けた。
「僕が信じてあげなくちゃ、誰が彼女を信じるのか……そうですよね」
 そう呟き、先生はストラップを見つめたまま柔らかく微笑む。
 それと同時に、今まで悠のことを気にしすぎだった自分の気持ちが少し晴れたような気がしたのだった。
 それから携帯電話を再びしまい、先生は気を取り直してふと顔を上げた。
 ……その時。
 大河内先生は思わずぴたりと足を止め、その綺麗な漆黒の瞳をふっと細める。
 そして学校バージョンの先生にしては珍しく、目に見えてその表情を曇らせたのだった。
 そんな彼の視線の先には……ふたりの生徒の姿。
 立ち止まって向き合っているそのふたりの生徒は誰でもない、彼の恋人である那奈と悠だったのである。
 少し距離は離れていたが、間違いない。
 この時の先生はただ立ち止まったまま、ふたりの姿をただ見つめることしかできずにいた。
「僕が那奈ちゃんに、その幸せのおまじないをしてあげるよ。那奈ちゃん、こっちを向いて……」
 悠はそう言ってから、おもむろに那奈の漆黒の前髪をスッと上げる。
「……え?」
 悠の突然の行動に、那奈は驚いた表情をした。
 それと同時に額に彼の大きな手のぬくもりを感じ、思わず胸の鼓動を早める。
 悠はそんな那奈に、にっこりと微笑みかけた。
 そして、次の瞬間。
「……!」
 立ち止まってふたりを見ていた大河内先生は、悠の次の行動を見て、その漆黒の瞳を見開いた。
 悠の綺麗な顔がゆっくりと那奈に近づいたかと思うと……そっとその唇が、彼女の額に触れたのだった。
「えっ!? ゆ、悠くん……!?」
 思いもよらなかった彼の行動に、那奈は柔らかな感触がまだ残っている額に手を当てて、顔を真っ赤にさせながら何度も瞬きをする。
 悠は前髪を上げていた右手を下ろし、那奈の黒髪を優しく撫でる。
 それから、言ったのだった。
「那奈ちゃんの大好きな『オズの魔法使い』の童話であっただろう? ドロシーが旅立つ時、北の国のいい魔女がドロシーの額にキスをして、自分の魔法の加護があることを印した。そうだったよね?」
「え? あ、うん……その額の印のおかげで、悪い魔女やその手下たちはドロシーには一切手出しできなかったんだよね」
 まだ顔を真っ赤にさせたまま、那奈は悠の言葉にそう続ける。
 悠は満足そうに那奈の言葉に頷いてから、そして笑った。
「あ、いきなりでびっくりしたよね。ごめんね、アメリカにいた時はキスは挨拶のようなものだったから。ただのおまじないだから、気にしないで」
「えっ? あ……う、うん」
 那奈は大きくひとつ深呼吸をした後、まだ火照っている頬に手を添える。
 ……何をそんなに、自分は意識しているのだろうか。
 悠は幼馴染みだし、彼も言っていたように単なるおまじないなのに。
 おそるおそる悠に漆黒の瞳を向け、那奈は彼の端正な顔を見た。
 彼の表情は、いつもと何ら変わらない。
「そろそろ書道教室に行こうか。もうすぐ予鈴鳴る頃じゃないかな」
 そう悠が言った通り、午後の授業開始5分前を告げるチャイムが鳴り出す。
「あ……う、うん。そうだね、行こうか」
 那奈は気を取り直し、彼の言葉に頷いた。
 先程のキスは、おまじない以上の深い意味なんて何もない。
 そう思い直し、那奈は漆黒の前髪をそっと触った。
 それから再び悠に並んで、書道教室に向けて歩き始めたのだった。
 ……その一部始終を、恋人に見られていたということにも気がつかずに。
 ふたりの行動を黙って見つめていた大河内先生は、しばらく呆然とその場に立ち尽くすことしかできなかった。
 その耳には、予鈴のチャイムすらもはや聞こえてはいない。
 ぐっと拳を握り締め、おもむろに先生はそれを近くの壁に叩きつけた。
 それと同時に衝撃で生じた痛みを感じ、これは現実だということを改めて思い知らされる。
 それから耐えられないようにぎゅっと強く漆黒の瞳を瞑り、先生はふたりとは逆に進路を取って足早に歩き出したのだった。
 その、同じ時。
 悠は歩みを止めないまま、那奈に気づかれないようにちらりと背後に視線を向ける。
 そして彼女に聞こえないように、小さくこう呟いたのだった。
「那奈ちゃんにこれ以上手出しはさせませんよ、先生……」