SCENE8 勇気のないライオン

「お邪魔します……」
 先生の家に入って那奈は遠慮気味にそう言った後、雨に濡れたコートを脱いで玄関でパタパタと叩いた。
 先生はそんなまだ雨露のついた那奈のコートを受け取る。
「コートはハンガーに掛けて乾しておきましょうね。あ、今タオルを持ってきますから」
「すみません、先生」
 ぺこりと慌てて頭を下げ、那奈は申し訳なさそうな表情を浮かべた。
 首を横に振り、先生はにっこりと微笑む。
「急に雨が降り出しましたからね。風邪をひいたら大変ですから、あがってシャワーでも使ってください」
「えっ?」
 その先生の言葉に、那奈は大きく数度瞬きをした。
 よく考えると、当たり前だが今自分は先生とふたりきりなのである。
 勢いで先生の家まで来てしまった那奈であるが、今更照れくさくなって恥ずかしそうに俯く。
 先生は暖房をつけて那奈のコートを丁寧に掛けた後、スッとかけていた眼鏡を外してスーツの上着を脱ぎネクタイを外す。
 最後に漆黒の前髪をザッとかき上げてから、そして先生はタオルを手に取って玄関に立ち尽くす那奈に手渡した。
「ったく、全身びしょ濡れじゃねーかよ、おまえ。ほらさっさと拭けよ、風邪ひくぞ」
「えっ? きゃっ」
 ぐりぐりと少し乱暴に那奈の髪を拭き、先生はふうっと溜め息をつく。
「ていうか、何でおまえ俺の家知ってんだよ? おまえがびしょ濡れで立ってるの見た時は驚いたぞ」
「香夜さんが教えてくれたから、先生の家」
 先生の変わり様に少し戸惑いながらも、那奈はバスタオルを受け取ってちらりと彼を見た。
「ああ、香夜のヤツにか……って!? おまえっ、何でアイツに!?」
 那奈の言葉に一瞬納得したように頷いた先生であったが、すぐさま大きく漆黒の瞳を見開く。
「この間香夜さんがうちに来て、いろいろお話したから」
 服と同様に濡れた靴下を屈んで脱ぎながら、那奈は先生の問いに答えた。
 先生はさらに驚いたような表情を浮かべ、目をぱちくりさせる。
「は!? んなこと聞いてねーぞっ!? ていうか一体何話したんだよ、あの魔女とっ。むしろ、何かされなかったか!?」
「何かって、楽しくお話したりとかしたよ。いい人だね、香夜さんって」
「あんの魔女っ、わざと俺に黙ってやがったな……っ」
 きょとんとしてそう言った那奈を後目に、先生は深く嘆息した。
 それから気を取り直し、那奈に言った。
「おまえ、シャワー浴びるだろ? 服も乾燥機回せばすぐ乾くだろうからよ」
「え? あ、でも服乾かしてる時の着替えとかないんだけど」
 少し戸惑いながら、那奈は思わず頬を赤らめる。
 そんな彼女の様子には気がつかず、先生はうーんと考える仕草をする。
「あー着替えか。貰ってから1度も使ってないバスローブくらいしかないけどよ、服乾くまでそれでいいか?」
「えっ? あ、うん……」
「んじゃ、バスルームはそこだからよ。服は乾燥機に放り込んどけ、おまえがシャワー浴び終わったら回すからな」
 そう言って先生は、スタスタとリビングへと移動する。
 那奈はどうしようか悩んだが、とりあえず言われた通りにバスルームへと足を運んだ。
 それから戻ってきた先生からバスローブを受け取り、パタンとドアを閉めた。
 バスルームに続く広い洗面所はモノトーンを基調としたシンプルな印象を受ける。
 几帳面で綺麗好きな先生らしく、きちんと小物も整理されて置かれていた。
 真っ白なコップに歯ブラシが1本しか立っていないことに何故かホッとしつつ、那奈は先生のプライベートな空間に今自分がいるということを改めて感じた。
 そう思った途端、咄嗟に先生の家に来てしまったことが急に恥ずかしくなり、那奈は火照った頬に手を当てる。
 だが、来てしまったからには今更どうしようもない。
 鏡に映る雨に濡れた自分の姿を見つめ、それから那奈は気を取り直して洋服のボタンを外し始めたのだった。


「……何か落ち着かねーな」
 そうぽつりと呟きながら、先生はキッチンとリビングを意味もなく行ったり来たりしていた。
 雨で濡れていた那奈に何も考えずにシャワーを浴びさせた先生だったが。
 彼女がバスルームに入ってリビングでひとりになった途端、妙にじっとしていられなくなったのである。
 今第三者がこの状況を見たら、間違いなく誤解されるだろう。
「あーっ、仕方ないだろっ。別に人様に顔向けできねーようなことなんてないんだからなっ」
 自分に言い聞かせるようにそう言って、先生は鬱陶しそうに漆黒の前髪をかき上げる。
 それにしても、今姉である香夜が家に来たりなんてしたら、何と言われるか分かったものではない。
 それよりも香夜から那奈と会って話をしたなんて、一言も聞いていなかった。
 いや、彼女の性格を考えるとわざと言わなかったのだろう。
 先生は大きく溜め息をついた後、リビングのソファーに座った。
 それから淹れたお茶をぐいっと飲んで呟いた。
「ちょうどあいつと話をしたかったんだ、いい機会じゃねーかよ」
 学校ではすれ違いばかりで話が出来ず、心の中がもやもやした状態だった。
 早く彼女とちゃんと向き合って話をして、すっきりしたかったのは確かだ。
 そう思い直し、先生はふうっと深呼吸をする。
 その時だった。
「先生、ドライヤー勝手に使っちゃったけどよかったかな?」
 ふわりとシャンプーのいい香りが鼻をくすぐり、先生は振り返る。
 それから漆黒の瞳を数度大きく瞬きさせた。
 バスローブ姿の那奈が突然目に映り、一瞬先生は言葉を失ってしまう。
「先生?」
 不思議そうな顔をして小首を傾げる那奈に、先生はハッと我に返る。
 そしてコホンと誤魔化すように咳払いをして言った。
「あ? ああ。乾燥機回して茶でも淹れるからよ、おまえはそこに座ってろ」
 先生はそう言って、足早にバスルームに向かう。
 それから乾燥機を回し、はあっと嘆息した。
 バスルームの中はまだシャンプーのいい香りとムッとした熱気が残っている。
 先生はちらりと鏡を見て、そして呟いた。
「ったく、何て顔してんだ、俺……」
 ガンと軽く洗面台を叩き、それからもう一度大きく深呼吸をしてからバスルームを出る。
 そしてキッチンで那奈の分のお茶を淹れてリビングへと戻った。
「先生の家って、すごく綺麗に片付いてるんだね」
 きょろきょろと物珍しそうに周囲を見回す那奈にお茶を出し、先生は彼女の正面に座った。
「そうか? ま、掃除とか好きだし、あまり物をたくさん置くのが好きじゃねーからよ。でも書斎は駄目だな、捨てられない資料やら本やらがたくさんたまっててよ、なかなか片付かないんだよ」
「資料や本って、日本史の?」
 出されたお茶をひとくち飲んで、那奈は聞いた。
 そんな那奈にこくんと頷き、先生は苦笑する。
「ああ、だいたいそうだな。何か本だけは捨てられなくてよ、学生時代からのヤツもあるからな」
「ふーん、何か先生らしいね」
 小さく微笑み、那奈は瞳を細めてそう言った。
 先生はそんな那奈にちらりと視線を向ける。
 そして、遠慮気味に口を開いた。
「あのよ、今宮……もう香夜のヤツに会ってるんなら、この間の夜のことは……」
 その言葉を聞いて、那奈は顔を上げてこくんと頷いた。
 そして、申し訳なさそうに言った。
「香夜さんが先生のお姉さんって知らなくて誤解しちゃって……ごめんなさい」
「ま、誰が見ても誤解するわな、あの魔女の行動見たらよ。別におまえが謝ることじゃねーよ」
 それから先生は、はあっと嘆息して言葉を続ける。
「それよりおまえな、俺が生徒の前で女と抱き合うような不良教師に見えるってのかよっ!?」
 じろっと視線を向ける先生に、那奈はふっと笑って言った。
「だって、現に生徒の前で綺麗な女の人に抱きつかれてたのは事実じゃない」
「あのなっ、あいつは俺の姉貴だぞ!? それにあの時は、あの魔女が酔っ払っててだなっ」
 ムキになって弁解する先生を見て、那奈はくすくすと笑い出す。
 そんな那奈の様子に先生はむうっと気に食わない顔をする。
「笑うなっ! おまえ、だいたい何で教師にタメ口きいてんだよっ」
「え? あ、プライベートバージョンな先生には、何か敬語使うのって違和感あって」
「プライベートバージョン? ま、それはいいんだけどよ」
 那奈の言葉に首を傾げ、先生はお茶をひとくち飲む。
 それから、ふと何かを思いついたように手を打った。
「そうだ、この前からよ、おまえに今度は真田幸村の話をしてやろうと思ってたんだよ。知ってるだろ? 智将・真田幸村」
「あまり詳しくは知らないけど、よくドラマとか映画とかで取り上げられてるよね。あの六文銭とか真田十勇士とかで有名な人でしょ?」
「ああ。真田といえば武田のやり方を受け継いで徳川を何度も苦しめた家だから、人気も高いんだけどよ。1600年の関ヶ原の合戦で、幸村は父の昌幸とともに石田三成の西軍について徳川秀忠の軍を食い止めたりと戦果をあげたんだ。だけどな、結局関ヶ原で西軍が敗けたからよ、幸村は所領を没収された上に九度山での生活を強いられたんだよ。とはいえ、本当は死罪なところを幸村の兄・信之の必死の願いで免れたんだけどな」
 那奈は楽しそうに話をしだした先生を、頷きながらじっと見つめる。
 この先生の無邪気な表情が、那奈は大好きなのである。
 最初にプライベートバージョンな先生を見た時はショックを受けた那奈であるが、今ははっきりと分かる。
 学校での先生も、目の前のプライベートな先生も……那奈の大好きな大河内先生だということを。
 そしてこの時、自分の夢を叶えてくれる魔法使いはやはりこの人以外いないと、彼の話を聞きながら強く感じたのであった。


 つい話が弾み、すでに時間は22時を回っていた。
 すっかり乾いた服に着替えて先生の家を出た那奈は、彼の青のフェラーリの助手席に乗り込んだ。
 那奈が先生の家を訪れた時よりも、雨は一段とひどくなっている。
「ごめんなさい、家まで送ってもらって」
「別に構わねーよ。俺も時間忘れて話込んじまったからな、悪かったな」
 先生の言葉に那奈は大きく首を振る。
「ううん、すごく楽しかったから。今度はどんな話してくれるの?」
「うーん、そうだな……伊達政宗の話でもするか? もう少し早く生まれてたら天下取れたって言われてたり、もしもあの時こうだったら、なんていろいろ想像させてくれる面白い武将だしな」
 相変わらず楽しそうにそう言う先生を、那奈は満足気に見つめた。
 青のフェラーリを颯爽と運転している金持ちのボンボンが、まるで子供のような表情で戦国武将について語っているなんて、誰が想像するだろうか。
 そう考えると那奈は可笑しくて、つい笑顔になってしまう。
 そしてそんな那奈を、運転席の先生も綺麗な漆黒の瞳でじっと見つめていた。
 彼女と話をしていたら、時間が経つのもつい忘れてしまう。
 彼女が自分の好きな話を楽しそうに聞いてくれるということもあるのだが、でもそれだけではない。
 自分の素性がばれたあの日から、ずっと妙に彼女のことばかりが気になっていた。
 この間の香夜の出来事だって、一刻も早く誤解を解きたかった。
 それは自分が教師という立場だからというだけではなかった。
 むしろ教師とか生徒とか、そんなことは関係ない。
 彼女に誤解されたままなのが、とにかく耐えられなかったのである。
 そして先生は、とっくに気がついていた。
 自分の心の中に……那奈が入り込んでしまっていることを。
 先生の家から那奈の家までは、車で15分ほどである。
 だが車内での会話も弾み、彼女の家までの時間もあっという間に過ぎてしまった。
「先生、送ってくれてありがとう。傘も明日返すから」
 家の前で青のフェラーリが停車し、那奈はシートベルトを外して先生に頭を下げてお礼を言った。
「ああ、また明日学校でな」
 漆黒の髪をかき上げ、先生はふっと軽く手をあげる。
 それから那奈は助手席のドアを開けて借りた傘を手にし、外に出ようとした。
 先生は、そんな那奈からふと視線を外す。
 そして何かを考えるように俯いてから、ゆっくりと口を開いた。
「……今宮」
 ふと自分を呼び止める声に、那奈は動きを止めて振り返った。
 そして次の瞬間、自分を真っ直ぐに見つめる先生の綺麗な瞳にドキッとする。
 先生は那奈を呼び止めはしたものの、なかなか次の言葉を発しようとしない。
 車内に、一瞬の静寂が訪れる。
 先生は那奈から視線を逸らして溜め息をつき、それから言った。
「いや、その……雨で濡れたんだからよ、風邪ひかないようにあったかくして寝ろよ」
「え? あ、うん。じゃあ先生、また明日」
「……ああ」
 ざっと前髪をかき上げ、それから先生はおもむろに瞳を伏せる。
 そして那奈が改めて外に出ようとした、その時だった。
「大河内、先生?」
 那奈は驚いたように振り返って首を傾げた。
 車を出ようとした那奈の腕を、咄嗟に伸びた先生の手が掴んだからである。
 驚く那奈を見つめたまま、先生は再び口を噤む。
 それから先程と同じような沈黙の後、口を開いた。
「……今日は、おまえと話ができてよかったよ。ありがとな」
「あ、はい。私も先生と話ができてよかったです」
 にっこりと笑って、そして那奈はお辞儀をして傘を差し、車を出る。
 それから一度振り返り、小さく手を振ってぺこりと頭を下げた。
 那奈が家に入るのを見送った後、先生は青のフェラーリを再びゆっくりと走らせる。
 当分止みそうもない雨を見つめながら、先生は大きく嘆息した。
 そして、言った。
「何やってんだ、俺……本当に言いたかったことは、んなコトじゃねーだろ……」
 那奈に対しての正直な自分の想いと、教師と生徒というお互いの立場。
 自分の気持ちに素直になろうとしても、やはり肝心なところで躊躇してしまう。
 そんな自分に嫌悪しながらも、先生はオズの魔法使いの童話のライオンのことを思い出していた。
「勇気のないライオン、か……」
 先程よりも強くなった雨が車のフロントガラスに容赦なく降りつける。
 それを拭うワイパーの音だけがカタンカタンと車内に響いていた。
 那奈とふたりの時は、そんな雨音やワイパーの音に気がつきもしなかったのに。
 先生は漆黒の瞳を細め、何度目か分からない溜め息をついた。
 そして降りしきる雨の中、青のフェラーリのアクセルをぐっと強く踏んだのだった。