第四章 黄金の天気雨



 最終話 黄金の天気雨

 和奏に遅れて店を出た司紗は、ひとり繁華街を歩いていた。
 そんな彼の耳には、休日の繁華街の賑わいと、ポツポツと傘に落ちる雨音が聞こえている。
 つい先程までは、自分の隣で和奏が笑っていたのに。
 彼女はもう、ここにはいない。
 司紗は漆黒の瞳を伏せ、小さく首を振る。
 いつかこういう日がくることを、頭のどこかで自分は分かっていたのかもしれない。
 和奏の心の中に、雨京先生の存在がまだはっきりと生きていると気づいていたから。
 ふっとひとつ溜め息をつき、司紗は漆黒の前髪をそっとかき上げた。
 ――その時。
 司紗は瞳を開くと、ふと歩みを止める。
 足を止めた後、おもむろに背後を振り返った。
 そして。
 にっこりと綺麗な顔に笑みを宿し、司紗の目の前に現れたのは。
「こんにちは、司紗くん」
「貴方は……」
 司紗は、自分に声を掛けてきた彼・五十嵐聖に目を向ける。
 それからふっとひとつ嘆息し、言った。
「何か僕に用ですか?」
「用がないと、司紗くんに会いに来ちゃダメ?」
 くすっと笑い、聖はブラウンの瞳を細める。
 そして、こう続けたのだった。
「ていうか、何で和奏ちゃんを行かせたの? 止めることもできたんじゃない、彼女に雨京の記憶はないんだから」
「確かに彼女の記憶から、先生に関することは消えていました。でも潜在的な意識の中には、強くその存在が残っていた……だから遅かれ早かれ、こうなることは薄々分かっていましたから」
 聖の問いにはっきりとそう答え、司紗は漆黒の前髪をそっとかき上げる。
 聖はその言葉を聞いて、ふっと笑った。
「まぁ、でも和奏ちゃんの記憶が戻ったわけじゃないし。それに記憶が戻ったとしても、司紗くんのところに彼女、帰ってくるかもしれないしね」
「本当にそう思ってるんですか? それとも、慰めのつもりですか?」
 司紗は首を大きく振り、聖に視線を向ける。
 そんな司紗ににっこりと微笑み、聖はポンッと彼の肩を軽く叩いた。
「いやだな、そんなつもりじゃなかったんだけどな。だって和奏ちゃんがずっと好きだったのは、司紗くんだし。そうじゃない?」
 聖のその言葉を聞いて、司紗はもう一度嘆め息をつく。
 それから俯き、口をゆっくりと開いた。
「彼女は記憶を取り戻し、本当に大切な人が誰か気がつくでしょう。そして、それはきっと……」
 そこまで言って、司紗は思わず言葉を切る。
 聖はそんな司紗の姿を、澄んだその瞳に映した。
 そして満面の笑顔を宿し、明るい無邪気な声で彼に言ったのだった。
「さ、司紗くんっ。人生の大先輩として、僕が話を聞いてあげるからさ。今から飲みに行こーうっ」
「飲みにって……僕、未成年なんですけど」
「んーじゃあ、僕の年を半分分けてあげるよ。そしたら、めちゃめちゃお釣りくるしねっ」
「そういう問題じゃないでしょう? それに大体、貴方は何歳なんですか」
 呆れたように嘆息しながらも、司紗は無邪気に笑う聖に小さく微笑む。
 聖はそんな彼の表情を見てから、くすくすと笑った。
「もう、司紗くんってば真面目なんだから。仕方ないなぁ、じゃあ甘いもの食べに行こ。あ、この近くにね、僕のお気に入りの甘味処あるんだーっ」
「甘いもの、ですか。“猫にマタタビ”“狐に小豆”と言いますからね」
 司紗は納得したようにそう言った後、ふと表情を変える。
 そして、こう聖に言った。
「でも貴方は妖怪で、僕は妖怪を滅する術師ですよ?」
 聖はそんな司紗の言葉にも構わず、にっこりと微笑む。
「術師とか妖怪とか、そんなのどーでもいいよ。僕は司紗くんのことが気に入ってる。それでいいんじゃない?」
 司紗は仕方ないと言ったような表情をしつつも、歩き出した聖に続いた。
 そして、ふっと漆黒の瞳を細めて言った。
「その強引なところ、貴方と雨京先生、そっくりですね」
「そう? ま、僕がハンサムだから彼もハンサムなんだけどねー」
「その自分に妙に自信満々なところも、すごく似ていますよ」
 はあっとわざとらしく溜め息をついた後、司紗はふと雨粒の落ちる天を見上げた。
 おそらく和奏は、どこかに置き忘れた記憶の欠片を――失くしたピースを、見つけることができるだろう。
 そして記憶のパズルを完成させた彼女が選ぶのは、きっと……。
 司紗は綺麗な漆黒の瞳を伏せ、小さく首を左右に振った。
 聖はそんな司紗に敢えて何も言わず、穏やかな微笑みを湛えたまま、彼の肩を再び軽く叩いたのだった。



 司紗と別れた和奏は賑やかな繁華街を抜け、人通りの少ない道を走っていた。
 ――自分は一体、今どこに向かっているのだろうか。
 そう思いつつも何かに導かれるように、和奏の足は自然とある場所へと向かっていた。
 買ったばかりの靴が濡れることも、ダークブラウンの髪が大きく揺れて乱れることも気にせず、和奏は雨の降る街をひたすら走り続ける。
 どこに行こうとしているのか、自分でも分からないけれど。
 ただ、これだけは言える。
 辿り着いた先には、必ず自分の探しているものがあると。
 何故だか分からないが、和奏はそう強く確信していたのだった。
 それから――どのくらい走っただろうか。
 和奏は急に、ピタリと足を止める。
「ここ……?」
 乱れた息を整え、和奏はある場所の前で大きく瞳を見開いた。
 そして、改めて記憶の糸を辿ってみるが。
 以前、この場所に来たという記憶はない。
 だが何故だろうか、不思議と懐かしい気がする。
 和奏は意を決し、ゆっくりとその場所に足を踏み入れた。
 賑やかな繁華街からそう遠くないにも関わらず、その場所は驚くほど静かで。
 青空色の傘に落ちる雨音だけが、彼女の耳に聞こえていた。
 和奏は一歩ずつ感触を確かめるかのように、その場所――小ぢんまりとした稲荷神社の階段を上る。
 さわさわと風に揺れる木々がまるで和奏が来るのを歓迎しているかのように、優しく葉音を鳴らしている。
 階段を上りきった和奏は、そっと頬を撫でる風に瞳を細めて周囲を見回した。
 そしてある場所で、ふと視線を止める。
 そこは……稲荷神社の、小さな境内だった。
 和奏は微かな記憶を手繰り寄せるかのように、おもむろに瞳を伏せた。
 耳を澄ますと、誰かの声がふっと脳裏に蘇る。
『何やってんだ、早く来い』
 自分を呼ぶ、よく響くバリトンの声。
『ていうか眠い。俺は寝る』
 自分をじっと見つめる、澄んだ切れ長の瞳。
 ……そうだ。
 ここは確か、誰かのお気に入りの場所で。
 自分は何度かこの場所に来たことがある。
 その誰かと、一緒に。
『随分気持ちよさそうな顔してるな、和奏』
 柔らかくて気持ち良いぬくもりと、耳をくすぐる吐息。
 少しずつ思い出される感覚。
 だが自分はここに、一体誰と来たのだろうか。
 肝心のそのことが、思い出せない。
 もう少しで、記憶のパズルが埋まりそうなのに……。
 和奏はふっと瞳を開くと、溜め息をついた。
 確実に自分の探しているものが、ここにあるはずなのに。
 和奏は諦めず、もう一度記憶を蘇らせようと顔を上げた。
 ――その時だった。
「……!」
 和奏はハッと表情を変え、瞳を見開く。
 そんな彼女にキラキラと降り注ぐのは――黄金色の天気雨。
 先程まで薄暗かった視界が、パアッと明るく開けた。
 途切れた雲間から太陽が顔をみせ、再び世界を明るく照らす。
 和奏はふとその眩しさに瞳を細めながら、天を仰いだ。
「あの日と、同じ……」
 ――運命を変えた、あの日と同じ。
 ポツポツと青空から落ちてきた雨を頬で感じながら、和奏は少しずつ記憶の糸を辿る。
 第一印象は、とても綺麗だと思った。
 彼の纏う光は、強くて眩くて。
 そして天から降ってくる雨がその黄金の光と混ざり合い、キラキラと幻想的に輝いていた。
 あの時の自分は、ただその場に立ち尽くすことしかできなかったけれど。
 でも、今は……。
 和奏はおもむろに瞳を閉じ、彼の黄金の輝きをもう一度思い出す。
 あの日――すべての始まりの時も、澄んだ青空からは黄金色に輝く天気雨が降っていた。
 そしてその運命の日、自分の目の前に立っていたのは。
「先生……雨京先生っ!」
 和奏の手から離れた青空色の傘が、ふわりと地に落ちる。
 自分と一緒に、この場所にいた彼。
 少し……いや、かなり強引で。
 勝手に自分のことを『俺の女』って決めつけて。
 いきなり抱きしめてきては、断りもなく勝手にキスをして。
 いつもいつも、自分は彼に振り回されていたけれど。
 でも……そんな彼が自分に与えるキスは、とても柔らかくて優しいものだった。
 和奏はいつの間にか溢れ出した涙を拭うこともせず、もう一度彼の名前を呼んだ。
「雨京先生!」
 ――その時だった。
 カアッと黄金の光が周囲を包み込み、ふわりと一陣の風が巻き起こる。
「!」
 和奏はその光の眩さに、思わず瞳を閉じた。
 それから、おそるおそるゆっくりと目を開ける。
「あ……!」
 和奏は次の瞬間、小さく声を上げた。
 そんな彼女の目に映っているのは――美しい金色の長い髪に、燃ゆるような真紅の瞳。
「ったく、人が気持ちよく寝てたのによ。起こしてんじゃねーぞ」
 自分を封じていた術符を握り締めてポイッと投げ捨てると、目の前の彼・雨京先生は和奏に視線を向ける。
 そしてニッと口元に笑みを浮かべ、続けた。
「おまえがガタガタ騒ぐから、起きちまったじゃねーか。責任取れ」
 和奏は何も言葉を発することができず、先生を見つめた瞳からポロポロと涙を零している。
 雨京先生はひとつ嘆息し、ゆっくりとそんな和奏に近づく。
 そして彼女の小さな身体を自分の胸にぐいっと引き寄せると、言った。
「言っただろうが、俺は女を泣かすのは趣味じゃないってな。だから、さっさと泣き止め」
「だって、先生……」
「だっても何もねーよ。俺が黒って言ったらおまえも黒だって、何度言わせたら分かるんだ? 俺が泣き止めって言ったら泣き止め」
 和奏は全身で先生のぬくもりを感じながらも、素直にこくりと頷いた。
 そんな和奏の様子を見て、雨京先生は再びニッと笑う。
 そして、こう続けたのだった。
「おまえは、この俺様の女だからな」
 和奏はようやく泣き止むと、ふっとその顔に微笑みを宿した。
 それから先生の切れ長の瞳を真っ直ぐに見つめ、彼に言葉を返す。
「はい、雨京先生」
 彼女の髪を優しく撫で、先生はその返事に満足気な笑みを浮かべた。
 それと同時に、綺麗な彼の真紅の瞳がスッと伏せられる。
 そして――次の瞬間。
 和奏の唇に、雨京先生の優しいキスがそっと落とされたのだった。
 和奏は柔らかな彼の口づけを受け入れ、幸せそうに微笑む。
 自分たちを包む神々しい黄金の光は、とても心地良くて。
 自分の探していたものが何か、自分にとって大切な人が誰かを、改めて強く感じたのだった。
 それから和奏はふと、自分たちに降り注ぐ天気雨に視線を向けた。
「そういえば先生、天気雨って“狐の嫁入り”って言いますよね」
 何気なく言った彼女に、先生は悪戯っぽい笑みを宿す。
「あ? 何だ、おまえ。そんなにこの俺様の嫁になりたいのか? 貰ってやるから、今まで以上に俺様を拝め」
 そんな先生の言葉に驚いた表情を浮かべ、和奏は耳まで真っ赤にさせる。
 どうしてすぐ、話が飛躍するのだろうか。
「えっ!? だ、誰もそんなこと……っ!」
 照れたように、和奏は慌てて首を振る。
 だが、次の瞬間。
 先生の唇が、再びそんな彼女のものを覆った。
 スルリと侵入してくる先生の舌の動きに頬を紅潮させながらも、和奏はその溶けるような口づけの気持ち良さに、思わず瞳を閉じてしまう。
 そして、次々と落とされる雨京先生のキスをすべて受け入れたのだった。
 長いキスの後、先生はギュッと和奏の小さな身体を強く抱きしめる。
 それから、彼女の耳元でこう囁く。
「早く俺様の妖気に慣れるために、これからは今まで以上に襲ってやる。覚悟しとけ」
「い、今まで以上にって……」
 ふっと吹きかけられる吐息にゾクッとしながらも、和奏は瞳をぱちくりさせた。
 先生はそんな和奏の顎をくいっと持ち上げ、再びニッと笑みを浮かべる。
 それから、低いバリトンの声で彼女に言ったのだった。
「和奏。キスする時くらい、目ぇ瞑れって言ってんだろ」
 和奏は先生に笑顔を向けた後、言われた通りに瞳を閉じる。
 そして……次の瞬間。
 ふたりはもう一度、ゆっくりと甘いキスを交わしたのだった。

 キラキラと輝きを纏い、青空から優しく降り注ぐ――黄金の天気雨を浴びながら。


黄金の天気雨・完



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