SCENE3 脳みそのないかかし

 学校も休みの週末の午後、窓から見える空には冬の快晴が広がっている。
 だが、そんな窓の外の清々しい天気とは裏腹に、那奈は自宅のリビングで大きな溜め息をついた。
 広いリビングには、何気なくついているテレビの音だけが響いている。
 そして会社の付き合いで休日も両親が不在であることに、那奈は昔から慣れていた。
 ソファーのクッションをぎゅっと抱きしめて、おもむろに那奈はテレビを消した。
 それからもう一度嘆息した後、黒の瞳を愛らしそうに細めてから隣に座っている愛犬・ケアーンテリアのトトを優しく撫でた。
 耳の後ろを撫でられて気持ちよさそうな表情をするトトを見ながら、那奈は呟く。
「トト、どう思う? どっちが本物なんだろうね……」
 そう問いかけてみるがもちろん答えが返ってくるはずはなく、トトは那奈の言葉に短い尻尾を振る。
 そんなトトを膝の上に抱き上げ、それから那奈は黒い前髪をかき上げる。
 ――先生の秘密を知ってから、数日。
 その数日間も学校での大河内先生は普段と何ら変わらず、那奈の理想のカタマリの冴えない教師である。
 先生は度々那奈と話をしようとしたが、あの日以来那奈はそんな先生をことごとく無視していた。
 学校ではどこからどう見ても冴えない大河内先生のそんな姿が、余計に那奈にとって辛いのである。
「学校での姿が本当なのか、社長の息子な横柄な姿が本当なのか……分からないよ」
 そう呟いた那奈は、ハッと顔を上げて大きく首を振る。
 たとえ自分の好きな冴えない姿が本当だとしても、先生が自分の嫌いな金持ちの息子であることは間違いない。
 そう思い直して那奈は膝の上のトトを横に退かして立ち上がった。
 それからおもむろにキッチンへと足を向ける。
 冷蔵庫を開けて飲み物を取り出した那奈は、ふと大河内先生の言葉を思い出していた。
『学校での社会科教師・大河内藍も間違いなく俺だし、昨日おまえと会った時の社長の息子も俺。それに、今の俺も俺だ』
 思わず惹きつけられるような、自分を真っ直ぐに見つめる漆黒の両の瞳。
 そんな彼の瞳には、その言葉に対しての揺ぎ無い自信のようなものを感じた。
「どっちも本当の姿なんて、そんなの究極の二重人格もいいところじゃない」
 冴えない学校での先生と社長の息子である先生とでは、性格も言動も正反対である。
 那奈はグラスにジュースを注ぎ、リビングへと戻った。
 それから、ジュースをひとくち口にする。
「はあぁ……もう先生のことは考えないようにしようって思ったのに」
 那奈がそう呟いた、その時だった。
 部屋の隅に置かれている自宅の電話が、おもむろに鳴り出した。
 那奈は再び立ち上がり、電話の受話器を取る。
「もしもし?」
『那奈、おじいちゃんだよ。今日は家にいるのかい?』
 聞こえてきたのは、聞きなれた祖父の声だった。
 那奈は近くの椅子に座ってからその言葉に頷く。
「今日はずっと家にいるよ。どうしたの?」
『今日はお父さんもお母さんも会社の付き合いで夜遅いだろう? おじいちゃんと夕食でも食べないかい?』
「うん、いいよ。何時にそっちに行けばいいかな?」
 祖父の申し出に那奈はすぐにそう答えた。
 ひとりでいると、どうしてもいろいろと考えて落ち込んでしまうと思ったからである。
 那奈のその返事に、祖父は満足したように言った。
『そうか、じゃあいつものレストランの予約を19時にしておくよ。その前に迎えに行くから、お洒落しておいで』
「うん、分かった。用意して待ってるから。じゃあ、また夕方ね」
 それだけ言って、那奈はカチャッと受話器を置いた。
 腕時計をちらりと見て時間を確認した後、椅子から立ち上がって自分の部屋へと向かう。
 そして自室の大きなクローゼットを開けて着て行く服を選びながら、那奈はもう一度嘆息したのだったのだった。


 その日の夜。
 祖父の愛車のベンツから降りた那奈は、少し乱れた黒のワンピースの裾を整えてから歩き出す。
 清々しい青い空はすでに夜の闇で覆われていたが、休日の街は賑やかなネオンで明るかった。
 祖父の隣を歩きながら、那奈は慣れたように行きつけの高級レストランへと入っていく。
 いかにも金持ちしかいないこの店が那奈はあまり好きではなかったが、祖父を喜ばせるためによく来ているのだった。
 那奈の着ているコートを預かった後、店員は愛想の良い笑顔で言った。
「お連れ様はすでにいらっしゃっています。お席までご案内致します」
「連れ?」
 店員のその言葉に、那奈は首を傾げる。
 そんな那奈の肩をぽんっと叩き、祖父は笑った。
「今日は特別に、お客様を呼んだんだよ」
「えっ? そんなこと聞いてないわ」
「いいから、いいから。さあ、那奈」
 にっこりと微笑んで、祖父は那奈を促す。
 那奈は案内する店員のあとを歩きながら、そっと溜め息をついた。
 きっとこの店に呼ぶくらいなのだから、間違いなく相手も金持ちであるだろう。
 金持ちの相手をするのは慣れているが、今日は気を使わずに食事をしたかったのに。
 そう思った那奈であるが、自分を可愛がってくれている祖父にそんなことは言えない。
 諦めた那奈はシンプルではあるが高級な黒のワンピースの襟元を正し、身なりを整える。
 それからふたりは、一番奥のいつも座る席へと案内された。
 ……その時だった。
「ちょっ、ちょっと待ってっ!? な、何でっ!?」
 急に立ち止まった那奈はその瞬間、漆黒の瞳を大きく見開いた。
 それから驚いたように祖父の顔を見る。
「えっ!?」
 先に来ていた相手も那奈の姿を確認し、驚きを隠せない表情を浮かべていた。
 祖父はにっこりと微笑み、瞳をぱちくりさせる那奈に言ったのだった。
「この間は驚いたよ。大河内建設のご子息とおまえが知り合いだったなんて、おじいちゃん知らなかったからね。ふたりでゆっくりと食事を楽しむんだよ、那奈」
 その場にいたのはこの間祖父の会社で会った大河内建設の社長と、そして大河内先生その人であったのだ。
「ちょっと、どうして!? しかも、ふたりでってどういうこと!?」
 思わず取り乱す那奈に、祖父は笑って言った。
「そんなに照れなくてもいいんだよ、那奈。年寄りは退散するから、ふたりで食事でもしなさい」
 どうやら祖父は、何やら那奈と先生の関係を勘違いしているようである。
 それに気がついた那奈は慌てて言い訳をする。
「照れるとか照れないとかじゃなくてっ、ちょっとそんなんじゃ……」
「まぁまぁ、そう言わずに。照れずに楽しい食事のひとときを過ごせばいいんだよ」
「おい、もしかして俺らだけ残して帰るんじゃ……第一そんな話、聞いてないしっ」
 思いがけない展開に唖然としていた大河内先生も、父親である社長に目を向けた。
 社長は何を今更という表情をし、ぽんっと先生の肩を叩いた。
「頭取の大事なお孫さんだ、責任もって家までお送りするんだぞ」
「よろしく頼んだよ、藍くん。では社長、行きましょうか」
 強引にそそくさと退散する祖父たちの後姿を、那奈はぽかんと見送ることしかできなかった。
 これは、何かの悪い夢だろうか。
 目の前の状況がよく理解できず、那奈はその場に立ち尽くしていた。
「……とりあえずおまえ、座ったらどうだ?」
 はあっと大きく嘆息し、大河内先生は那奈に視線を向ける。
 椅子を引こうと待っている店員に気がつき、那奈は仕方なく席についた。
 それから目の前に座っている先生を見た。
 学校での冴えない姿が嘘のような、さり気なくお洒落で魅力的な整った容姿の青年。
 だが見れば見るほど、間違いなく彼の顔はあの大河内先生である。
「まぁ驚いたけどな、ちょうどおまえと話したかったからな」
 それに、この口調。
 学校ではいつも生徒に対しても何故か敬語で、優しい柔らかな口調なのに。
「ていうか……おまえ、思いっきり眉間にしわ寄ってるぞ」
 それは当然だろう、にこにこなんてできるわけがない。
 どういう顔をすればいいのか、何を話せばいいんだろうか。
 いや、今更何も話すことなんてない。
「おまえもそんな格好してると、やっぱりお嬢っぽく見えるよな。普段は制服姿でそれ見慣れてるから、何か別人みたいだな」
 何普通に喋ってるんだ、この人。
 どうしてふたりで仲良く食事なんてしなきゃいけないんだ。
 第一、先生こそ見慣れない小綺麗な格好しているくせに。
「おい、今宮……おまえ、何か言ったらどうだ? そんなに俺と喋るのがイヤか?」
 その言葉に、ハッと那奈は我に返った。
 黒い瞳をちらりと自分に向けて、先生は怪訝な顔をしている。
 那奈は気を取り直し、じろっと先生に鋭い視線を向けた。
 そんな那奈の様子に嘆息して、先生は鬱陶しそうに前髪をかきあげる。
「ていうか、さっさと食べてこの店出るぞ」
「え?」
 そう言ってメニューを開く先生に、那奈は首を傾げる。
 先生はパラパラとメニューをめくる手を止めずに小声で続けた。
「こんな高級な店はあんまり好きじゃねーからよ。食うもん食ったら出るからな」
「…………」
 那奈は先生の言葉を聞いて、ふと振り返る。
 そしてやってきた店員に言った。
「いつものコースを、ふたり分」
「かしこまりました。お飲み物もいつものものをご用意してよろしいですか?」
「ええ、構わないわ」
 慣れたようにそう店員に告げる那奈に、先生はニッと笑みを浮かべる。
「おー格好いいなぁ、さすがお嬢」
 そんな先生の言葉にますます怪訝な顔をし、那奈はふいっとそっぽを向いた。
 もちろん、言われたことが気に食わなかったということもあるが。
 それ以上に那奈は、自分を見つめる深い黒を帯びた先生の瞳を見ることができなかったのだ。
 惹きつけられるような、魅惑的な色。
 それは、自分の好きな冴えない先生のものとは全く印象が違うはずなのに。
 何故かドキドキと早い鼓動を刻む胸を押さえ、那奈はそれを誤魔化すように膝の上で作った拳をぎゅっと強く握り締めたのだった。


 早々に食事を終わらせ、那奈と先生は高級レストランを出る。
「おまえな、ご馳走様くらい言えよ、コラ」
「別に奢って欲しいなんて思ってないし、それに奢ってもらわなくったって構わなかったもん」
 レストランの駐車場をスタスタと早足で歩きながらむっとした表情を浮かべ、那奈はそう言った。
「口の減らないヤツだな、ったく。ていうかおまえ、教師にタメ口きいてんじゃねーぞ、あ?」
「そう言う先生だって、本当は先生じゃないくせにっ」
 キッと先生を振り返って、那奈はそう言い放つ。
 那奈のその言葉に、先生はふと漆黒の瞳を細める。
 そして。
 突然、前を歩く那奈の腕をガッと掴んだ。
 急に先生の手の感触が伝わり、那奈は驚いて思わず足を止める。
 そんな那奈を真っ直ぐ見つめてから、先生は言った。
「あのな、俺はおまえの先生だし、おまえは俺の生徒だ。違うか?」
「…………」
 その言葉に、那奈は言葉を失う。
 それから先生の視線から逃げるように目を逸らした。
 ふうっと先生は嘆息し、そして愛車である青のフェラーリの前で足を止める。
 その車は、祖父の会社で見たことのある車だった。
 鍵を差し込んだ先生は、助手席のドアを開けてわざとらしく言った。
「どうぞ、お嬢様」
 無言で仕方なく車内に乗り込んだ那奈に苦笑した後、先生はふと何かを思い出したように前髪をかき上げる。
 それから助手席の那奈に目を向けた。
「あ、おまえちょっと中で待ってろ」
 それだけ言うと、先生はどこかへと歩き出す。
 そんな先生の後姿を見送り、那奈は大きく溜め息をついた。
 食事中も那奈はほとんど先生と口をきかなかった。
 それどころか、まともに先生の顔を見ることができなかったのだ。
 本当に同じ顔の人間がふたりいるのかと思うほど、学校での彼と今一緒にいる彼とでは別人のように見える。
 自分の好きな学校での先生は、やっぱり嘘の姿なのだろうか。
 那奈は俯いたまま、瞳を伏せる。
 それから数分もたたず、先生が車に戻ってきた。
 そして車に乗り込んでエンジンをかける。
「シートベルト締めたか? 行くぞ」
 ちらりと俯く那奈に瞳を向けた後、先生は車を走らせ始めた。
 那奈は賑やかな夜の街に目を向けたまま、運転席の先生を見ようともしない。
 車内を、シンとした異様な沈黙が流れる。
「おい、今宮」
 ふと名前を呼ばれ、那奈は先生に視線を向けた。
 そして。
 先生は持っていた何かをおもむろに那奈に手渡した。
 急にあたたかい感触が手に伝わり、那奈はそれに視線を移す。
「……え?」
 受け取ったそれを確認した那奈は、不思議そうな表情を浮かべた。
 那奈が受け取ったものは、あたたかい1本のお茶の缶であった。
 きょとんとする那奈を見て、先生は言った。
「バレンタインチョコに一緒についてたおまえの手紙に書いてあっただろ? またお茶でも飲みながらゆっくり先生の話を聞きたいです、ってな」
「手紙……」
 先生の言葉に、那奈はふと思い出す。
 バレンタインデーに手渡した手作りチョコレートと一緒に、那奈は手紙を入れていた。
 その手紙に那奈は、確かにそう書いていたのだった。
 そして。
「1582年」
「え?」
「1582年といえば何だって聞いてんだよ」
 いきなりそう言われ、那奈は驚いた表情を浮かべる。
 それから、おそるおそる答える。
「1582年、本能寺の変?」
「そうだ。ま、この程度なら小学生でも分かる問題だけどな」
 信号が赤になったため車を停車させて、先生は那奈に目を向けて続けた。
「ていうかおまえ、最近俺の授業ろくに聞いてねーだろうがよ。違うか?」
 ほかの生徒と違って内職や居眠りはしていないものの、確かに最近の那奈は大河内先生の授業中、心ここにあらずであった。
 今まで先生の言葉を一字一句聞き逃すまいと夢中で授業を聞いていた那奈の様子とは、明らかに違っていたのだった。
 那奈はそんな先生の言葉に何も言えずに俯く。
 信号が青に変わり、再び車がゆっくりと走り出す。
 先生は運転しながら、那奈に言った。
「何をそんなに怒ってるんだ? 何か俺がしたか?」
「…………」
 那奈は端正な先生の横顔を見て、そして少し間を取ってから答える。
「金持ちが嫌いなの。金持ちの息子なんてみんな、脳みそのないかかしだから」
「脳みそのないかかしって……オズの魔法使いのか?」
「え?」
 先生の言葉に、那奈は驚いたように顔を上げる。
 ちらりと横目で彼女を見た後、先生は言った。
「おまえがこの間、オズの魔法使いがどうたらって言ってただろ? その意味が分かんなかったからよ、オズの魔法使いの本を改めて見たんだよ。ていうか、何で金持ちの息子が脳みそのないかかしなんだ?」
「金持ちの息子なんて、敷かれた道をただ気楽に歩くだけしか能がないでしょ? まだオズの魔法使いのかかしは脳みそが欲しいって思ってるけど、金持ちの息子はそんなことすら思わないでしょ、だから嫌い。その親の会社の重役だって、仕事ばかりでほかのことには見向きもしない。寂しい思いをしてる人のことなんて、仕事に比べたらどうでもいいと思ってる。最悪よ」
「んなの、おまえの勝手な偏見だろーが。金持ちだっていろいろんなヤツいるし、第一おまえんちこそ金持ちじゃねーかよ」
「だから分かるのよ。偏見かもしれないけど、少なくても私の周りはそうだから」
 険しい表情をする那奈に、先生はふうっと嘆息する。
 それから自分用に買ってきたお茶の缶を開け、ぐいっとひとくち飲んだ。
 そして鬱陶しそうに黒の前髪をかき上げる。
「つーか、話題変更だ。そんな暗い顔して俯くような話したって、楽しくねーだろ? あ、そういえば本能寺の変って言えばよ、明智光秀は秀吉に敗れた後もまだ生きてたって説あるの知ってるか?」
「え?」
 急に話題が変わり、那奈は隣の先生に目を向ける。
 先生はハンドルを握りながら話を続けた。
「本能寺の変の後、山崎の合戦で秀吉に敗れた光秀が逃げてる途中で土民に殺されたってのは授業でもやったよな。まぁ結局光秀の天下はいわゆる三日天下ってヤツだったんだけどよ、持ち帰られた光秀の首は腐乱してて本人か確認できないほどだったらしいぜ。でもそれは光秀の影武者のものであって、実際光秀は生き延びて天海上人として徳川3代に仕えたって話だよ。3代将軍家光の名前をはじめ徳川の名前には光秀の縁の人物の名前が多いしよ、日光東照宮にある明智平という地名、そのほかにも天海と光秀がイコールじゃねーかってものがたくさんあるからな。まぁ事実かは分かんねーけどよ、そういう歴史の謎っていうか、そういうのが面白いんだよな」
 そこまで言って、先生はふっと微笑む。
 それからさらに話を続けようとした、その時。
 先生は驚いたようにその漆黒の瞳を見開いた。
「今宮……おまえ?」
 ふと隣の那奈に視線を向けた大河内先生は、思わず言葉を失う。
 そんな先生の漆黒の瞳に映ったものは……。
「続けて、先生。お願い……」
「でも、おまえ」
「いいから話して。お茶を飲みながら、ゆっくり話をしてくれるんでしょ?」
 そんな那奈の瞳からは、いつの間にか涙が溢れていた。
 ぽろぽろと流れる涙を拭って、那奈はその顔に微笑みを浮かべる。
 ようやく笑顔を見せた那奈の頭に、先生はぽんっと手を添えた。
「泣くか笑うかどっちかにしろよ、おまえは。ていうか分かんねーな、何で光秀の話で泣いてんだ、おまえ」
 大きな先生の手の感触を感じながら、那奈はストレートの黒髪をそっとかきあげる。
「いいから、話を続けて。それで?」
「ん? ああ、まぁ光秀が天海だったとしたら百歳以上生きてるってことになるから長寿すぎだろって話なんだけどよ、天海が光秀なら本能寺の変が家康が黒幕ってのも信憑性を帯びてくるわけで……」
 那奈は楽しそうに語っている先生を見つめ、そして彼の話を頷いて聞いていた。
 目の前のスマートでハンサムな青年は、那奈の理想の冴えない先生の姿とは全く違っているように見える。
 でも、同じだと気がついたのだ。
 自分の好きなことを語るときの、子供のような楽しそうなその表情。
 キラキラした、優しくて柔らかい漆黒の瞳。
 それに気がついた瞬間、那奈の心に変化が生じたのだった。
 そして手渡されたお茶のあたたかさを握っている手から感じながら、那奈は心にかかっていた霧が晴れたような、そんな心地よさを覚えたのだった。