番外連載 山神様の花嫁



 第3話 独占欲と甘いキス

「あ、あの……雨京先生」
 司紗と分かれてからずっと、いわゆるお姫様抱っこをされたままの和奏は、遠慮気味に雨京先生に声を掛ける。
 だが先生はそんな和奏にちらりと切れ長の瞳を向けただけで、何も言わない。
 黙々と自分を抱えたまま歩く先生の様子に、和奏はどうしていいか分からない表情をする。
 一体先生は自分をお姫様抱っこしたまま、どこに連れて行く気なのか。
 それに、どうして何も言ってくれないのか。
 だが到底そんなことすら聞けない雰囲気を醸し出す先生の顔を見ることしか、この時の和奏にはできなかった。
 そして――しばらく歩いた後。
 先生はようやく和奏を下ろすと、相変わらず無愛想に短く言った。
「乗れ」
「え? あ……」
 目の前にあるのは、見慣れたサンセットオレンジのフェアレディZ。
 雨京先生の愛車である。
 和奏は言われた通り素直に助手席に乗り込む。
 和奏がシートベルトをしたのを確認して、先生はゆっくりと車を走らせ始めた。
 流れ出した窓の外の景色を見た後、和奏は運転席の雨京先生に視線を向ける。
 車と同じ色をした橙色の夕日が、先生の綺麗な顔を照らしている。
 少しだけ開いている窓から吹く風がふわりと彼のブラウンの髪を揺らした。
 和奏は相変わらず何も言おうとしない先生の様子に困ったような顔をする。
 一体今、先生は何を考えているのだろうか。
 シンとした静寂が、車内を包む。
 和奏は小さく溜め息をついた後、仕方がないように窓の外に目を向けた。
 静かな住宅地を抜け、車は賑やかな夕方の街に出る。
 学校や会社帰りの人々の姿を見つめながら、和奏はもう一度嘆息する。
 それにしても、さっきは本当に驚いた。
 突然目の前に現れた青年は、実は妖怪で。
 しかも、天狗だという。
 それにあの天狗の彼が言った言葉。
『山に連れて帰り、我の花嫁にする』
 その花嫁とはやはり自分のことなのだろうか。
 でも何故、よりによって自分なのだろうか。
 雨京先生と司紗が来てくれたおかげで何事もなかったのだが。
 あのままだと、本当に山に連れて行かれたかもしれない。
 和奏は改めてそう思い、今更ながらにゾッとした。
 ――その時だった。
「……腹減った。飯食うぞ」
 運転席の先生が、突然そうぽつりと呟く。
 和奏はそんな先生に目を向け、驚いたように瞳をぱちくりさせる。
 そんな和奏をじろっと見て、先生は眉を顰める。
「この俺様が腹減ったって言ってんだ。何か文句あるか?」
「えっ? いえっ、もちろん何も文句ないです」
 ようやく口をきいてくれた先生の言葉に、和奏は慌てて大きく首を振る。
 雨京先生は表情を変えないまま、それからも黙々と車を走らせた。
 何だか少し、先生のご機嫌は斜めのようである。
 和奏はそう感じて、余計なことはあまり言わないようにしようと思ったのだった。
 そして、到着したのは。
 先生ご用達のいつものうどん屋だった。
 どうせまた、問答無用できつねうどんといなり寿司なのだろう。
 だが、ここのきつねうどんといなり寿司は美味しい。
 正体が狐である先生が気に入るのも分かる。
 和奏は何も敢えて言わず、車が駐車場に止まったのを確認してシートベルトを外そうとした。
 だが――その時だった。
「! きゃっ」
 和奏は思わず声を上げ、ダークブラウンの瞳を見開く。
 突然、和奏の座っていた助手席のシートが後ろに倒れたのだった。
 そして目の前に見えるのは……雨京先生の、整った綺麗な顔。
 そのブラウンの両の目は、自分の姿だけを真っ直ぐに映していた。
 助手席のシートのレバーを引いた雨京先生は、和奏が外そうとしたシートベルトを再び締め直す。
 それから和奏の顎を持ち上げると、少し強引に彼女にキスをしたのだった。
「! ん……っ」
 容赦なく侵入してくる先生の舌が、彼女のものを捉える。
 和奏はその感触に、思わず声を漏らしてしまう。
 だがそんな和奏の様子にも構わず、雨京先生は濃厚な接吻けを彼女に与え続けた。
 シートベルトを締めているため身動きが取れず、和奏は先生にされるがままキスを受け入れることしかできない。
 カアッと身体が熱を帯び、途端に頭が真っ白になる。
 うっすらと涙を浮かべながらも、和奏はその気持ち良さに瞳を閉じた。
 しばらくキスを与えた後、雨京先生は大きな手で和奏の髪をそっと撫でてからようやく唇を離す。
 そしてザッと前髪をかき上げ、言ったのだった。
「何あんな天狗野郎なんかに連れてかれようとしてんだ、おまえは」
「……え?」
 まだ与えられたキスの心地良さでボーッとしつつも、和奏はゆっくりと目を開く。
 雨京先生は和奏の顎に指を添え、自分の方に彼女の顔を向かせた。
 それから彼女の耳元でこう囁く。
「おまえは、この俺様の女だって言ってるだろーが」
 耳に吹きかかるその吐息に、和奏は思わずゾクッとした。
 雨京先生は優しく彼女の耳を甘噛みし、唇を這わせる。
「あっ……せ、先生……っ」
 ビクンと身体を震わせ、和奏はそのくすぐったいような気持ちの良い感覚に顔を赤らめた。
 そして、一生懸命に口を開く。
「あの、雨京先生っ……私、先生との約束は、ちゃんと守りますから……っ」
 そんな和奏の言葉に、雨京先生はふと彼女から唇を離した。
 それから切れ長の瞳を改めて彼女に向けると、口を開いたのだった。
「いつも言ってるだろう? 口で言うんじゃなくて、態度で示せってな」
 雨京先生はそう言った後、おもむろに和奏のシートベルトを外す。
 急に身体の自由が戻って来て、和奏はゆっくりと上体を起こした。
 先生は乱れた彼女の髪を手櫛で整えてから、ニッと口元に笑みを宿す。
 そしてブラウンの瞳を細め、言った。
「この俺様にキスしろ」
「……えっ?」
 突然の先生の言葉に、和奏は瞳をぱちくりとさせる。
 先生は相変わらず有無を言わせぬような口調で続けた。
「聞こえなかったか? 今すぐ、俺にキスしろって言ってんだよ」
 催促するような彼の目に、和奏はドキドキと胸の鼓動を早める。
 先生にキスをされることには慣れているけれど。
 自分からキスをすることには、慣れていない。
 それを分かっていて、先生はわざとこんなことを言っているのだ。
 和奏は照れたように俯き、顔を真っ赤にさせてしまう。
 そんな反応を楽しむように、雨京先生は黙ってじっと彼女を見つめている。
 それから、数秒後。
 ようやく和奏は決心したように小さく深呼吸をする。
 そして瞳を閉じ……そっと、彼の唇にキスをしたのだった。
 軽く触れる程度の接吻けだったが、和奏は恥ずかしそうに耳まで赤くさせる。
 先生はふっとその顔に笑みを湛えた後、俯いてしまった彼女の顔を再び持ち上げた。
「和奏」
 短く彼女の名を呼んだ後、雨京先生は再び彼女の唇に自分のものを重ねる。
 今度は、優しくて甘いキス。
 先生の接吻けが、和奏の唇に潤いを与える。
 それからゆっくりと唇を離した後、先生は満足そうに瞳を細めた。
 そして何事もなかったかのように口を開いた。
「あー腹減った。さっさと飯食いに行くぞ」
「え? あっ、はい」
 和奏は慌てて頷き、助手席のドアに手を掛ける。
 そんな和奏に、雨京先生は続けてこう言ったのだった。
「明日から、おまえは毎日この俺様と一緒に帰るんだ。分かったな」
 思わぬ先生の言葉に、和奏は一瞬きょとんとする。
 先生は気に食わないような表情をし、ボソッと呟いた。
「あのふざけた天狗の野郎が、また俺の女にちょっかいかけてくるだろうからな」
 和奏は大きく頷くと、雨京先生に嬉しそうに微笑む。
 自分のことを、先生が心配してくれている。
 普段あまり彼が何を考えているのか表情が読めないだけに、余計に嬉しかったのだった。
 和奏はそれから、ふと先生に訊いた。
「でも天狗って、赤ら顔で鼻が長いんですよね? さっきの天狗さんは、見た目普通の人間っぽくなかったですか?」
「バーカ、人間の前にイキナリまんまの姿で現れる妖怪がいるか? ていうかおまえ、もう少しで神隠し状態だったんだぞ。ボーッとしてんじゃねーぞ、コラ」
「か、神隠し!?」
 神隠しというと、いきなり人間が行方不明になるという、あれのことだろうか。
 和奏は驚いたように瞳を見開き、先生を見つめる。
 雨京先生はふっと大きく嘆息した後、運転席のドアを開けて外に出た。
 和奏も慌ててそれに続き、カバンを持って車から降りた。
 先生は愛車に鍵をかけながら、切れ長の瞳をおもむろに細める。
 そして、和奏に聞こえないくらいの声でこう呟いたのだった。
「あの天狗の野郎……今度俺様の女に手ぇ出しやがったら、ぶっ殺す」



 ――同じ頃。
「若っ、大丈夫ですか!?」
「お怪我は!?」
 人間の耳には聞こえない風のような声が、そういくつも聞こえている。
 若と呼ばれた先程の青年は先生の衝撃が掠った肩を軽く抑えつつも、周囲を取り囲む大勢の目に頷いた。
 青年を取り囲んでいるのは蒼い鳥のようなくちばしを持った天狗――烏天狗。
 青年はおもむろに瞳を閉じると、その身体に強大な妖気を漲らせる。
 そして肩の傷を治すと、仮の人間のものから元の姿へと戻ったのだった。
 その顔は周囲の烏天狗とは違い、真っ赤で高い鼻を持っている。
 青年の正体は烏天狗よりも妖力の高い、天狗の中でも最上位に位置する鼻高天狗だったのである。
 青年はふっと気を取り直したように笑うと、周囲の烏天狗たちに言った。
「心配するな、このくらい何てことはない。それよりも、妖怪と術師か……」
 そう言った後、青年は何かを考えるように俯く。
 それから突然、笑い声を上げ始めた。
 彼の様子に、周囲の烏天狗たちは驚いた表情を浮かべる。
 そんな烏天狗たちにも構わず、青年はスッと瞳を細めた。
 そして笑みをその顔に宿したまま、こう呟いたのだった。
「面白い、妖怪と術師に守られし娘か。さすがは、この我の花嫁に相応しい娘だ。必ず我のものにしてみせるぞ」