番外連載 山神様の花嫁



 第1話 見初められし少女

 ――ある日の放課後。
「日誌書いて戸締りしておくから。先に戻ってて」
 特別教室の掃除を終えて同じ当番のクラスメイトにそう言ってから、その少女・桜井和奏は掃除日誌を開く。
 そして教室を出て行くクラスメイトに軽く手を振り、シャープペンシルをカチカチと鳴らした。
 ひとりになった室内に、途端にシンとした静寂が訪れる。
 和奏は静かな特別教室内で掃除日誌を記入した後、開け放たれたままの窓に手をかけた。
 眼下に広がる運動場では、運動部の部活動が始まっている。
 普段通り何ら変わりのないそんな放課後の風景にダークブラウンの瞳を細めてから、彼女は窓を閉めた。
 今日も一日、平和に終わりそうだ。
 そう思いながら特別教室を出て、和奏は特別教室のドアに鍵を掛けた。
 放課後の特別教室校舎は人の姿もなく、廊下には誰もいない。
 ……と、思ったのだが。
「! きゃっ」
 和奏はビクッと身体を震わせ、思わずそう声を上げてしまった。
 ――その理由は。
「……こんなところで何やってんだ? おまえ」
 自分のすぐ近くで発せられた、低いバリトンの声。
 耳に吹きかかるその吐息がくすぐったくて、和奏は頬を赤らめる。
 和奏はドキドキと鳴る鼓動を抑えながらも、おそるおそる振り返った。
「う、雨京先生……」
 いつの間に現れたのか、その場にいたのは雨京先生だった。
 ブラウンの切れ長の瞳に、同じ色の髪。
 肌は雪のように真っ白で、美形というに相応しい整った顔立ち。
 綺麗な先生の顔が間近にあることに気がつき、和奏はさらに胸の鼓動が早くなるのを感じる。
 雨京先生は慣れたように片腕で和奏の腰を抱くと、彼女の髪を撫でながら言葉を続けた。
「こんな人気のないところにひとりでいるなんてよ、この俺様を誘ってるのか?」
 ニヤリと浮かぶ、悪戯っぽい彼の笑み。
 ゾクリとするような囁きに、和奏は一瞬言葉を失ってしまう。
 だがすぐに気を取り直し、慌てて首を振った。
「えっ? い、いえっ。掃除当番だったから、たまたま……っ!」
 次の瞬間、和奏は驚いたように大きく瞳を見開く。
 和奏の言葉を塞ぐように……先生の唇が、彼女のものを覆ったからであった。
 いきなりの彼の行動に、和奏は瞳をぱちくりとさせる。
 こんな風に雨京先生にキスをされるようになったのは、いつの頃だっただろうか。
 彼は人間ではなく、狐の妖怪・妖狐である。
 金色の長い髪と真紅の瞳、そして九尾の尻尾。
 先生の正体を知った日以来、和奏は彼に唐突に呼び出されては、強引にキスをされて。
 最初はただ、俺様な先生の言いなりになっていただけの和奏だったが。
 いつしか雨京先生に心惹かれ、ふたりは恋人と呼べるような関係になったのだった。
 なので、彼にキスをされることに慣れてはいたのだが。
「なっ、う、雨京先生っ!?」
 柔らかな唇の感触に気持ちよさを感じつつも、和奏は声を上げる。
 当然ながら生徒と教師であるふたりがこんな関係であることを、周囲に知られるわけにはいかない。
 なのに、こんな学校の廊下で堂々とキスをしてくるなんて。
 和奏は誰にも見られていないかどうかと焦った様子で、周囲をきょろきょろ見回す。
 だがそんな和奏とは逆に、先生は表情ひとつ変えない。
「キスくらいでビビってんじゃねーよ。スリルある方が感じるだろう?」
「ス、スリルある方がって……」
 それが、教師の言葉だろうか。
 そう思いつつも、周囲の目など全く気にしない雨京先生らしい言動ではある。
 和奏は諦めたように小さく溜め息をつき、人が来ないことを神に祈った。
 雨京先生はそんな和奏の身体をぐいっと自分の胸に引き寄せた後、ふっと笑みを浮かべる。
「大丈夫だ、安心しろ。誰にも邪魔されないように、周囲に人除けの結界を張ってるからな。てなわけで、心置きなく気持ち良くしてやる。有難く思え」
「えっ!? 心置きなくって……っ」
 和奏は先生の言葉に、再び驚いた表情をする。
 そして、くいっと軽く顎を持ち上げられた瞬間。
 和奏の唇に、再び甘いキスが落とされる。
 学校でこんな不埒なことをしているなんて。
 頭の中ではそうは思っていても、和奏は先生の与える接吻けを拒否できなかったのだった。
 むしろ逆に、その気持ち良さにすっかり彼の胸に身体を預けてしまっていた。
 大きく開かれていた和奏の両の目が、おもむろに伏せられる。
 雨京先生はそんな彼女の様子を確認してから、さらにキスを重ねていった。
「! ん、ふ……っ」
 彼の舌が自然に自分のものと絡み合い、和奏は思わず声を漏らしてしまう。
 頭が真っ白になり、身体が芯から熱を帯び始める。
 そして眩いばかりに溢れ出す彼の黄金の妖気を感じ、和奏はその温もりの気持ち良さに身を任せたのだった。
 雨京先生は余韻を残すようにわざとゆっくりと唇を離した後、満足そうにニッと笑った。
「どうだ、スリルある方が感じるだろう? 気持ち良さそうな顔してたぞ? 和奏」
「き、気持ち良さそうって……」
 まだ残るキスの感覚にまだボーッとしながらも、和奏はカアッと恥ずかしそうに顔を赤らめて俯く。
 雨京先生はそんな和奏の頭にぽんっと手を添えた後、彼女を置いてスタスタと歩き出した。
 和奏は好き放題するだけしてさっさと去っていく相変わらずな先生の後姿を見送りながらも、まだドキドキと鳴っている胸を落ち着かせようと大きく息を吐く。
 それからスッとキスの落とされた唇に指をなぞらせ、幸せそうに微笑んだのだった。



 ――その帰り道。
「じゃあね、和奏。また明日」
「うん、またね」
 一緒に下校していた友人と地下鉄の車内で別れ、和奏は駅のホームに下りた。
 夕方の駅は、帰宅途中のサラリーマンや学生で賑わっている。
 そんな人の波に逆らわず、和奏は定期券を取り出して改札口をくぐった。
 それから駅の出口の階段を上りきった和奏は、いつの間にか薄暗くなった空にふと目をやる。
 それと同時に、冷たい風が彼女のダークブラウンの髪をふわりと揺らした。
 放課後の思わぬ先生の行動に冷や冷やはしたけれど。
 でも今日も、いつもと変わらない平穏な日だったと。
 和奏はそう思い返し、ふっとその顔に微笑を浮かべる。
 雨京先生とのキスも、すでにもう彼女にとっては日常のことになっていた。
 むしろ彼女にとって、そんな先生の強引な愛情表現が嬉しかったのである。
 そしてさわさわと街路樹が枝葉を擦らせる音を耳にしながら、和奏は家の方角へと足を向けたのだった。
 ――だが、その時。
 そんな彼女の様子をじっと見つめる、何者かの瞳があった。
 数は、十を超えている。
 その眼光は鋭く、囁く声は風の音のようだった。
「若、あの女子ですか?」
 和奏を見つめながら、大勢のうちのひとりがそう言った。
 集団の頭らしきその若と呼ばれた彼は、その言葉に大きく頷く。
「ああ。あの娘がそうだ」
 それからふっと笑みを浮かべると、若と呼ばれた彼はこう言葉を続けたのだった。
「あの娘こそ、この私の嫁に相応しいと。そう思わないか? おまえたち」