第四章 黄金の天気雨



 第27話 キヲクのカケラ

 ――雨京先生が長い眠りについてから数週間が経った、ある休日。
 和奏と司紗のふたりは、賑やかな休日の繁華街を並んで歩いていた。
 この日の天気は、生憎の曇り空であったが。
 いわゆる恋人同士の休日デートを楽しむふたりにとっては、そんなことなど関係なかった。
「映画、すごくよかったね。私、ボロボロ泣いちゃったよ」
 そっと瞳を擦る様な仕草をして、和奏は少し照れたように微笑む。
「うん、いい映画だったね。和奏ちゃんは、どんなところが一番印象的だった?」
 優しく視線を返し、司紗は今一緒に観終わった映画の感想を彼女に訊いた。
「えっ? 私は……」
 和奏はそんな司紗の問いに、ふと少しだけ戸惑ったような表情をする。
 それから、ゆっくりと口を開いたのだった。
「私は女だから、あのヒロインの気持ちって本当はどうなのかなってすごく思ったの。ふたりの男の人に愛されて、最後はひとりは身を引いてひとりは自分の恋人となって……結果的にはハッピーエンドなんだと思うんだけどね。でも、その時のヒロインの気持ちってどうだったんだろうって。ヒロインが本当はどう考えていたのか、最後までそれは描かれなかったでしょう?」
「ヒロインの気持ち、か。和奏ちゃんはその時の彼女が、本当はどう思ってたと思うの?」
 司紗は小さく首を傾げつつ、和奏に再び問う。
 だが和奏は、左右に首を振った。
「私には分からないな……彼女は映画の中では何も言わなかったけど、よく考えたら彼女に選択の余地はなかったでしょう? 身を引いた男の人は、彼女に何も告げずに旅立ったんだから。何かすごくそのことを考えたら、胸がギュッと締め付けられるような、そんな感覚がしたんだ」
「…………」
 司紗はその言葉に、思わず言葉を切る。
 数週間前に雨京先生のことを封じて以来、周囲の人間から先生に関する記憶はすべて消されていた。
 隣にいる和奏も――例外ではなく。
 まるで最初から雨京真里という存在がなかったかのように、誰も今彼のことを覚えている者はいないのである。
 それは雨京先生の仕業なのか、元々そういう仕組みになっているのか、詳しいことは分からない。
 だが術を施した司紗にだけ、彼の記憶が残っていた。
 このまま何事もなければ、先生が次に目を覚ますのは何百年も先だろう。
 先生の妖気の大きさを考えれば、自分の封印をその力で破ることも可能かもしれないのだが。
 彼と最後に交わした会話の内容から、先生が自分で封印を破ることはなさそうである。
 何せ雨京先生自身が、自分で眠りにつくことを望んだのだから。
「和奏ちゃん」
 司紗はふと顔を上げ、真っ直ぐに和奏を見つめた。
 自分だけを映すその司紗の綺麗な瞳の色に、和奏は思わず顔を赤らめる。
 そんな彼女から視線を外さず、司紗はこう言ったのだった。
「僕はね、逆に恋人になった男の気持ちがよく分かるよ。好きな人のことを、一番近くで守ってあげたい。それが男として、当然の気持ちだと僕は思うから」
「司紗くん……?」
 いつになく真剣な眼差しの司紗に、和奏は瞳をぱちくりさせる。
 それから気を取り直してにっこりと微笑むと、そっと隣を歩く彼の手を取った。
「私もね、好きな人とずっと一緒にいたいと思うよ、司紗くん」
 司紗は嬉しそうに笑顔を返し、彼女の手をギュッと握り返す。
 あたたかい彼の手の感触に恥ずかしそうに頬を赤らめる和奏だったが、心の中は幸せでいっぱいだった。
 顔も綺麗で頭も良くて、その上すごく優しい。
 見ているだけで幸せだった高嶺の花の司紗が、今は自分の彼氏だなんて。
 司紗と付き合いだして数週間が経つが、まだ信じられない気持ちが強いのだった。
 ふたりは楽しく会話を交わしながら、繁華街の中心に向かって歩く。
 そして大きな本屋の前を通りかかった時、和奏は思い出したように言った。
「そうだ、ちょっと本屋さんに寄ってもいい? 参考書買おうと思ってたんだった」
「うん、いいよ。行こうか」
 和奏の言葉に頷き、司紗は彼女を伴って本屋の中へと歩を進める。
 和奏は参考書コーナーで自分の気に入るものを吟味しながらも、ふとおもむろに俯いた。
 そんな彼女の手にしているのは――古典の参考書。
 和奏は表情を変え、何かを考えるような仕草をする。
 何故だか分からないのだが、古典という教科が最近和奏は妙に気になっていたのだった。
 そんなじっと参考書を見つめている和奏の様子に気がつき、司紗は彼女に声を掛ける。
「どうしたの、和奏ちゃん? いい参考書あった?」
「え? あ、うん」
 彼の声に我に返るように顔を上げ、和奏は1冊の参考書を手に取る。
 それから、遠慮気味に司紗に訊いたのだった。
「ねえ、司紗くん……うちのクラスの古典って、ずっと山本先生だったっけ?」
「えっ?」
 和奏の問いに、司紗は少し驚いた表情を浮かべる。
 和奏はそれからすぐ、慌てたように首を振った。
「あっ、変なこと訊いてごめんね。ずっと山本先生だよね。何言ってるんだろ、私」
「…………」
 司紗は複雑な表情をして、どう言っていいのか答えに困る。
 今の和奏に、雨京先生の記憶はないはずなのに。
 だが、たまに彼女は、このように先生のことを思い出すかのような言葉を口にする時があるのだった。
 しかもそれは、日に日に多くなっていて……。
 司紗は漆黒の瞳を伏せ、ふっと小さく嘆息する。
 そんな彼の様子にも気がつかず、和奏はレジに向かいながら話を続けた。
「でも山本先生っておじいちゃん先生だから、時々何て言ってるか分からないことあるよね」
「うん、そうだね」
 微笑みを作って相槌を打ち、司紗は漆黒の瞳を細めた。
 和奏は先生と接していた時間が多かったため、きっと記憶の断片にそのことが残っているのだろう。
 そう思っていても、やはり彼女が先生のことを口にするたび、司紗は複雑だった。
 雨京先生を封印したことは、今でも全く後悔していない。
 術師として、ひとりの男として、和奏を守るためにやったことだから。
 例え先生があの時に自ら封印を望まなくても、司紗はあの日彼を封じるつもりだった。
 そして、結果的には妖狐である先生を封じた司紗だったが。
 だが和奏の心の中には、まだ雨京先生の存在が完全に消えてはいないのである。
 和奏はレジで会計を済ませ、司紗の隣に並ぶ。
「ごめんね、お待たせ」
 笑顔を宿し、和奏は司紗に視線を向けた。
 ――決して、目を惹くわけでも派手でもないが。
 見る人を不思議と安心させるような、そんな微笑み。
 心が癒されるようなあたたかさを、彼女から強く感じる。
 司紗は和奏を見つめ、そして改めて思ったのだった。
 誰でもない自分が、彼女のことを守ると。
「和奏ちゃん、おなか空かない? 何か食べようか」
 にっこりと穏やかな表情を浮かべ、司紗は和奏に言った。
 そして再び和奏の手をそっと取り、彼女と一緒に歩き出したのだった。



 それから和奏と司紗は、繁華街にある店に入って食事をした。
 食事中も、ふたりの会話は途切れることはない。
 ふたりで話していて、和奏はいつも司紗の頭の良さを感じていた。
 豊富な知識はもちろんであるが、人の言うことを真剣に聞いて、相手が続けて会話しやすいようなことを的確に返してくれる。
 司紗のそういうところがまた、和奏は好きなのであった。
 司紗は本当に自分には勿体無いくらいに、何でも揃っている人で。
 どうしてそんな彼が自分のことを好きなのか、本当に不思議なくらいだった。
 だが……司紗との関係を幸せに思う反面。
 自分の心の中に、釈然としない感情があることに和奏は気がついていた。
 それが一体何なのか、具体的には全く分からない。
 贅沢と言われても仕方がないほど今の自分は幸せで、何も不満なんてあるはずないのに。
 何かが確実に、心に引っかかっているのだ。
 ふと一瞬司紗との会話が途切れ、和奏は何気なく賑やかな繁華街の風景をその瞳に映す。
「あ、雨降ってきたね。よかった、天気予報見て傘持ってきて」
 ポツリポツリと降り出した雨を見つめ、和奏はそう口を開いた。
 今日は朝からあまり天気も良くなかったため、繁華街を歩く人たちも予め用意していた傘を次々と開き始めている。
 和奏は道を彩るたくさんの傘を見つめながら、ひとくちアイスティーを飲んだ。
 だが――その時。
「……!」
 突然瞳を大きく見開き、和奏はハッと顔を上げる。
 外を見ていた彼女が、ある何かに気がついたのだった。
 そんな彼女の目に映っているのは。
「天気雨……」
 黄金に輝く、天から降り注ぐ雨粒。
 パアッと雲間から一瞬太陽が顔を見せ、キラキラと落ちる雫を照らしている。
 その黄金の輝きは、何故か和奏の心を大きく揺さぶった。
 この感覚は、一体何なんだろうか。
 眩いばかりの黄金の光は、柔らかくてあたたかくて。
 そして……心地良くて、気持ちいいもの。
 和奏は窓の外をじっと見つめたまま、言葉を失う。
「和奏ちゃん?」
 外に目を向けて口を噤んでいる和奏の様子に気がつき、司紗は声を掛けた。
 和奏はようやく、視線を目の前の司紗に戻す。
 だがそんな彼女の表情は、先程までとは少し印象が変わっていた。
 そしてふっとひとつ小さく息をついた後、和奏はゆっくりと口を開く。
「私ね……ずっと、感じてたことがあるの。はっきりとは分からないんだけど、私は大切な何かをどこかに忘れてきてるんじゃないかって。そう、最近すごく思うんだ」
 司紗は和奏に漆黒の瞳を向け、黙って彼女の言葉を聞いている。
 司紗の様子を確認した後、和奏は話を続けた。
「パズルでね、あと最後の1ピースがはまれば完成して気持ちもすっきりするのに、その肝心の1ピースがない感覚っていうか……しかもそのピースは、すごく大切な部分で。私ね、その大切なピースを今どこかに忘れてる気がしてならないの」
「大切なピース……」
 和奏の言葉に、司紗はポツリとそう呟く。
 司紗には、和奏の記憶の欠片――大切なピースが何なのか、分かっていた。
 そして……彼女が、次に自分に言う言葉も。
 和奏はダークブラウンの瞳を、ふっと司紗に向けた。
「司紗くんは、ずっと前から私の憧れで。格好良いし頭もいいし優しいし、私には勿体無い彼氏で。一緒にいると、本当に幸せを感じるの。でもね……」
 そこまで言って、和奏は一瞬俯いて言葉を切る。
 だがすぐに顔を上げると、はっきりとこう告げたのだった。
「でもだからこそ、こんな中途半端な気持ちのままで、司紗くんと付き合ったりしちゃいけないって思うの。だから私、自分の忘れて来たものが何か、大切なものが何か、しっかりと見極めて知りたい。それに今なら、自分が忘れているものが何かを探し出せる気がするの。だから……ごめんなさい、司紗くん」
 司紗は決意に満ちた彼女の両の目を、じっと見つめる。
 和奏は見た目も性格も、慎ましやかで大人しい子である。
 だが、そんな彼女の内には、誠実で真っ直ぐな強い思いが秘められている。
 彼女を近くで見守って来た司紗には、そのことがよく分かっていた。
 司紗は漆黒の瞳を一瞬伏せ、ふっと一息つく。
 それから笑顔を宿し、いつも通りの穏やかな声で彼女に言ったのだった。
「和奏ちゃんがそう決めたのなら、僕は何も言わないよ。それに大切なものが分かった時、それがもし僕であるのなら、いつでも戻ってきて欲しいとも思ってるから」
「司紗くん……うん、ありがとう」
 和奏はいつの間にか溜まった涙を堪えながらも、司紗の言葉ににっこりと微笑む。
 それから彼に一度ぺこりと頭を下げて店をあとにすると、愛用の青空色の傘を差した。
 そして――どこかに忘れてきた記憶の欠片を探しに、雨の繁華街を歩き出したのだった。