SCENE6 グリンダ

「ったく、冗談じゃねーぞ……」
 はあっと大きく嘆息して自宅のバスルームから出てきた大河内先生は、無造作にまだ濡れている黒髪を拭いた。
 それからタオルを首にかけてキッチンへ足を運び、冷蔵庫から取り出したビアカップにビールを注ぐ。
 ビアカップに注がれて細かい泡が立つビールを先生はぐいっと飲んだ。
 いつもなら、風呂上がりのそれは美味しいはずものなのだが。
 今の先生は到底ビールをゆっくりと味わえる心境ではなかった。
 彼が今気になっているのは、ひとりの生徒のこと。
 そして、あの夜の出来事。
 自分の生徒である今宮那奈と偶然顔を合わせた先生だったが、あまりにもそのタイミングが悪すぎた。
 何とか先生は誤解を解こうと、今日も学校で何度も彼女と話をしようとしたのだが。
 だがそんな先生を、那奈はここ数日あからさまに避けていたのである。
 先生は深々と溜め息をついた後、ビアカップを手にリビングへ移動しようとした。
 その時だった。
「……?」
 先生はふと立ち止まって表情を変えた。
 先生の耳に、微かにガチャッという金属音が聞こえたのである。
 怪訝な表情を浮かべながら、先生は音の聞こえた玄関の方向へと様子を伺うように視線を向ける。
 そして、次の瞬間。
「げっ! なっ、何でっ!?」
 勢いよく家のドアが開き、姿を見せた人物の姿を確認した先生は目を丸くした。
 その人物とは。
「アーイちゃんっ、来ちゃったっ」
「は!? 勝手に来ちゃってんじゃねーよ! 第一、何でおまえがうちの鍵持ってるんだ!?」
 動揺する先生の様子を気にもせず、あの夜に先生と一緒だったその女性は高いヒールの靴を脱いでスタスタと家の中へと上がる。
 それからにっこりと笑って言った。
「ああ、鍵? この間コッソリ合鍵作っちゃったっ、驚いた?」
「おまえなっ、住居侵入罪で訴えて勝つぞ、コラ!」
「やだぁアイちゃんってば、勝訴できると思ってるの? この私に」
 ふふっと楽しそうに笑うその女性に、先生はガクリと肩を落とす。
「それよりもイキナリ住居侵入罪犯して何の用だよ、俺はおまえのせいでめちゃくちゃブルーなんだよっ」
「私のせいって、何で? あ、美しいものは罪ってコト? やだぁ、アイちゃんってばっ」
「……本気でぶっ飛ばしてもいいか?」
 じろっと漆黒の瞳で女性を見て、そして先生は何度目か分からない溜め息をつく。
 それからまだ少し濡れている髪をかきあげ、ワントーン低い声で言った。
「ていうかおまえ、ちょっとそこに座れ」
「何? そんなハンサムな顔で私のコト見つめちゃって」
「いいから座れっ。この間のことでおまえに言いたいことは山ほどあるんだからなっ」
「この間のこと?」
 言われたとおりにリビングのソファーに座った女性は、細くて長い足を組む。
 先生は彼女が素直に座った様を見てから、自分もその正面に腰掛ける。
 女性はきょとんとした表情をして首を傾げた。
「この間って、夜飲んでアイちゃんに迎えに来てもらった時? 酔っ払ってたからあんまり記憶ないんだけど」
「あ!? 覚えてないってなっ、本当におまえってヤツは……」
「アイちゃんが迎えに来てくれたってコトは覚えてるんだけど、それ以外はあんまり」
「迎えに来たってより、脅して迎えに来させたんだろーが」
 そう言って先生は再びビールをぐいっとひとくち飲む。
 女性はそんな先生の姿を見て言った。
「アイちゃん、ビール」
「は?」
 眉間にしわを寄せ、先生は怪訝な顔をする。
 だがそんな様子にもお構いなしで、女性はふうっと息をついた。
「だからっ、私もビール飲みたいのっ。もう、気が利かないわねぇ」
「絶対ダメだっ、おまえ弱いくせに酒癖悪いだろーがよ。本当にタチ悪い魔女だなっ」
 先生の言葉にむうっと不服そうな表情を浮かべながらも足を組み替え、女性は口を開く。
「何よ、アイちゃんのケチー。ていうか、この間なんかあったっけ?」
「ったくっ、おまえのせいで誤解されたんだぞっ!? おまえが酔って俺にベタベタしてるところを生徒に見られたじゃねーかよっ」
 思い出したようにじろっと女性に視線を向け、先生は言った。
「え? あー、なんかそんなカンジのコトうっすらと覚えてる気がする。ってあの子、アイちゃんの生徒だったんだ」
「うっすら程度かよっ! ったくよぉっ、学校で説明しようとしてもあいつ全然聞く耳持たないしよ……さっさと誤解解いて真田幸村の話でもしてやろうかと思ってるのに、俺の顔見るだけでUターンしやがって……少しは俺の話も聞けっての。ホント女って、その日によって態度が180度違うから分かんねーよ」
 ブツブツとそう言っている先生の顔を女性はじっと見つめる。
 それから美人なその顔にふっと微笑みを浮かべ、ポンッと手を打った。
「あーっ! その生徒ってもしかして……前話してくれた、ウワサのドロシーちゃん?」
「話してくれたってより、無理やり聞き出したんだろうがよ。おまえのせいだからなっ、あいつに誤解だって言いたくても、あんなにシカトされてちゃどうしようもないってのっ」
 頭を抱えるような先生の様子に、その女性は一瞬意外な表情を浮かべる。
 それからニッと笑って、意味あり気に言った。
「アイちゃん、そのドロシーちゃんに誤解されっぱなじゃ困るんだねー。ふーんそっかぁっ」
「困るに決まってるだろーがよ。何ていうか……その、ただでさえワケありで教師してるんだしよ」
 少し言葉に詰まりながら、先生はそう呟く。
 女性はわざとらしく首を傾げ、そして続けた。
「ワケありで教師してるって言ったって、そのドロシーちゃん、アイちゃんが実は大手建設会社の跡取り息子で期間限定教師ってこと知ってるし、誰にも言わないって言ってたんでしょ? どうせ期間限定教師なんだし、別にただの生徒なら誤解されたままだって問題ないんじゃないの?」
 そんな女性の言葉に、先生はふと何かを考えるように俯く。
 それからビールを口に運んで言った。
「確かにあいつは俺の秘密を誰かに話したりしないだろうし、この間のコトだって言いふらしたりしないと思うけどよ」
 鬱陶しそうに黒髪をかきあげ、そして先生は言葉を続ける。
「でも何か……あいつに誤解されたままじゃ、イヤなんだよ」
 先生のそんな言葉を聞いた女性はふっと瞳を細める。
 それから身を乗り出し、先生の肩をバシバシと叩いて笑った。
「アイちゃんってば、そのドロシーちゃんのことホント好きなんだねぇ。それにしてもいけないんだーっ、先生が生徒に手を出すなんてねぇっ」
「……は?」
 一瞬彼女の言っていることが分からず、きょとんとした先生だったが。
 すぐさま立ち上がり、大きく首を振る。
「なっ何言ってんだ、おまえっ!? 言っとくけどな、まだ手ぇなんて出してねぇし、俺とあいつは教師と生徒なんだぞ!?」
「ふーん、まだ手を出してないってことは、出す予定あるってコト? きゃー、不良教師ーっ」
「……っ、おまえな、人のあげ足取ってんじゃねーよっ。その、何て言うか……そう、言葉のアヤってヤツだっ」
 何故か顔を真っ赤にさせて先生はしどろもどろになりながらそう言った。
 それからバツが悪そうに、楽しそうに笑う女性からふいっと視線を逸らす。
 そんな先生の様子にくすくす笑った後、彼女はおもむろにソファーから立ち上がった。
 そして愛用のロレックスの腕時計に目を向けてから玄関へと歩き出す。
「あー、いい暇つぶしになって楽しかったぁっ。もっとアイちゃんと遊んでたかったんだけど、そろそろ行かなきゃ」
「ていうか、暇つぶしかよっ! さっさと帰りやがれ、この魔女っ」
 テーブルに頬杖をついて、先生は彼女の言葉にはあっと嘆息する。
 美人な顔に微笑みを浮かべた後、彼女はひらひらと手を振りながら言った。
「あ、そうそう。オズの魔法使いって言えば……魔女は魔女でも、私は西の国の悪い魔女じゃなくて、南の国のいい魔女・グリンダの方よ」
「あ? おまえはバリバリの西の国の魔女キャラだろ、水が苦手でかけられたら溶けるってトコなんてまさにそうだろーがよ」
 しっかりと化粧している女性の顔を指差し、先生はニッと笑う。
 その言葉にムッとむくれて、彼女は先生と同じ色のセミロングの髪をかきあげた。
「何ですって!? あっそぉ、そんなコト言うワケね。んじゃあ今度はドロシーちゃんの前で、アイちゃんにチューでもしちゃおっかなぁ」
「は!? 何でそうなるんだよ、大体そんなイヤガラセするいい魔女がいるかっ!?」
 ブンブンと大きく首を振り、先生はその言葉に眉を顰める。
 それから女性を見送るためにソファーから立ち上がった。
 玄関でヒールの高い靴を履いた後、ガチャッとドアを開けた女性は美人な顔にふっと笑顔を浮かべる。
 そしてぽんっと先生の肩を叩いて笑った。
「そんなに女の子のことで必死になるアイちゃんって初めて見たなぁ。応援してるから、せいぜい頑張ってねぇっ」
「せいぜいって言うなっ。ていうか状況悪くしてるのは、誰でもないおまえだしよ」
 誤解している那奈のつれない態度を思い出し、先生は大きく嘆息する。
 そんな先生の様子とは対称的に、その女性は楽しそうに言った。
「まーまー、私ってばドロシーちゃんの強い味方・南の国の魔女なんだから大丈夫っ。じゃあ、またねー」
 カツカツとハイヒールを鳴らしながら颯爽と出て行く彼女に漆黒の瞳を向けて、先生は同じ色の前髪をかきあげる。
 それからふうっともう一度息をつき、呟いた。
「何が大丈夫ってんだよ、あの魔女は。今の状況、すでに全然大丈夫じゃねぇだろ……」


 毎週見ているドラマが終わり、那奈はテレビの電源を消す。
 いつも楽しみにしているはずのドラマだったが、何だかイマイチ内容が頭に入ってこない。
 その理由が、那奈には分かっていた。
 瞳はテレビに向いてはいたが、ずっと頭の中では別のことを考えていたからである。
 テレビを消した途端、那奈と愛犬しかいない部屋を静寂が包んだ。
 ソファーに寄りかかった那奈はぎゅっと漆黒の瞳を閉じる。
 そんな瞼の裏に映る光景は、綺麗な女の人に抱きしめられる大河内先生の姿。
 今日も学校で何度か自分に話しかけようとしていた先生だったが、到底冷静に向き合える心境ではなかった。
 話をする以前に先生の顔を見るだけでも今日の那奈にはすごく辛いことだったのだ。
 はあっと大きく溜め息をついた那奈を、隣に座っていた愛犬のトトが心配そうに見つめている。
 そんなトトを優しく撫でた後、那奈はソファーから立ち上がった。
 その時。
 ピンポーンという呼び鈴が、ふと那奈の耳に聞こえてきた。
 那奈はちらりと時計を見て小さく首を捻る。
 時間はすでに、夜の22時である。
「……はい?」
 こんな時間に誰だろうと思いつつ、那奈はインターホンを取った。
 その次の瞬間。
 那奈は画面に映し出された客の姿に驚いたように瞳を見開く。
『御免なさいね、こんな時間に。今宮那奈ちゃんのおうちって、こちらよね?』
「えっ? あ、今宮那奈は私ですけど……一体、何の御用でしょうか?」
 意外な客の姿に驚きつつも那奈は怪訝な表情を浮かべた。
 突然訪れたその客とは。
 モデルのような綺麗な顔立ちに、スタイル抜群の大人な雰囲気の女性。
 紛れもなくあの夜先生に抱きついた綺麗な女性が、玄関の前に立っていたのだった。
 にっこりと綺麗な顔に笑顔を浮かべ、そして女性は言った。
『貴女がドロシーちゃんねぇっ。ちょっと貴女とお話したくて伺ったんだけど』
「ドロシーちゃん? ……ちょっとお待ちください」
 彼女の言葉に首を捻って少し考える仕草をした那奈だったが、玄関へと足を運ぶ。
 そして大きなドアをガチャリと開けた。
「今誰もいませんからお構いできませんが、どうぞ」
 険しい表情のまま、那奈は女性を家へと上げる。
 そんな彼女の様子にも構わずに女性はカツカツと家の中へと足を運んだ。
「ごめんなさいね、イキナリ来ちゃってっ」
「こちらにどうぞ。飲み物くらいしか出せませんけど」
「あ、飲み物とかいいのに。お構いなくっ」
 テンションの高い女性に一応ぺこりと頭を下げてから客間を出て、那奈はキッチンで紅茶を入れる。
 シュンシュンとお湯が沸くのを眺めながら、那奈は深く嘆息した。
 あの女性は一体、自分に何の用なのだろうか。
 勢いに押されて家にあげてしまった那奈だが、先生と彼女のことが気になって仕方がなかったということも正直あったのだ。
 ティーカップに紅茶を入れてから、那奈は廊下を歩く。
 お客さんで興奮して少し吠えているトトを宥めて、そして女性のいる客間に入った。
「きゃあっ、めっちゃ可愛いワンちゃんねぇっ」
 小さな尻尾をピョコピョコと振るトトをぎゅっと抱きしめ、女性は嬉しそうに笑う。
 綺麗でモデルのような容姿だが、その様子は無邪気で可愛さも兼ね備えていた。
 見れば見るほど素敵な人だなと思いつつ、那奈はあの夜のことを思い出して俯く。
 こんなにスタイルも良くて美人でその上に可愛い女性なら、先生が好きになってもおかしくない。
 プライベートバージョンのお洒落な先生とこの女性なら、ふたり並んでいてもお似合いである。
 ますます憂鬱になる那奈に視線を向け、トトを抱いたまま女性は聞いた。
「ねぇ、この子って名前なんていうの?」
「え? あ、トトって言います」
「トト! きゃあ、何かますますドロシーちゃんってカンジねぇっ」
 ひとりではしゃぐ女性の言葉の意味が分からず、那奈は首を傾げる。
 そんな様子に気がつき、女性は改めて言った。
「あっ、自己紹介がまだだったわね。私、森崎香夜(もりさき かよ)っていうの。実は私も、すぐこの近くに住んでるのよ?」
 そう言ったこの女性・香夜の言葉に、那奈は思い出すように呟く。
「ここの近くの森崎さんって……あの、IT会社の社長さんのお宅?」
 あの夜先生と香夜に会った場所は、そういえば有名IT会社の社長である森崎社長の家の前であった。
 那奈の祖父の銀行のお得意様であるため、那奈は名前だけだが知っていたのである。
 見た感じでもお金持ちだと分かるのだが、この香夜という女性はそんな大きなIT会社の社長令嬢なのだろうか。
 だがその考えを見透かすようにふっと微笑み、香夜は続ける。
「あら、ドロシーちゃん。うちの旦那様のコト知ってるの?」
「えっ?」
 紅茶を出していた手を止め、那奈は顔を上げた。
 その反応を見て笑った後、香夜は言った。
「うふふ、驚くのも無理ないわね。10歳以上年が離れてるから、私と旦那様」
「結婚、してたんだ……」
 瞳を大きく見開き、那奈は思わずそう呟く。
 香夜は出された紅茶をひとくち飲み、それから黒のセミロングの髪をかきあげた。
 それから足を組み替え、言ったのだった。
「もしかして、アイちゃんの恋人なんじゃないかなーって心配しちゃった?」
「えっ!? いや、その……」
 香夜の言葉に那奈は慌てて顔を赤らめる。
 そんな様子の那奈に、香夜は続けた。
「じゃあ、もうひとつビックリなこと教えてあげる。結婚前の私の名前はね、大河内香夜っていうの」
 きゃははっと笑う香夜の言葉に、那奈は一瞬きょとんとする。
 そして。
「ええっ!? おっ、大河内ってっ」
「そうよ。アイちゃんは私のめっちゃめちゃ可愛い弟くんなの、ドロシーちゃんっ」
「せっ、先生の……お姉さんっ!?」
 そう言われ、改めて那奈は目の前に座っている香夜に目を向けた。
 確かに夜の闇のような神秘的な漆黒の瞳と、それと同じセミロングの髪。
 先生の端正な容姿を考えても、綺麗な目の前の女の人が彼の姉でも全く不思議はない。
 唖然とする那奈の様子にくすくす笑い、それから香夜はにっこりと微笑んだ。
「安心した? 那奈ちゃん」
「えっ? あ、はい……」
 素直にこくんと頷いてから、それから那奈はようやく紅茶に手をつける。
 驚く事実ばかり聞かされて動揺しつつも、そんな彼女の心の中はすごくホッとしていたのである。
「ごめんなさいねぇっ。あの日の夜は旦那様と喧嘩してね、アイちゃん呼び出して自棄酒して酔っ払ってたのよ。何か気に障ることしちゃってたらごめんね」
「そんな、気に障ることなんて」
 首を振り、那奈はようやくその顔に小さく笑顔をみせる。
 香夜は那奈の様子に嬉しそうに笑い、口を開く。
「あ、そうだ。ドロシーちゃんに心配させちゃったお詫びに、アイちゃんのコト話してあげるねっ」
「先生のこと? あ、それ、是非聞きたいです」
 考えてみれば、自分は学校での先生とプライベートな先生のごく一部しか知らない。
 姉弟である香夜なら、自分の何倍も彼のことを知っているだろう。
 特に自分のあまり知らないプライベートな先生の話がたくさん聞けるかもしれない。
 パッと表情を変える那奈を満足そうに見てから、香夜は話し始めた。
「アイちゃんって小さい頃からすごくイイ子だったのよ、私と違って。特にパパの言うことには逆らったことなんてなくてね。親しい人には口が悪いけど普段は隠してるし、それに勉強も好きだったから典型的な優等生だったの」
 自分の大好きな日本史のことを楽しそうに話す先生の顔を思い出し、彼が勉強が好きだという言葉に那奈はうんうんと頷く。
 優等生だったということも、学校での先生を見ていれば納得できる。
「それがね、高校生の時だったかしら。いつも言われた通りの道を何も言わずに進んできたアイちゃんが、生まれて初めて自分のやりたいことをパパに言ったの。それが何か、那奈ちゃんは分かるわよね?」
「先生の夢……教師になること、ですよね」
 香夜の問いに、那奈はそう即答する。
 那奈の答えに頷き、香夜は話を続けた。
「パパもママも、私だってビックリしたわ。パパは心の広い人だから、初めて聞いたその息子の夢を期間限定だけど許してくれたのよ。いずれは会社を継いでもらわないと困るけど、数年だけならってね。だから、今の先生としてのアイちゃんがいるってワケ」
「そうなんだ……」
 ぽつりと呟き、那奈は考え深い表情を浮かべる。
 そんな那奈に、香夜はふふっと楽しそうに笑って言った。
「ていうか、アイちゃんが何で先生になりたいって思ったか知ってる? 高校の時ね、“3年B組金八先生”の再放送見てたんだけど、アイちゃんってば金八先生に感動してダーダー泣いてるのよぉっ、悪いと思いながらそんなアイちゃん見て笑っちゃったっ。アイちゃんってば、そんなキャラに見えないでしょっ」
「き、金八先生!? 確かに先生って、全然そんなキャラじゃない……」
 あのお洒落で口の悪いプライベートバージョンの大河内先生が金八先生のドラマを見て号泣している姿なんて、到底想像できない。
 何だか可笑しくなり、くすくすと那奈も笑った。
「まぁアイちゃんって社会の先生だから、人という字の構成とかは熱く語れないでしょうけどねーっ」
 きゃははっと笑って香夜は先生と同じ色の黒の瞳を細める。
 それから笑顔を浮かべる那奈にふっと視線を向け、意味あり気に笑った。
「ねぇねぇ、那奈ちゃんってアイちゃんのこと好きなんでしょ? この間もふたりでラブラブで食事したってパパ言ってたけど、実は付き合ったりしてるワケ? アイちゃんに聞いても全然教えてくれないんだもーんっ」
「えっ!? つっ、付き合ってなんて全然そんなっ。 でも、先生は私のこと……何か言ってましたか?」
 おそるおそる、那奈は気になっていたことを聞いてみた。
 社会科教室でいつも楽しそうに話をしてくれる先生が、実際に自分にどういう印象を持っているのか。
 自分の話を聞いてくれる勉強熱心な生徒程度にしか思われていないだろうなと思いつつも、当然気になっていたのである。
 だがもちろんそんなことを本人に聞けるわけないし、まして自分の気持ちを先生に伝えるなんて勇気はまだ那奈にはなかった。
 顔を真っ赤にさせて俯く那奈に、香夜は言った。
「気になるなら、アイちゃんに直接聞いてみたら? 南の国の魔女はドロシーちゃんのこと応援してるしっ」
「ちょっ、直接なんて聞けませんよっ。それよりも……南の国の魔女って、オズの魔法使いのですよね?」
 耳まで赤くしながらも、那奈は香夜の言葉に反応を示す。
 すっかり懐いて自分の膝の上で寝ているトトを撫でながら、香夜は続けた。
「そうよ、オズの魔法使い。那奈ちゃん好きなんでしょ? アイちゃんに聞いたの」
「え? 先生に……」
 そう呟き、那奈は嬉しそうに微笑む。
 どんな風に言われているかは分からないとはいえ、自分のことをプライベートで先生が話題に出していることが那奈には嬉しかったのだ。
 香夜はすっかり恋する女の子の表情を浮かべる那奈を見つめて、ティーカップに残っている紅茶を飲み干した。
 それから綺麗な顔に笑みを宿し、那奈に言ったのだった。
「アイちゃんって結構鈍いから、自分の思ってることはちゃんと言った方がいいよ? 今日も散々、那奈ちゃんが口きいてくれないってアイちゃん拗ねてたし」
「自分の思っていることを、先生に……」
 ことごとく先生のことを無視していたここ数日の自分の行動を、この時那奈はひどく後悔した。
 そして、思ったのだった。
 きちんと先生と話をして、逃げずに彼と向き合おうと。
 学校での先生もプライベートな先生も、どちらとも嘘の彼の姿ではないのだ。
 言動は正反対であるが、あの無邪気に話をする時の先生の瞳の色は同じものである。
 それが那奈には分かっていた。
 一番近くで、ずっとそんな先生のことを見てきたのだから。
 那奈は今まで見てきた先生の姿を思い出し、そして揺れる黒髪を気にせず決意したように小さく頷いたのだった。