「ええっ!? なっ、なんでっ!?」
 その時の私は、目の前の信じられない光景にただ唖然とすることしかできなかった。
 夢でも見ているのかと、本気で思ったくらい。
 そう、まるでオズの魔法使いの童話で竜巻に飛ばされた、ドロシーのような心境。
 ガンガンと軽い頭痛がして、視界がぼんやりとぼやけて。
 どうやら私は、これからオズの魔法使いを探さなくてはいけないようです……。

 SCENE1 ドロシーとたつまき

 ――2月14日。
 終業のチャイムが鳴り出したと同時に、教室中に生徒たちの賑やかな声が溢れる。
 この日の授業もすべて終了し、これから待ちに待った放課後。
 そして心なしか、この日の放課後は、普段よりも一段と活気に満ち溢れていた。
 それも、そのはず。
 何せ今日は、特別な日――乙女の聖戦・バレンタインデーだからである。
 そして例外なく、この少女もバレンタインデーの放課後を待ち侘びていたのだった。
「那奈ちゃーんっ」
 急に後ろからギュッと抱きつかれ、その少女は驚いたように数度瞬きをする。
 それからニヤけていた顔を引き締めて、振り返った。
「びっくりするじゃない、どうしたの?」
 那奈と呼ばれたその少女は、肩ほどの長さの黒髪を無意識にかきあげる。
 日本的な真っ黒の髪に、同じ色の少しつり気味の瞳。
 実年齢よりも少し大人びてみえる、見た感じキリッとした意思の強そうな少女である。
 その少女・今宮那奈(いまみや なな)は、まだ自分の背中で抱きついたままの友人・知美を見た。
 そんな視線に、知美はニッと意味ありげに笑う。
 そしてちらりと教壇に目を向けて言った。
「那奈、今日はバレンタインデーだねぇっ。もしかしてやっぱり、アイちゃんにチョコあげるわけ?」
 その言葉に、那奈は思わず表情を和らげる。
 それから少し頬を赤らめて、頷いた。
「うん、もちろん。頑張って、手作りチョコとか作ってきちゃった」
「おおっ、ヤル気ねぇっ。アイちゃんのこと大好きだもんね、那奈は」
 ポンッと背中を叩かれた那奈は、ふと視線を教壇へと移す。
 教壇で帰り支度をしているのは……ひとりの、教師。
 寝癖のついた後ろ髪に、分厚い眼鏡。
 お世辞でも外見に気を使っているとは言えない、冴えない社会科教師。
 その上、社会科教師なのに何故かいつも着ている白衣が、一層彼の胡散臭さを際立てている。
 大河内 藍(おおこうち あい)先生、通称・アイちゃん。
 27歳と若い先生であるが、その存在は薄く、ふらりとマイペースに授業してはふらりと職員室に帰っていく。
 だが那奈にとってこの冴えない大河内先生こそ、理想の男性そのものであったのだ。
 すっかり先生に見惚れている那奈に、知美は大きく嘆息する。
「ねぇ、那奈。何でよりによってアイちゃんなわけ? 那奈って美人だし、銀行の頭取の孫でお金持ちだし、カッコイイ金持ちのボンボンとかといくらでも知り合えるでしょ?」
 そんな知美の言葉に、那奈は大きく首を振った。
「いつも言ってるでしょ、金持ちのボンボンなんて絶対イヤよ。私はね、一緒に縁側でお茶を飲みながら、ひなたぼっことかできるような人がいいのよ。一緒にいるだけで心が和むような、質素だけどほのぼのとした関係が理想だから。大河内先生って格好は気にしていないけど、ちゃんとすれば顔だって結構いいし、またそういう服装とか気にしないところが好みなのよね」
「那奈の好みって、本当に変わってるよね。何だか勿体無いなぁ」
 うっとりとしながら理想論を語る那奈に、知美は首を傾げる。
 それから那奈はハッとした様子で席から立ち上がった。
「あっ、大河内先生が教室出て行っちゃった! 先生って家に帰るの早いから、授業終わってすぐチョコ渡そうと思ってたのにっ」
 そう言って那奈は、慌ててカバンから綺麗にラッピングされたチョコレートを取り出す。
 そして教室を出て行った先生を追いかけ、バタバタと教室を出て行った。
 そんな那奈の後姿を見送り、知美はもう一度首を傾げたのであった。
「あのっ、大河内先生!」
 教室を出て職員室へと向かう階段で、那奈は大河内先生に追いついた。
 彼女の声に、先生はふと振り返る。
 それからにっこりと微笑むと、足を止めた。
「今宮さん、どうしたんですか?」
 その優しい微笑みにドキドキしながら、那奈は持っていたチョコレートを彼の前に差し出す。
「これっ、バレンタインのチョコレートですっ。いつも先生には、お世話になっているから」
「え? 僕に、ですか? ありがとう、今宮さん」
 少し驚いた表情をしながらも、大河内先生はそのチョコレートを受け取る。
 一瞬彼の細くて長い指が手に触れ、那奈は顔を真っ赤にさせた。
「……今宮さん? もう教室に戻らないと、ホームルーム始まりますよ?」
 幸せな気持ちに浸っている那奈に不思議そうな顔をし、大河内先生はそう言った。
 その言葉に我に返り、那奈は照れを隠すように笑う。
「えっ、あ、そうですねっ。あの、また質問とかに行ってもいいですか?」
「ええ。また分からないことがあったら、質問にきてくださいね」
 柔らかな口調でそう言って、先生は再び職員室へ向けて歩き出した。
 そんな彼の後姿をうっとりと見つめ、那奈は幸せを噛み締めるようにホウッとひとつ溜息をついたのであった。


 ――その日の夜。
 学校での幸せそうだったものとは一変し、那奈の表情は冴えなかった。
 寒さは少し和らいできたものの、やはりまだこの時期の夜は肌寒い。
 はあっと大きく溜息をつき、那奈はある大きなオフィスビルの裏口からその中へと足を踏み入れた。
 そこは、那奈の祖父が頭取を務める、大手銀行の本社ビル。
 表から堂々と入っても構わないのであるが、那奈はそれがイヤなのである。
 裏口から入った那奈は、VIP専用の駐車場へと差し掛かる。
 そこは特定の役員や特別待遇の取引先のお偉いさんたちの、専用の駐車場である。
 ずらりと並んだ役員の高級車に顔を顰め、那奈は足早に歩みを止めない。
 そしてふと、ある車が目に入った。
「青のフェラーリか……お金持ちって、本当にイヤ」
 お客様用の駐車スペースに止められたその車が目に入り、那奈はますます怪訝な顔をする。
 どこの金持ちの車か知らないが、きっと持ち主は性格の悪い捻くれたヤツに決まっている。
 そして那奈は、愛しの大河内先生の柔らかな笑顔を思い出した。
「やっぱり、先生みたいな人がいいよね。一緒にいて、ホッとできるような人」
 そう呟き、那奈は青いフェラーリから視線を逸らす。
 生まれた時から何不自由なくお嬢様として育てられた那奈であったが、そんな自分の周りの環境にいつしか嫌悪感をおぼえるようになっていた。
 いつも銀行の役員である父は仕事が忙しく、那奈が起きる前に出社し、那奈が眠ってから帰宅していた。
 会社に泊まることも多く、あまり一緒にいた記憶がないのである。
『那奈の家はお金持ちだから、羨ましいな』
 周囲の人たちは口々にそう言った。
 だが那奈にとっては、父親と仲良く遊んでいる友達の方がよほど羨ましかったのである。
 父は仕事第一主義の人物で、家庭をあまりかえりみない人だ。
 そんな仕事人間な父を、いつからか那奈は嫌悪するようになっていたのだった。
 那奈は俯き、慣れたようにVIP専用のカードを差し込んで専用エレベーターに乗り込む。
 そして頭取である祖父に会うため、頭取室へと向かった。
 毎年バレンタインデーには、那奈は祖父と一緒に食事をすることにしている。
 子供に興味のない父親と違い、祖父は那奈のことをとても可愛がってくれていた。
 祖父の大好きな高級洋菓子店のチョコレートケーキの箱を手に、那奈は止まったエレベーターから降りた。
「あ、那奈お嬢様」
「関口さん、おじいちゃんはまだ仕事?」
 頭取室の前にいた関口という祖父の女性秘書に那奈は目を向ける。
 関口はこくんと頷き、腕時計を見た。
「はい。取引先の社長とご子息がお見えになっていて。もうお帰りになられると思いますので、お隣の第2応接室でお待ちください。お帰りになられましたらお呼び致しますので」
「うん、分かった」
 関口の言葉に、那奈は頭取室の隣の第2応接室へと足を向けようとした。
 ……その時。
 ガチャリと頭取室のドアが開き、祖父と数人の人間が部屋から出てきた。
 祖父は愛しの孫の姿を見つけると、嬉しそうに手招きをする。
「おや、那奈。おまえもちょっとこっちに来なさい。社長、私の孫ですよ」
「頭取のご自慢のお孫さんですか?」
 社長室から出てきた取引先の社長は、那奈に視線を向けた。
 上から下まで、見るからに高級そうなそのいでたち。
 那奈は心の中で嫌悪感をおぼえながらも、にっこりと愛想笑いをする。
「はじめまして、孫の那奈です」
「これはこれは、可愛くて礼儀正しいお嬢さんだ。うちの息子にも見習わせたいよ」
 そう言って社長は、頭取室から遅れて出てきた自分の息子を振り返る。
 那奈は顔を上げ、その息子とやらの顔を見た。
 ……その瞬間。
 思わず那奈は、瞳を大きく見開く。
 ブサイクでデブな金持ちの息子という勝手に思い描いていた那奈のイメージとは違い、彼はスラリと背が高くハンサムな青年であった。
 身に纏っているスーツは高級なものではあるが、それ程派手でないシンプルなデザインのスーツが逆にお洒落で都会的であり、とてもこの彼に似合っている。
 よく見ると、整った顔に印象的な二重の瞳、睫毛も驚くほど長い。
 そんな彼に思わず見惚れてしまった自分に、那奈はハッと我に返る。
 よりによって自分の一番嫌いなお金持ちのボンボンに、こんな感情を覚えるなんて。
 そう那奈が俯いた……その時だった。
「! 今宮……っ」
 社長の息子が、ぽつりと小さくそう呟いたのが聞こえた。
 その声は、どこかで聞き覚えのあるものだった。
「え?」
 那奈は驚いたように顔を上げ、もう一度その社長の息子に目を向ける。
 そして。
「ええっ!? なっ、なんでっ!?」
 改めて彼の顔をまじまじと見つめた那奈は、思わず大声でそう叫んでしまったのだった。
 よくよく見ると、その社長の息子の顔に見覚えがあったからだ。
 いや、見覚えがあるなんてものではない。
 那奈は信じられないように瞳を見開き、そして口に手を当てて言った。
「なっ、大河内先生っ!?」
 普段と全く印象が違うために最初は気がつかなかったが、目の前にいる社長の息子は、間違いなく冴えない社会科教師・大河内先生その人だったのだった。
「先生って……那奈、大河内建設の息子さんと知り合いだったのかい?」
「大河内建設!? えっ!?」
 祖父の言葉に、さらに那奈は混乱したような表情を浮かべる。
 先生はそんな那奈を見てしまったという表情をしたまま、どう言っていいのか分からない様子でその場に立ち尽くしている。
 それ以上に今目の前で起こっている状況が全く分からない那奈は、ただ先生の顔をじっと見つめたまま、何度も何度も瞬きをすることしかできなかったのだった。