番外連載 山神様の花嫁



 第7話 花嫁の答え

「まだいるかな……」
 ひとりで帰れと雨京先生に言われてから、職員室を出た和奏だったが。
 その足は、靴箱ではなく図書館へと向かっていた。
 静かな図書館に到着した後、和奏はきょろきょろとある人物を探す。
 そしてその人物を見つけ、小声で声を掛けた。
「あ、司紗くん」
「和奏ちゃん」
 その人物・司紗は読んでいた本から顔を上げると、普段通りの柔らかな笑顔を見せる。
 和奏は少し遠慮気味に、彼に話を切り出した。
「あのね、実は今日先生用事があるみたいで……それで、もしよかったら一緒に帰ってくれないかなって」
 雨京先生には、ひとりで帰れと言われた和奏だったが。
 やはり天狗に連れ去られそうになった一件があったために、まだひとりで帰ることが少し不安だった。
 その時に、図書館に寄って帰ると言っていた司紗の言葉を思い出し、和奏は彼に一緒に帰って貰えないかと考えたのである。
 まさか今雨京先生の元に、まさに鼻高天狗の彼が宣戦布告しているということも知らずに。
「うん、いいよ。一緒に帰ろう、和奏ちゃん」
 司紗はパタンと本を閉じ、彼女の申し出にコクンと頷く。
 それから漆黒の瞳を細めて窓の外に向けた後、本棚に本を戻して彼女と図書館を出た。
「ごめんね、司紗くん。こんなお願いしちゃって」
 靴箱で靴を履き替えながら、和奏は申し訳なさそうにする。
「ううん、気にしないで。天狗に狙われてるっていう不安な気持ちも分かるし、僕も和奏ちゃんがひとりで帰るなんて心配だから」
 司紗は優しくそう言って、彼女に穏やかな微笑みを向けた。
 いや、司紗には分かっていたのである。
 雨京先生がこの日、彼女と一緒に帰れないということを。
 司紗は少し前から、雨京先生を付け狙うような妖気の存在に気がついていた。
 もちろん、先生自身も気がついていたようであるが。
 そしてその妖気の正体が、先日自分も対峙したあの鼻高天狗だということも分かっていた。
 あの天狗が先生に何かしようとしていることは明らかである。
 鼻高天狗の狙いが和奏が先生に移ったとはいえ。
 彼の周囲には、数人の烏天狗もいる。
 司紗は念のため、自分が和奏のことを家まで送ろうと。
 そう思って、彼女のことを図書館で待っていたのである。
 だが和奏には、このことは言わない方がいい。
 そう判断した司紗は、何事もないかのように普段通り他愛のない会話を楽しみながら、彼女と共に下校し始めた。
 気配の感じからすると、鼻高天狗に仕える烏天狗もどうやら自分たちの周囲にはいないようである。
 鼻高天狗共々、烏天狗たちも雨京先生のところにいるのだろうか。
 そう考えながらも、司紗はふっと黒を帯びた瞳を細める。
 元々、妖怪である雨京先生のことを、まだ司紗は認めたわけではない。
 正直彼の近くにいる和奏のことが心配であったし、もし何かあった時は、術師として彼と再び対峙することも無きにしも非ずだと思っている。
 鼻高天狗も高い妖力を持ってはいるが、先生の妖気は生半可な強さではないし、自分が手助けする義理もない。
 先生も手助けをして欲しいなんて思う性格でもない上に、むしろ自分が出て行った方がややこしくなりそうだ。
 今は、とりあえず和奏のことを安全に家まで送ろうと。
 司紗はそう思っていたのだった。
 ――その時。
「!」
 司紗はふと表情を変え、和奏に気付かれないように背後に意識を向ける。
 それと同時に、学校の方角で大きなふたつの妖気が弾けるのを感じた。
 それはもちろん……雨京先生と鼻高天狗のものである。
 ふたりの間でどういうやり取りが交わされているのかは分からないが。
 とにかく、和奏に被害が及ぶ前に学校から離れよう。
 そう司紗が思った、次の瞬間。
「……え?」
 今まで楽しそうに話をしていた和奏が、ふと立ち止まった。
 それから振り返り、ダークブラウンの瞳に不安そうな色を浮かべる。
 そして和奏は、司紗にこう言ったのだった。
「司紗くん、今雨京先生の妖気を強く感じたんだけど、何かあったのかな……」
「えっ?」
 和奏の言葉に、司紗は驚いたような顔をする。
 自分のような術師ならともかく。
 いくら和奏が強い霊気を持っているとはいえ、彼女は普通の人間である。
 なのに、少し離れた妖気の存在を知覚できるなんて。
 先生の近くにいるために、その霊力も上がっているということなのだろうか。
 和奏はそんな司紗の考えを知らず、さらにこう彼に告げる。
「私、雨京先生のところに行ってみる。何だか、胸騒ぎがするの」
 そう言って戻り始めようとする和奏の腕を、司紗は咄嗟に掴んだ。
 それから大きく首を左右に振り、彼女に言った。
「駄目だよ、和奏ちゃん。僕が家まで安全に送ってあげるから、引き返さずに帰ろう」
「司紗くん……」
 和奏は司紗を振り返り、真っ直ぐ彼に目を向ける。
「安全にって……やっぱり、先生に今何か起こってるの?」
 司紗の言動からそう察した和奏は、そう彼に訊く。
 そして彼の答えを聞く前に、決意に満ちたような声でこう続けたのだった。
「心配してくれてありがとう、司紗くん。でも私、先生のところに行きたいの」
「和奏ちゃん」
 司紗は漆黒の前髪をそっとかき上げ、考える仕草をする。
 自分が止めても、彼女は学校へ戻ると言うだろう。
 和奏は普段は大人しい印象の強い少女であるが、その瞳には強い意志のような静かな光を宿している。
 そしてそんな彼女の持っている芯の強さに、自分は惹かれたのだ。
 司紗はふっと小さく嘆息してから和奏に笑顔を向ける。
 それから、こう言ったのだった。
「分かったよ、和奏ちゃん。僕も一緒に戻るよ」



 ――その頃。
 学校の中庭では、強大なふたつの妖気がぶつかり合って弾けていた。
 周囲に妖気の結界を施しているため周囲に被害が及ぶことはないし、普通の人間がこの様を目にすることもない。
 その場には雨京先生と鼻高天狗以外にも、数人の烏天狗もいた。
 だが妖力の弱い彼らは、ただ姿を潜めて戦況を見守ることしかできない。
 雨京先生は赤を帯びる瞳を細め、その掌に黄金の妖気を宿す。
 妖狐体に変化した先生の妖気の大きさを物語るかのように、流れるような金色の髪がふわりと揺れた。
 そして先生はバチバチと手の中で音を立てる黄金の衝撃を、鼻高天狗へと放つ。
 雨京先生の手を離れた光は、空気を引き裂くように唸りを上げる。
 だがそんな迫りくる衝撃に慌てることもなく、鼻高天狗は腰につけているうちわを手にした。
 そしてそのうちわで、ブンッと大きくひと扇ぎした。
 刹那、妖気の突風が巻き起こり、先生の放った黄金の光と正面からぶつかる。
 そして黄金の光の軌道を大きく変えた。
 狙いを外れた衝撃が結界の壁にぶつかり、派手な轟音が周囲に響く。
 先生はチッと舌打ちをした後、間をとらずに第二波を放とうと身構えた。
 だが、それよりも早く。
「!」
 雨京先生は深紅の瞳を見開くと、攻撃を仕掛けようとした手を咄嗟に引いた。
 そして身を翻し、突然襲ってきた攻撃をかわす。
 同時に、風のように素早い動きで先生との間合いを瞬時に詰めた鼻高天狗の妖気が、僅かの差で先生のいた位置を通過した。
 鼻高天狗はそのまま攻める手を休めず、逆手にもう一度妖気を集める。
 それから再び、衝撃を繰り出したのだった。
 雨京先生はスッと瞳を細めると、それに対抗すべく黄金の妖気を放つ。
 その瞬間、大きな衝撃音が周囲に轟く。
 そして真っ向からぶつかり合ったふたつの妖気は相殺され、お互いの威力を失った。
 雨京先生はザッと金色の髪をかき上げた後、再びその手に妖気を纏う。
「さすがは妖力の高い妖狐、なかなかやるな。だが、花嫁は我がいただく」
 鼻高天狗はそう言って赤ら顔に笑みを浮かべると、先生に負けじと妖気を漲らせた。
 そんな挑戦的な鼻高天狗の言動に気に食わない表情をしながらも、雨京先生はゆっくりと口を開く。
「和奏はこの俺様の女だ。俺様の女に手を出すヤツは、ぶっ殺す」
 その言葉と同時に、一段と雨京先生の妖気が大きさを増した。
 ――その時だった。
「雨京先生っ!」
 ふと結界内に、彼を呼ぶ声が響く。
 雨京先生と鼻高天狗は同時にピタリと動きを止め、その声の主に視線を向けた。
「おお、我の花嫁ではないか」
 鼻高天狗は嬉しそうに笑みを宿し、その場に現れた和奏に声を掛ける。
「あっ、もしかして、あの天狗さん?」
 初めて鼻高天狗の本来の姿をした彼を見た和奏は、驚きつつもそう呟いた。
 彼女と一緒にいる司紗は、咄嗟に和奏の盾になるように位置を取る。
「ていうか、何しに来た?」
 嬉しそうな天狗とは逆に、雨京先生は相変わらず淡々とそう和奏に言った。
 和奏はその言葉に少し遠慮気味に答える。
「え? いや、先生の妖気を感じたから……」
 そう言った後、和奏は再び鼻高天狗に視線を戻す。
 それから、はっきりとこう彼に告げたのだった。
「あの、私を花嫁に選んでくれたのは嬉しいんですけど……でも私には、もう強く心に決めた人がいるんです。だから、貴方と一緒に山には行けません。ごめんなさい」
「花嫁……」
 丁寧にペコリと頭を下げる和奏を見つめ、鼻高天狗は突然の彼女の言葉に唖然としている。
 司紗は彼の次の行動を慎重に探りながらも、その手に霊気を宿した。
 もしかしたら今の和奏の言葉に憤慨して、妖気を放つかもしれない。
 そう思った、司紗だったが。
 鼻高天狗はふと顔を上げ、もう一度和奏に視線を戻す。
 そして、口を開いた。
「強く心に決めた人……それが、この我ではないということか?」
「はい。ごめんなさい」
 和奏はそう返答して頷いた後、雨京先生のそばに駆け寄る。
 それから、にっこりと彼に微笑みを向けた。
「…………」
 先生は特に何も言わなかったが、そっと大きな手で和奏の髪を優しく撫でる。
 そんな様子を見て、鼻高天狗はふっとひとつ息を吐いた。
「そうか。花嫁がそう言うのならば、仕方がない」
「え?」
 司紗は思わぬ彼の言葉に、瞳を数度瞬きさせる。
 鼻高天狗は和奏に目を向けると、こう続けたのだった。
「花嫁がそこまで言うのであれば、無理にとは言えん。我から身を引こう」
 ――その時だった。
「!」
 その場にいる全員が、一斉に顔を上げた。
 そして、その場に現れたのは――黄金の輝きを放つ、狐の神獣。
 神々しい妖気は、次第に人の形を成していく。
「なかなか潔いねぇ、天狗くん。男らしいその態度気に入ったよ、うん」
「あっ、聖くん」
 和奏は突然現れた彼・五十嵐聖に目を向け、きょとんとした。
 雨京先生は途端に眉を潜め、気に食わない表情を浮かべる。
「何しに来やがった、おまえ」
「はろぉ、雨京っ。まーまー、そんなコワイ顔しないでよ。花嫁さんの答えもはっきりと聞けたことだしさ」
 聖はくすくす笑ってそう言った後、再び鼻高天狗に目を向けた。
 それから屈託のない笑顔で、こう続けたのだった。
「まぁ、和奏ちゃんのことは残念だったけど。人間の女の子でカワイイ子は、まだまだ探せばたくさんいるよ。だからさ、元気だしなって。君も今日から僕の“合コン同好会”に入れてあげるからねーっ。周囲の烏天狗くんたちも入る?」
「合コン同好会?」
 首を傾げる天狗に、聖は楽しそうに頷く。
 司紗は相変わらずな聖の様子に、何も言わずに大きく溜め息をついた。
 聖はひとり無邪気に、うーんと考える仕草をする。
「そうなったら、天狗くんにも人間の名前つけてあげないといけないな。じゃあ天狗は山の神様って言われてるから、山神くんってのは?」
「山神くんって……何の捻りもないですね、それ」
 呆れたようにそうツッコミ、司紗はもう一度嘆息した。
 聖はそんな司紗ににっこりと微笑んだ後、くすっと笑う。
 そして、こう言ったのだった。
「んじゃ、今から“合コン同好会”で次の合コンの作戦会議しようかっ。てなわけでまたねーっ、雨京と和奏ちゃん」
 そう言うなり、聖は鼻高天狗と司紗の腕を引く。
 それから、まだきょとんとしている和奏にウインクをした。
「やっぱり僕も、強制的にメンバーなんですね……じゃあまた明日ね、和奏ちゃん」
 強引な聖に苦笑しつつも、司紗は和奏に軽く手を上げて歩き出す。
 鼻高天狗はまだワケが分からない様子ながらも、最後にもう一度だけ名残惜しそうに彼女に視線を向ける。
 だが敢えて何も言わず、聖の後に続いた。
 そして雨京先生と和奏だけを残し、3人はその場から去っていたのだった。
 雨京先生は黙って彼らを見送った後、スッと深紅の瞳を細める。
 身体に黄金の光を漲らせ人間体へと姿を戻した後、先生は相変わらず素っ気無く言った。
「帰るぞ」
 和奏は瞳をぱちくりさせて頷き、スタスタと歩き出した彼の後に慌てて続く。
 それからその顔に笑顔を宿すと、彼に言ったのだった。
「はい、一緒に帰りましょう。雨京先生」
 雨京先生はその言葉に、ふと急に立ち止まる。
 そして。
「! ん……っ」
 突然彼女の顎を持ち上げた後、先生は自分の唇を彼女のものに重ねた。
 落とされた思いがけないキスに、和奏は思わず大きく瞳を見開く。
 だがすぐに嬉しそうに瞳を細めると、ダークブラウンの目を伏せて彼の接吻を受け入れる。
 そんな彼女の身体を、あたたかい黄金の光がふわりと包み込んだ。
 雨京先生は幾重にもキスを重ねた後、火照った彼女の頬にそっと大きな手を添える。
 それから綺麗な顔にニッと笑みを浮かべ、言ったのだった。
「おまえはこの俺様の女だ。俺がおまえを貰ってやる、有難く思え」
 和奏はその言葉にコクンと頷く。
 それから、満面の笑顔で答えたのだった。
「はい、先生」
 雨京先生は彼女の返事を満足そうに聞いた後、再び歩き始める。
 和奏はそんな彼の隣に並び、そして改めて感じたのだった。

 ――自分の強く心に決めた人が、すぐそばにいること。
 それだけで……こんなにも、幸せな気持ちになれるのだということを。


番外連載 山神様の花嫁 完



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