番外連載 山神様の花嫁



 第6話 直球勝負

 山を降りて、今日でもう何日目だろうか。
 人間の娘ひとりを山に連れて帰ることなんて、簡単なことだと思っていたのに。
「…………」
 神妙な顔で何かを考える自分たちの頭に、周囲の烏天狗たちは声を掛けることもできずにいた。
 その青年・鼻高天狗は、少し濃い目の人間体の顔立ちを鏡に映して瞳を細める。
 なかなかその顔はハンサムなものでもあったし、大切にすると決めた女を一生幸せにしてやれる自信もある。
 なのに、この現状。
 雨京先生や司紗の邪魔が入り、彼は和奏を拉致することに今まで悉く失敗している。
 いつも彼女の周囲にいる先生や司紗は、高い能力を持っているからである。
 ……とはいえ。
「よし、我は決めたぞ」
 そう急に呟き、鼻高天狗はおもむろに立ち上がった。
 彼の周囲の烏天狗は、そんな様子の頭に目を向ける。
 そして、風のような声で口々に彼に思い思いの言葉を掛けた。
 鼻高天狗はそんな彼らを満足そうに見て、ニッとその顔に笑みを浮かべる。
 確かに、和奏の周辺にいる妖狐や術師は手強い。
 しかしこの鼻高天狗には、揺るぎない自分への自信があった。
 天狗という妖怪は自信に満ちた増上慢である性格の者が多いが、この鼻高天狗も例外ではないのである。
 むしろ一筋縄ではいかない彼女を自分のものにすることに、奪い甲斐すらを感じていた。
「我の目に狂いはない。やはりあの娘こそ、我の花嫁に相応しい」
 初めて彼女を見たのは、山を降りて数日が経ったある日だった。
 そろそろ山を治める者として花嫁を迎える時期にきていた鼻高天狗は、花嫁を探しにやって来た。
 意気揚々と数人のお供を従え、山から降りてきた彼だったが。
 最初はなかなか彼の御眼鏡に適う娘はいなかった。
 人間の娘なら誰でもいいわけでは決してない。
 自分に自信を持っていてプライドも高い彼にとって、そんな自分と釣り合うような娘でないと納得できないのだ。
 霊力も高く健康体で、清楚な大和撫子タイプ。
 そして、何よりも従順な娘。
 だが現代の世で、そういう娘はそう簡単にはいなかった。
 妥協をすることなど全く考えていなかった彼の花嫁探しは難航を極めた。
 そんな時見つけたのが――和奏だったのである。
 一目見て、鼻高天狗は彼女のことが気に入った。
 まさに自分の理想の花嫁が、彼の前に現れた瞬間だったのだ。
 彼女を手にすることは容易いことではない。
 だが、必ず手に入れてみせると。
「若、何かいい方法を思いついたのですか?」
 烏天狗のひとりが、ふいにそう彼に訊いた。
 鼻高天狗はそんな言葉にコクリと頷き、前髪をかき上げる。
 そして投げられた問いに、こう答えたのだった。
「小細工はもうしない。直球勝負だ」



 ――その日の放課後。
 職員室で用事を済ませた司紗は、教室に向かって階段を上がっていた。
 ホームルームが終わってしばらく経っているため、生徒の姿はもうすでに疎らである。
 司紗は踊り場に差し掛かり、おもむろに視線を窓の外へと向けた。
 それから表情を変え、足を止める。
 そんな彼の漆黒の瞳には、ざわざわと葉音を立て木々が揺れている様が映っていた。
「…………」
 司紗は何かを考えるようにそんな風景をじっと見つめている。
 だがすぐ後、今度はふと正面に視線を戻して顔を上げた。
 その瞬間、誰かが階段を駆け下りてくる音が耳に聞こえる。
 そして姿を見せたのは――ひとりの教師。
 ブラウンの髪と、同じ色の切れ長の瞳が印象的で。
 その身体からは、普通の人間には決して知覚できない力強い妖気を感じたのだった。
「雨京先生」
 司紗は真っ直ぐに相手を見据え、職員室に戻る途中であろう彼の名を呼ぶ。
 先生は司紗に無言でブラウンの瞳を一瞬細めてから立ち止まった。
 ふっとひとつ息をつき周囲に人がいないのを確認してから、司紗はゆっくりと口を開く。
「先生。あの天狗を、今のまま放っておいていいんですか?」
 司紗の問いに、雨京先生は表情を変えずに答えた。
「確かにあのふざけた天狗野郎はムカつくがな、俺には関係ない」
「関係ないって……あの天狗は、和奏ちゃんを連れ去ろうとしているんですよ?」
 視線を逸らさないまま、司紗はそう言葉を返す。
 先生はザッと鬱陶しそうに髪をかき上げ、それから言った。
「和奏は俺の女だ。それにこの俺様が、そんなことさせるとでも思っているのか?」
「…………」
 司紗は何も言わず、複雑な表情を浮かべる。
 そんな司紗に、雨京先生はこう続けたのだった。
「あの天狗野郎なんて知ったこっちゃねーけどよ。でもな、この俺様に楯突くヤツは容赦なくぶっ殺す。ただ、それだけだ」
 雨京先生はそう言うなり再び歩を進め、職員室へ向かって階段を下り始める。
 司紗はそんな彼を止めることもなく、ふうっと小さく嘆息した。
 それから先生とは逆に階段を上り、教室へと戻ってくる。
 ――その時だった。
「あ、司紗くん」
 可愛らしく、穏やかな印象の声。
 ふと教室の前で呼び止められ、司紗は相手に微笑んだ。
「和奏ちゃん。今から帰るの?」
「うん。司紗くんは?」
 コクリと頷き、彼を呼び止めた少女・和奏はダークブラウンの髪を揺らす。
 司紗は少しだけ考えた後、いつも通りの柔らかな声で答えた。
「今から図書館に寄って、それから帰ろうと思ってるよ」
「そっか。じゃあ司紗くん、また明日ね」
 和奏は彼に笑顔で手を振る。
 それから下校すべく、廊下を歩き始めた。
 司紗はそんな彼女の後姿を見送ってから、教室へと入る。
 和奏は今日も雨京先生に送ってもらうべく、職員室に向かったに違いない。
 だが……きっと今日は。
 先生は、和奏をひとりで下校させるだろう。
 それが司紗には分かっていたのである。
 その、理由は。
「…………」
 司紗は手早く帰り支度を整えると、足早に教室を出る。
 それから和奏に言ったように、図書館の方向へと歩みを進めたのだった。



 ――その数分後。
 職員室に辿り着いた和奏は、目の前のドアをそっと遠慮気味に開ける。
 そして自分のデスクに座っている雨京先生の姿を見つけると、彼に近づいた。
 いつも通り、彼はデスクに向かって仕事をしている。
 伏せ目がちのブラウンの瞳に、長い睫毛がふわりとかかっていた。
 和奏は綺麗な先生の横顔を見つめて、思わずほうっと小さく溜め息を漏らす。
 そんな和奏に、先生はくるりと急に振り向いた。
 先生のブラウンの瞳が、彼女に向けられる。
 和奏はそんな視線にドキッとしながらも、ふと首を傾げた。
 いつもは自分が話し掛けるまで先生は何も反応を示さないのに、珍しい。
 そう思いつつも、和奏は口を開いた。
「あの、雨京先生」
「…………」
 先生はふっと切れ長の瞳を細めてから、小さく嘆息する。
 それから、こう無愛想に言った。
「和奏。今日はひとりで帰れ、いいな」
「えっ? あ、はい……でも、どうして」
 突然思いがけずそう言われ、和奏は驚いた表情を浮かべて思わず彼に訊く。
 雨京先生は面白くなさそうに舌打ちをした後、ぼそりと呟いた。
「俺は今から、片付けないといけないことがある。おまえは先に帰ってろ」
「……はい、分かりました」
 少し残念そうな表情をしながらも、和奏は彼の言うことに素直に従う。
 仕事か何か、まだ残っているのだろうか。
 どちらにしても、目の前の彼の様子は何だか不機嫌そうだ。
 こういう場合は、触らぬ神に祟りなしである。
 そう思った和奏は、敢えてこれ以上彼に理由を訊かなかった。
 それからもう一度先生にペコリと頭を下げた後、和奏は職員室をあとにした。
 そんな彼女の後姿をじっと見送り、雨京先生は大きく息を吐く。
 ――そして。
「…………」
 一瞬鋭い視線を窓の外に投げてから、先生もおもむろに彼女に続いて職員室を出た。
 雨京先生は廊下を抜け、スタスタと早足で歩を進める。
 そんな彼の向かった先は――学校の中庭。
 放課後の中庭に人の気配はなく、もう誰の姿も見えない。
 人間の気配は、一切感じられないが……。
 シンと静まり返っているその場を、風がヒュウッと吹き抜ける。
 そんなブラウンの髪を揺らす風も気にせずに、雨京先生はふっとある一点を見据えた。
 それから、よく響く低いバリトンの声で言い放ったのだった。
「この俺様に喧嘩売るなんて、いい度胸してんじゃねーか。そんなに死にたいか?」
 ――その瞬間。
 一陣の大きな風が周囲に巻き起こる。
 そして……先生の目の前に、姿をみせたのは。
「あの娘に相応しいのは、おまえではなくこの我だ。それを証明しに来た」
 人間離れした、赤ら顔に高い鼻。
 その身体には強大な妖気が漲っている。
 自信満々にニッと笑みを浮かべると、現れた彼・鼻高天狗は続けた。
「あの娘は貰う。山に連れて帰り、我の花嫁にする。力づくででもな」
「あ? 力づくでだと? 笑わせるな。俺様に歯向かうヤツは、誰であろうとぶっ殺す。それに和奏は、この俺様の女だ」
 そう言って、雨京先生はおもむろに綺麗なブラウンの瞳を伏せた。
 それと同時に、目を覆うほどの眩い黄金の光がカアッと広がる。
「!」
 鼻高天狗は両の目を見開き、ふと表情を変えた。
 金色の流れるような長髪に、真紅の瞳。
 九本の尻尾を持つ、金色九尾狐。
 妖狐体に変化した雨京先生は先程とは桁違いの妖気を纏い、スッと赤を帯びる瞳を細める。
 それからその掌に黄金の光を宿し、ゆっくりと口を開いたのだった。
「この俺様に楯突いて、ただで済むと思うな。覚悟は出来てるんだろうな」
 ビリビリと空気を奮わせるような雨京先生の威圧的な妖気にも怯まず、鼻高天狗は負けじと言葉を返す。
「もう一度言う。あの娘に相応しいのは、この我だ。花嫁はいただく」
 鼻高天狗はふっと自信満々な笑みを浮かべると、臨戦態勢を取る。
 そして雨京先生の黄金の光に真っ向から対抗すべく、身体に妖気を漲らせたのだった。