番外連載 山神様の花嫁
第4話 略奪宣言
鼻高天狗に危うく神隠しされそうになった日から、数日が経っていた。
和奏は教科書類をカバンにしまうと、ちらりと腕時計を見る。
放課後の教室は人の姿ももうすでに疎らで、窓からは赤い夕陽が射し込み始めている。
吹き抜ける風に揺れるダークブラウンの髪をそっとかき上げた後、和奏は同じように教室に残っていたひとりの生徒に声を掛けた。
「じゃあ司紗くん、また明日ね」
その声に顔を上げ、その少年・司紗は彼女ににっこりと笑みを向ける。
「うん。気をつけて帰ってね、和奏ちゃん」
和奏はそんな司紗の言葉に、ふと周囲を窺うように見回してから小声で答えた。
「ありがとう。今日も家まで雨京先生が送ってくれるから」
「……そっか。でも十分注意してね」
司紗は少し複雑な表情を浮かべながらも、そういつも通り彼女に優しく言った。
和奏はコクンと頷き、彼に手を振って教室を後にする。
そんな小さくなっていく彼女の後姿を、司紗は黙って見送った。
そして教室の時計に目をやると、呟いたのだった。
「そろそろ僕も、行こうかな」
一方、司紗と教室で分かれてから、和奏は職員室へと続く階段をタッタッと下りる。
さらわれそうになった日以来、あの少し彫りの深い顔立ちのハンサムな天狗は彼女の前に姿を現してはいない。
その理由は、常に彼女の近くに雨京先生か司紗がついているからだろう。
特に雨京先生はここ数日ずっと、朝と帰りの送り迎えまでしてくれている。
とは言っても。
もちろんただ学校と自宅を行き来しているだけではない。
スキンシップという名のセクハラも、もれなくついてきているのだった。
だが和奏はそんな先生のセクハラにもある程度慣れていたし、むしろ好きな人と一緒にいられる時間が増えて密かに喜んでいた。
相変わらず口数は多くはないが、自分のことを守ってくれている彼の行動が嬉しかったのである。
この日も和奏は、そんな雨京先生と帰るべく彼の元へと向かう。
そして階段を下りきって職員室まで辿り着き、遠慮気味にドアを開けた。
もう放課後になってしばらく時間が経っているため、職員室内は教師と生徒が僅かにいるだけだった。
和奏は自分のデスクで仕事をしている雨京先生を見つけ、彼に駆け寄る。
「雨京先生」
「いつものところで待ってろ」
くるりとそんな彼女に振り返って、雨京先生はそれだけ短く言った。
その後、再び黙々と書類に目を落とす。
和奏はそんな先生の言葉に頷いてから、じっと目の前の彼を見つめた。
夕陽に照らされて赤に染まった彼の横顔は、何とも言い難いほどに綺麗で。
書類に落とされて伏せ目がちになった澄んだ薄茶色の瞳に、長い睫毛がスッとかかっている。
雪のように白い肌は夕陽を浴び、まるで透けているかのように見えた。
和奏はほうっと小さく溜め息を漏らし、彼の美形の顔に見惚れてしまっていた。
口を開けば俺様全開で強引な先生だが、黙っていると魅力的な神秘さを感じる。
司紗のような正統派で上品な顔立ちも好みなのだが、先生の端整な容姿はまた全く印象の違った雰囲気を醸し出していた。
――その時。
「……何だ? いつもの場所で待ってろって言ってるだろーが」
怪訝気にそう言って、雨京先生はその場にまだ立ち尽くしている和奏に視線を向ける。
ふっといきなり切れ長の瞳が再び自分に向けられ、和奏はカアッと顔を赤らめた。
それから慌てて先生にペコリと一礼すると、早足で職員室を出たのだった。
はあっと息を整え、和奏は靴箱で靴を履き替える。
だがまだ胸の鼓動は収まらず、もう一度大きく深呼吸をしてから、そして靴箱を出た。
さわさわと頬を撫でる風に無意識に瞳を細めた後、和奏は普段使う校門ではなく何故か裏門の方へと回る。
あまり使われない校舎の裏は、ただでさえ時間的に人の少ない校内を離れたために人の気配すら感じない。
和奏は裏門の近くにある職員用の駐車場に到着すると、足を止めた。
それから見慣れた夕焼け色のフェアレディZのそばで、その持ち主である彼が来るのを待つ。
ざわざわと木々が葉を鳴らし、時間は夕方から夜に変わろうかとしていた。
和奏は腕時計で時刻を確認した後、ふと顔を上げる。
そしてにっこりと微笑んで口を開いた。
「あっ、雨京先生。いつも送ってもらってすみません」
その場に現れたのは、雨京先生その人だった。
礼を言って頭を下げる和奏に特に何も言うこともせず、先生はポケットからおもむろに車のキーを取り出す。
だが、その時。
「…………」
雨京先生は何かに気がついたように背後に一瞬だけ視線を向けると、スッとブラウンの瞳を細める。
そして。
「……っ!?」
和奏は次に取った彼の行動に、驚いたように目を見開く。
トンッと突然身体を押され、彼女は先生の愛車に背を預けるような体勢になった。
雨京先生はそんな和奏の身体を挟むように両腕を愛車につくと、少し強引に、彼女の唇に自分のものを重ねたのだった。
「! ん……っ」
急に与えられた接吻に、和奏は目を閉じる余裕もなく声を漏らした。
先生は右手を和奏の頬に添えて数度その肌を長い指でなぞった後、彼女の耳元で囁く。
「キスする時くらい目ぇ瞑れって、言ってるだろーが」
ゾクリとする、低い響き。
耳に吐息がかかるようにそう言ってから、先生は彼女の顔をぐっと持ち上げる。
それから、再び彼女の唇にキスを落としたのだった。
「は……、んっ」
和奏は学校内で誰かに見られたりはしないだろうかと内心ヒヤヒヤしつつも、そんな考えとは裏腹に、彼のキスによって身体の力が抜けるような感覚に陥る。
雨京先生はわざとらしく普段よりも派手に音をたてながら、彼女の唇の感触を楽しむように接吻けを重ねていた。
耳に聞こえるくらい生々しいそのキスに、和奏は恥ずかしさと気持ち良さを同時に感じて頬を紅潮させる。
そんな先生の身体から強く立ち上る妖気の光は和奏を包み込み、彼女に不思議な心地良さも与えた。
和奏は彼が飽きるまで降り注がれるだろうキスの嵐とあたたかなその黄金のぬくもりに、ふっと自然と瞳を閉じる。
そして、彼の接吻けをすべて受け入れたのだった。
「……乗れ」
しばらくしてようやく彼女から唇を離すと、雨京先生は相変わらず無愛想にそれだけ言って車のキーを回した。
和奏はドクンドクンと脈を打ち、熱を帯びた火照った顔を上げ、呼吸を整えるように息をつく。
そして言われた通り、助手席のドアを開けて車に乗った。
先生はそんな和奏の様子を見届けた後、運転席のドアを開ける。
それから一瞬だけある場所を見据え、彼女に遅れて運転席に乗り込むと、愛車を発進させたのだった。
――そんな動き出した車を追っているのは。
木々の隙間から投げられている、大勢の目線。
その目の中心を堂々と位置取る青年は、悔しそうに唇を噛み締めた。
「くっ、あの男……我の花嫁に何ということをっ」
まるで自分に見せつけるかのように和奏にセクハラをする先生の様子を一部始終見ていた青年は、わなわなと拳を振るわせる。
そしてそんな青年・自分たちの頭である鼻高天狗の彼に、周囲の烏天狗たちはオロオロするしかできなかった。
鼻高天狗は怒りに表情を歪めた後、突然バッと枝を蹴って宙に舞う。
そして背中に生えている鳥のような羽を羽ばたかせ、先生の車を追った。
「せっかくいつでもあの娘の元へ赴けるよう、もう数日も人間の姿を保っているというのに……くそっ、こうなったら妖気の風で車の足止めをし、力ずくで我が花嫁を貰うまでだっ」
苛立つようにそう呟き、見た目人間の姿をした鼻高天狗は腰につけているうちわを手にする。
それから夕方の街を走る車に狙いを定め、大きく振りかぶった。
だが――その時だった。
「!!」
突然カアッと大きな黄金の光が弾け、周囲を包む。
鼻高天狗はピタリとうちわを握り締めた手を止めると、車を追うのをやめてその場に留まる。
そして表情を険しいものに変え、クッと漆黒の瞳を細めたのだった。
……まさに、その頃。
「あの、雨京先生」
走る車の中で、和奏は遠慮気味に隣の雨京先生に声を掛ける。
先生は何も言わなかったが、ふと彼女に目を向けた。
和奏は相手の機嫌を窺うかのように上目で彼を見た後、少し恥ずかしそうに小声で口を開く。
「さっき、学校で……誰かに見られたりとか、してませんよね?」
校舎の裏に位置する職員用の駐車場とはいえ、学校の敷地内で先生とキスをしてしまうなんて。
時間が経って冷静になった和奏は、あんな自分たちの様子を誰かに見られてないか心配になっていたのだった。
そんな和奏とは逆に、相変わらず淡々とした表情で先生は彼女の問いに答える。
「心配すんな。人間には見えない妖術かけてるって、いつも言ってるだろうが」
雨京先生はそう言ってから、信号に引っかかったためにブレーキを踏む。
それからブラウンの髪を鬱陶しそうにかき上げてボソリと言った。
「少なくとも……人間には、見えてねーよ」
開け放たれた窓から吹く風が、そんな先生の言葉をかき消す。
信号が青に変わり、雨京先生は再びゆっくりと車を走らせ始めた。
和奏は飽きることもなく、流れ始めた窓の外の景色を見つめている。
そんな彼女を横目に見た後、先生はふっと髪と同じ色をした瞳を細める。
その後チッと小さく舌打ちをし、和奏に聞こえない声でこう呟いたのだった。
「それにしても、あの野郎……余計なお節介やきやがって」
次第に小さくなっていくサンセットオレンジの車を見送り、空中で動きを止めたままの青年はふと振り返る。
その視線は鋭く、表情は険しい。
そんな鼻高天狗の目の前にいたのは。
「黄金の神獣……妖狐・天狐か?」
眩いばかりの光を放つ狐の形をした強大な妖気が、周囲に立ち込める。
そしてその光がカアッと弾けたと思うと、瞬時に人型の形態を成す。
その姿は美しく、年は17、8程度か。
人の姿に変化した天狐・五十嵐聖は、空気のように澄んだ声で鼻高天狗に言った。
「人間の姿をしているけど、君は天狗かな? そのうちわと妖気の雰囲気からして」
「狐が、我に何の用だ?」
敢えて聖の問いには答えず、逆に鼻高天狗は短く問い返す。
聖は瞳を細めて笑い、サラサラの髪をそっとかき上げた。
それと同時に、周囲の空気がビリビリと緊張して震える。
確かに聖の顔は笑ってはいるが……その瞳は、怖いくらいの冷たさと威圧感があった。
もしもの事態に備えて臨戦体勢を取る鼻高天狗を見据え、それから聖はゆっくりと口を開く。
「ていうかさ、和奏ちゃんに何する気? 彼女、僕の大切なお友達なんだ。てか、返答次第では二度と山に帰れなくなっちゃうかもよ、お山の大将さん」
異様なほどに穏やかだが、凄みのある声。
だが鼻高天狗はそんな聖の脅迫にも屈せず、はっきりと宣言したのだった。
「あの娘を略奪し、我の花嫁として迎える。山に連れて帰り、我が妻とすると決めたのだ」
その返答を聞いた聖は、ふと小さく首を傾げる。
そして、今までと全く雰囲気の違う柔らかな声で言った。
「花嫁って、和奏ちゃんを? ていうか、それだけ?」
「……何?」
途端に印象を変えた聖の表情の変化に、鼻高天狗は数度瞬きをさせる。
そんな鼻高天狗を後目に彼の目論見を知った聖は、先程とはうって変わって無邪気に笑った。
「なーんだ、和奏ちゃんの身体を乗っ取るだとか喰らうとか言うのなら、この場で僕が君のコト滅しようかと思ったんだけどさ。うん、なかなか面白そうっ。人間の女の子を巡って妖怪が争うなんてねーっ」
「え?」
聖の考えが全く分からず、天狗の青年は困惑の表情をしている。
聖は楽しそうに笑顔をみせると、彼の肩を激励するようにぽんっと軽く叩いて続けた。
「いいね、そーいう色恋沙汰は大好きだよ、僕。まぁ彼女の現時点での恋人であるライバルが、このハイスペックな僕の息子ってところが君にとって厳しいかもだけどさ、頑張って僕のコト楽しませてよね」
「息子だと? 妖怪であることは分かっていたが……それではあの男も、妖狐か?」
これ見よがしに和奏にセクハラする雨京先生の様子を思い出し、鼻高天狗は眉を顰める。
そんな彼にくすくすと笑って、聖は頷いた。
「そうだよ。でも彼って半妖だから、天狐な僕と違って金色九尾狐なんだ。妖力の高い鼻高天狗の君と、いい勝負なんじゃない?」
それだけ言うなり、聖はその身体に再び黄金の光を纏う。
それからにっこりと笑顔を宿し、その身体をスウッと周囲の空気に溶けこませた。
「んじゃ、和奏ちゃん争奪戦、楽しみに見守ってるから。頑張ってねー」
その言葉を最後に、人型であった聖が元の狐の形をした妖気に戻る。
そしてフッとその場から姿を消したのだった。
鼻高天狗はまだワケが分からず、きょとんとする。
だがすぐにニッと自信に満ちた笑みを浮かべると、言ったのだった。
「我の花嫁……あの妖狐から、必ず略奪してみせようぞ」
――その同じ頃。
和奏に遅れて学校を出た司紗は、漆黒の瞳を細める。
学校の近くの駅前は、会社帰りのサラリーマンや帰宅途中の学生の姿で賑わいを見せ始めていた。
そんな街の喧騒の中で、この日司紗は、ある人物と会う約束をしていたのである。
少し周囲を見回した後、司紗はすでに先に来ていたその人物を難なく見つけた。
そして、相手に声を掛けた。
「こんばんは。悪かったね、急に呼び出しちゃって」
その司紗の声に顔を上げ、相手は人の良さそうな顔に笑みを浮かべて大きく首を振った。
相手に小さく笑顔を返した後、司紗は彼を伴ってゆっくりと歩き始める。
慌ててそんな司紗に並び、相手はどうして自分が呼ばれたのかと彼に訊いた。
その言葉に、ふと司紗は表情を変える。
それから、相手の問いにゆっくりとこう答えたのだった。
「実は君に、頼みたいことがあるんだ」