SCENE9 幸せの魔法

 昼休み中の賑やかな教室で、那奈は心なしか潤んだような虚ろな目をして教科書を鞄にしまっていた。
「那奈、大丈夫?」
「あ、うん……薬もらって飲んだし、さっきよりはいいかな」
 コホンコホンと咳をしつつ、那奈は心配そうな顔をする友人の知美に作った笑顔をみせる。
 前日雨に濡れたのがたたってか、那奈はこの日体調を崩してしまったのである。
 午前中の授業までは何とか我慢した那奈であるが、昼休みに入ってすぐに堪らず保健室へと行った。
 そして念のためにと体温を計ってみたのだが、思った以上に熱が高かったのだった。
 無理をしないで今日のところは早退するようにと保健医に言われ、那奈は仕方なく帰宅の準備をしているのである。
 本音を言えば、今日の6時間目の日本史の授業は何としても出席したかった。
 だが、那奈を早退させる旨を保健医が彼女の担任に連絡してしまい、渋々その指示に従わざるを得なくなったのだ。
「大河内先生の日本史、出たかったのにな……」
「アイちゃんの授業ならまた明日もあるでしょ? 顔も真っ赤だし、今日は帰りなよ」
 寂しそうに呟いた那奈を励ますように知美は軽く彼女の肩を叩く。
 那奈はまだ未練があるような表情をしながらも、小さく頷いた。
「もう仕方ないもんね、担任にも言っちゃったし」
 教科書をすべてしまい終え、那奈ははあっと嘆息して鞄を閉める。
 それからマフラーを巻いて鞄を持ち、知美に手を振った。
「じゃあまたね、知美」
「ゆっくり休みなよ、気をつけてね」
 コホコホと小さく咳き込みながら、那奈は教室を出た。
 知美は階段まで一緒に付き添い、那奈の姿が見えなくなるまで見送る。
 それから回れ右をして教室に戻り始めた。
 その時だった。
「あ……」
 ある人物の姿を見かけ、知美は小さく叫ぶ。
 そして彼が手に持っているあるものをちらりと見てから言った。
「あの、大河内先生。那奈なら熱が出て、たった今早退しましたけど?」
「えっ? 今宮さん、早退したんですか?」
 驚いた顔をする彼・大河内先生に、知美はこくんと頷く。
「はい。でも今さっき帰ったばかりだから、まだ靴箱あたりにいるかもしれませんけど」
「そうですか、ありがとう」
 どうすべきか悩んでいた先生だったが、ふと顔を上げて知美にお礼を言うと駆け足で階段を下りて行く。
 知美はそんな先生の姿を見て微笑み、そして教室に入ったのだった。
「どう考えても、昨日の雨が発熱の原因ですよね……」
 靴箱に向かいながら昨日雨に濡れていた那奈の姿を思い出し、先生はそう呟く。
 昨日自分が帰って来た時、すでに彼女はマンションのエントランスにいた。
 一体どれくらいの時間、那奈は雨に濡れたまま自分を待っていたんだろうか。
 階段を急いで下りながら、先生はそんなことを考える。
 そして生徒用の靴箱に到着した先生は那奈の姿を探した。
 だが、靴箱はシンと静まり返っていて誰もいない。
 どうやら那奈はもう下校してしまったようだ。
 一足遅かったと大きく溜め息をつき、漆黒の前髪をかき上げた先生だったが。
 ふと顔を上げ、眼鏡の奥の漆黒の瞳を細める。
 それからおもむろに眼鏡を外してスーツの胸ポケットへ入れてから、教師用の靴箱へと回ったのだった。
 ――その同じ頃。
 那奈はちょうど学校の校門を出るところであった。
 熱っぽい頬に手を当て、ふうっと息を整える。
 3月も中旬になろうかという時期であったがまだ春到来と言うには早く、むしろ曇り空のこの日は少し肌寒いくらいであった。
 クシュンと小さくクシャミをして、ゆっくりと那奈は地下鉄の駅の方角へと歩き始める。
 その時だった。
「今宮……っ!」
 聞き覚えのある声に名前を呼ばれ、那奈は振り返る。
 そして立ち止まり、熱で潤んだ瞳を大きく見開いた。
「あっ、大河内先生? どうしたんですか?」
 思いもよらず自分を追いかけてきた先生に、那奈は不思議そうな表情を浮かべる。
 ようやく那奈に追いついた先生は、ふうっと息を整えてから言った。
「どうしたんですかじゃねーよっ、それはこっちの台詞だ。何風邪なんてひいてんだ、おまえ」
 先生が靴箱に着いた時、そこに那奈の姿はなかった。
 だが、顔を上げた瞬間に先生の瞳に飛び込んできたのは、まさに今校門を出ようとしている彼女の背中だった。
 そして無意識に眼鏡を外して漆黒の髪をかき上げた後、先生は彼女を追って学校を出てきたのだった。
 那奈に追いついた先生は、驚いた表情のままきょとんとしている彼女に漆黒の瞳を向ける。
 それからはあっと大きく溜息した後、おもむろに那奈の額に手を添える。
 ひやりとした、大きな先生の手。
 急に感じたその感触に、那奈の胸はドキドキとその鼓動を早めた。
 ただでさえ熱を帯びている身体が、余計にカアッと熱くなるような感覚に陥る。
 そんな那奈の心境も知らず、先生は眉を顰めた。
「うわ、結構熱高いみたいだな。仕方ねーな、家まで送ってやるよ」
「え?」
 いきなりそう言われ、那奈は小首を傾げる。
 先生はポケットからキーホルダーを取り出してチャラチャラと音を立てた。
「車で送ってやるって言ってんだよ。駐車場、ちょうどもう少し歩いたとこだしな」
「でも、もうすぐ昼休み終わっちゃうんじゃないの?」
「5時間目はちょうど授業入ってねーんだよ。病人なら病人らしく人の好意に甘えろ」
 そう言ってスタスタと歩き出した先生に、那奈は恐縮しながらも続く。
 どうして先生は自分が早退していることを知っているのだろうか。
 保健医は担任には連絡したと言っていたが、まさか午後の授業の教科担当教師にまで律儀に連絡してはいないだろうし。
 そう疑問に思いつつも、那奈のその表情は先程よりも心なしか明るい。
 大好きな大河内先生が自分を心配して、わざわざ追ってきてくれた。
 それだけでも、那奈にとって十分に幸せだったのである。
 幸せをかみ締めていた那奈は先に歩く先生と距離ができてしまったことに気がつき、タッタッと小走りで歩みを進めた。
 自分に慌ててついてくる那奈を振り返って足を止め、先生は苦笑する。
「ったくよ、おまえも単純だな。雨に濡れた次の日に熱出してんじゃねーぞ」
「そんなこと言ったって、熱出ちゃったものは仕方ないじゃない」
 むうっとむくれた表情をして、那奈はようやく先生の隣に並ぶ。
 今度は彼女の歩調に合わせて歩きながら先生は笑った。
「ま、送ってやるからよ、今日は帰ってゆっくり寝てろ」
「…………」
 那奈は先生の言葉にふと黙って俯く。
 それから風で少し乱れた黒髪を整えて言った。
「でも、今日の先生の授業……出たかったな」
「え?」
 俯いたままの那奈を見つめて先生は言葉を切る。
 それからふっと微笑み、那奈の頭にぽんっと手を添えた。
「バーカ、授業ならいつだってしてやるよ。あったかいお茶でも飲みながらな」
「先生……そうだね、うん。約束ね」
 先生の言葉に嬉しそうな表情を浮かべ、那奈は素直に頷いた。
 それから先生の愛車のとめてある駐車場へと到着し、那奈は昨日と同じように彼の車の助手席へと座る。
 だが那奈に遅れて運転席に座った先生は、何故かドアを閉めた後もエンジンをかける気配はない。
 じっと何かを考えるように漆黒の瞳を伏せたままである。
「先生?」
 そんな先生の様子に気がつき、那奈は不思議そうな顔をする。
 那奈に視線を向けてから、先生は漆黒の前髪をかき上げた。
 そして大きく嘆息し、言った。
「おまえ、完璧に忘れてるな……」
「忘れてるって、何を?」
 小さく咳をした後、那奈は先生を見て首を傾げる。
 それからしばらく考えてみたが、そう言われることなんて思い当たらない。
 先生はそんな那奈にもう一度溜め息をつく。
「ったくよ、よりによってこんな日に熱出してんじゃねーっての」
「こんな日?」
 まだ分からない様子の那奈に先生は言葉を続ける。
「今日は何月何日だ? 言ってみろ」
「今日? えっと、今日は……」
 うーんと少し考え、そして那奈はハッと顔を上げた。
 それから、ゆっくりと答える。
「今日って、3月14日?」
「これ渡そうと思った矢先に早退なんて聞いて焦ったんだぞ、おまえ」
 そう言って先生は少し照れたように那奈から視線を逸らし、持っていたものを彼女に差し出した。
 その、渡されたものとは。
「先生、これって……」
「今日はホワイトデーだろ? おまえには、バレンタインにチョコ貰ってたからな」
 差し出されたお返しを受け取り、那奈は先生を見つめる。
 先生は漆黒の瞳をちらりと彼女に向けて、そして言葉を続けた。
「その、何て言うか……おまえの手作りチョコ、すごい嬉しかった。手作りなんて貰ったことなかったし、食べるの勿体無いって思ったくらいに感激したんだよ。でもお返しっても俺は手作りとか作れないし、結局買ったクッキーになっちまってよ……悪いな」
 珍しく申し訳なさそうに俯く先生に那奈は大きく首を振ってから、ぎゅっと貰ったお返しを抱きしめる。
「全然悪くなんてないよ。すっごく嬉しいもん……」
 那奈の漆黒の瞳は先程よりも一層潤んでいた。
 それはもちろん、熱のせいだけではない。
 那奈は今日がホワイトデーだということをすっかり忘れていた。
 バレンタインデーも、ただ先生にチョコレートを受け取ってもらえたことが本当に嬉しくて。
 お返しはやはり欲しいとは思いつつも、手作りチョコレートを大好きな先生にあげられたということに満足していたのだった。
 そんな先生から貰った、お返し。
 思いがけないそのお返しに、那奈の胸は幸せな気持ちで溢れていた。
 先生はしばらくそんな那奈を見つめていたが、大きく深呼吸をする。
 そして真っ直ぐに漆黒の瞳を那奈に向けて、言った。
「手作りのお返しはあげられないけどな、俺がおまえにあげられるもの……考えたんだよ」
「私に、あげられるもの?」
 那奈はその言葉にふと顔を上げる。
 そして顔を上げた途端、那奈の心拍数が急激に上がる。
 自分だけを映す、澄んだ先生の両の目。
 深い黒の色を湛えるその瞳はとても綺麗だった。
 熱っぽい那奈の頬にそっと手を添えてから、そして先生はゆっくりと言った。
「ドロシーの願いを叶える、幸せの魔法だ」
 そう言って那奈の顎をそっと上げた後、先生は綺麗な漆黒の瞳をふっと伏せる。
 そして、次の瞬間。
 先生の唇がそっと、那奈のものと重なったのだった。
 幸せの魔法……それは、羽のように軽くて優しいキス。
 ドロシーの願いを叶えてくれる魔法使いの幸せの魔法は、柔らかくてとても甘かった。
 それから澄んだ漆黒の瞳をゆっくりと開き、先生は言った。
「おまえのことが好きだ、ずっと俺と一緒にいてくれるよな?」
「先生……」
 ドキドキと早い鼓動を刻む胸をぎゅっと押さえ、那奈は目の前の先生を見つめる。
 そんな那奈の漆黒の瞳からは、自然と涙が溢れていた。
 那奈は先生の言葉に、大きく頷いて言った。
「私も今までずっと、先生だけを見てきたの……先生が私の願いを叶えてくれる、オズの魔法使いだって信じてた……ずっと一緒にいるよ」
 那奈は目の前の先生に微笑み、そしてぎゅっと彼に抱きつく。
 那奈の身体をしっかりと受け止めて、先生は彼女の黒髪を優しく撫でた。
 それからふっと微笑み、ぽんっと軽く頭を叩く。
「おまえは本当に泣き虫だな、ったくよ」
 那奈の頬を伝う涙を指で拭い、先生は漆黒の瞳を細める。
 那奈は先生のあたたかい体温を感じながら、悪戯っぽく笑った。
「ていうか先生、今キスしたら風邪うつっちゃうよ……」
「うつったって構わねーよ。その時は看病に来てくれるんだろう?」
 ふっと笑みを那奈に返して、先生は再び彼女の身体をぎゅっと強く抱きしめる。
 ずっと前から、こうやって思い切り彼女のことを抱きしめてやりたかった。
 だが思っていたよりもずっと、自分に身を預ける那奈の身体は小さくて。
 先生はそんな那奈を抱きしめ、彼女を守ってやりたいと強く思ったのだった。
 先生に抱きしめられた那奈は幸せを体いっぱいに感じてその心地よさに瞳を閉じる。
 先生の胸の中は、とても広くてあたたかくて。
 そしてその温もりに身を任せながら、那奈は改めて思ったのだった。
 大河内先生こそ、探して求めていた理想の人だと。

 それからふたりの瞳がゆっくりと閉じられ、再びそっとふたつの唇がひとつに重なったのだった――。


         


 童話のオズの魔法使いは、ドロシーの願いを叶える魔法なんて使えなかったけれど。
 私だけの魔法使いは、私の願いをちゃんと叶えてくれた。
 私のためだけの、幸せの魔法で……。


First Season -FIN-