SCENE3 真実の泉

 4月も半ばに入り、新しい学年に進級して数日が経った。
 通常通り授業も行われるようになったが、休みボケがまだ治らない様子の生徒たちは少々疲れ気味である。
 しかも今は、眠さがピークに達する昼食後。
 昼休みの終わりを告げる5分前の予鈴が教室に響き、生徒たちはうんざりしたような表情を浮かべる。
 だがそんな中、那奈の様子だけは違っていた。
 何だかそわそわしたように落ち着きがなく、そしてその顔には満面の笑みが浮かんでいる。
 それから自分が今日日直であったことを思い出し、おもむろに席を立った。
 その時。
「何だか嬉しそうだね、何かあったの? 那奈ちゃん」
 誰が見てもすぐ分かるほど嬉しそうな彼女の様子に、彼女のすぐ後ろの席の悠はふと首を傾げた。
 那奈はその声に振り返って、漆黒の髪をそっとかき上げる。
「あ、悠くん。うん、これからあるんだ、楽しみなこと」
「これから?」
 那奈の言う楽しみなことが一体何なのか分からず、悠は何度か瞬きをした。
 那奈はそんな彼に微笑み、前の授業の黒板を消しに教壇に向かって歩き出す。
 そんなふたりの会話を何気に聞いていた知美は、悠の聡明で整った顔を見て意味ありげに笑った。
「ねぇ、安西くん。ちょっと聞いてもいいかな?」
「ん? 何、知美ちゃん。あ、僕のことは名前で呼んでくれていいから」
 那奈から視線を知美に移し、悠は知美の隣の椅子に座る。
 知美は異様に黒板を綺麗に消している那奈を見てから、言った。
「ねぇ、悠くんって、那奈のこと好きなんでしょ?」
「え?」
 急にストレートに聞かれ、悠は少し驚いた表情を浮かべる。
 それからふっと綺麗な二重の瞳を細め、頷いたのだった。
「うん。小さい頃からずっと、僕は那奈ちゃんのことが大好きだよ」
「そっか……」
 自信に満ち溢れたように真っ直ぐ自分を見つめてはっきりとそう言った悠に、知美は複雑な顔をする。
 知美は先日、那奈から彼氏ができたという報告をされたばかりである。
 実はその彼氏が自分の知っている人だということは、もちろん知美は知らないのであるが。
 那奈に彼氏がいることを言うべきか言わないべきか迷っている知美の様子を見て、悠はふっと優しく微笑む。
 そしてサラサラで色素の薄い前髪をかき上げて言った。
「那奈ちゃんって今、彼氏いるんでしょ?」
「えっ、知ってたの?」
「ううん。直接聞いたわけじゃないんだけど、そうかなって思うことがあって。って、やっぱりそうなんだね」
 少し俯き加減で、悠は小さく嘆息する。
 数日前に彼女に電話した時、後ろで若い男の声が聞こえた。
 その日から、悠は那奈には特定の彼氏がいるのではないかと思っていたのだった。
 だがやはりそう思っていても、実際にその予感が当たると複雑な心境である。
 悠は心配そうに自分を見ている知美に気がつき、端正な顔に笑顔を作った。
 それからふうっと一息つき、言ったのだった。
「大丈夫だよ、薄々分かってたことだし。それに……」
「それに?」
 首を傾げる知美に、悠はふっと微笑んでから続ける。
「それにね、僕は昔から、誰よりも那奈ちゃんのことを近くで見てきたんだ。きっと振り向かせてみせるよ」
 まだ黒板を綺麗にしている那奈の後姿を見つめ、悠はそう言った。
 知美はそんな悠の表情を見た後、再び口を開く。
「そうだ、何で那奈があんなにウキウキなのか知りたい? これって、今後の参考になるかもよ?」
「あ、知りたいな。僕が彼女と離れていた2年間のことはさすがに分からないからね」
 知美はそんな悠の返事を聞いて、それから話を続けた。
「あのね、次って日本史の授業でしょ? 那奈、彼氏ができる前までは日本史担当のアイちゃん……あ、大河内先生ね、彼にベタ惚れだったのよ。自分の理想のカタマリだって言って。彼氏ができた今でも、やっぱりまだ憧れているみたいだし」
「那奈ちゃんの、理想のタイプ……」
 そう呟き、悠は何かを考えるように俯く。
 だが異様に丁寧に黒板を消している那奈の今の行動も、これで納得ができる。
 そして悠は、昔から那奈がずっと語っている理想の男性像について思い出していた。
 ……その時。
 おもむろに5時間目の始業のチャイムが鳴り始め、それと同時に教室のドアが開く。
 次の瞬間、那奈は表情をパッと明るくした。
 それから嬉しそうに微笑んで、教室に入ってきた大河内先生にぺこりとお辞儀をする。
 先生はそんな那奈に優しい笑顔を返し、教壇へと歩き出した。
 満足そうな顔をしながら戻ってきた那奈は、席に座った後にぽつりと呟く。
「休みだったから、久しぶりだな……先生の授業」
 誰に言っているわけでもない那奈の呟きは、すぐ後ろの席の悠にははっきりと聞こえた。
 再会して数日間、悠はいろいろと那奈と話をした。
 その中で圧倒的に彼女の口から多く出る名前が、この大河内先生だったのである。
「皆さん、今年度もどうぞよろしくお願いしますね。それでは、出席を取ります」
 柔らかく穏やかな声で、先生はそう言って出席を取り始めた。
 悠はそんな先生に、じっと視線を向けた。
 分厚い眼鏡に、社会科教師なのに何故か来ている白衣が胡散臭い。
 お世辞でもお洒落とは言い難いスーツと、地味なネクタイ。
 美人でお嬢様な那奈とは、どう考えても釣り合いが取れない冴えない教師。
 悠は彼に、そんな第一印象を持ったのだった。
 ……だが。
「確かに、縁側でお茶とかのんびり飲んでそうだな……」
 先生を見て、ぽつりと悠はそう呟く。
 昔から那奈の言っている、理想のタイプ。
 縁側でお茶を飲みながら、一緒にひなたぼっこができるような人。
 ふたりでいるだけで心が和むような、質素だけどほのぼのとした関係が築ける人。
 目の前の冴えない教師は、そんな那奈の条件に確かにぴったりである。
 先生はそんな悠の心の中を知らず、のんびりと出席簿を開いて生徒の名前を呼び始めた。
「……安西くん」
「はい」
 名前を呼ばれ、悠はよく通るはっきりとした声で返事をした。
 大河内先生はふと出席簿から顔を上げ、悠に視線を向ける。
 それから眼鏡の奥の漆黒の瞳を細めた後、また何事もなかったかのように出席を取り始めた。
 そして。
「今宮さん」
 先生が、那奈の名前を呼んだ。
「……はい」
 那奈は真っ直ぐに先生の姿を見つめ、嬉しそうな声で返事をしたのだった。
 彼女の後ろの席のためにその表情は見えなかったが、悠には彼女が今どんな顔をしているのかが容易に想像ができたのである。
 大河内先生は彼女の返事に応えるかのように、ふっと優しく瞳を細めた。
 だがそんな先生の様子に気がつく生徒も、ましてこの微笑みに大きな意味があるということも、那奈以外は誰も知らないのである。
 悠はようやく先生から視線を逸らし、ふうっとひとつ溜め息をつく。
 目の前の大河内先生はともかく、今悠が一番気になっていることは那奈に最近できたという彼氏のことである。
 あくまで理想は理想、実際に那奈が付き合っているという男のことが悠は知りたかったのだ。
 まさか目の前の冴えない先生が、彼女の恋人だとは知らずに……。
 一方、しばらくして出席を取り終えた先生は早速授業を進め始めた。
 ひとりの生徒を指名し、教科書を音読させる。
 ……だが。
 そんな先生の耳には、指名した生徒の声は聞こえてはいなかった。
 大河内先生はさり気なく、眼鏡の奥の瞳をひとりの生徒に向ける。
 それから、何かを考えるように俯いた。
 そして誰にも聞こえないような小さな声でこう言ったのだった。
「彼が、安西悠くん……」


 ――その日の夜。
 青のフェラーリの助手席で、幸せそうに那奈は愛車を運転をしている恋人・大河内先生を見つめた。
 今、那奈の隣にいる彼は、学校にいる時の彼とは全く違う雰囲気を醸し出している。
「先生って、すごく睫毛長くて多いんだねぇっ。目も綺麗な二重だし」
「あーよくそう言われるけどよ、何でそんなコトいちいち気にするんだ? んなこと、どーでもいいだろ?」
「何でって、だってそう思うんだもん。それにどうでもいいことないよ。先生の目、私大好きだもん」
 信号が赤になり、先生はブレーキを踏んで車を止める。
 それからふっと那奈に視線を向けて、言った。
「おまえだって綺麗な二重じゃねぇかよ。何かよ……那奈の目って、キラキラしてるよな」
「先生と一緒で嬉しいからだよ、それって」
 那奈はにっこりと微笑み、すぐさまそう答える。
 そう言った那奈の言葉に、先生はカッと頬を赤らめた。
 それから照れたように前方に視線を戻して車を発進させ、嘆息した。
「ったく……よくそんな恥ずかしいことが言えるよな、おまえってよ」
「だって本当のことだもん。そういう先生だって、キラキラ綺麗な目してるよ?」
 那奈は先生の反応に、思わずくすくすと笑い出した。
 そんな那奈の様子にムッとした顔をしつつも、先生はザッと髪をかき上げる。
「つーか、笑うなっ。ここで降ろすぞ、コラ」
「ふーん、そんなこと言うんだ。降ろせるものなら降ろしてみたら?」
「ったく、口の減らないヤツだな、おまえは」
 まだ笑っている那奈に、先生はむうっと拗ねたような表情を浮かべた。
 そして再び信号に引っかかったために、先生は愛車を停車させる。
 それからはあっと一息つき、ぼそっと言ったのだった。
「俺の目がキラキラしてるのもよ、その……おまえと一緒にいるからだよ」
「えっ?」
 先生の口から出たその言葉に、那奈は驚いたように瞳を見開く。
 それから幸せそうに微笑み、そっとハンドルに置いている先生の右手を自分の左手と重ねた。
 那奈の細い指先が触れたのを感じた先生は、綺麗な漆黒の瞳を細める。
 そしてハンドルから右手を離し、那奈の手をぎゅっと握りしめた。
 優しく包み込むように握られた大きな先生の手は、ふんわりと温かい。
「先生の手、すっごくあったかい……」
「おまえの手は冷てーな。爬虫類かよ」
「ひどーい、爬虫類なんて。でもね、心のあったかい人は手が冷たいって言うでしょ。逆にあったかい手の人は心が冷たいって」
「るせーな、ああいえばこう言うんだからよ。つーか悪かったな、心が冷たくて」
 手を握り締めたまま、先生はちらりと横目で那奈を見る。
 それから、照れたように続けた。
「いつでもおまえの手、俺があっためてやるからよ」
 那奈は先生の言葉を聞き、瞳を細める。
 そして大きく頷いた後、ぎゅっと彼の手を握った。
「うん。でも先生、ちっとも心冷たくなんてないよ。先生ってあったかいよ、すごく」
「本当におまえは……どうしてそんな恥ずかしいこと、スラスラ言えるんだよ」
 照れたようにちらりと那奈を見て、先生はふうっと嘆息する。
 それから、言ったのだった。
「ま、おまえのそーいう乙女ちっくなところも好きなんだけどな」
「私も先生がマニアックなことを話してる姿、すごく好きだよ? 何だか子供みたい」
「子供って言うなっ。ていうか、そんなにマニアックか?」
 うーんと考える仕草をする先生に、那奈は大きく頷く。
「うん。今度は何の話をしてくれるの?」
「そうだな、今度は何の話してやろうか」
 ニッと口元に笑みを浮かべ、先生は楽しそうに漆黒の瞳を細めた。
 那奈は幸せをかみ締めるかのように、じっと先生を見つめる。
 そしてそんな会話している途中も、ふたりの手は繋がれたままであった。
 ……それから、しばらくして。
 愛車の青のフェラーリを停車させ、先生はちらりと腕時計を見る。
 少し伏せがちの瞳には、長い睫毛がかかっていた。
 ふと顔を上げて那奈の頭を優しく撫でた後、先生は運転席から外に出る。
 それから、助手席のドアを開けた。
 上目遣いで先生を見て微笑んで、那奈も車から降りる。
「やっぱり、もう帰らないとだよね……」
 分かれるのが惜しいように、那奈はそう呟く。
 先生はそんな那奈の体を、正面からぎゅっと抱きしめた。
 そして、彼女の耳元で言った。
「俺だって帰らせたくないけどよ、明日も学校で会えるだろ? つーか、んなこと言うな……俺だって、我慢してるんだ。このまま俺んちにおまえを連れて帰るのをよ」
「うん、ごめんね。先生……また明日も授業あるし、ね」
 そう言って、那奈はふっと顔を上げる。
 そんな那奈の顎をくいっと少し持ち上げると、大河内先生は漆黒の瞳を閉じた。
 整った先生の顔が、ゆっくりと那奈に近づく。
 那奈もドキドキと高鳴る胸の鼓動を感じながら、自然と目を瞑り、彼の唇を受け止めた。
 唇に軽く触れる、柔らかいキスの感覚。
 唇が離れた後、恥ずかしそうに俯く那奈の頭を先生はぐりぐりと撫でる。
 それからぽんっと彼女の頭に手を添え、言った。
「おやすみ、那奈。また明日な」
「うん、先生。また学校でね」
 ふたりはそう言って、もう一度強く抱きしめ合った。
 お互いの体温を身体で感じ、離れたくない気持ちが強まる。
 だが先生はこのまま彼女を連れて帰りたい気持ちをぐっと抑え、那奈から離れようとした。 
 ……その時だった。
「えっ……那奈、ちゃん?」
 ふと、そう呟くような声が聞こえた。
 那奈はその声にハッと我に返り、急いで顔を上げる。
 そして漆黒の瞳に映った声の主の姿に、大きく瞳を見開いたのだった。
「! 悠くん、どうしてここに……!?」
「えっ、いや……僕の家、そこだし」
 どうすればいいのか分からない様子で、悠は気まずそうにそう答える。
 それから那奈を見つけて思わず声を上げてしまった自分に、悠は後悔した。
 分かっていても、やはり好きな子が男と抱き合っている姿はかなりショックである。
 そして悠は、無意識的にふと相手の男に視線を向けた。
 その、次の瞬間。
「えっ!? これって、どういうこと!?」
 悠は信じ難い目の前の状況に、大きな声をあげてしまった。
 それもそのはずである。
 那奈と抱き合っていたその男は、悠の知っている人物だったからだ。
「お、大河内先生!? 雰囲気違うから、最初分からなかったけど……」
 悠の姿を見て咄嗟に顔を背けた先生だったが、それほど距離が離れていないためにしっかりと顔を見られてしまったのである。
 目の前の那奈の彼氏は、間違いなくあの社会科の大河内先生だった。
 だが、冴えない姿の先生の面影は全くない。
 むしろ、青のフェラーリに派手ではないがスマートでお洒落な服装が、都会的な印象を受ける。
 悠は驚きを隠せない表情のままでグッと拳を握り締め、こう呟くのがやっとであった。
「那奈ちゃん……これって、どういうこと?」
 そして那奈は、そんな悠の問いかけにどう答えていいか分からず、困ったようにただ俯くことしかできなかったのだった。