SCENE4 オズの魔法くらべ

 ――次の日。
 相変わらず生徒たちの内職時間と化している、昼休み前の4時間目。
「皆さん、新撰組はご存知ですよね。新撰組と言えば1864年の池田屋事件が有名ですが、これは新選組が京都三条河原町の旅館・池田屋に集合していた尊王攘夷派を襲撃した事件です。この事件をきっかけに、長州藩は挙兵して上洛し、禁門の変を起こすことになるのですが……」
 内職しているか睡眠を取っている周囲のクラスメイトとは違い、那奈はいつものように楽しそうに授業をする大河内先生の姿をじっと嬉しそうに見つめていた。
 丁寧にノートを取りながら、那奈は幸せそうに瞳を細める。
(今日の夕食は何にしようかな。カレーはこの間作ったから、ハンバーグとか肉じゃがとかかなぁ……)
 そんなことを考えつつ、那奈は改めて教壇に立つ先生の姿に視線を向けた。
 いつも以上に楽しそうな表情を浮かべて授業を進める彼の様子を見て、授業では深く語れなかった新撰組についてのマニアックな話をきっと今日の夜にでも自分にしてくれるんだろうなと、那奈は思ったのだった。
 そんな子供のように夢中で話をする先生の姿が容易に想像でき、那奈は可笑しくなる。
 そして必死に笑いそうになるのを堪えて表情を引き締めた後、再びノートにペンをはしらせ始めたのだった。
 だが……大河内先生のことを見ていたのは、那奈だけではなかったのである。
「…………」
 那奈のすぐ後ろの席で、悠は真面目に授業のノートを取りながらも、昨日の夜の出来事を思い出していた。
 ――昨日の夜。
 悠は偶然、那奈と今まさに教壇に立っている大河内先生が抱き合っている姿を目撃してしまった。
 そして、どういうことかと那奈に聞いたのだった。
 だが、その自分の問いに答えたのは、那奈ではなく大河内先生だった。
 学校での姿とはまるで雰囲気の違うプライベートバージョンの大河内先生は、漆黒の瞳を悠に向けてひとつ嘆息した後にこう答えたのである。
『バレたもんは仕方ねーし、今更この状況じゃもう隠しようないからな。それで、だ……那奈と俺は付き合ってるんだよ、安西』
『えっ!?』
 抱き合っていた姿を見たらふたりが恋人同士であることは一目瞭然なのであるが、実際にいきなりそう言われてもさすがにすぐには受け入れられない。
 何よりも、目の前にいる那奈の恋人とあの冴えない社会科教師が同一人物であること自体、信じ難いのだ。
 那奈は驚きとショックで何も言えずにいた悠に、先生が自分の恋人であること、そして実は先生が期間限定の教師であることなどを話してくれた。
 悠はそんな内容の話にさらに驚きつつも、不安気に自分を見つめる那奈ににっこりと優しい笑顔を作って向ける。
 そして、彼女を安心させるように優しく言ったのだった。
『心配しないで、那奈ちゃん。ふたりのことは絶対に誰にも言わないから』
『本当に? ありがとう、悠くん』
 悠のその言葉を聞いて、那奈は安心したようにホッと胸を撫で下ろしていた。
 その言葉は、決して嘘ではない。
 誰にもふたりのことは言うつもりはないし、逆に口に出してこんな受け入れ難い事実を言いたくなかった。
 もちろん自分の想い人である那奈に彼氏がいて、しかもその彼氏が自分の知っている人物であり、その上にふたりが抱き合っているのを見てしまったということもショックだった悠だったが。
 だが、それ以上にショックだったのは……。
「それでは、今日の授業はこれで終わります」
 おもむろに鳴り始めた終業のチャイムを聞いて、教壇で先生は教科書を閉じる。
 その声にハッと我に返り、悠は俯いていた顔を上げた。
 それから終礼の後、再び彼が席に着いた……その時だった。
「あの、安西くん。ちょっといいですか?」
「大河内先生……」
 急に声をかけられ、悠は少し驚いた表情を浮かべる。
 だが、気を取り直して色素の薄いブラウンの瞳を先生に向け、頷いた。
「はい。僕も、先生にお話したいことがありますから」
「では、今から昼休みですから……昼食取った後、社会科準備室に来てくれませんか?」
 昨日の都会的な雰囲気とは全く対極の、穏やかで優しい先生の声。
 悠はそんな先生から視線を逸らさず、言った。
「いえ。先生さえよろしければ、今すぐお話したいんですけど」
「……今から、ですか? ええ、僕は今からでも構いませんよ。でも職員室に少し寄ってから行きますので、あと10分ほどしてから社会科準備室に来てください」
 悠の思わぬ言葉に少し考える表情を浮かべた先生だったが、彼の提案に承知する。
 悠はそんな先生の言葉ににっこりと微笑みを作り、サラサラの前髪をふっとかき上げた。
「では、10分後に伺いますね。大河内先生」
「ええ。それでは、また」
 それだけ言って、大河内先生は教室を出て行く。
 そして一度だけ振り返って、那奈に向けて愛しそうに優しく漆黒の瞳を細めた。
 悠はそんな先生の後姿を黙って見送り、それから深い溜め息をひとつついたのだった。


 ――それから、数分後。
 先生に言われた通り悠は社会科準備室を訪れ、ドアをノックした。
「失礼します」
 ガラッとドアを開けて準備室内に入ってきた悠に、大河内先生は眼鏡の奥の柔らかな瞳を向ける。
「呼び出したりして、すみませんでした。そこに座ってください」
「…………」
 物腰柔らかな先生をちらりと見てから、悠は勧められた椅子に座った。
 そして座るやいなや、先生が言葉を発する前に口を開く。
「大河内先生。昨日も言いましたが、僕はふたりの関係や先生が期間限定の教師だということは、誰にも言うつもりありませんから」
「安西くん……」
 先生はいきなり本題に入った悠の顔を、複雑な表情で見つめる。
 そんな先生の様子にも構わず、悠は真っ直ぐに彼に視線を投げた。
 それから、ゆっくりとこう言葉を続けたのだった。
「でも僕、先生と那奈ちゃんの交際は認めませんから」
「……え?」
 はっきりとそう言われ、先生は思わず驚いた顔をする。
 悠は先生の反応を確認し、さらに言った。
「別に教師と生徒が付き合うことだって悪いこととは思いませんし、那奈ちゃんが大河内先生に憧れてるっていうことは僕も知っていました。僕は那奈ちゃんのことが小さい頃から好きですが、那奈ちゃんが貴方を選んだんだし、それは仕方ないなとは思うんです。でも……」
 そこまで言って、悠は一旦言葉を切る。
 大河内先生は、そんな悠の話を無言で聞いていた。
 そして悠はひとつ溜め息をついてから、先生にふと聞いたのだった。
「先生、那奈ちゃんの理想の男性のタイプ、知っていますよね?」
「ええ……縁側で一緒にお茶が飲めるような、穏やかな時間を共有できるような人、ですよね」
「確かに今の先生は、そんな那奈ちゃんの理想にぴったりな人かもしれません。でも……昨日の夜見た先生の本性は、そんな彼女の理想とは全然違う。むしろ今の雰囲気とは正反対だ。今の那奈ちゃんの理想である貴方の姿は、偽りのものなんでしょう? 僕には、それが許せない」
 ぐっと拳を握り締めてそう言った悠に、先生はどう言っていいのか分からない表情をする。
 それから漆黒の瞳を悠に向け、彼の言葉に答えた。
「学校での僕とプライベートの僕では、やはり本業を隠して教師をしているという立場上、無意識的に多少違っているのかもしれません。でも、学校での僕もプライベートでの僕も、どちらも嘘偽りのない僕なのも確かです」
「無意識的に、多少? よく言うよ」
 悠は呆れたようにそう呟き、サラサラのブラウンの前髪をかき上げる。
 学校バージョンとプライベートバージョンの変化に対して本人の自覚が全くないということを知らない悠にとっては、そんな先生の言葉は偽りを誤魔化すただの言い訳にしか聞こえなかったのである。
 悠は改めて先生に視線を投げ、再び彼に聞いた。
「先生は知っていますか? 那奈ちゃんの好きな食べ物や好きな色、那奈ちゃんの好みの音楽や、彼女の尊敬する人は誰か、なんて」
「え?」
 急にそう言われ、先生は答えに困る。
 そんな彼を見て、悠は続けた。
「僕は知っていますよ、昔から彼女のことを誰よりも近くで見てきたから。僕は誰よりも彼女のことを理解していると思うし、彼女を絶対に幸せにできる自信もあります」
「…………」
 悠の言葉に、先生はふと首を振る。
 そして、相変わらず柔らかな印象は変わらないが、しっかりと響くバリトンの声で反論したのだった。
「僕と今宮さんが付き合いだしたのは、たった1ヶ月前からです。でも、大切なのは過去ではなく今のふたりであり、これからのふたりなんですよ。これからふたりでたくさんの時間を共有していき、そして今まで知らなかったお互いのことを少しずつ知っていきたいと」
 先生はそこまで言って一息ついた後、悠から目を離さず続ける。
「それに僕も、今宮さんを誰よりも大切に想っているという自信はありますよ、安西くん」
「…………」
 先生のその言葉に、悠は初めてあからさまに怪訝な表情を浮かべた。
 それから椅子から立ち上がり、言った。
「僕は那奈ちゃんのこと、諦めませんから。きっと彼女を振り向かせてみせます。話はそれだけです、失礼します」
 そう言って丁寧にお辞儀した後、悠は社会科準備室を後にする。
 先生はそんな彼を引き止めることはせず、何かを考えるように漆黒の瞳を伏せたのだった。


 ――その日の夜。
「先生、ごはんできたよ?」
「ん? ああ」
 那奈の呼びかけに、先生はふと我に返る。
 手作りチーズハンバーグの置かれた皿をテーブルに並べながら、那奈は彼の様子に首を傾げた。
「どうしたの、先生?」
「……え? いや別に、何でもねーよ」
 那奈から無意識に視線を逸らし、先生は小さく溜め息をつく。
 だが、何でもないといいながらも、実はすごく気にしているのだった。
 今日の昼に、悠に言われたことを。
 悠に言ったように、那奈に対する気持ちは誰にも負けていないと思っている。
 そうは思っていても、実際に自分の知らない彼女のことを悠が知っていることも事実である。
 それに同性の自分から見ても、悠は整った顔をしていていかにもモテそうだということが分かる。
 その上に、転校してきた際に行った編入試験での悠の成績は優秀だった。
 性格も普段は穏やかそうだが、今日の昼のように言うことははっきりと主張できるタイプでもある。
 いわゆる、非の打ちどころのないいい男。
 昼にみせた強気な発言は、そんな自分に自信を持っているという証拠でもあるのだろう。
 自信に満ち溢れている悠の顔を思い出し、先生はザッと漆黒の前髪をかき上げる。
 そして、ぼそっと呟いたのだった。
「くそっ、上等だ。受けてたってやるっ」
「え? 何?」
 小声だった先生の言葉がよく聞こえなかった那奈は、きょとんとした表情で先生を見る。
 彼女の瞳が自分を映していることに気がつき、先生は気を取り直して那奈に微笑んだ。
「何でもねーって言ってるだろ? ほら、飯食うぞ。って、美味そうだな。ハンバーグも好きなんだよな」
「本当に先生って、好きな食べ物が小学生みたいだよね」
「うるせーよ、小学生って言うなっ。んじゃ、いただきます」
 くすくす笑う那奈にちらりと目を向けた後、先生は那奈の作ったハンバーグを口に運ぶ。
 那奈は美味しそうに自分の作った料理を食べる先生を満足そうに見つめた。
 それからふと思い出したように、先生に聞いたのだった。
「ねぇ、先生。今日の昼、悠くんと何話したの?」
 そんな那奈の言葉に、思わず先生はピタリと箸を持つ手を止める。
 それからゴクゴクと飲み物を飲んで一息つき、答えた。
「別に……もう一度、俺たちのこと黙ってるように言っておこうと思ったんだけどよ」
 だが結果的に悠に先手を打たれ、宣戦布告された状態になってしまったのだが。
 那奈はそんな先生の気持ちも知らず、ぱくっとひとくちハンバーグを食べた後に言った。
「悠くんなら大丈夫よ。約束してくれたことはいつだってちゃんと守ってくれたし、誠実だし、信用してるもん。見られた時はどうしようって思ったけど、相手が悠くんだったのは不幸中の幸いかな」
 その那奈の言葉に、先生はむっとした表情を浮かべる。
 それからテーブルに頬杖をついて、彼女からふいっと視線を逸らした。
 そんな先生の様子に気がついた那奈は不思議そうに小首を傾げる。
「今日の先生、変よ? 何かあったの?」
「何でもねえって言ってるだろっ!? ていうかよ、何であいつのことそんなに良く言うんだよっ!?」
 思わず声を荒げてしまった先生に、那奈は驚いた顔をした。
 それから怯むことなく眉を顰め、反論する。
「そんなに怒らなくてもいいじゃないっ。それに良く言ってるんじゃなくて、本当に悠くんは昔から誠実で優しいもん。少なくても、今の先生みたいに怒鳴ったりしないしっ」
「ああ悪かったな、誠実で優しくなくてよっ。おまえだって、いくら幼馴染みでも男とふたりで何デートなんてしてるんだよ。おまえは幼馴染みと思ってても、相手は違うかもしれないだろっ!?」
「何よ、悠くんは信用できる友達だって言ってるでしょ? ていうか先生、私のこと信用してないの?」
「うるせーな、信用してねーわけじゃないけど、イヤなもんはイヤなんだよっ」
 拗ねた様に顔を背ける先生に、那奈は納得いかない表情を浮かべた。
 それからじろっと先生に視線を投げ、負けじと言い放った。
「いくら彼氏って言ったって、先生が私の友達決める権利なんてないんだからっ。私はやましいことなんて何もないし、今まで通り悠くんとは仲良くするからねっ」
「…………」
 何も言い返せずに、先生は怪訝な顔をしたまま黙ってしまう。
 那奈のことは信用している先生であるが、実際に学校でも悠とふたり彼女が仲良くしている姿を見るとやはり気になる。
 しかも、那奈は何とも思っていないかもしれないが、悠の方は彼女のことが好きなのである。
 それと同時に、悠の宣戦布告にすっかり翻弄されてる自分に嫌悪感が湧いてくる。
 悠にはっきりと挑戦状を叩きつけられて気持ち的に苛立っていたとはいえ、よりによって那奈にあたってしまうなんて。
 先生は、ちらりと那奈に目を向ける。
 パクパクと怒りにまかせてハンバーグを食べる那奈の漆黒の瞳は、心なしか涙で潤んでいるような気がした。
 そんな那奈を見て、ますます自分の言動を先生は後悔する。
 広いリビングを、シンとした気まずい雰囲気が支配した。
 そんな沈黙に耐えられず、ふうっと大きく溜め息をついて鬱陶しそうに前髪をかき上げた後、ぽつりと先生は言ったのだった。
「あの、よ……那奈、その……言い過ぎた、悪かったな」
「…………」
 先生の言葉を無視するように、那奈はゴクゴクとお茶を飲んだ。
 それからまた何事もなかったかのように食事を取り始める。
 そんな那奈の肩をガッと掴み、先生は声を上げた。
「シカトすんな、コラ! 俺が悪かったって言ってるだろーがよっ!」
「……本当に悪かったって思ってる?」
 食事の手を止め、那奈はようやく先生に目を向ける。
 先生は観念したように、首を大きく縦に振った。
「ああ、言い過ぎたって思ってるよ。その、悪かったな」
 俯き加減でそう謝った先生に、那奈はようやく笑顔をみせる。
 それから箸を置き、彼の肩にそっと寄りかかった。
「ううん、私も心配してくれて嬉しいよ。でもさっきも言ったけど、悠くんは信用できる友達だから。そうヤキモチ妬かないの、先生」
「……ったく、おまえはよ」
 悪びれもなくにっこりと微笑む那奈を見て、先生は思わず苦笑する。
 それから、ぐいっと自分の胸に那奈の身体を引き寄せた。
 そして彼女の漆黒の髪を優しく撫でながら、彼女に聞こえないくらいの声で呟いたのだった。
「あいつだから……別の意味で心配なんだよ、俺は」
「え? 何、先生?」
「あ? 何でもねーよ。ほら、冷めねーうちにチーズハンバーグ食うぞ」
 そう言ってぽんっと不思議そうな顔をしている那奈の頭に手を添えた後、先生はようやく彼女の手作りハンバーグに再び箸をのばしたのだった。