番外連載 山神様の花嫁
第2話 若君の求愛
――次の日の放課後。
和奏は下校すべく、靴箱で靴を履き替えていた。
この日もいつもの如く雨京先生は学校だろうがどこだろうが気にもせずに、和奏に対してスキンシップという名のセクハラをしてきたのだった。
過度な先生のそんな行動には確かに慣れてはいるのだが。
人の多い学校という場所が問題なのである。
いつどこで誰に見られるか、分からない。
和奏は先生の愛情表現を嬉しく思いつつも、いつもハラハラしているのだった。
雨京先生は和奏が心配するたびに、邪魔が入らないように人除けの妖術を施しているから問題ないと言っている。
だが、本当に誰にも見られていないのだろうか。
先生のことを信用していないわけではないのだが、もしもふたりの関係が知られたらどうしようと。
しかも学校で、あんなことをされているなんてバレたら……。
そう改めて思い、和奏は大きく嘆息する。
その時。
「和奏ちゃん」
ふと声を掛けられ、和奏は振り返った。
そして声の主を確認して微笑む。
「あ、司紗くん」
和奏に優しく笑みを返した後、靴箱で一緒になった彼・白河司紗は彼女に訊いた。
「今から帰るの? 和奏ちゃん」
司紗の問いかけに、和奏はコクンと頷く。
そして、彼に言ったのだった。
「司紗くん、途中まで一緒に帰らない?」
「うん、そうだね。一緒に帰ろうか」
司紗は和奏の提案ににっこりと頷くと、靴を履き替える。
和奏と司紗は、短い間だったとはいえ元は恋人同士であった。
そんな恋人という関係はもう解消はしているが、今でもふたりは友人として仲良くしている。
和奏と司紗は他愛のない話をしながらも、楽しそうに並んで下校し始めた。
司紗は綺麗な漆黒の瞳を和奏に向け、優しい視線で彼女を見守っている。
彼女の雨京先生への気持ちを理解して和奏と別れた司紗だったが。
かといって、妖怪である先生のことを認めたわけではない。
「和奏ちゃん、最近は体調はどう? もう先生の妖気には慣れた?」
心配そうにそう言う司紗に、和奏は首を縦に振る。
「うん、もう何ともないよ。先生の妖気に慣れるまでの一時的なものだったみたい、体調悪かったのも」
「そっか。何ともないならよかったよ」
今は和奏の体調も落ち着き、雨京先生も派手な動きをしているわけではない。
だが、もしも今後先生が人間に危害を加えるような行動に出たら。
その時は術師として、妖狐である先生のことをこの手で滅するつもりだ。
和奏には言ってはいないが、司紗はそう思っていたのだった。
そんな司紗の心境も知らず、和奏は楽しそうに彼との会話を楽しんでいる。
雨京先生のことはともかく、和奏は元から人一倍霊感が強い。
術師でもない彼女にとって、そんな体質の自分に起こる不可思議な出来事に戸惑うこともあった。
だがそういうことがたとえ起こっても、今は術師の司紗に相談できるので安心なのだった。
雨京先生も一応妖怪ではあり、そういうことに詳しいのだろうが。
でもイマイチ、あの先生に相談はできないのである。
相談に乗ってやるから自分を拝めと、過度にセクハラしてくるのが目に見えているからだ。
……だが。
いざという時には、自分のことを助けに来てくれる。
和奏のことを守ると言ってくれた先生は、今までその約束を破ったことはなかった。
いつもは俺様思考で強引な雨京先生だが、たまに垣間見える彼の優しさが和奏はすごく好きなのである。
――その時だった。
「…………」
ふと司紗は一瞬だけ口を噤んで漆黒の瞳を細め、ちらりと背後に視線を向ける。
そんな彼の様子に気がついた和奏は、小さく首を傾げた。
「どうしたの、司紗くん?」
「え? ううん、何でもないよ。じゃあ和奏ちゃん、気をつけて帰ってね」
司紗は気を取り直し、和奏に普段通りの笑顔を向ける。
和奏は司紗との分かれ道に差し掛かったことに気がつき、彼に手を振った。
「あ、うん。また明日ね、司紗くん」
和奏はそう言って、駅の方向に歩き出した。
そんな彼女の後姿を見送りつつ、風に揺れるダークブラウンの髪を見つめ、司紗はおもむろに表情を変える。
そして、何かを考えるように漆黒の前髪をかき上げたのだった。
司紗と分かれて地下鉄に乗り、和奏は自宅の最寄駅に到着する。
そして駅から家の方向へと歩き始めた。
すでに空は、青から赤へとその色を変え始めている。
耳には、さわさわと風に揺れる木々のざわめきだけが聞こえていた。
静かな住宅街を歩きながら、和奏はひとり歩みを進める。
明日は、いつもの如く昼休みに雨京先生に呼び出されていることだし。
家に帰って、先生の大好物であるいなり寿司を作ろう。
そんなことを考えながらも、和奏は幸せそうに濃茶色の瞳を細めた。
――その時だった。
「そこのお嬢さん、こんばんは」
ふとそう声が聞こえ、和奏は顔を上げる。
いつの間にか目の前にいたのは、ひとりの青年。
見た感じの年は、雨京先生よりも少し下だろうか。
先生や司紗のような美形ではないが、和風っぽい少し濃い目のその顔立ちはなかなかハンサムである。
その青年はふっと和奏に微笑むと、彼女にこう言った。
「ねぇ、君。山は好きかい?」
「え?」
いきなりそう質問され、和奏は思わずきょとんとする。
だが少し考えてから、こう答えた。
「はい、好きです。山って空気も綺麗だし、四季によっていろいろな表情が見れるし」
そんな和奏の言葉に、青年は嬉しそうに笑う。
「そうか、山が好きか。完璧だ、じゃあ決まりだな」
青年はふっと和奏の腕を掴むと、それからこう言葉を続けたのだった。
「さあ、行こうか。山神の花嫁」
「……花嫁?」
青年の言葉に、和奏では瞳をぱちくりとさせる。
ところでこの青年は、一体誰なのだろうか。
それに、花嫁って。
そう思った……次の瞬間だった。
「えっ!?」
和奏は表情を変え、驚いたように声を上げる。
目の前の青年から、淡い光が立ち上るのが見える。
そして、それは。
「よ、妖気!?」
「ほう、人間なのに我の妖気が見えるのか? ますます気に入った。君はやはり我に相応しい花嫁だ」
満足そうにそう言って、青年は笑みを浮かべた。
和奏はどうしていいのか分からず、言葉を失う。
――その時。
「和奏ちゃんっ!」
彼女の名を呼ぶ声と同時に、眩い霊気が青年を襲う。
「!」
青年はハッと顔を上げると、掌に強大な妖気を漲らせた。
そして繰り出された霊気の衝撃を無効化したのだった。
「! 司紗くんっ」
和奏は駆けつけた彼・司紗の姿を確認し、少しホッとしたように彼に目を向ける。
青年は和奏の腕を依然掴んだまま、眉を顰めた。
「この霊気、術師か?」
「そういう貴方は妖怪だな。和奏ちゃんをどうする気だ?」
キッと鋭い視線を向け、司紗はそう青年に訊く。
青年はそんな司紗の言葉に、ニッと笑った。
「この娘をどうする気かって? 山に連れて帰り、我の花嫁にする」
「は、花嫁!?」
和奏は驚いたようにそう呟き、隣の青年を見つめる。
ふっと一呼吸ついてから、司紗はその手に再び霊気を宿す。
そして、こう言い放ったのだった。
「和奏ちゃんを連れて行くだって? そんなことは、させないっ!」
「……!」
青年は再び自分目がけて繰り出された司紗の霊気を見据え、妖気を身体に漲らせた。
次の瞬間。
「! きゃっ!!」
和奏は叫び声を上げ、何度も瞬きをする。
青年の妖気が自分の周囲を包んだかと思うと……重力を無視して、身体がふわりと宙に浮き上がったのだった。
司紗の霊気を跳躍してかわした青年は、ニッと口元に笑みを浮かべる。
そんな彼の背中には。
いつの間にか、鳥のような羽が生えていたのである。
司紗は宙を舞う青年の姿に、唇を結ぶ。
空を舞う青年には、なかなか衝撃の標準が合わせられない。
下手をすれば、一緒にいる和奏を傷つけてしまう可能性もあるのだ。
青年は司紗に視線を向けると、腕を掴んでいる和奏を伴って翼を羽ばたかせる。
戦いは避け、術師である司紗の前からこのまま空を飛んで去るつもりなのだろう。
「くっ、逃がしはしない……っ!」
司紗はそう呟き、咄嗟にポケットから数枚の術符を取り出す。
そして素早く術の詠唱をし、その術符を放った。
「なっ!?」
青年はその時、初めてその表情を険しくする。
司紗から放たれた術符は綺麗に四方に広がり、周囲の電柱や壁に張り付いた。
刹那、カアッと霊気の光が周囲を満たしたのだった。
「何、妖魔抑制の結界!? くっ、こしゃくなっ」
四方に張られた結界に動きを制限されてその場を去ることができなくなった青年は、司紗の施した術を破るべく再び妖気を漲らせる。
だが司紗はそうはさせまいと、慎重に狙いを定めて霊気の衝撃を放たんと身構えた。
……その時だった。
「白河、おまえはこのまま結界を強めろ。あのふざけた野郎を絶対に逃がすな。分かったな」
ふいに背後からそう声が聞こえ、司紗はピタリと動きを止める。
それから複雑な表情を浮かべつつも、言われた通りに周囲に張った結界を強めた。
「……あっ!」
青年に空中で腕を掴まれている和奏は、ハッと瞳を見開く。
それと同時に、強大な黄金の光が大きく弾けたのを感じた。
「!!」
青年は思わぬ方向から突然襲ってきた攻撃を、咄嗟に翼を羽ばたかせて回避する。
だが完全に避けることができず、和奏を掴んでいる肩に掠る程度の軽い衝撃を受けた。
「くっ!」
青年はそのダメージで、思わず和奏の腕を離してしまう。
その瞬間、和奏の身体に再び重力の負荷がかかった。
「……っ!! あっ!」
和奏はぎゅっと瞳を瞑り、途端に身体に感じる落下する感覚に恐怖を覚える。
だが、そんな彼女の身体をしっかり受け止めたのは。
「何連れてかれそうになってんだ、おまえ」
「えっ? あっ、う、雨京先生っ」
そっと瞳を開いた和奏の目の前にいたのは。
紛れもなく、雨京先生その人だったのである。
「何!? 妖気……!?」
青年は現れた先生に目を向け、そう呟く。
それからふっと視線を別の場所へ移して表情を変えると、再び身体に妖気を漲らせる。
先生に気を取られている青年目掛け、司紗の手からすかさず霊気が放たれたのだった。
青年は腰につけていたあるものを素早く手にすると、それをブンッと大きく振る。
刹那、強力な一陣の妖気を帯びた風が霊気の衝撃に吹きつけられたのである。
「!」
司紗は漆黒の瞳を細め、巻き起こる風に眉を顰めた。
霊気の衝撃はその風に弾かれ、結界の壁にぶつかって消滅する。
そして。
「チッ、逃げやがったか」
和奏を抱きかかえたまま、雨京先生はそう口を開く。
発生した風とともに、いつの間にか青年の姿がその場からふっと消えたのだった。
司紗は青年が去ったことを確認した後、先生に目を向ける。
「背中の鳥のような翼に、妖気の風を巻き起こすうちわ……天狗、ですか?」
「だろうな。てかあの天狗の野郎、この俺様の女に手を出すなんていい度胸してんじゃねーか」
「て、天狗?」
ふたりの会話に、和奏はきょとんとする。
あの青年からは、確かに強い妖気は感じたのだが。
天狗なんて、本当にこの世に存在するんだろうか。
だが考えてみると、雨京先生も狐の妖怪・妖狐である。
ならば、天狗が存在していても不思議はないかもしれない。
そう思い直し、和奏は暢気にひとりで納得したように頷いた。
司紗はそんな和奏に目を向けると、小さく彼女に微笑む。
「和奏ちゃん、大丈夫だった? ふたりで帰っている時、巧妙に気配を隠してはいるけど僕たちを見ている大勢の目を感じたんだ。だから気になって和奏ちゃんの後を追いかけてきたんだけど、大事に至らなくてよかったよ」
「ありがとう、司紗くん」
和奏は先生に抱きかかえられたまま、司紗にそう礼を言う。
雨京先生はちらりとそんな和奏を切れ長の瞳で見つめた後、ふっと息をつく。
そして、おもむろにスタスタと歩き出したのだった。
「せ、先生っ?」
自分を抱えたまま移動し始めた先生に、和奏は思わず顔を上げる。
そんな和奏の様子にも表情を変えず、雨京先生は歩みを止めない。
司紗は和奏を連れてこの場を去っていく先生に敢えて何も言わず、その後姿を黙って見送った。
それから静かに風に揺れる木々の葉音を聞きながらひとつ大きく嘆息し、漆黒の瞳を細めたのだった。