SCENE2 オズの魔法使い

「1582年の6月2日、織田信長から毛利攻めの援軍を命じられていた光秀は老ノ坂で天下取りを表明し、本能寺の信長を急襲しました。信長は光秀の軍勢に、寺に火を放って自刃したんです。これが俗に言う本能寺の変なのですが……」
 天気のいい午後の授業。
 教室に響く先生の声は、生徒たちにとって心地よい子守唄であった。
 起きている生徒も、目の前に辞書のバリケードを作って内職に興じている。
 そんな中、居眠りするわけでもなく、かといって内職しているわけでもない那奈は何度目か分からない大きな溜め息をついた。
「那奈、どうしちゃったの? 愛しのアイちゃんの授業なのに」
 いつもなら目をキラキラ輝かせて教卓で授業をする先生に夢中なはずの那奈だが、今日は表情に全く覇気がない。
 辞書のバリケードを作って別の教科のノートを写していた知美は、いつもと様子の違う那奈の腕をシャープペンシルで突付いた。
 那奈はハッと我に返った後、再び嘆息する。
 それから知美にちらりと目を向け、言った。
「ごめん……今日は放っておいて」
「どうしたのよ? 昨日はアイちゃんがチョコ受け取ってくれたーってルンルンだったのに。何だかフラれたみたいな顔して」
「……フラれた方が、まだよかったわよ」
「那奈?」
 ガクリと肩を落とし、那奈はちらりと教壇で黙々と授業を進める大河内先生に視線を向ける。
 分厚い眼鏡に、何故か今日も着ている白衣がまた胡散臭い。
 目の前にいる大河内先生は、那奈が大好きないつもの冴えない先生の姿であった。
 那奈はそんな先生の姿を見て、そしてもう一度息をつく。
 その時。
 ふと、先生と視線が合った。
「…………」
 どういう反応を示していいかわからず、那奈はすぐに視線を逸らす。
 先生はそんな那奈の態度に僅かに瞳を細めた後、何事もなかったように授業を続けた。
「お願いだから、悪い夢なら早く覚めてよ……」
 那奈はそう呟いて、ぎゅっと瞳を閉じる。
 そして俯き、昨日の出来事を思い出していた。


 ――昨日、祖父の会社で。
「那奈、大河内建設の息子さんと知り合いだったのかい?」
「大河内建設……? これって、一体!?」
 呆然とする那奈に、先生は何と言っていいか分からない複雑な表情をしていた。
 那奈はもう一度、目の前の社長の息子に視線を向ける。
 高級でお洒落なスーツに身を纏った、都会的な雰囲気の青年。
 だがその顔は紛れもなく、那奈の想いを寄せる大河内藍先生そのものであった。
 呆然と立ち尽くす那奈に、彼女の祖父は首を傾げる。
「那奈、一体どうしたんだ……おい、那奈!?」
「い、今宮!? ……わっ!」
 その時。
 今まで黙っていた那奈だったが、突然先生の身体をドンッと突き飛ばし、強引に頭取室へと押し戻す。
 それから自分も部屋へ入ると、バタンとドアを閉めたのだった。
 廊下に取り残された祖父と社長は唖然とした表情で顔を見合わせ、首を捻った。
 同じ頃、頭取室の中に先生を押し込んだ那奈は先生に詰め寄る。
「大河内先生っ、これって一体どういうことなんですかっ!?」
「い、今宮さん、落ち着いてください。えっと、これはですね……」
 那奈のすごい気迫に押されつつ、先生はちらりと彼女に視線を向けた。
「大河内建設の社長の息子ってっ!? それに、そんな格好なんてしてっ」
 眉間にしわを寄せ、那奈はブンブンと大きく首を振る。
 目の前にいるのは那奈の大好きな大河内先生であって、でもそうでないのだ。
 頭の中がまだ整理できていない那奈の様子に、先生は観念したように口を開いた。
「だからその、僕は一応大河内建設の跡取り息子なんですよ。この格好は、さすがにお世話になっている銀行の頭取とお会いするのに粗末な格好で伺うわけにはいかないので……」
 那奈は一度大きく息を吐き、状況を一生懸命理解しようとする。
 このいかにも金持ちのボンボンは、実は大河内藍先生であって。
 そして実は、大河内建設の社長の息子なのだと。
 そこまではようやく那奈も分かった。
 だが。
「でも、何で先生がこんなところにいるんですかっ!?」
 大手建設会社の社長の息子なのは、百歩譲って仕方がないことだとしても。
 だが建設会社の社長の息子であるにしても、高校教師として働いている先生がどうして銀行の頭取である祖父に会いに来る必要があるのだろうか。
 そう疑問に思った那奈に、大河内先生は言いにくそうに言った。
「それは、その……実は僕は、大河内建設の重役でもあるんですよ。教師は何と言うか、副業というか……」
「は? 副業!?」
「ええ。ちょっと理由があって、期間限定で教師をしているんですよ。だから、本当は教師ではないというか……あ、でも今は教師である時間の方が長いから、教師が本業と言った方がいいのか……とにかく、兼業しているんですよ。会社の重役と教師を」
 先生のその言葉を聞いて、那奈はガツンと強く頭を殴られたような感覚に陥る。
 大好きな社会科の冴えない大河内先生は、実は自分の嫌いなお金持ちの会社の重役だったのである。
 しかも先生は、本当は教師ではないと言う。
 あまりのショックに軽い頭痛がし、ぐるりと視界が回る。
 那奈はこの時、小さい頃大好きだった“オズの魔法使い”の童話を思い出していた。
 願いを叶えてもらおうと、幾多の道を通りオズの魔法使いを訪ねたドロシー。
 だが、実は彼は魔法使いでも何でもなく、普通の人間だったという。
 魔法使いだと勘違いされ、それから引くに引けずに姿を偽って人々を騙していた。
 願いを叶えてくれるだろうと思っていた魔法使いは、実はそんな力を持っていなかったのだ。
 それを知ったドロシーは、きっと今の自分のような気持ちだっただろう。
 やっと見つけた、自分の願いを叶えてくれる人だと思っていたのに……。
 先生みたいな人とのんびりした時間を過ごすことが幸せであり、ささやかな自分の望みだったのに。
「……今宮さん? あの、今宮さん?」
 先程の剣幕とはうって変わって言葉を発することなく呆然と立っている那奈に、先生は心配そうな表情を浮かべてゆっくりと彼女の肩を揺すった。
 そんな様子にハッと気がつき、そして那奈は先生の手を思い切り振り払う。
「本当は先生じゃなかったなんて……嘘つきっ!!」
 勢いよく手を振り払われ、先生は驚いた様子で那奈を見た。
 それから、ひとつ大きく嘆息する。
 ……そして。
 おもむろに先生は漆黒の前髪をかきあげ、改めて那奈に視線を向ける。
 その先生の真っ直ぐな視線に、那奈は思わずドキッとした。
 自分に向けられたそれは、先程までとは全く雰囲気が違っていた。
 優しくて柔らかな先生のものとは違い、思わず惹きつけられるような魅力的な瞳。
 そしてもう一度溜め息をついた先生は、近くの椅子にドカッと座って言ったのだった。
「ていうか、ああ面倒くせぇなっ。ったくよっ」
「……えっ!?」
 急にガラリと口調の変わった彼に、那奈は大きく瞳を見開く。
 そんな那奈に、先生は言葉を続ける。
「学校以外でノンビリ喋るのなんて慣れてねーからよ。今宮、ほかのヤツらにこのこと言うなよ、学校でも校長以外知らないんだからな」
「なっ……大河内、先生っ!?」
 縁側で一緒にお茶を飲みたいと思っていた先生の面影は、そこには全くなかった。
 目の前にいるのは、那奈が最も嫌いな横柄な態度の金持ちの息子。
 ただでさえショックを受けている那奈に止めを刺すには、十分すぎる現実であった。
「でも驚いたぜ、おまえが銀行の頭取の孫だなんてな。おまえ、お嬢だったんだ……って、おい?」
 そこまで言って、先生はふと顔を上げる。
 そして表情を変えて、椅子から立ち上がった。
「おい、今宮。おまえ、何で泣いて……」
「……もう、知らないっ!!」
 ぽろぽろと溢れ出した涙をぐいっと拭い、那奈は先生を残して頭取室を飛び出した。
「あっ、那奈!?」
 廊下で待っていた祖父の呼びかけにも振り返らず、那奈は女子トイレに駆け込む。
 洗面台の蛇口をおもむろにひねり、勢いよく流れ出した水音を聞きながら那奈はぐっと瞳を閉じた。
 そして、ぽつりと呟いたのだった。
「夢なら覚めて、お願い……」


 ……那奈は、ふと顔を上げた。
 いつの間にかチャイムが鳴り出し、終業の号令がかけられる。
 号令がかけられた後着席し、悪夢のような昨日の事をもう一度思い出した那奈は大きく溜め息をついた。
 あまりにも受け止めがたい事実に、まだ夢を見ているような感覚だった。
 いや、むしろ夢であって欲しかった。
 やっと見つけた自分の理想の人だったのに。
 那奈の大好きな冴えない社会科の大河内藍先生は、実はどこにもいない。
 さっきまで教卓で授業をしていた彼は嘘の姿なのだ。
 授業の黒板を取ることもせず、那奈は社会の教科書とノートを閉じる。
 授業が終わり生徒の声で溢れている賑やかな教室の中で、那奈はひとり俯いて嘆息した。
 ……その時だった。
「あの、今宮さん。ちょっといいですか」
 聞き覚えのあるその声に那奈は顔を上げる。
 そして、漆黒の瞳を大きく見開いた。
「大河内先生……」
 那奈は驚いた表情をしながらも、ふいっと彼から視線を逸らす。
 昨日の出来事が嘘みたいな、優しい先生の声。
 そんな彼の声にドキッとしつつ、那奈はわざと冷たい声で言った。
「私、先生とお話することなんて何もありません。失礼します」
「あ……今宮さんっ」
 ガタッと椅子から立ち上がり、那奈は教室を出て行く。
 先生はそんな那奈の行動に表情を変え、そして慌ててその後を追った。
 那奈はそんな彼に追いつかれまいと早足で階段を駆け下りる。
 昨日の本性をちらりとも垣間見せない、そんないつもと変わらない先生の姿を見るのも那奈にはつらかったのだ。
 行く当ても特になく足の向くまま歩いた那奈は、気がつけば人のいない学校の中庭へと出ていた。
 吹きつける風が、那奈の黒い髪をそっと撫でる。
 ……その時。
「今宮さん、待ってくださいっ。僕の話を聞いてください」
 ガシッと背後から腕を掴まれ、那奈は思わず足を止めて振り返る。
 そこにはようやく彼女に追いついた先生の姿があった。
 先生の着ている前開きの白衣が風に煽られ、バサバサと揺れる。
 那奈はその手を振り払い、大きく首を振った。
「もう先生とお話することはありません。私、別に昨日のことを誰かに言う気もないから安心してください。ただ……」
 先生は黙って那奈の言葉を聞いている。
 そんな彼の優しい瞳を真っ直ぐに見ることができず、那奈は俯く。
 それから気を取り直してふと顔を上げ、言葉を続けた。
「ただ、もう二度と先生とお話したくもありませんから」
「今宮さん……」
 はっきりとそう言う那奈に、先生は一瞬言葉を失う。
 それからふっとひとつ嘆息し、相変わらず物腰柔らかな声で言った。
「今宮さん、確かに僕は教師が本業ではないかもしれません。でも、あなたが僕の生徒だということは変わらない。そうでしょう?」
「そんなこと言われたって嘘なんでしょ、今の先生の姿はっ」
 そんな優しい先生の言葉が、より一層今の那奈には辛かった。
 くっと唇を結ぶ那奈に、困ったように先生はもう一度溜め息をつく。
 ……そして。
 先生はおもむろに、かけていた眼鏡をスッと外した。
 今まで眼鏡で隠れていた、綺麗で神秘的な瞳が目の前に現れる。
 そして外した眼鏡を胸のポケットにしまった後、先生はふとネクタイを緩め、Yシャツのボタンを2つ外した。
 その先生の行動に那奈は驚いた表情を浮かべる。
 先生はそんな那奈を後目に、前髪をザッとかきあげて言った。
「ていうか、嘘つきだとか何とか言ってるけどな、俺がいつおまえに嘘なんてついたってんだよ」
「え? だって、嘘なんじゃない……今のその先生の姿が、本性なんでしょう!?」
 突然の変化に驚きながらも、那奈は負けじとそう言い放った。
 先生はそんな那奈の言葉に大きく首を振る。
 そして彼女に真っ直ぐ視線を向け、言った。
「あ? 本性も嘘もねぇよ。学校での社会科教師・大河内藍も間違いなく俺だし、昨日おまえと会った時の社長の息子も俺。それに、今の俺も俺だ」
 そう言っている彼の表情は、自信に満ち溢れている。
 那奈は先生から視線を逸らして何も言えずに俯く。
 そんな那奈に大きく嘆息し、先生は近くの壁にもたれ掛かる。
「別におまえが俺のことが嫌いなら、それはそれで仕方ない。だがな、これだけは納得いかねーんだよ」
 そして次の授業の予鈴が鳴り始めたのも気にせず、先生は言葉を続けた。
「昨日、何でおまえ泣いたんだ? 別に俺がボンボンだろうが何だろうが、おまえが泣くことじゃねーだろ? それとも、何か俺がおまえを怒らせるようなこと言ったか?」
 その先生の言葉に、那奈はぐっと唇をかみ締める。
「……ない」
「え?」
 ぽつんと何かを呟いた那奈に、先生は首を傾げる。
 那奈は泣きそうになるのを堪えながら、言った。
「分かってないっ、全然っ! オズの魔法使いもいいところよっ!」
 那奈のその言葉に、先生はきょとんとする。
「は? おまえ、何いきなり意味不明なこと言ってるんだよ」
「何って……願いを叶えてくれるはずのオズの魔法使いは、童話の通り本当はドロシーの希望なんかじゃなかったのよっ!」
「はあ? 何だよ、それ……って、今宮っ!?」
 突然回れ右をして、那奈はダッと走り出す。
 そんな那奈の後姿を見送るだけで、先生は彼女を追うのを諦めた。
「ていうか、何なんだ? 結局、何で昨日泣いてたかも分かんねーし。でも、あいつ……」
 ふと先生は、昨日彼女が自分の前で見せた涙を思い出す。
 自分を見つめる、彼女の潤んだ両の目。
 そんな漆黒の瞳からぽろぽろと流れる涙の理由が、彼には分からなかった。
 だが彼女の涙が妙に気になって、昨日から彼の脳裏を離れないのだ。
 先生は前髪を鬱陶しそうにかきあげた後、大きく嘆息する。
 何故彼女があんなに怒っているのかもう一度考えてみたが、結局答えは出てこなかった。
 先生は首を傾げながらYシャツのボタンを留め、緩めたネクタイを締めなおす。
 それから風に煽られた髪を手櫛で整えて、ぽつりと呟いた。
「学校でこんな喋り方するなんて慣れねーな、やっぱり」
 そして最後に胸にしまった眼鏡をかけ、鳴り出したチャイムに気がついて深々と溜め息をついたのだった。