番外連載 山神様の花嫁



 第5話 仕掛けた罠と彼の本領

 ――それから、数日後。
 帰りのホームルームが終わったばかりの教室は、生徒たちの活気で満ちている。
「和奏、今日ケーキか何か食べて帰らない?」
 友人の千佳にそう声を掛けられ、和奏は申し訳なさそうに手を合わせた。
「ごめん、今日もちょっと都合悪いんだ。また今度ね」
「そうなの? 最近和奏にフラれてばっかりで寂しいよ」
「ごめんね、千佳ちゃん」
 もう一度千佳に謝り、和奏は小さく嘆息する。
 ここ数日――あの天狗が現れてから、和奏は友人たちの誘いを受けることができないでいた。
 それはもちろん、雨京先生と登下校を共にしているためである。
 ふたりの関係は秘密であるし、まして天狗に狙われているからなどと友人たちに言える訳もなく。
 和奏は友人たちに申し訳なく思いつつも、それらの誘いを断るしかなかった。
 千佳はおもむろに周囲を見回した後、ふっと悪戯っぽい笑みを浮かべる。
 それから、和奏にしか聞こえないくらいの小声でこう言った。
「ねぇ、和奏。もしかしてさ、彼氏ができたとか?」
「えっ!?」
 千佳の思わぬ言葉に、和奏は驚いたような声を上げる。
 そんな彼女の反応を見てから千佳は続けた。
「何、図星? あ、まさか白河くんとよりが戻った?」
「つ、司紗くんとって……いや、彼とは今でもいいお友達だけど……」
 しどろもどろになりながらも、和奏はどう答えていいか分からない表情をする。
 確かに司紗とは以前少しだけ付き合っていたし、今でも仲はいい。
 とはいえ昔彼と付き合っていたこと自体、知っている人は少ないのだが。
 最近は天狗のことで司紗ともよく話しているし、他の友達付き合いも悪くなっていることを考えれば、和奏と司紗が元恋人だったことを知る人にはそう誤解されても仕方ないかもしれないが。
 でもまさか……今の自分の恋人が、司紗ではなくあの雨京先生だなんて。
 いくら親友の千佳にも、その事実は言えないのだった。
 困ったように何度も瞬きをしている和奏を見ながら、千佳はカバンを手に笑った。
「ふーん、白河くんじゃないんだ。でも彼氏いるんでしょ? 隠しても分かるよ、和奏。今度、ゆっくり話聞かせてねっ」
「えっ!? あ、千佳ちゃんっ」
 無邪気に手を振って教室を出て行く千佳に、和奏は瞳を見開く。
 それから諦めたように、去って行く友人の後姿を見送って溜め息をついた。
 それにしても、どうして彼氏がいることがそんなにすぐバレてしまったのだろうか。
 自分の素直な反応に気がついていない和奏は小さく首を傾げながらも、これから自分と先生の関係が周囲に知られまいかと不安になる。
 当の雨京先生は、特にふたりの関係を隠そうともしていないし。
 それどころか、学校内だろうとどこだろうと関係なく、抱きしめてきたりキスをしてきたりしている。
 一応人に見られないように彼なりに配慮をしているらしいが、本当に大丈夫なのだろうか。
 先生の愛情表現は嬉しく思いつつも、和奏は密かに心配していた。
 ――その時。
「和奏ちゃん」
 ふと声を掛けられ、和奏は顔を上げる。
 そして相手を確認し、その顔に笑みを宿した。
「あ、司紗くん」
 彼女の目の前に立っていたのは、司紗だった。
 司紗は普段通りの穏やかな微笑みを和奏に向けると、彼女にこう訊く。
「今からなんだけど、何か用事ある?」
「用事? 今から図書館に寄って、それから帰ろうかなって思ってるけど」
 教師としての仕事がある雨京先生と帰るまで、いつも少し時間があった。
 なので最近は、図書館で本を読んだりして時間を潰しているのだが。
 目の前の司紗は、自分と先生が毎日一緒に帰っていることを知っているはずだ。
 和奏は司紗の問いに不思議そうな顔をしながらもそう答え、彼の上品な印象を受ける容姿を見つめた。
 そんな彼女に視線を返した後、司紗はそっと前髪をかき上げる。
 そして髪と同じ色を湛えた綺麗な瞳を細め、彼女にゆっくりと言ったのだった。
「和奏ちゃん。今から少しだけ、時間貰えないかな?」



 今まで青かった空が、夕焼け色に染まった頃。
 数人の烏天狗を引き連れた青年は、木々の隙間からひとりの少女に熱い視線を送っていた。
「今日こそは、我のものにしてみせるぞ」
 そう呟き、その青年・鼻高天狗はニヤリと笑う。
 それから一変して瞳を細め、気に食わないように彼女の隣にいる人物に視線を向けた。
「……今日花嫁のそばにいるのは、妖狐ではなく術師か」
 この日その少女・和奏の隣にいるのは、雨京先生ではなく司紗だった。
 毎日のように彼女には、先生か司紗のどちらかが付き添っている。
 そのため青年は、そう易々と彼女に手出しができないでいた。
 鼻高天狗は妖怪の中でも強い妖気を持っているのだが、彼女を守っている彼らの力もそれに引けを取らないからである。
 とはいえ、もしも力尽くで彼女を奪うことになっても、負けない自信はある。
 だが、大切な花嫁に傷でもついたら大変だ。
 鼻高天狗はそんな考えから、行動が慎重になっていた。
 ――その時だった。
「じゃあ、また明日。和奏ちゃん」
「うん、またね」
 分かれ道に差し掛かり、ふたりは別々の方向に向けて歩き出す。
 青年は待っていましたと言わんばかりにニッと口元に笑みを浮かべると、従える烏天狗に命令した。
「あの術師の足を、少しでもいいから止めろ。我がその隙に花嫁を奪う」
 彼のその指示を聞き、数人の烏天狗が空に舞い上がる。
 青年は司紗を追う部下たちを見た後、再び家へと歩く和奏に視線を戻し満足そうに笑った。
 そして背中の羽を羽ばたかせ、愛しの彼女の元へと向かったのだった。
 ――その頃。
「気配の感じからして……5、6人程度か」
 和奏と分かれた司紗はそう短く呟き、振り向かずに意識を背後へと集中させる。
 自分たちをずっと尾けている大勢の目に、司紗はとっくの昔に気がついていた。
 いや、むしろ。
 そんな彼らのことを、待っていたと言った方が正しい。
 司紗はスッとブレザーの胸ポケットに、さり気なく手を忍ばせる。
 それから数枚の術符を手に取り、静かに術の詠唱を始めた。
 そして――次の瞬間。
「!」
「何っ!?」
「これは……!」
 カアッと周囲に眩い光が広がり、風のような数人の声がそう聞こえる。
 司紗はふっと振り返ると、身動きの取れない数人の烏天狗に視線を向けた。
「妖魔抑制の結界だよ。悪いけど、しばらくここで大人しくしていてもらうから。君らに邪魔されるわけにいかないからね」
 司紗はそれだけ言って踵を返し、元来た道を戻り始める。
「くそっ!」
 司紗の結界に捕まった烏天狗たちは、何とか術を破ろうと必死にもがいた。
 だがそんな行動も虚しく、それほど妖力の強くない彼らの無駄な抵抗に終わる。
 司紗は動けない烏天狗たちには目もくれず、漆黒の瞳を細めて歩みを進める速度を上げた。
 そして表情を引き締め、グッと強く拳を握り締めたのだった。
 一方、同じ時。
「!」
 帰宅しようと歩いていた和奏は、ハッとその顔を上げた。
 それからブラウンの瞳を大きく見開き、驚いたように立ち止まる。
「こんばんは、我の花嫁」
「あなたは……」
 彼女のブラウンの瞳に映っているのは、少し濃い目の顔立ちをした青年。
 青年はハンサムな顔に笑顔を宿し、彼女に言った。
「さあ、花嫁。我と共に山へ行こう」
 和奏はそんな彼から数歩後退りをしつつ、遠慮気味に彼に訊く。
「あの、どうして私が貴女の花嫁なんですか?」
「理由か。君を一目見た瞬間、我の花嫁に相応しいと思ったからだ」
「…………」
 和奏はその青年から感じる強い妖気に言葉を切り、思わず顔を強張らせた。
 青年・鼻高天狗は彼女の様子に気がつくと、首を振って笑った。
「そう怖がる必要はない。我が一生、大切にしてやるからな」
 そう言った後、鼻高天狗はおもむろに腕を伸ばして和奏の手を取る。
 だが――その瞬間。
「……!」
 鼻高天狗は途端にその表情を変える。
 それから目の前の和奏に鋭い視線を向けると、こう言ったのだった。
「おまえ……我の花嫁ではないな!?」
「!」
 和奏は鼻高天狗のその言葉に、瞳を大きく見開く。
 そして慌てつつも予め隠し持っておいた1枚の術符を、鼻高天狗に貼り付けた。
 それからバッと振り返り、こう叫んだのだった。
「いいっすよ、白河の旦那っ!」
 その声と同時だった。
 大きな輝きが周囲を包み、一瞬視界が奪われる。
「!!」
 思わず目の前の和奏から手を外し、鼻高天狗は瞳を覆った。
 青年の手を逃れた和奏は、すかさず彼から離れる。
 そしていつの間にかその場にいた司紗に、アタフタと駆け寄った。
 司紗は鼻高天狗の動きに注意を払いながらも、そんな和奏に笑顔をみせる。
「ありがとう、君のおかげで上手くいったよ」
「いえ、正体バレた時は焦りましたけど……白河の旦那のお役に立てて、よかったっす」
 そう言った、その瞬間。
 和奏の姿をしていたその人物から、淡い妖気が立ち上った。
 そして妖気が弾けたその場にいたのは、和奏ではなくひとりの人の良さそうな少年だった。
「豆狸の変化の術!? くっ、罠か……っ」
 鼻高天狗はそう呟き、その少年・豆狸のヤマダに目を向ける。
 その刺すような視線にビクッと身を震わせ、ヤマダは思わず司紗の背に隠れた。
 司紗は漆黒の瞳を鼻高天狗に向けると、ゆっくりと口を開く。
「君の動きは封じさせてもらったよ。でもこのまま和奏ちゃんのことを諦めて山に帰るのであれば、今回だけは見逃してあげるよ」
 数日前。
 司紗は、ひょんなことで以前知り合った豆狸のヤマダにあることを頼んでいた。
 その頼みとは、豆狸特有の変化の術で和奏になりすましてもらうことだった。
 そして鼻高天狗を誘き寄せ、その身体に術符を貼って欲しいと。
 本物の和奏は、今頃いつもの如く雨京先生と帰宅しているだろう。
 この作戦を決行するため、学校を出る前に司紗は、本物の和奏に妖怪除けの術を施していた。
 なので鼻高天狗は、まんまとヤマダの化けた和奏を本物の彼女だと思い込んだのだった。
「ヤマダくん、ありがとう。あとは僕がやるから」
 変化の妖術程度しかできないヤマダは鼻高天狗の迫力に少し圧倒されつつも、コクリと頷いて司紗から離れて戦況を見守る。
 司紗はその手に霊気を漲らせ、もう一度身動きの取れない鼻高天狗に言った。
「どうする? このまま山へ帰るか、今ここで僕に滅されるか」
「山へ帰るか、滅されるかだと? 冗談ではない」
 ふっと口元に笑みを浮かべ、青年は司紗に視線を投げる。
 それからスッと瞳を細めると、こう返したのだった。
「我は花嫁を奪い、山に戻る。その考えを変える気は毛頭ない。それに……この程度の術で、我の動きを封じたつもりか?」
「何? ……!」
 司紗は次の瞬間、ハッと顔を上げる。
 それと同時に青年の身体から強大な妖気が放出されたのを感じた。
 そして……司紗の漆黒の瞳に映ったのは。
 自分のかけた術をいとも容易く解き、貼り付けられた術符を握り締めて地に投げる妖怪の姿。
 赤ら顔で、高い鼻を持つ人間離れした容姿。
 背中には大きな鳥のような翼が生え、その身体には強い妖気を纏っている。
 仮の人間の姿から本来の妖怪の姿に戻った鼻高天狗は、ニッと笑みを浮かべた。
 その――次の瞬間。
「!」
 司紗は大きく瞳を見開き、表情を変える。
 風のようにフッと鼻高天狗の姿が消えたかと思った、矢先だった。
 あっという間に間合いを詰められ、すぐ目前に彼の姿が迫る。
 鼻高天狗は素早く司紗の懐に入ると、容赦なく握り締めた拳を放った。
 妖気を宿した拳はビュッと空気を裂くような唸りを上げる。
 そして強烈な一撃が、司紗の腹部に叩き込まれたのだった。
 ドスッと鈍い音がし、まともにそれをくらった司紗の体勢がグラリと崩れる。
 そんな司紗目掛けて間を取らず、鼻高天狗は逆手に妖気を宿した。
 それから妖気の塊を彼目掛けて放った。
 刹那、カアッと大きな妖気の光が広がる。
 鼻高天狗は確かな手ごたえを感じ、ニッと笑みを浮かべた。
 ……だが。
「!?」
 急に違和感を感じ、青年は表情を険しくする。
 そしてすぐさま背後に意識を向けると、もう一度その手に妖気を漲らせた。
 それと同時に、彼の背後で霊気の衝撃が繰り出されたのだった。
「くっ!」
 咄嗟に振り返って襲い掛かる霊気に妖気の衝撃をぶつけて相殺させた後、鼻高天狗は舌打ちをする。
「ちっ、変わり身の術を使ったのか……こしゃくなっ」
 変わり身の術とはその名の通り、術符を自分の身代わりとして相手の攻撃から身を護るものである。
 ちらりと地面に落ちている変わり身の術符に目を向けると、鼻高天狗はバッと地を蹴った。
 咄嗟に術を使って青年の攻撃をかわし彼の背後に回っていた司紗は、再び霊気を宿した手を振りかぶる。
 そして空に舞う鼻高天狗に狙いを定めると、衝撃を放つ体勢に入った。
 だが――その時だった。
「!」
 突然ピタリと動きを止めると、司紗は驚いたように瞳を見開く。
 鼻高天狗は司紗が動きを止めたその隙に、背中の羽を大きく羽ばたかせた。
 和奏がいないこの場に長居しても仕方がないと判断した鼻高天狗は、彼の前から退散することを選んだのだった。
 司紗はそんな小さくなって行く青年の姿を見送った後、眉を顰めた。
 そして大きく溜め息をつき、口を開いた。
「どういうつもりですか?」
「やあ、司紗くん。こんばんは」
 司紗の前に姿をみせたのは、ひとりの少年。
 楽しそうに笑みを宿した少年・五十嵐聖の姿が、そこにはあった。
 司紗は自分の邪魔に入った聖に視線を投げ、もう一度彼に訊く。
「これは一体、どういうつもりですか?」
「司紗くんも強いけど、あの天狗も結構強い妖力持ってるからそう簡単には滅せられないだろう? それに逃げてくれるんなら、見逃すに越したことないでしょ」
 それから聖はくすくすと笑った後、こう続けた。
「それに今あの天狗の彼が君に滅されちゃったら、つまんないからね」
「つまんない?」
「うん。和奏ちゃんの取り合いなんて、面白そうじゃない? もうちょっと引っ張って欲しいなーって思ってね」
「面白そうって……本当に貴方という人は。分かってますか? あの天狗は、和奏ちゃんを連れ去ろうとしているんですよ。そんなこと、術師として見過ごすわけにはいきません」
 呆れたように強い口調でそう言い放つ司紗に、聖は小さく首を傾げる。
「司紗くんって、ホント真面目な術師なんだね。でもあの天狗の彼は、別に和奏ちゃんを喰らうとかそーいうつもりじゃないわけでしょ。むしろ危害を加えるどころか、彼女にベタ惚れなんだから」
「だからって、彼女を拉致することが許されるわけじゃありません。強引に連れ去ろうとすることだって、立派に彼女に危害を与えていることになりますよ」
 大きく首を振ってはっきりと言葉を返す司紗に、聖は綺麗なブラウンの瞳を細める。
 それからふっと笑って、言ったのだった。
「心配しなくても大丈夫だよ、司紗くん。そう容易く和奏ちゃんは連れてかれたりしないって。何せ彼女のそばには、この僕の可愛い息子がついてるんだし」
「…………」
 司紗はその聖の言葉にふと口を噤み、漆黒の前髪をかき上げる。
 そんな司紗から、聖はオタオタした様子のヤマダに視線を移した。
 そして、無邪気に笑う。
「はろー、ヤマダくん。最後は天狗さんにバレちゃったけどさ、君の和奏ちゃん、なかなか可愛かったよーっ。あ、今度さ、和奏ちゃんの姿で僕とデートしてくれない?」
「あ、聖さん。こんばんはっす」
 元々聖の友人であるヤマダは、ペコリと彼に頭を下げる。
 聖はヤマダに笑顔を向けた後、まだ神妙な顔をしている司紗を見た。
 それから楽しそうに彼に言ったのだった。
「んじゃ今から3人で、仲良くお酒でも飲みにいく? 次の合コンの予定も立てなきゃだしねーっ。行こう、行こうっ」
「飲みに行くって……何度も言いますけど、僕はまだ未成年なんですけど」
 もうこの人に何を言っても無駄なことは分かっている。
 それに一見違うタイプに見えるが、強引なところはやはり雨京先生とそっくりだと。
 そう思いながらも、司紗は深々と溜め息をついた。
 すっかり聖のペースに巻き込まれていると諦めつつも、司紗は何かを考えるようにすっかり陽の落ちた空をふと見上げる。
 そして自分を手招きする聖に続き、仕方なく歩き出したのだった。



 ――その頃。
 夕焼け色をしたフェアレディZは、賑やかな街の中を走っていた。
 先程まで赤かった空も、次第に夜の闇に覆われ始めている。
 先生は赤信号で車を止めた後、ザッと前髪をかき上げた。
「…………」
 それから遠くを見つめるようにブラウンの瞳を細めた後、ふっと助手席に座っている和奏に目をやる。
 和奏はそんな彼の視線に気がつき、小さく首を傾げた。
「雨京先生?」
 彼女のダークブラウンの髪が揺れるのを見つめたまま、雨京先生は敢えて何も言わなかった。
 和奏は気がついていないが、先生は少し離れた場所で強い妖気と霊気がぶつかり合うを感じていた。
 それに、和奏に妖怪除けの術が施されていることにも気がついていた。
 雨京先生も狐の妖怪・妖狐ではあるが、彼は人間の血も混じった半妖である。
 なので、この術を施されている和奏にも問題なく近づけるのであるが。
 この術が司紗によってかけられたものであることも分かっていたし、彼が何をしようとしていたのかも先程感じた様子から理解できた。
 だが別に司紗が何をしようが、天狗が滅されようが、先生には関係のないことだった。
 今自分の隣に、和奏がいる。
 先生にとっては、それで十分だったからである。
 むしろ司紗の手助けをする義理も、自分からわざわざ赴いて天狗を滅する気も、先生にはこれっぽっちもないのだ。
 重要なのは、自分の隣に彼女がいること――それだけなのだから。
「あの、雨京先生。今日作ってきたいなり寿司、どうでしたか? 少し味付けをいつもと変えてみたんですけど」
 自分をめぐる戦いが今の今まで起こっていたなんて知る由もない和奏は、そう暢気に彼に話し掛ける。
 先生は遠慮気味にそう訊いた和奏にちらりと視線を向けた。
 そして細くて長い指で彼女の顎をくいっと持ち上げ、ニッと悪戯っぽく笑う。
「安心しろ。いなり寿司もだけどな、おまえとのキスも美味しいぞ」
「キ、キスって、誰もそんなこと……っ」
 和奏は先生のその言葉に、顔を真っ赤にさせた。
 そして再び赤信号にかかり、フェアレディーZがおもむろに止まる。
 そして、それと同時だった。
 ふっと先生の唇が、彼女のものと重なる。
 彼女の唇に、羽のように軽いキスが落とされたのだった。
 突然与えられたその接吻けに、和奏は耳まで真っ赤にさせる。
 そんな和奏の髪を数度撫でた後、雨京先生は何事もなかったかのように再び車を走らせ始めた。
 和奏は瞳をぱちくりさせながらも、相変わらず普段と表情を変えない先生をじっと見つめる。
 それからそっと、優しいキスの落とされた唇を指でなぞった。
 そして与えられた柔らかな感触を思い出し、幸せそうに微笑みを浮かべたのだった。