第四章 黄金の天気雨



 第26話 真実と嘘と

 ――その日の放課後。
 夕焼けが空を赤く染め始めたその時、司紗はある場所で人を待っていた。
 彼の漆黒の髪が、強く吹きつける風に揺れる。
 司紗はそんな様子を全く気にもかけず、表情を引き締めた。
『今日の放課後、後で俺が指定する場所に来い。分かったな』
 学校で、雨京先生が自分に言った言葉。
 先生が何を思って自分をこの場に呼び出したのか、この時の司紗にはまだ分からなかった。
 だが、例え先生がどういうつもりであっても。
 司紗の心に、何も迷いはなかった。
 術師として、そして男として……やるべきことは、ただひとつだけなのだから。
 司紗は漆黒の瞳を閉じ、グッと掌を握り締める。
 そんな彼の耳に聞こえるのは、風に煽られて枝が重なり合う木々のざわめき。
 賑やかな繁華街からそう離れていないはずのその場所は、まるで時の流れが止まっているかのように静かで。
 不思議と、気持ちが落ち着くような感覚さえおぼえるのだった。
 ――その時。
 司紗は伏せていた瞳を開き、背後を振り返る。
 そして表情を変え、その場に現れた人物に視線を投げた。
 そんな彼の漆黒の瞳が映し出しているのは。
「……雨京先生」
 司紗は慎重に、その場に姿をみせた雨京先生の動きをうかがう。
 それから、言葉を続けた。
「何か僕に用があるんでしょう? 何ですか?」
「…………」
 先生は相変わらず挑戦的な司紗の態度に気に食わない表情を浮かべながらも、無言で彼に視線を返す。
 そして。
「!」
 次の瞬間、司紗はハッと顔を上げて表情を変える。
 その後すぐ、本能的に身構えたのだった。
 刹那、大きな黄金の光が弾けて一陣の風が巻き起こる。
 司紗は全身で感じる強大な妖気と漆黒の瞳に映る先生の姿に、思わず目を見張った。
 ――金色の長い髪と、真紅の両の目。
 九尾の尻尾を持つ神々しい狐の化身の姿が、その場にはあった。
 妖狐体に変化した雨京先生を見据え、司紗は対抗してその手に霊気を宿す。
 雨京先生はそんな司紗の様子にも表情を変えず、夕陽に照らされて輝きを増した黄金色の髪をかき上げた。
 それから、ふとこう口を開いたのだった。
「勘違いするな。確かにおまえはぶっ殺したいほど気に食わないがな、用はそんなことじゃねーよ」
「じゃあ、一体どんな用ですか?」
 司紗は警戒を解かず、もう一度先生に訊いた。
 それと同時に、再びふたりの間を風が吹き抜ける。
 雨京先生は真っ直ぐに真紅の瞳を司紗に向けてから、そして彼の問いに答えたのだった。
「白河、俺を封印しろ」
「……え?」
 その思いもよらない先生の言葉に、司紗は瞳を大きく見開く。
 逆に先生は、いつもと変わらない口調で言った。
「聞こえなかったか? この俺様を、封印させてやるって言ってんだ」
「…………」
 司紗は何かを考えるように、一瞬口を噤む。
 それからふっとひとつ息をついて先生に目を向けると、はっきりと言った。
「先生に言われなくても、僕は貴方を封印するつもりでここに来ましたから。ですが、ひとつ教えて貰えませんか?」
 雨京先生は敢えて何も言わなかったが、司紗の次の言葉を黙って待っている。
 司紗はそんな先生の様子を見て、彼に訊いた。
「僕は例え刺し違えてでも、貴方を封印するという覚悟でここに来ました。でも、先生の方からそう言われるなんて思ってもみなかった……何故ですか?」
「何故か、だって? 決まってるだろーが」
 そこまで言って、先生はふと言葉を切る。
 だがすぐに顔を上げ、続けた。
「……この時代に飽きたからだ。ただそれだけだよ」
 その先生の答えを聞いた司紗は、漆黒の瞳を細める。
 それから、大きく首を左右に振った。
 そしてふっと嘆息した後、司紗はこう口を開いたのだった。
「雨京先生。妖怪は人間と違って、嘘をつかないんじゃなかったですか? 以前、誰でもない先生自身がそう言ってましたよね」
「白河。この俺様を封印するのかしないのか、どっちだ? ガタガタ余計なコト言ってると、ぶっ殺すぞ」
 雨京先生は声のトーンを落とし、司紗に言葉を投げる。
 だが威圧的な先生の声にも怯むことなく、司紗はさらに言葉を続けた。
「素直に言ったらどうですか? 和奏ちゃんのためだって。もしも貴方の妖気と和奏ちゃんの体調の相性が合わなければ、昔と同じ過ちを繰り返してしまう。それを貴方は恐れて……!」
 ――その時だった。
 司紗は突然言葉を切って顔を上げると、その手に素早く霊気を漲らせる。
 次の瞬間、あっという間に眩い黄金の光が周囲を包み込み、耳を劈く衝撃音が響き渡った。
「何度も言わせるな、そんなに殺されたいのか? 聞いてるだろ、俺様を封印するのかしないのかってな」
 強大な妖気を放ったその右手を収め、雨京先生は再びそう問う。
 咄嗟に障壁を張って衝撃を防いだ司紗は、構えを解かず真っ直ぐ視線を先生に向けた。
 それからその掌に霊気を宿すと、こう言ったのだった。
「僕は術師です。術師の使命は、人間に害を及ぼす妖怪を滅すること。だから僕は、貴方を封印します」
「じゃあ、余計なコト言ってないでさっさとやれ。俺様の気が変わらないうちにな」
「…………」
 司紗はそれ以上何も言わず、スッと瞳を閉じて精神を集中させる。
 それからおもむろに術符を取り出し、術の詠唱を始めた。
 雨京先生はその様子を確認した後、数歩移動してストンと腰を下ろす。
 風が彼の金色の髪をふわりと靡かせ、夕陽がその美しさをさらに際立たせた。
 先生は真っ赤に染まった空と同じ色を湛えた真紅の瞳を、ふっと閉じる。
 そして術の詠唱を続ける司紗に、ゆっくりと言ったのだった。
「俺はな、妖怪は妖怪でも半妖だ。半分は人間ってことだ……これが、さっきの質問の答えだ」
 その言葉を聞いた司紗は、術の詠唱を続けたまま、一瞬その瞳を開いて先生の姿を映す。
 だが――次の瞬間。
 強大な霊気の光がカアッと輝きを放ち、周囲を包み込んだのだった。
「…………」
 司紗は複雑な表情を浮かべ、ふっとひとつ息をつく。
 それから先生のいた場所に背を向けると、無言で歩き出した。
 そして、その後に残ったものは――吹き抜ける風と、木々のざわめきだけだった。



 ――同じ頃。
 真っ赤な夕焼けの空を意のままに翔けるのは、神々しい輝きを纏う黄金の神獣。
 その姿は、普通の人間には決して見ることができない。
 だが天を優雅に翔けていたその神獣は、急にある家の屋根にその身を降ろす。
 そして、ふっとその姿を人型へと変化させたのだった。
 息子と同じブラウンの髪と、同じ色をした瞳。
 その神獣・五十嵐聖は、屋根の上に座って頬杖をついた。
「本当にどうして、あんなに不器用なのかなぁ……」
 遠くを見据え、聖は空気のように澄んだ声でそうぽつりと呟く。
 相変わらず綺麗な顔に微笑みは絶やさないが、その表情は心なしか寂しさを帯びていた。
 それから聖は、ふとその瞳を伏せる。
「本当に……不器用なんだから」
 そんな聖の脳裏に、鮮明に映っているものは。
 自室のベッドで眠る――ひとりの、少女の姿。
 ……そして。
 その少女の瞳からは、何故かひとすじの涙が流れていたのだった。
「あの子らしい決断だといえば、そうなんだけどね。でも女の子を泣かしちゃダメだなぁ、まったく。今度会った時、ちゃんと言っとかないとな。てか、次僕が彼に会えるのは……何百年後なのかな」
 聖はそう言って、赤を帯びる天を仰ぐ。
 そしてまるで空気に溶けるかのように、その場からふっと姿を消したのだった。