SCENE7 オズへつづく道

「大河内先生? ついさっきまでいらっしゃったんだけど、今職員室を出て行かれたよ」
 賑やかな昼休みの職員室。
 大河内先生を探している那奈に、少し小太りな古典担当の先生はそう言った。
 那奈は職員室内をきょろきょろ見回し、そして小さく溜め息をつく。
 それから古典の先生に頭を下げて首を傾げた。
 朝からずっと大河内先生を探している那奈であるが、なかなか彼に会えないのである。
 この数日間、那奈は先生のことをあからさまに避けていた。
 だが先生の姉である香夜と話をして自分が勘違いしていたことを那奈は知った。
 そのことを、彼に直接会って謝りたかったのだ。
 謝りたいことももちろんであるが、それ以上にやはり意地を張って先生と話をしなかった数日間、那奈の心はぽっかりと穴があいたかのように寂しかったのである。
「先生、どこに行っちゃったんだろうな」
 もう一度先生の姿がないか周囲を見回し、そして職員室を出た。
 朝に職員室を訪れた時も職員室に先生の姿はなかった。
 社会科教室も念のために覗いてみたが、結局彼には会えずじまいなのである。
 その上、那奈のクラスの今日の時間割に日本史はない。
 昼休みなら職員室にいるだろうと思っていたのだが、やはりまたすれ違いだったようである。
 残念そうな表情を浮かべて、そして那奈は教室へと戻り始めた。
 ――同じ頃。
「あの、今宮さんはいませんか?」
 那奈のクラスの教室の前で、大河内先生は那奈の友人である知美を呼び止めて聞いた。
「あれ? 那奈ならさっき、職員室に行ったはずですけど」
「職員室に? そうですか、ありがとう」
 丁寧にぺこりと頭を下げてから先生は元来た廊下を歩き出す。
 それからちらりと腕時計に漆黒の瞳を向けた。
 職員室に行っているのならば、戻っている途中で彼女に会えるかもしれない。
 次の授業の準備をしに社会科準備室に寄りたかった先生だったが、そう思い直して那奈のクラスの教室から直接職員室へ戻ろうと階段を降り始める。
 昼休みで賑わう校内を歩きながら、先生は那奈の姿がないか探した。
 だが結局那奈を見つけられないまま、先生は職員室まで辿り着いてしまった。
 ふうっと小さく溜め息をついて自分の机まで戻る。
 那奈が姉の香夜に会ったことを知らない先生は、早く那奈に事情を説明したかったのだ。
 教師として誤解されたままでは困るということもあったが、それ以上に彼女に誤解されているこの状況を変えたかった。
 ここ数日は那奈と話をしていないため、社会科準備室で彼女とお茶をすることももちろんない。
 少し前までは、授業で話せないマニアックな自分の話を聞いてくれる生徒がいるということが、先生にとって嬉しかった。
 だが最近は、そんな感情とは少し違う何かが生まれてきていることに先生は気がついていた。
 確かに今でも、自分の話を楽しそうに聞いてくれる生徒がいるということに関しては前と変わらず嬉しいことであるが。
 先生の心の中に生じている感情は、それだけではなくなっている。
 そして先生には、その感情が何なのかが分かっていた。
 それは……。
「あ、大河内先生」
 ふと声をかけられ、先生はハッと我に返って顔を上げる。
 そんな様子を見て隣の席の古典担当の先生は言った。
「さっき、Aクラスの今宮が先生のことを探していましたよ?」
「え? あ、そうですか。ありがとうございます」
 那奈の名前を聞いて一瞬表情を変えたが、何事もないように先生は小さく頭を下げる。
 それからどうしようか少し考えるように俯く。
 そしてもう一度腕時計を見た。
 だがその時、次の授業の予鈴がおもむろに鳴り始める。
 耳に聞こえる予鈴に嘆息した後、先生は昼休みに那奈と話をするのを諦めて次の授業の準備を始めたのだった。
 その、同じ時。
「あ、那奈。アイちゃんに会えた?」
 教室に戻ってきた那奈に、知美は聞いた。
 その言葉に首を振って那奈は嘆息する。
「ううん、会えなかったよ。大河内先生、職員室にいなかったんだ」
「さっきアイちゃん、那奈のこと探して教室まで来てたんだよ? 途中で会えたかと思ったんだけどなぁ」
 うーんと腕組みをしてそう言う知美に、那奈は表情を変えた。
「えっ、先生が教室に? 職員室出た後、社会科準備室にいるかもって別館まわって戻ってきちゃったから……」
 はあっと深く息をつき、那奈は首を振る。
 せっかく先生が自分を訪ねて来てくれたのに、またもやすれ違いである。
 同じ校内にいるのに会えないなんて。
 おもむろに、午後の授業開始を告げるチャイムが鳴り始める。
 次の授業の教科書を机の中から取り出しながらも那奈はもう一度嘆息し、そして先生を避けていたここ数日の自分の行動を改めて後悔したのだった。


 ――その日の夜。
 那奈は自宅のソファーに座ってお茶をひとくち飲み、ほうっと一息ついた。
 それから隣で寝ているトトの耳の後ろを数度撫でた後、黒髪をそっとかき上げる。
 結局この日、学校で大河内先生と会えなかった。
 放課後も職員室を覗いた那奈だったが、先生は会議で不在であった。
 仕方なく今日先生と話をすることを諦めて那奈は帰宅したのである。
 明日は日本史の授業があるので、その時にでも話をする約束を取り付ければいい。
 それから、誤解してつれない態度を取ったことを謝ろう。
 そう思っている那奈であるが。
 だがやはりその心の中はまだもやもやとした霧がかかっているようですっきりしなかった。
 一刻も早く先生に謝って、そしてまたいつものように楽しく話ができる状況に戻りたい。
 子供のように楽しそうに話をするあの先生の瞳を見つめながら、温かいお茶を彼と一緒に飲みたい。
 そう思うと、那奈はいてもたってもいられなかった。
 だが、肝心の先生と会えなかったのではどうしようもない。
 瞳を閉じると大好きな先生の顔が自然と思い浮かんでくる。
 一日彼の顔を見ないだけで、こんなにも寂しいなんて。
 テレビもついていない広いリビングはシンとしていて、より一層那奈のそんな気持ちに拍車をかけていた。
 那奈は再びお茶を口に運ぶと、ふと視線をテーブルの上に置かれている手帳に移す。
 そしてそれに挟んであるメモ紙を手に取った。
『南の国の魔女から、ドロシーちゃんにもうひとつ贈り物ねっ』
 昨日の夜、そう言って先生の姉である香夜がくれたもの。
 その紙をじっと見つめていた那奈は、何かを考えるように瞳を細める。
 それから時計に目をやった後、立ち上がった。
「トト、いい子にお留守番しててね」
 コートを手に取った那奈はトトの頭を2、3度撫でて、そして家を出たのだった。
 ――同じ頃。
 大河内先生はちょうど学校の校門を出て自宅に帰っている途中であった。
 学校に事情を隠して勤務しているために、青のフェラーリで堂々と出勤するわけにはいかない。
 そのため、少し学校から離れた場所に駐車場を借りてそこに愛車を止めている。
 電車通勤でも構わないのであるが、先生の家から最寄の駅までは歩いて少し距離があった。
 学校から父親の建設会社に直接寄ることも多いし、車の方が何かと便利がいいのである。
 先生はふと、眼鏡の奥の綺麗な漆黒の瞳を空に向けた。
「もうすぐ雨が降りそうですね……」
 そう呟いて先生は歩く足を速める。
 何気に会議も長引き、時間はすでに19時を回っていた。
 日の沈んだ空を厚い雨雲が覆っているために一層その暗さが増している。
 それからしばらく歩き、先生は愛車を止めてある駐車場に辿り着いた。
 車のキーを取り出して開け、先生は車に乗り込む。
 そしてゆっくりと愛車を発進させた。
 車が走り出したと同時に、暗雲の立ち込めている空からポツポツと雨が降り出してきた。
 雨の振り出した周りの景色を横目で見ながら、先生はふっと嘆息する。
 那奈と話をしたかったのに、この日先生は彼女の姿を目にすることすらできなかったのである。
 昨日まではつれない態度で話を聞いてもくれなかった那奈であるが、今日はタイミング的にすれ違いばかりだったとはいえ彼女も自分のことを探していたらしい。
 那奈が姉に会っていることを知らない先生にはそんな彼女の行動の変化の理由は分からなかったが、今日は今までと違って彼女が自分の話を聞いてくれそうだということは分かっていた。
 それなのに、結局学校では会えなかった。
 名簿を見れば彼女の連絡先などは調べられるのであるが、一応教師という立場上個人的な用件で連絡を取るのも何だか気が引ける。
 明日は那奈のクラスの授業もあることだし、学校で会えるだろうし。
 頭の中ではそう分かっている。
 分かっているのだが、心の中は妙に焦っていた。
 信号が赤になったために先生は車のブレーキを踏む。
 眼鏡の奥の瞳をふっとおもむろに伏せ、そして先生はぽつんと呟いた。
「手作りなんて、考えたら初めてかもしれませんね……」
 幼い頃から今まで、大河内先生が貰ったプレゼントは数知れなかった。
 学校では冴えない教師である先生も、普段はお金持ちのお坊ちゃまなのである。
 その上に端正な容姿を持ち、学生時代の成績も悪くなかったために、昔から彼はモテモテだった。
 だが、今まで彼の心を掴もうと必死だった女たちが彼にプレゼントしたものは、高級品ばかりだった。
 そういう贈り物を貰うことは慣れていたし、特に貰っても何の感動も覚えなかった。
 自分で金を出しさえすれば、それらは簡単に手に入るものばかりだからである。
 でも、今年のバレンタインデーは違っていた。
 大河内建設の跡取り息子というフィルターで自分を見る金持ちの女たちは、相変わらず今年もブランドものや高級品を彼に送りつけてきていた。
 そんな中、那奈が自分のために作ってくれたどんなにお金を出しても変えないたったひとつの手作りチョコレートが彼には嬉しかったのである。
「…………」
 何かを考えるように俯いていた先生だったが、信号が青になったことに気がつき再び車を走らせる。
 小降りだっただった雨も本降りになってきたため、先生はワイパーのスイッチを入れた。
 カタンカタンというワイパーの動きだした音を耳にしながら、先生はひとつ溜め息をついた。
 分厚い雲に覆われた薄暗い空が今の自分の心境そのもののような気がして、先生は小さく首を振る。
 それからしばらく雨の中を走り、ようやく到着した彼の自宅である高級マンションの駐車場へと車を入れる。
 所定の位置に車を止めて先生は愛車を降りた。
 漆黒の髪をそっとかきあげ、先生はそれからマンションのエントランスへと足を運ぶ。
 その時だった。
「……え?」
 先生は眼鏡の奥の漆黒の瞳を驚いたように見開く。
 そして、ぴたりとその場で足を止めて言った。
「今宮、さん?」
「あ……」
 先生の声に、目の前に立っていたその少女・那奈はふと顔を上げる。
 それから嬉しそうににっこりと微笑み、タッタッと小走りで駆け寄ってきた。
「今宮さん、どうしたんですか? どうして僕の家を……それに、びしょ濡れじゃないですか」
「雨が降ると思わなくて、傘持ってなかったんです。近くにコンビニも見当たらなかったし」
 急に振り出した雨で、那奈の全身はずぶ濡れであった。
 思いがけず自分を待っていた那奈の姿に驚いていた先生だったが、ポタポタと彼女の黒髪から落ちる雫を見て漆黒の瞳をふっと細める。
 それから、優しい微笑みを那奈に向けた。
「濡れたままじゃ風邪ひきますよ。とりあえず、うちにあがりませんか?」
 慣れた手つきでエントランスのオートロックを解除し、先生は那奈を促す。
 そんな様子にちょっと照れたようにコクンと頷き、そして遠慮気味に那奈も先生の後に続いて歩き始めたのだった。