SCENE5 西の国の魔女

 ――都内の高級マンション。
 異様に広いエレベーターホールを過ぎ、大河内先生はポケットから部屋の鍵を取り出す。
 長い廊下を歩いて自室の鍵を開けた先生は、真っ暗な部屋の明かりをつけた。
 ただでさえ必要以上に広いリビングであるが、置いてある物が少ないことで余計にガランと見える。
 普段使わないためピカピカなままのキッチンへと足を向け、先生は冷蔵庫から冷やしていたビアカップとビールを取り出した。
 先生はそれを持ってリビングを通り過ぎ、書斎へと移動する。
 殺風景なリビングとは違って、少し狭い書斎は物でいっぱいであった。
 その殆どが、歴史書や文献などの書籍類である。
 小さい頃から先生は、日本の歴史を学ぶことが好きであった。
 将来は家業を継がなければいけないことが分かっていた先生であるが、もし許されるならば好きな日本史に携わる仕事がしたいと密かに思っていた。
 大学の専攻も歴史系の学科に進みたかった先生だったが、親の意向でやむなく経済学部へ進んだ。
 だがそんな中でもやはり好きな歴史への探究心は捨てられず、こっそり卒業単位とは関係ない歴史系の講義に潜り込んだりしていたのだった。
 しかも幸いなことに経済学部でも高等学校の社会科教諭の免許が取れるため、周囲から使わないのに無駄だと言われながらも、教職免許を大学在学中の4年間で取得したのである。
 大学進学を決める際、先生は一度教師への夢を諦めようとした時があった。
 そんな大河内先生に再び夢を追う機会を与えてくれたのは、高校3年の時の担任教師だった。
 経済学部でも社会科の教職免許が取得できることを教えてくれたのもこの先生であり、何かと相談にも乗ってくれた。
 期間限定ではあるが夢が叶い教師になった自分のことを誰よりも喜んでくれたのも、この恩師なのである。
 大河内先生は冷えたビールを開けてビアカップに注ぎ、コトンと机に置く。
 それからようやく上着を脱いでネクタイを緩め、ワイシャツのボタンをいくつか外した。
 かけていた分厚い眼鏡も外し、そして先生はふと机の上にあるものを手に取る。
 それは、1枚の手紙だった。
『美味しいかどうか分かりませんが、一生懸命作りました。またお茶でも飲みながらゆっくり先生の話を聞きたいです。 今宮那奈』
 ピンクの便箋に書かれた、女の子らしい柔らかい字。
 バレンタインチョコと一緒についていた那奈の手紙を読み返し、先生はふっと漆黒の瞳を細める。
 彼女は以前から自分のところによく質問に来ていたので、他の生徒よりも印象は強かった。
 日本史は暗記教科のためにあまり生徒から質問がない教科なのであるが、那奈は先生と話したい一心で、何かと託(かこつ)けては社会科準備室に質問に来ていたのである。
 那奈の興味は実際のところ日本史というよりも先生に向いていたのだが、そんな那奈の気持ちを知らない先生は、彼女に対して授業態度も真面目で勉強熱心な生徒だという印象を持っていた。
 だが、そういう彼女に対する印象が最近少しずつ変わってきていることに、先生は気がついていたのだった。
 あの日――那奈の祖父の会社で、彼女を涙を見た日以来。
 黒色を湛える潤んだ瞳からポロポロと零れる涙を見たあの時から、何故か彼女のことが脳裏から離れない。
 自分の秘密を知られて数日はつれない態度であった那奈だが、今はまた自分の元へ質問に訪れるようになった。
 彼女の気持ちを知らない先生はそんな那奈の感情の変化についていけていないところもあったのだが、とにかくまた那奈と話をできることは嬉しかった。
 授業では、教科書に載っている程度のことしか教えられない。
 そんな教科書の内容は壮大な歴史の中の氷山の一角に過ぎず、本当の面白さはもっと掘り下げたところにあると先生は思っている。
 しかし授業では、そういう内容まで踏み込めない。
 しかも、どうしても数学や英語などの教科が重視され、なかなか日本史に関心を持つ生徒も少ないのだ。
 だが那奈は、教科書に載っていないようなそんな自分の少しマニアックな話も、楽しそうに聞いてくれる。
 そして日本史以外のお互いのことも、彼女とは少しずつ話をするようになっていたのだった。
 先生は前に、那奈にこう聞いたことがある。
 それは、自分が夢を諦めようとしている時に担任教師に聞かれたものと同じ質問だった。
『今宮さんの将来の夢は何ですか?』
 自分のその問いかけに返ってきた彼女の答えは、先生にとって意外なものであった。
 那奈は少し恥ずかしそうに俯いて、彼の問いにこう答えたのだった。
『笑わないでくださいね、先生……将来の夢は、私の理想にぴったりな王子様のお嫁さんになることです』
 那奈は見た感じ、他の同級生よりも少し大人っぽい顔立ちをしている。
 聡明な雰囲気を持つ少しつり気味の意思の強そうな黒い瞳に、同じ色のストレートの髪。
 可愛い系というよりも美人系な容姿である。
 そんな彼女の口から聞いた意外な将来の夢に、その時の先生は態度には出さなかったが驚いていた。
「王子様のお嫁さんに、手作りチョコ、オズの魔法使い……意外とあいつ、思考が乙女チックなんだよな」
 そう言って、先生は持っていた那奈の手紙を机の上に置く。
 それから分厚いシステム手帳を鞄から取り出し、開いた。
「明日のあいつのクラスの授業は、大阪の陣あたりだから……今度は、大阪の陣西軍の主役・真田幸村の話でもしてやるかな。六文銭が三途の川へ渡してくれよう、ってな」
 楽しそうにそう呟き、先生はパタンと手帳を閉じた。
 そしてようやくビアカップを手にして、ひとくちビールを飲もうとした……その時。
 先生の携帯電話が静寂を破るように、おもむろに鳴り出す。
「げっ、この着信音は……」
 突然携帯電話から松浦亜弥の『Yeah!めっちゃホリディ』が軽快に流れ出し、先生は表情を変えた。
 この電話をかけてきた人物から「自分の着メロは絶対あややじゃないとイヤ!」と駄々をこねられ、携帯を取り上げられた挙句、勝手に受信者指定でこの着メロ設定をさせれたのである。
 はあっと大きく嘆息した後、先生は携帯電話を手に取る。
 それから漆黒の前髪をザッとかきあげ、受話ボタンを押した。
「……何か用か?」
 ぶっきらぼうに電話に出た先生とは裏腹に、電話の向こうの相手のテンションは異様に高かった。
 そんな様子に眉間にしわを寄せ、先生はちらりと部屋の時計を見る。
「あ? もう家に帰ってるよ……は!? 今から出て来いってな、ふざけんなっ。寝言は寝て言えっ。明日だって学校なんだよ、おまえに付き合ってられっかっての。ていうか、さっさとおまえも家に帰りやがれっ」
 悪態をつく先生の言葉にも構わず、電話の先の相手は楽しげに話している。
 そして。
「……おまえな、俺を脅す気か? あーっ! 分かったよ、行けばいいんだろっ、今どこだよ……って、遠っ! んなトコまで呼び出す気か!? ……分かったよっ、はいはい、行かせていただきますよっ」
 そう言って先生は電話を一方的にブチッと切った。
 それから深々と溜め息をついた後、ちっと舌打ちをする。
「ったく、あの魔女っ……」
 そして先生は一旦脱いだ上着をもう一度羽織り、携帯電話と車のキーを手に取って書斎を後にしたのだった。


 夜もすっかり更け、窓の外には柔らかな月が顔をみせている。
 ひとり自室で次の日の予習をしていた那奈は、シャープペンシルをカチカチと鳴らした。
 それからペンケースを漁り、困ったような表情を浮かべる。
「あっ、替え芯もうなくなってたんだっけ」
 そう呟いて少し考えるような仕草をした那奈は、はめている腕時計に目をやった。
「23時か……明日困るし、コンビニに買いに行こうかな」
 そう言って立ち上がり、那奈は上着を手にして自室を出る。
 リビングにいる愛犬のトトを優しく撫でてから、那奈は玄関で靴を履いた。
「トト、いい子でお留守番しててね」
 見送りに来たトトの頭をもう一度撫で、そして那奈は外に出る。
 外に出た瞬間、冷たい風がビュウッと吹きつけてきた。
 上着を羽織って少し身を縮め、那奈は少し先にあるコンビニへと歩き出した。
「明日は大河内先生の授業もあるし、楽しみだなぁ」
 歩きながら那奈は、優しい微笑みを自分に向ける先生のことを思い出す。
 大抵先生の授業があった日は彼に会いに社会科準備室を訪れている。
 先生の話は聞いていても面白いものなのだが、それ以上に楽しそうに自分の好きなことを熱く語っている先生のキラキラした瞳の輝きが、何よりも那奈は大好きなのである。
 先生と過ごすそんな時間は穏やかでほのぼのとしており、まさに那奈の理想通りの幸せなひとときであった。
「明日はどんな話をしてくれるのかな、先生」
 ふふっと微笑みを浮かべ、那奈は黒の瞳を細める。
 那奈の家は都内でも有数の高級住宅地にあった。
 大きな一軒家がずらりと立ち並び、夜は静かで閑散としている。
 そんな立ち並ぶ豪邸の車庫には、決まって何台もの高級車がとまっていた。
 他の人たちから見れば羨望の対象なのであろうが、元々高級趣向ではない那奈にとっては近くにコンビニがないなど、逆にこの高級住宅地に住んでいることを不便を感じているほどである。
 鞄から携帯電話を取り出してカチカチと弄っていた那奈は、その時ふと立ち止まった。
 そして、目に飛び込んできたあるものに瞳を見開く。
「あの青のフェラーリ……先生のと同じ車だ」
 一軒の大きな家の前に止まった車を見て、那奈はそう呟く。
 ……その時だった。
 運転席から降りてきた人物の姿に、那奈は一瞬にして表情を変える。
「あっ!」
 思わず叫んでしまった那奈の声に気がついて、車から降りてきたその人物は彼女の方に視線を向けた。
「げっ、今宮!? 何でおまえ、こんなトコに……」
 那奈の存在に気がついたその人物・大河内藍先生は、驚いて立ち止まる。
「先生こそ、どうして」
 そう那奈が先生に近付こうとした、その時。
 ドンドンドンッと助手席の窓を叩く音がした。
 青のフェラーリに乗っていたのは、先生だけでなかったのである。
「あっ、窓叩いてんじゃねーぞ、コラ! 器物破損する気か!?」
 顔を顰めて、先生は慌てて助手席のドアを開ける。
「なーによぅ、早くドア開けてくれないとダメでしょ? アイちゃんってばぁっ」
 甘い声が聞こえたかと思うと、助手席に座っていた人物がその姿をみせる。
 それは、ひとりの女性だった。
 スラッとした細くて長い足、色気たっぷりの女性らしい雰囲気。
 モデルのように美人な容姿に、高級ブランドのセクシーなワンピースを身に纏っている。
「おまえな、俺の車に傷なんてつけやがったらぶっ飛ばすからなっ」
「あーらアイちゃん、そんなこと言うんだったらどうなるか分かってる? えーい、抱きついちゃえーっ」
 次の瞬間、那奈は信じられない光景に目を見張る。
 その言葉通り、女性は突然目の前の先生にぎゅっと抱きついたのだった。
 漆黒の瞳を見開いた先生は端正な容姿に驚いた表情を浮かべる。
「わっ、おまえなっ!?」
 那奈はそんな様子を見つめ、ただ唖然とするしかなかった。
 先生は彼女をようやく引き離した後、ちらりと那奈に視線を向ける。
「ま、待てっ! あのな今宮、コイツは……」
「…………」
 明らかに怪訝な表情を浮かべて冷めた視線を投げる那奈に、先生は慌てて言葉を続けようとした。
「あらぁ、アイちゃんの知り合いの子? ごめんなさいねぇ、いつもの調子でこんなラブラブな姿見せちゃってっ」
 ようやく那奈の存在に気がついたその女性は、先生が次の言葉を発するその前ににっこりと笑顔を作ってそう言った。
 先生はじろっと女性に視線を向けた後、再び那奈に向き直る。
「おまえっ、余計なコト言うなボケッ! 今宮、誤解するんじゃねぇぞっ、コイツはなっ」
「いつもの調子で、ラブラブ……」
 ぽつりとそれだけ呟いてから、そして那奈はフラフラと再び歩き出した。
 それを追おうとした先生の腕をガッチリと掴み、女性は言葉を続ける。
「アーイーちゃんっ、逃げようったってそうはいかないわよ? あ、今日はうちに泊まっていかない? ここからだったら学校にも近いし。うふふ、朝帰りなんて不純な先生ねぇっ」
「勝手に決めるな、この魔女っ! 送ってやったんだから、さっさと帰れっ」
「ええーっ、やだぁ。アイちゃんともっと遊ぶーっ」
「あぁ!? もう十分付き合ってやっただろーがっ。ていうか……今宮っ、おい待てよっ!」
 背後から聞こえる先生の声に、那奈はぎゅっと瞳を閉じた。
 それから大きく首を振り、たまらずにその場を駆け出す。
 あっという間に小さくなっていく那奈の背中を見送り、先生は大きく溜め息をついた。
 ようやく先生たちの姿が見えなくなって、那奈は乱れた息を整える。
 そしていつの間にか流れ出した涙をぐいっと拭った。
「やっぱり先生も、ああいう大人っぽい女の人が好きなんだ……」
 さっき見た女性は、モデルのようにスタイル抜群で綺麗な人だった。
 その上にお金持ちであることも彼女の姿を見れば一目瞭然である。
 それよりも何よりも、那奈の頭の中には、女性が先生に抱きついていた姿が離れないでいた。
 必死にそれを振り払おうと、那奈は再びブンブンと大きく首を振る。
「結局先生も、お金持ちのボンボンだったってことよね……」
 自分に言い聞かせるようにそう言って、那奈はじわりと涙で滲む風景から目を逸らして俯く。
 自分がすでに何をしに外出したのかも忘れ、那奈はシンと静まり返っている夜の高級住宅街をその時ただひたすら歩いたのだった。