SCENE2 ラベンダー・グマ

 次の日――4月8日。
 この日は学校で入学式が行われるため、在校生である那奈たちは休みである。
 那奈は約束通り正午過ぎに迎えに来た悠とともに、繁華街のパスタ屋でランチを食べていた。
「那奈ちゃんのお勧めのパスタ屋なだけあって、すごく美味しかったよ。デザートも美味しいし」
 にっこりと聡明な顔に微笑みを浮かべ、悠は目の前の那奈に視線を向ける。
 那奈は漆黒の髪をそっと耳に引っ掛けた後、そんな悠に笑顔を返した。
「よかった、気に入ってもらえて。この間オープンしたての時に食べに行ったんだけど、美味しかったから」
「そっか。その時は誰と食べに来たの?」
「……えっ?」
 何気なく言った悠のひとことに、那奈は少し表情を変えた。
 この間この店に来た時……彼女は、恋人と一緒だったのである。
 その恋人である大河内藍先生は、教員のために今日の入学式に出席しなければならず、朝から学校に出勤なのだった。
 どう答えていいかと言葉を失ってしまった那奈は、気を取り直して答える。
「この間はね、えっと、友達と」
「ふうん、そうなんだ」
 それ以上深く聞いてこなかった悠の反応にホッとしつつ、那奈は飲み物を口に運んだ。
 だが、那奈のそんな様子を悠は見逃していなかったのである。
「…………」
 悠はさり気なく那奈の表情を見つめながら、昨日のことを思い出していた。
 自分が那奈に電話をした時、那奈はひとりではなかった。
 しかも電話の向こうから聞こえてきたのは、若い男の声。
 その声の主が一体誰なのか、悠はかなり気になっていた。
 だが、那奈と再会してまだ日も浅いのにいきなりそんなことを聞くのもどうかと、悠はそのことを彼女に聞けないでいたのである。
 そして、どうして悠がそんなに昨日彼女と一緒にいた人物のことを気にしているのかというと。
「ねぇ、那奈ちゃん。覚えてる?」
「え? なぁに?」
 小首を傾げる那奈に、悠は優しく微笑んで続けた。
「小さい頃、僕たち結婚しようねってよく言ってたよね」
「そうだね、そんなこと言ってたね。あの頃は小さかったし、そんなおままごとも楽しかったよね」
 幼い頃を思い出すように漆黒の瞳を細め、那奈はそう言った。
 悠はその言葉を聞いて、色素の薄い前髪をかき上げる。
 そして彼が言葉を続けようとした……ちょうどその時。
「あっ、ごめんね。ちょっといいかな?」
「うん、構わないよ」
 突然鳴り出した携帯電話をカバンから取り出し、悠に軽く手を合わせて那奈は席を立った。
 小走りで店の外に出て行く那奈の後姿を見送り、悠はふうっと小さくひとつ溜め息をつく。
 そして、呟いたのだった。
「僕は今でもあの言葉、本気だよ……那奈ちゃん」
 そんな悠の気持ちも知らず、那奈は急ぎ足で店の外に出る。
 外に出てすぐ、ピッと携帯の通話ボタンを押した。
 それから嬉しそうに微笑んで言ったのだった。
「もしもし、大河内先生?」
『もしもし、今宮さん。今、少しお話しても大丈夫ですか?』
 耳に聞こえてきたのは、学校バージョンの穏やかで柔らかな大河内先生の声。
 那奈はこくんと頷いて答える。
「はい、大丈夫です。先生は大丈夫なんですか?」
『僕の方は今入学式が終わったところです。すみません、今宮さんも外出中なのに電話して』
 それから、電話の向こうの先生はふと言葉を切った。
 少しの沈黙が流れ、那奈は小さく首を傾げる。
「大河内先生?」
 不思議そうな表情を浮かべ、那奈は彼の名前を呼ぶ。
 そしてそんな那奈の呼びかけに、先生はゆっくりと言ったのだった。
『どうしても、少しでも貴女の声が聞きたくて……すみません』
 そんな先生の言葉に、那奈は大きく首を振った。
「どうして謝るんですか? 私も先生の声が聞きたかったんですよ?」
『本当ですか? そう言ってもらえて嬉しいです、今宮さん』
 いつもながらに何故か敬語である先生の言葉に、那奈はくすくすと笑い出す。
 今度は那奈のそんな様子に先生が首を傾げる番であった。
『? 何か可笑しなこと言いましたか?』
「いいえ、ごめんなさい。今、先生がどんな顔しているのかなって考えたら何だか可笑しくて」
 学校から人目につかないようにこっそり自分に電話してきているのが分かっているだけに、今どんな状況でどんな表情をして先生が自分と話しているかと思うと、何だか可笑しくなったのだ。
 そして、仕事の合間に自分に電話してきてくれた彼の行動が、何よりも那奈には嬉しかったのである。
 那奈は気を取り直し、先生に聞いた。
「今日の入学式、どうだったんですか?」
 ……その時だった。
『あ? それがよ、新入生代表の挨拶する生徒が急にいなくなってよ。もう探すの大変だったんだぜ?』
 急にガラリと雰囲気の変わった彼の声に、那奈は思わずきょとんとする。
 それからふっと笑って、こう言ったのだった。
「ねぇ、先生。今、眼鏡外した?」
 那奈の言葉に、電話の向こうの先生は驚いたような声を上げる。
『えっ、おまえ何で分かったんだよ!? テレビ電話じゃあるまいし、エスパーかよ!?』
「ふふっ、先生のことなら何でも分かるよ、私」
 付き合いだしてしばらくして、学校バージョンとプライベートバージョンのスイッチが何なのか、那奈には分かってきたのである。
 まだ驚いている先生に笑いながら、那奈は話を続けた。
「それよりも大丈夫だったの? そのいなくなった生徒って」
『ああ、何とか見つけられたからよかったけどよ。ま、それくらいであとは何事もなく終わったぜ。俺は担任持ってないからな、しばらく職員室で待機なんだよ』
「そっか。今日って何時に帰ってくるの? 飲み会があるんでしょう?」
『んー、でもそんなに遅くなんねーと思うぜ。入学式終わって学校でちょっと教員で飲み会みたいな食事会だけらしいからな。夜9時か10時には楽勝で帰って来れるぜ』
 那奈はちらりと時計を見て、それから言った。
「じゃあ私、先生の家にいるね。ご飯はいらないの?」
『ああ、飯はいらねーよ。ていうかよ、んな遅くまでうちにいて大丈夫なのか?』
「どうせ両親も飲み会なの、今日。だから待ってるよ、先生の家で」
 付き合い出して間もなくして、先生は自分の部屋の合鍵を那奈にプレゼントしていた。
 両親が仕事の都合で夜遅くしか帰ってこないため、那奈は先生の家にいることが最近多いのである。
 ひとりで食べる夕食よりも、大好きな人と楽しく話をしながらの食事の方がずっと美味しい。
 むしろ先生のためにご飯を作ってあげることが、今の那奈にとって楽しくて仕方ないのだ。
 そして。
『俺も早く帰るから……その、おまえもあまり遅くなるなよ』
 電話の向こうで、少しいつもと様子の違うトーンの声で先生はそう言った。
 那奈はくすくすと笑いながら答える。
「先生、心配しなくても大丈夫だから。ね? ヤキモチ妬かないの」
『なっ、誰がヤキモチなんて妬いてるってんだよっ!? 別に心配なんてしてねーよっ。ただな、やっぱりその、なんだ……』
「なぁに? 先生」
 慌てる先生にまだ笑いながら、那奈は首を傾げた。
 先生はそれから観念したように声を上げて言ったのだった。
『あーもうっ! 分かったよっ、めちゃめちゃ心配だから早く帰って来いっ、分かったなっ』
「うん、分かった。先生も早く帰ってきてよね」
『ったく、人が仕事中に男と遊んでんじゃねーぞっ。心配で仕事できねーじゃねーかよ……っと、そろそろ戻らないと行けないから、んじゃあな』
「また後でね、先生。大好きだよ」
 にっこりと笑ってそう言う那奈に、先生は一瞬言葉を失う。
 それから照れたように小声で言ったのだった。
『俺も……俺も愛してるからな。早く帰って来いよっ。じゃあな』
 照れ隠しにブチッと通話を切った先生に、那奈は微笑みを浮かべる。
 そして幸せそうな表情をして、悠の待つ店の中へと戻った。
「ごめんね、悠くん」
「ううん、僕は平気だよ。電話、大丈夫だった?」
「うん、大丈夫よ。このデザート、すごく美味しいね」
 そう言って那奈は少しだけ残っていたデザートのプチケーキを口に運ぶ。
 そんな那奈を見つめ、そして悠はカバンからあるものを取り出して那奈の目の前に置いた。
 そして整った顔ににっこりと微笑みを浮かべて言った。
「あのね、これ、那奈ちゃんにプレゼント。アメリカで見つけて、那奈ちゃんにあげようって思ったんだ」
「えっ、私に? そんな、もらっちゃっていいの?」
 驚く那奈にこくんと頷き、悠は彼女にプレゼントを手渡す。
「うん。とにかく開けてみてよ、那奈ちゃん」
 那奈は遠慮気味に悠に目を向けた後、その少し小振りの包み紙を丁寧に開ける。
 そして、出てきたものにパッと目を輝かせた。
「あっ、ラベンダー色のクマ……これって、もしかして」
 那奈の反応に満足したように笑顔を浮かべ、悠は口を開く。
「うん、ラベンダー・グマ。那奈ちゃんってオズシリーズの本が好きだったよね。何作目だったかな、ぬいぐるみのクマの国の王様がラベンダー・グマって名前のクマだったなぁって。それでこの色のクマを見た時ね、那奈ちゃんにプレゼントしたいなって思ったんだ」
「オズシリーズの12作目『オズの消えたプリンセス』ね。わあ、すごく可愛いな」
 出てきたのは、少し変わったラベンダー色をしたテディーベアであった。
 年齢よりも大人っぽい美人な容姿をしている那奈だが、実は可愛いものや乙女チックなものが人一倍大好きなのである。
 それに小さい頃から『オズの魔法使い』シリーズが大好きで、シリーズ14作すべて揃えて今でも大好きな本であった。
 嬉しそうにクマを眺めている那奈に、悠はさらに続けた。
「那奈ちゃん、驚くのはまだ早いよ? ちょっとそのクマ、僕にかして」
 那奈は不思議そうな顔をしながらも、悠にラベンダー色のクマを手渡す。
 そしてそれを受け取った悠は、そのクマのおなかを軽く押したのだった。
 その瞬間。
 那奈は大きく瞳を見開き、思わず手を叩く。
「わあっ、オズのラベンダー・グマと同じね! おなか押したらキュー、って鳴いたよ!?」
「ふふ、可愛いだろう? 那奈ちゃんなら喜んでくれるって思ったんだよ」
 那奈に再びクマを返し、悠は色素の薄いブラウンの瞳を細めた。
 那奈は自分でクマのおなかを押してキューと鳴かせながら、満足そうに笑う。
 それから悠に視線を向け、にっこりと微笑んだ。
「ありがとう、悠くん。本当に嬉しいよ。そういえば悠くんって、小さい頃からいつも誕生日でも何の時でも、必ず私の大好きなものをプレゼントしてくれたよね」
「僕たち、すごく趣味が合うからね。それに……僕はずっと近くで見てきたから、誰よりも那奈ちゃんのこと知っている自信あるよ」
 那奈はまだキューとクマを鳴かせながら、子供のように楽しそうな表情をしている。
 幼い頃に隣で同じように笑っていた少女の顔と、今目の前で笑顔を浮かべる那奈の顔は同じものであった。
 だが、悠は昨日久しぶりに再会した彼女を見て、強く感じたことがあった。
 それは……。
「那奈ちゃん、しばらく会わないうちにすごく大人っぽくなったね。女の子って少し見ないと、こんなに違うものなのかなって思ったよ。もちろん昔の面影はすごくあるんだけどね」
「えっ、そうかな? 悠くんは変わらないね、昔と同じで優しくてハンサムで。私は悠くんが昔と変わってなくて、ホッとしたんだよ?」
 少し悠の言葉に照れながらも、那奈は彼に微笑んだ。
 悠はそんな那奈に無言で笑いかけ、薄いブラウンの髪をかき上げる。
 それから再びクマに嬉しそうに視線を向けている那奈に、聞こえないくらいの声でぽつりと呟いたのだった。
「僕は再会して綺麗になった君を見て、ますます好きになったよ……」




 ――その日の夜。
 那奈は先生との約束通り、彼のマンションに来ていた。
 その表情はそわそわしているようで、嬉しそうでもある。
 そしてしばらくしてガチャッという金属音が聞こえ、那奈はパッと表情を変える。
 それから座っていたソファーから立ち上がって玄関に視線を向けて、満面の笑みを浮かべた。
「おかえりなさい、先生」
「ただいま、今宮さん」
 眼鏡の奥の優しい印象の瞳を細め、自宅に帰って来た大河内先生は那奈に微笑みを向ける。
「今、お茶淹れますから」
「ありがとうございます、お茶でも飲んでホッとしたかったんですよ」
 そう言ってから、先生はおもむろに眼鏡を外した。
 そしてスーツの上着を脱いでネクタイを外し、最後に漆黒の髪をかき上げる。
 それからふうっとひとつ嘆息して言った。
「あー、何かさすがに行事は疲れるぜ。明日が休みでよかったってやつだよ」
 先生の変化にも慣れたように、那奈は微笑む。
「お疲れ様。まぁ私の淹れたお茶でも飲んで、ゆっくりして……熱っ」
 その時、那奈は顔を顰めて右手を上下に振った。
 先生に視線を向けていたため、急須にお湯を注ぎすぎて那奈の手に少しお湯がかかったのである。
「! どうしたんだよ、大丈夫か!?」
 先生はその声を聞いてキッチンに足を運び、心配そうに那奈に駆け寄る。
 那奈は蛇口の流水で右手を冷やしながら苦笑した。
「ちょっと余所見してたから、少しお湯がかかっちゃっただけだよ」
「ったく、おまえって結構ドジなところあるよな。心配かけさせんなよ」
 そう言って、先生はぎゅっと後ろから那奈の身体を抱きしめる。
 先生の体温を全身で感じ、那奈はカアッと頬を赤らめた。
 それから振り返り、にっこりと笑う。
「大丈夫だよ、心配かけてごめんね」
「お茶は俺が淹れてやる、おまえは座ってろ」
 そう言って強引に那奈をリビングのソファーに座らせ、先生は自分でお茶を淹れ始める。
 そんな先生の優しさに微笑んでから、那奈はさっきまで自分が読んでいた雑誌を開いた。
 そして、キッチンでお茶を淹れる先生に聞いた。
「ねぇ、そういえば先生の誕生日っていつ?」
「あ? 俺か? 5月23日だよ。何でだよ?」
「あ、やっぱり」
 先生の言葉に、那奈はくすくすと笑う。
 先生は湯呑みを温めるために入れたお湯を捨てながら、不思議そうな顔をする。
「やっぱりって、何がだよ?」
「いや、先生って双子座っぽいなーって思って。あ、血液型ってB型じゃない? 何かそんなカンジ」
「何で分かるんだよ? ていうか、本当に女って占いとかそーいうの好きだよな」
 簡単に見透かされ、少し怪訝な表情で先生は淹れたお茶をキッチンから運んできた。
 ……その時だった。
「うわっ! な、なんだ!?」
 キューと妙な音がしたかと思うと足元に妙な感触を覚え、先生は驚いたように床を見る。
 その瞬間、那奈は表情を変えた。
「ああーっ! もう先生っ、私のラベンダー・グマ踏まないでよっ」
「ラベンダー・グマ?」
「うん。オズの魔法使いの続編に出てくるクマの王様よ。せっかく悠くんがくれたラベンダー・グマ、踏んじゃうなんて」
 先生の足を払いのけ、那奈はぎゅっとラベンダー色のクマを抱きかかえる。
 先生はそんな那奈の様子にムッとした表情を浮かべた。
「んだよ、おまえが床に置いとくから踏んだんだろーがよっ。それに……別の男からもらったもの、俺の前で嬉しそうに抱きしめるなっ」
 那奈はそんな先生の様子をちらりと見て、そして言った。
「先生、ラベンダー・グマにごめんなさいは?」
「……は?」
「踏みつけてごめんなさい、でしょ?」
 ずいっと指をさされて、先生はきょとんとする。
 それから那奈の気迫に負け、おそるおそる言った。
「踏みつけて、悪かったな」
 その言葉を聞いて、那奈はぱっと表情を変える。
 そしてカバンの中からあるものを取り出したのだった。
「よく出来ました。はい、これプレゼント。今日繁華街歩いてたら、可愛いストラップ見つけたの。先生って携帯に何も付けてなかったでしょ? だから、私と色違いでお揃いの買ったんだ」
 そう言って、那奈はシンプルなビーズのストラップを先生に差し出す。
 那奈の差し出したストラップは、並んだ小さなビーズのグラデーションが綺麗で先端にパールのような少し大きな玉がついていた。
 那奈のものは赤、先生のものは青の色違いである。
 先生はそれを受け取り、漆黒の瞳を嬉しそうに細めた。
「何かすげー嬉しいぜ……サンキュー。クマに謝った甲斐あったな」
「ふふ、そうでしょ? それにこのストラップ、先に付いている大きなビーズが真珠みたいで可愛いでしょ。オズの魔法使いでもね、赤い真珠と青い真珠って出てくるんだよ。赤い真珠が持ち主の身をあらゆる危険から守るもので、青い真珠が持ち主に強い力をもたらすんだよ」
 テーブルに無造作に置かれていた先生の携帯を手にして、那奈は青いストラップを先生の携帯電話につけた。
 それから赤のストラップを自分の携帯にも付け、満足そうに微笑む。
「ほら、これでお揃い。どう? 先生」
 そんな那奈の様子を見つめ、先生はふっと笑う。
 それから那奈の漆黒の髪を優しく撫で、言った。
「お揃いか、恥ずかしいけどよ……何かいいな」
「バカップルっぽいけど、それがまたいいでしょ?」
 そう言って、那奈はテーブルにお揃いのストラップをつけた携帯電話を並べて置いた。
 そしてふたりは、ゆっくりと瞳を閉じる。
 それから軽くお互いを唇を合わせ、恥ずかしそうに俯いたのだった。


 ……この時那奈は、ずっとこんな平和なふたりの時間がしばらく続くと、信じて疑っていなかった。
 平和な時間が少しずつ慌しくなっていくことを、全く予想すらしていなかったのである。