SCENE1 かかしの王様

 ――4月7日・始業式。
 新学年に上がり高校2年になったその少女・今宮那奈は、生徒たちで混雑する中、学校の掲示板に視線を向けて自分の名前を探していた。
「那奈ーっ! 私たち、また同じクラスだねぇっ」
 突然背後からぎゅっと抱きつかれ、那奈は驚いたように振り返る。
 それからもう一度掲示板に漆黒の瞳を戻し、抱きついてきた友人・知美に聞いた。
「おはよう、知美。同じクラスって、えっと……どのクラスに名前ある?」
「Cクラスよ、Cクラス。しかも担任も国語の吉沢先生だし、ラッキーだよ。あぶなかったぁ、Bクラスだったらあの数学の鳴海先生だったし。私数学苦手だし、鳴海先生って厳しいもんね。吉沢先生なら優しいし、緩そうじゃない?」
「Cクラス……あ、本当だ。担任は国語の吉沢先生か」
 自分の名前をようやく確認した那奈は、一通り一年間同じ教室で過ごすクラスメイトの名前を確認した後に掲示板の前から離れる。
 それから知美とともに新しい教室へ向かって歩きながら、那奈は漆黒の髪をかき上げた。
 開け放たれた窓から吹きつける春風がそっと彼女の頬を撫でる。
 満開に咲いた桜の花びらがはらはらと舞い、校庭の端にピンク色のじゅうたんを作り上げていた。
 ……その時。
 楽しく知美と雑談しながら歩いていた那奈は、ふと顔を上げて立ち止まった。
 それから漆黒の瞳を細め、軽くお辞儀をする。
 そして、言った。
「大河内先生、おはようございます」
 分厚い眼鏡に、始業式にも関わらず何故か着ている胡散臭い前開きの白衣。
 正面から歩いてきた社会科教師・大河内藍先生は、にっこりと那奈に優しく微笑む。
「おはようございます、今宮さん」
 たった一言挨拶を交わしただけだったが、那奈は嬉しそうに頬を緩ませている。
 大河内先生とすれ違った後再び歩き出した那奈に、知美は意味あり気に笑った。
「朝から最愛のアイちゃんに会えて運がいいねぇっ、このぉっ」
「うん。知美とも同じクラスだし、運がいいね」
 素直に頷き、那奈はちらりと後ろを振り返る。
 高校入学当時から、日本史の大河内先生は那奈の憧れの先生だった。
 周囲の生徒からは冴えない教師という印象を持たれている彼だが、那奈にとっては違ったのである。
 お茶を飲みながら一緒にのんびりした時間が過ごせるような、理想の人。
 そして――そんな彼は今、那奈の恋人である。
 ふたりが付き合い始めたのは、先月のホワイトデーの日。
 まだ付き合って間もないふたりだが、今のところ順調に愛を育んでいるのである。
 とはいえ生徒と教師という関係上、ふたりが交際していることは周囲には秘密にしている。
 だが逆に、バレないように秘密の交際をしているというドキドキ感もまた、那奈には楽しかったのである。
 それから那奈と知美のふたりは2年Cクラスに到着した。
 那奈は知美と隣同士の席に座り、周囲の友人たちも交えて楽しく雑談を始める。
「ねぇ、知ってた? 何かね、うちのクラスに転校生来るらしいよ? さっき吉沢先生と一緒に職員室にその転校生いたの見たんだけど」
「本当に? それでその転校生、男? 女?」
「それが男だったんだけど、すっごく格好良かったの!」
「うそっ、すごく楽しみっ」
 ……そんな、きゃっきゃっと噂話に花を咲かせる友人たちを後目に。
 那奈は彼女たちの話を上の空で聞いていた。
(今日の夕食、何にしようかな。先生って定番なお子様メニュー好きだから、やっぱりカレーかなぁ)
 那奈はこの時、恋人である大河内先生に作ってあげる夕食について考えていたのだった。
 そんな那奈の様子に気がつき、知美はニッと笑う。
 そして、那奈の腕を指で突付いた。
「なーに、那奈。顔がニヤけてるけど、またアイちゃんのことでも考えてたの?」
「えっ? いや……うん、まぁ」
 急に現実に引き戻され、那奈は驚いたように頷いてしまう。
「那奈、まだアイちゃんラブなの? ていうかさ、何でアイちゃんって日本史の先生なのに白衣着てるワケ?」
「さぁ、それは分からないんだけど」
 クラスメイトの言葉に小首を傾げた後、那奈は妙に照れくさくなって俯く。
 知美はそんな那奈の肩をぽんっと叩いて言った。
「那奈はアイちゃんに夢中なんだよね。何だっけ、縁側で一緒にお茶飲みながらのんびりできる人、だっけ? 理想のタイプ」
「うん。大河内先生ならぴったりでしょ?」
 嬉しそうにこくんと頷く那奈に、クラスメイトたちは笑う。
「あー確かにそれならアイちゃんぴったりだねぇ。でも、私はお洒落でお金持ちそうな人がいいなぁ」
 那奈以外の生徒は、大河内先生が実は建設会社の御曹司だということは知らない。
 しかもプライベートバージョンの先生は、学校での冴えない先生とは雰囲気も言動も全く変わるということも。
 最初は別人か、はたまた極度の二重人格かと、先生の変化についていけなかった那奈であるが。
 今では冴えなくて穏やかな学校バージョンの先生も、お洒落で魅力的だけど口の悪いプライベートバージョンの先生も、どちらも大好きなのである。
 そんな友人たちと会話をしながらも、愛しの大河内先生のことを考えていた那奈であったが。
 ふと教室にチャイムが響き、朝のホームルーム開始時間を告げる。
 それと同時に2年Cクラスの担任の吉沢先生が教室に入ってきた。
 そして……もうひとり。
 先程の友人たちの噂通り、転校生と思われる男子生徒。
 転校生の姿を見た生徒たちが、ざわざわと小さく騒ぎ出す。
 教壇に立った吉沢先生はひとつ咳払いをし、言った。
「えーっと。これから1年間、2年Cクラスの担任は私、吉沢です。そして転校生が1名、このクラスに来ています」
 そう言って、先生はちらりと転校生の彼に視線を向けた。
 その視線に気がつき、彼は自己紹介を始める。
「安西悠(あんざい ゆう)です。よろしくお願いします」
 はっきりとよく通る声で、転校生の彼・安西悠は言った。
 彼は噂通り、聡明そうで整った顔立ちをしていた。
 そして物腰柔らかな、育ちの良さそうな雰囲気を持っている。
「あの転校生、格好良くない!? 何だか本当に運がいいかもっ」
 少し興奮気味にそう言った知美は、隣の席の那奈に視線を向けた。
 それからふと、不思議そうな表情を浮かべる。
「那奈、どうしたの?」
 大きく瞳を見開いて驚いた表情をしている那奈の様子に気がつき、知美は首を傾げた。
 那奈は瞳を何度もぱちくりと瞬きさせ、そして呟いたのだった。
「安西悠くんって、あの悠くん……?」
「え? 那奈、あの転校生くんのこと知ってるの?」
「たぶん、人違いじゃなければ」
 知美の問いにそう答えて、那奈は教壇に立っている彼を見つめる。
 転校生の彼は、那奈のよく知っている人物だったのである。
 そして彼はそんな那奈の方をちらりと見て、にっこりと整った顔に笑顔を浮かべたのだった。


 ――始業式の式典も終わった、その日の放課後。
 帰りの支度をしながら、那奈はすぐ後ろの席の悠に視線を向けた。
「びっくりしたわ、まさか悠くんが転校してくるなんて」
「那奈ちゃんのこと、驚かそうと思ってね。黙っていたんだよ」
 色素の薄いブラウンの髪をかき上げ、転校生の彼・悠は笑う。
「ねぇ、ふたりはどんな知り合いなの?」
 知美は那奈と悠を交互に見ながらそう聞いた。
 悠は知美にふっと微笑み、それから言ったのだった。
「那奈ちゃんとは幼馴染みだよ。家も近くだし、中学2年まで同じ学校だったしね」
「中2の途中に、悠くんのお父さんが海外出張になっちゃって。悠くんもお父さんについて行ったのよね」
「那奈のご近所さんで幼馴染み、それに海外出張って……もしかして、もれなく安西くんちもお金持ち!?」
 瞳を異様に輝かせて、知美は悠に期待の視線を向ける。
 そんな知美の言葉に苦笑し、悠は小首を傾げた。
「一応、家は会社経営とかやってるけど……金持ちかどうかは」
「悠くんのお父さんは、大手医療機器メーカーの社長さんよ。でも、悠くんは私と同じなんだよね」
 那奈は悠を見て、彼に視線を向ける。
 その言葉に首を捻り、知美は不思議そうな顔をした。
「同じ?」
「うん。私と同じ、彼もお金持ちの家が嫌いなの。だから悠くんとは気が合うんだよね」
「那奈ちゃんとは、小さい頃からの付き合いだしね」
 そう言って微笑んだ後、悠はふと腕時計を見る。
 それから席を立ち、残念そうに言った。
「あ、担任の吉沢先生に職員室に呼ばれてたんだった。名残惜しいけど、またね」
「そうなんだ。じゃあまたね、悠くん」
「バイバーイ、安西くん」
 カバンを持って教室を出て行く悠に手を振り、那奈と知美は再び帰り支度を始める。
 そして知美は隣の席でプリントをカバンにしまう那奈に、おもむろに視線を向ける。
 それからニッと笑って、那奈の耳元で言ったのだった。
「ねぇねぇ、那奈っ。安西くんのこと、どう思ってるの?」
「どうって?」
 言われた言葉の意味がよく分からず、那奈はきょとんとする。
「何かすごく仲良くて、ふたりいい雰囲気だったじゃなーい。安西くんお金持ちだし顔も格好いいし、お似合いよ?」
 楽しそうにそう言う知美に、那奈は意外な表情を浮かべた。
 それから驚いたように漆黒の瞳を数度瞬きさせる。
「えっ? 確かに仲はいいけど、悠くんは幼馴染みで友達だし」
「幼馴染みから発展する恋もあるんじゃない?」
 からかうようにそう言う知美に、那奈はちらりと視線を向けた。
 その顔は、少し複雑な色を浮かべている。
 それからふと考えるような仕草をして間を取った後、那奈はゆっくりと言った。
「あのね、知美……実は私ね、彼氏できたんだ」
「……えっ?」
 そんな那奈の言葉に、一瞬知美はきょとんとして言葉を失う。
 そして何度も大きく目を瞬きさせ、驚いたように声を上げたのだった。
「えーっ!? うそっ、そんなこと聞いてないっ。いつから!? 相手はどんな人っ!?」
「え? えっと、付き合いだしたのは先月からで……相手は、ちょっと年上の人」
「本当に!? って、一体どこで知り合ったの!?」
「知り合ったのは……えっと、うちのおじいちゃんの会社で」
 どう言っていいか分からず、那奈はしどろもどろでそう答える。
 親友である知美には、彼氏ができたということは言っておいた方がいいと那奈は思ったのだった。
 ただ……まさか相手が、あの大河内先生だとは言えないのだが。
 那奈の話を聞いて、興奮したように知美は続ける。
「那奈のおじいちゃんの会社で知り合ったんなら、まさか相手はお金持ちのお坊ちゃまとか!? 写真とかないの!? 年上なら、車持ちとか? 何に乗ってるの?」
「えっ? 一応、建設会社の社長の息子、かな。写真は……えっと、彼がそんなに好きじゃなくて持ってないんだ。車は青のフェラーリだよ」
 すごい勢いで質問してくる知美のテンションに気後れしつつ、那奈は何とかそう言った。
 知美は羨ましそうに、うっとりと瞳を細める。
「うっそぉっ、建設会社の社長の息子な上に、愛車は青のフェラーリ!? 那奈、あんなに金持ちのボンボン嫌いだったのにどうしちゃったの!? でも彼氏できてよかったねぇっ」
 驚きながらも知美は、那奈を祝福するようにぽんぽんっと軽く肩を叩いた。
 那奈はそんな知美に、にっこりと笑顔を浮かべる。
 それから、こう言ったのだった。
「彼はお金持ちだけど……でもね、私の理想の人なんだ」
 心から嬉しそうに微笑む那奈の表情を見て、知美は笑った。
「そっかぁ。よかったね、那奈。羨ましいぞ、私にもお金持ち紹介してよね」
 そしてカバンを持ち、席を立って言葉を続ける。
「帰りの用意できた? じゃあ、帰ろうか。それにしても、那奈はアイちゃん一筋だと思ってたから、驚いちゃった」
 知美に遅れて席を立って、那奈はその彼女の言葉に思わず苦笑する。
 それから知美に並んで教室を出て、口を開いたのだった。
「知美。大河内先生のこと、ちゃんと大好きだよ」
「憧れと彼氏は別だったりするもんねぇ。ま、よかったよかったっ」
 那奈の言葉に深い意味があるとも知らず、知美は楽しそうに歩き出す。
 那奈はふっと漆黒の瞳を細めて同じ色の髪をかき上げ、そして幸せそうに微笑んだのだった。


 窓の外の空はすっかり暗くなり、ほぼ満月に近い月の明かりが夜の街を照らしている。
 そんな景色を見つめた後、都心の高級マンションの一室で那奈はカーテンを閉めた。
 それからリビングにいる恋人に目を向ける。
「そろそろ夕食できるよ、先生」
「あー腹減った。いい匂いだな、カレーか?」
「うん。でもね、ちょっと多めに作っちゃったんだけど……」
 キッチンでカレーをよそいながら、那奈はうーんと困ったように小首を傾げた。
 そんな那奈の言葉にニッと笑い、大河内先生は漆黒の前髪をザッとかき上げて言った。
「あ? んなコト構わねーよ。カレーなら何日連続でも飽きないからな。むしろ、毎日カレー食えるなんて幸せだよ」
 本当に嬉しそうにそう言う大河内先生を見て、那奈はくすくす笑う。
 そんな那奈の様子に、先生は首を傾げた。
「何だよ、何かおかしいこと言ったか?」
「だって先生、言うことが小学生みたいなんだもん」
 まだ笑っている那奈に、先生はテーブルに頬杖をつく。
 それから苦笑し、深い漆黒の色を湛える瞳をふいっと彼女から逸らした。
「悪かったな、小学生でよ。ていうかよ、そんな小学生の生徒なんだぞ? おまえは」
 反撃と言わんばかりにそう言って、先生は再び那奈に目を向ける。
 那奈はカレーを先生の前に置いた後、楽しそうに言った。
「男の方が女よりも精神年齢低いって言うでしょ? あ、先生の苦手なニンジン、ちゃんと少なめによそっておいたから。ダメじゃない、好き嫌いなんてしたら」
「るせーなっ、カレーは好きでもニンジンは食えねーんだよ」
 むうっと怪訝な顔をして、先生は苦笑する。
 そんな彼を見て笑った後、那奈は二人分のお茶を淹れるためにもう一度キッチンに足を運び、お湯を沸かそうとやかんを火にかけた。
 それから先生のいるリビングに戻り、微笑んで言った。
「とにかく私の作ったカレー食べてみてよ、先生」
「ああ、そうだな。んじゃ、いただきます」
 律儀に手を合わせ、先生はカレーをスプーンですくって口に運ぶ。
 那奈はそんな彼の様子を伺うように小首を傾げた。
「どうかな、先生」
 先生は澄んだ漆黒の瞳を細め、そして笑みを浮かべる。
「うん、美味い。辛さもちょうどいいな」
「本当? よかったぁっ」
 先生の言葉に、那奈はパッと表情を変えた。
 そんな那奈の頭を少し乱暴に撫でた後、先生はおもむろに彼女を自分の胸に引き寄せる。
 そして。
 綺麗な漆黒の瞳をスッと閉じ、自分の腕の中の彼女に優しく口づけをしたのだった。
 そんな柔らかなキスに頬を赤らめながら、ゆっくりと瞳を開いた那奈は先生に笑顔を向ける。
「先生のキス……カレーの味がする」
「そりゃそうだろ、カレー食ったんだからな。ていうか美味いぞ、おまえも早く食ってみろ」
 にっこり笑う那奈の頭をもう一度撫で、先生は笑った。
 那奈はこくんと頷き、自分の分のスプーンを手に取った。
 ……その時。
「あっ、私の携帯鳴ってる? ちょっとごめん」
 一度手にしたスプーンを皿に置き、那奈は立ち上がる。
 そしてカバンの中に入れていた携帯を手にして通話ボタンを押した。
「もしもし?」
『あ、那奈ちゃん? 僕だけど』
 携帯から聞こえてきたその柔らかな声に、那奈は微笑む。
「あ、悠くん。どうしたの?」
『那奈ちゃんごめんね、急に電話して。今話してもいいかな?』
 その着信は、転校生で那奈の幼馴染み・安西悠からであった。
 那奈はちらりとリビングでカレーを食べている先生に目を向けた後、遠慮気味に言った。
「うん、少しなら話しても大丈夫、かな?」
 那奈がそう言った、ちょうどその時。
 リビングにいた先生はふと何かに気がつき、おもむろに立ち上がる。
 そして急いでキッチンへと足を運んだ。
「げっ、やかんのお湯ふいてるじゃねーかよっ。那奈、火止めとくぞ」
「あっ、ごめんね」
 那奈は火を止めにキッチンに入った先生に、申し訳なさそうに手を合わせる。
 その時だった。
『那奈ちゃん、今誰かと一緒なの?』
 そう電話の向こうで、不思議そうな悠の声が聞こえた。
 那奈は少し慌てたように答える。
「えっ? う、うん。まぁ……」
『そっか。いや、せっかく明日入学式で学校も休みだから、那奈ちゃんと会って話でもしたいなって思って』
「そうだね、悠くんとは積もる話もあるしね。いいよ、何時にどこで待ち合わせする?」
『那奈ちゃんの家に迎えに行くよ。時間は……お昼くらいがいいかな? どこかでランチでも食べようか』
 その悠の提案に、那奈はこくんと頷く。
「うん。じゃあ明日お昼頃ね、用意して待ってるから」
『僕も楽しみにしているよ。じゃあ、また明日』
 優しく那奈にそう言って、悠は電話を切った。
 那奈も携帯の通話終了ボタンを押して、折りたたみ式の携帯を閉じる。
 それから先生の隣に再び座り、改めてスプーンを手にした。
 そしてひとくち自分の作ったカレーを口にした後、那奈はふと隣の彼に視線を向けて首を傾げる。
「? どうしたの、先生」
 先程までと表情の違う先生の様子に気がつき、那奈は彼にそう聞いた。
 先生はパクッとカレーを口にした後、じろっと那奈に漆黒の瞳を向けて言ったのだった。
「誰だよ、男だっただろ? 今の電話。明日そいつとデートかよ」
 先生のその言葉に、那奈は一瞬きょとんとする。
 それから大きく首を振り、笑った。
「やだ、デートだなんて。彼はうちの近くに住んでる私の幼馴染みで、今日うちの学校にも転校してきたのよ? 安西悠くんっていうんだけど、先生も日本史教えるんじゃない?」
「幼馴染み? ていうか仲良さそうだったけどよ、おまえんちの近くに住んでるなら、おまえの嫌いな脳みそのないかかしのボンボンなんじゃねーのか?」
 まだ怪訝な顔をしたまま、先生はそう呟く。
 以前那奈は、金持ちの息子は童話のオズの魔法使いに出てくるかかしみたいで嫌いだと、先生に言ったことがある。
 それを思い出し、先生はそう言ったのだった。
 那奈は首を振った後、言った。
「ううん、悠くんは私と同じで金持ちな家にうんざりしてるから違うんだ。そうだ、オズの魔法使いっていえば、かかしって脳みそを貰った後オズの国の王様になったんだよ。先生、知ってた?」
「そうなのか? ていうか、話変えるなよ。幼馴染みだか何だか知らねーけどよ、俺のいないトコで男と会ってんじゃねーぞ、コラ」
 まだ気に食わないようにそう言う先生に、那奈はちらりと視線を向けた。
「なによ、先生は明日も入学式で学校に出勤なんでしょ? どうせ会えないんだし、それに彼はただの幼馴染みよ。ていうか、先生……もしかして、やきもち?」
「バカ! そんなんじゃねーよっ。でもな、おまえが男と会うって聞いたらいい気持ちはしねーだろうがよ」
 カッと照れたように頬を赤らめ、先生は拗ねたようにそっぽを向いた。
 そんな様子ににっこり微笑み、那奈は先生の肩をポンポンッと叩く。
 肩を叩かれた先生は、ふと那奈の方に視線を戻した。
 ……そして。
 振り向いた先生の唇に、那奈はそっと自分の唇を重ねる。
 それから、ふっと笑って言ったのだった。
「心配しなくても大丈夫だよ。私は先生のことが大好きだから」
「那奈……」
 先生は目の前の那奈を、ぎゅっと強く抱きしめる。
 それから漆黒の瞳を細め、言ったのだった。
「おまえのキスも、カレーの味がするぞ」
「ふふっ、だってカレー食べたもん」
 そう言って那奈は幸せそうに微笑む。
 そしておもむろに立ち上がり、キッチンへと足を運んだ。
「先生、今お茶淹れるね」
「ああ。んじゃ、カレー食って茶でも飲みながら、幕末の話でもしてやるか」
「うん、お茶飲みながらゆっくりとね」
 那奈はキッチンでお茶を淹れながら、その先生の言葉に嬉しそうに頷いたのだった。


 ……その、同じ頃。
 那奈と話が終わって携帯をしまってから、悠は大きく溜め息をつく。
 そんな彼の表情は、何故か浮かない。
 それから色素の薄い髪をかき上げ、ぼそっとこう呟いたのだった。
「さっき電話の後ろで、男の声が聞こえたよな……」