SCENE4 心のないブリキの木こり

 ――次の日の放課後。
 帰りのホームルームが終わった教室は、賑やかな生徒の声で溢れていた。
「ねぇ、那奈っ。駅前のケーキやさん寄って帰らない?」
「あ、ごめん。今日はちょっと都合悪いんだ」
 鞄に教科書をしまいながら那奈は知美の誘いに手を合わせる。
 知美は意味あり気に笑い、ぽんっと那奈の肩を叩いた。
「もしかして、アイちゃんのところに行くの?」
「え? う、うん」
 知美の言葉に、那奈は遠慮気味に俯く。
 そんな那奈の様子を見て知美は安心したように言った。
「最近那奈の様子おかしかったからさ、心配してたんだよ? あんなに今まで夢中で聞いてたアイちゃんの授業中もボーッとしてたし。でも今日の授業は普段通りの那奈で、本当によかったよぉっ」
 じゃあ頑張って、と手を振って知美は教室を出て行く。
 那奈は彼女に手を振り返した後、ちらりと時計を見た。
 この時間ならば、先生はまだ職員室にいるだろう。
 何気に学校での先生のスケジュールが頭に入っている那奈はすれ違うクラスメイトに手を振りつつ放課後の賑わう廊下を歩き始める。
 そして階段を駆け下り、1階にある職員室へと入っていく。
 きょろきょろと広い職員室を見回した那奈は自分の机で仕事をしている大河内先生の姿を見つけ、彼の元へと向かった。
「あの、大河内先生」
 先生のすぐ背後に立っておそるおそる声をかけた那奈に、彼は振り返る。
「あ、今宮さん。どうかしましたか?」
 自分に向けられる、柔らかな微笑み。
 そしてこの優しい色を湛える先生の綺麗な両の瞳が、那奈は大好きなのである。
 ドキドキと鼓動を早める胸を押さえながら、那奈は遠慮がちに言った。
「先生、ちょっとお話があるんですけど……」
 そこまで言って、那奈はふと周囲を伺うような仕草をする。
 そんな那奈の様子に気がついた大河内先生は、にっこりと笑って言った。
「今宮さん、社会科準備室に行きましょうか」
「え? あ、はい」
 コクンと頷いた那奈の黒髪が僅かに揺れる。
 先生は机の書類を片付けた後、引き出しから社会科準備室の鍵を取り出した。
 それから着ていた白衣を脱いで椅子に掛けて那奈を促す。
 先生と一緒に社会科準備室に移動しながら、那奈はちらりと彼の横顔を見た。
 そんな視線に気がついた先生は小さく首を傾げる。
「どうしました? 今宮さん」
「え? いえ……」
 学校での先生とプライベートでの先生の印象は、相変わらず同一人物とは思えない。
 確かに昨日子供のように瞳をキラキラ輝かせて好きなことを語っていた金持ちのボンボンと、今隣にいる穏やかな印象の先生は同じ瞳をしているのだが。
 那奈は周囲に人がいないことを確認し、そして先生に言った。
「いえ、何だか学校での先生と学校以外での先生って、雰囲気全然違うなって思って」
「そうですか? 喋り方は多少違うかなとは思いますが、僕自身は違うという自覚ないんですが……」
「えっ?」
 喋り方の違いなんて、多少どころかまるで正反対である。
 いや、喋り方だけではない。
 究極の二重人格か、はたまた別の人物ではないだろうかと本気で疑うほど言動も格好も雰囲気も違うのに。
 驚いた顔をする那奈に苦笑し、そして先生は言葉を続けた。
「そんなに違いますか? まぁ学校での僕も僕ですし、プライベートの僕も僕ですから」
 その言葉に、那奈はふと考える仕草をする。
『学校での社会科教師・大河内藍も間違いなく俺だし、昨日おまえと会った時の社長の息子も俺。それに、今の俺も俺だ』
 プライベートバージョンの先生の言っていたその言葉を思い出し、那奈はもう一度首を捻る。
 傍から見ればまるで別人のようであるのに、本人に自覚がないなんて。
 確かにちょっとした仕草やたまに垣間見える内面で、両方とも同じ大河内先生だと思う部分もある。
 だがやはり、正直那奈はまだそのギャップに戸惑っていた。
 とはいえ昨日のドライブで、那奈の心にあったプライベートバージョンの先生への嫌悪感は少し薄れてきているのだった。
 そうこうしているうちに別館の3階にある社会科準備室の前にふたりは到着した。
 先生はポケットから鍵を取り出し、社会科準備室のドアを開けた。
「どうぞ、今宮さん。適当に座っていてください。温かいお茶くらいしかありませんけど」
 那奈を中へと促し、先生はポットの電源を入れる。
「あ、すみません、先生」
 先生の秘密を知る前まではよく質問という理由をつけては、那奈は社会科準備室に来ていた。
 だが先生の秘密を知ってから始めて訪れた社会科準備室は、何だか妙に照れくさい。
 那奈はお茶の準備をしている大河内先生に目を向ける。
 夕日が差し込む窓辺に立つ先生の黒髪は、うっすらと橙色にそまっていた。
 先生はポットのお湯が沸く時間を確認してから那奈の目の前の椅子に座る。
「えっと今宮さん、僕に話って何ですか?」
 眼鏡の奥の漆黒の瞳が突然自分を映し、那奈は一瞬ドキッとした。
 そして気を取り直し、ぺこりと頭を下げて言った。
「あの、昨日はご馳走様でした。私、先生にお礼を言っていなかったなって。あと、お茶も……」
「ああ、いいえ。気にしないでください、生徒にお金を払わせるわけにはいかないでしょう?」
 那奈の言葉に、先生は嬉しそうににっこりと微笑みを返す。
 昨日のプライベートな先生とは、本当に見れば見るほどに言うことも雰囲気も違う。
 先生は那奈を見つめる瞳を優しく細め、言葉を続けた。
「それよりも昨日は帰りが遅くなってしまって、大丈夫でしたか? つい夢中になって話し込んでしまって」
「いいえ、私も楽しかったです。それに……」
 そこまで言って、那奈は言葉を切る。
 そしてふと表情を変えて再び口を開いた。
「それに家に着いた時、まだ誰も帰ってきていなかったし」
 楽しそうにマニアックな話をする先生とあれからしばらくドライブをし、那奈が家に帰ってきた時はすでに夜23時を回っていた。
 だが仕事の付き合いで両親が帰ってきたのは、その数時間も後であったのだ。
 俯いてしまった那奈を見つめ、そして先生は立ち上がる。
 それからようやく沸いたお湯を急須に注いで湯飲みにお茶を淹れた。
 コトンと那奈の目の前に淹れたお茶を置き、先生はぽんっと彼女の頭に手を添える。
 そしてふっと笑顔を浮かべた。
「今宮さん、今日は何の話をしましょうか?」
「え?」
 先生の大きな手の感触にドキドキしながらも、那奈はきょとんとした表情を浮かべる。
 大河内先生はそんな那奈に優しく言った。
「温かいお茶でも飲みながら、ゆっくり話でもしましょう」
「大河内先生……」
 そんな先生の言葉に顔を上げて那奈は笑顔をみせる。
 それから少し考える仕草をし、思いついたように言った。
「今日は、先生のことを話して聞かせてください」
「僕のこと、ですか?」
 那奈の思いがけない言葉に先生は少し意外な表情を浮かべる。
 それからひとくちお茶を飲み、頷いた。
「大した話は出来ませんが、分かりました」
 そう言って先生は、ふと座っていた椅子から立った。
 那奈は急に立ち上がった先生を見て首を傾げる。
 そんな那奈を後目に、大河内先生は準備室の机の引き出しからあるものを取り出して那奈に差し出した。
 不思議そうにそれを受け取った那奈だったが、次の瞬間に表情を変える。
「あっ、これ……」
「ええ、図書館に置いてあったんですよ。職員室で読むのも何なので、ここで見てたんです」
 那奈に手渡されたそれは、一冊の絵本であった。
「オズの魔法使い……」
「今宮さんがこのお話のことを言っていたのを思い出して、改めて読んでみました。今宮さんの話にはよくこの童話のことが出てきますよね、好きなんですか?」
「はい。小さい頃に何度も何度もドキドキしながら読みました。自分がドロシーになった気分になれて、すごく楽しかったです。あ、うちの犬の名前もこのお話から取ってトトって付けたし、犬種も同じケアーンテリアなんですよ」
「トトですか、ドロシーの愛犬と同じなんですね」
 にっこりと微笑んで、そして先生は那奈の目の前に絵本を広げる。
 それから先生は、ページを捲くっていた手をあるページで止めた。
 そこは、ドロシーがブリキの木こりと出会ったシーンであった。
 先生は那奈の隣に移動し、絵本に視線を落とす。
 那奈はすぐ近くに先生の顔があることに気がつき、胸の鼓動を高める。
 分厚い眼鏡の向こうに見えるのは、伏せられた漆黒の瞳にかかる長い先生のまつ毛。
 そしてきれいな弧を描くくっきりとした二重瞼。
 そんな先生の顔に、那奈は思わず見惚れてしまっていた。
 先生は那奈の心情も知らず、口を開く。
「僕はこの絵本を読んだ時、このブリキの木こりが少し前までの僕みたいだなって思ったんです」
「え?」
 先生の声に我に返り、那奈は瞳をぱちくりとさせた。
 それから改めて絵本に目を向ける。
 オズの魔法使いのブリキの木こりは、悪い魔女に魔法をかけられて自分で自分の体をブリキにしてしまった。
 そして体がブリキになったことで、この木こりは心までなくしてしまったと思い込んだのだ。
「僕は今宮さんも知っているように、大河内建設の跡取り息子です。小さい頃から家業を継ぐことが当たり前として育てられてきましたし、自分でもそれが当然のことだと思っていたし、それ以外の道を選ぶことも許されなかったんです」
 那奈はそう言う先生をじっと見つめている。
 絵本のブリキの木こりを見つめたまま、先生は言った。
「そんな僕は高校の時、家業を継ぐよりもやりたいと思う夢を見つけました。でも、それを口に出して言えなかった。自分は家業を継がないといけないのだし、そうすべきだと思ってましたから。そして僕はいつしかその夢を諦め、夢を諦めたと同時に自分は心もなくしたと思ってたんです」
「大河内先生……」
 那奈は温かい湯飲みを握り締めたまま、先生の言葉ひとつひとつに頷いていた。
 先生はそんな那奈に微笑み、話を続ける。
「でも僕はある時、ある尊敬できる人物に出会いました。その人は僕の夢である職業についている人でした。そしてその人に言われたんです、心をなくしたと思い込んでいるだけだと。夢は諦めなければ叶うと。木こりだって、心をなくしたわけではない。結局はなくしたと思い込んでいただけなんですよね」
 先生はさらにゆっくりとページをめくり、パタンと本を閉じた。
 裏表紙をゆっくりと撫で、先生はふと顔を上げる。
 そして再び自分に向けられた眼差しに、那奈は澄みきった輝きを感じたのだ。
 先生はふっと瞳を細めて再び口を開く。
「本当は心を持っているのになくしたと思っていた木こりと同じで、僕も自分にまだ夢を諦めたくないという気持ちを持っていることに気がついたんです。そのことに気がつくことができたから、今の僕の姿がここにあるんですよ、今宮さん」
「え?」
 先生はお茶をひとくち飲んだ後、にっこりと微笑んだ。
 那奈はそんな先生の言葉にハッと顔を上げる。
「あっ、先生が先生をしてる理由……大河内先生の夢って、もしかして」
「父を何とか説得し、期限付きではありますが僕は今夢だった教師になれました。ブリキの木こりが自分の中に心を見つけたように、僕もなくしたと思っていたものを見つけられたんですよ」
 それから先生は、そっと絵本を手に取る。
 そして、少し照れくさそうに笑った。
「なんて、ちょっと話を美化しすぎちゃいましたね」
「先生……」
 那奈は大きく首を振り、ようやく温かいお茶に口をつける。
 飲んだ瞬間に体がぽかぽかと温まるような感覚を覚え、ほっとする。
 だが一番ほっとしているのは、どこでもない那奈の心だった。
 那奈は先生の顔を真っ直ぐ見つめて、そして言った。
「よかったです、先生がなくしたと思ったものを見つけてくれて。見つけてくれたから、こうやって今先生とあったかいお茶を飲みながら話ができるんだから」
「今宮さん……」
 自分を見つめる先生の姿が、じわりと滲む。
 慌ててごしごしと瞳を擦って溜まった涙を誤魔化した後、那奈はこの時思ったのだった。
 学校での先生も、それ以外の先生も……自分の大好きな、大河内先生であると。


 だが、この時の那奈は気がつかなかったのである。
 自分が今話をしている先生が元々理想である冴えない先生バージョンの方であり、那奈の嫌悪していたプライベートバージョンではないということを……。