第四章 黄金の天気雨



 第25話 さよなら

「和奏ちゃん、今度の日曜日どこかふたりで遊びに行こうか」
 穏やかな印象を受ける司紗の声を聞き、和奏は嬉しそうにコクンと頷く。
 同時に、ダークブラウンの髪が小さく揺れた。
 ――司紗と付き合い始めて、数日。
 朝の爽やかな風が吹く中、ふたりは学校への道のりを一緒に並んで歩いていた。
 和奏はこの数日間、今までにない幸せと充実感を強く感じている。
 何せ大好きで憧れだった司紗が、自分のすぐそばにいるのだから。
 しかも司紗は、自分のことを本当に大切に想ってくれているのが分かる。
 自分に彼は勿体無いと思いつつも、和奏はそんな司紗の誠意ある行動と気持ちが何よりも嬉しかった。
「あ、そういえば今日の一時間目って、何の授業だったっけ?」
 和奏はふと、司紗に訊いた。
 司紗はその言葉に、一瞬だけ綺麗な漆黒の瞳を細める。
 それから気を取り直すように微笑み、いつもの優しい印象の声でこう答えた。
「一時間目は古典だよ、和奏ちゃん」
「古典……」
 返ってきた答えを聞いた和奏は、思わず言葉を失ってしまう。
 古典担当の教師は、あの雨京先生だからである。
 司紗と付き合い始めたことを告げた日以来、先生は特に和奏に何も言ってこない。
 むしろ殆ど話をしたことがなかった、先生の正体を知る前に戻ったような状態で。
 あんなに呼び出されていた日々が、まるで嘘のようである。
 別に先生と恋人同士だったわけでもなければ、彼に恋心を抱いていたわけでもない。
 逆に、雨京先生のことは苦手だったはずなのに。
 自分に対して感心がなくなったように見える先生の様子に、和奏は何故か複雑な気持ちをおぼえていた。
 でも……これで、よかったんだ。
 和奏は自分にそう言い聞かせ、顔を上げる。
 そんな和奏の様子を見守っていた司紗は、整った顔に微笑みを宿し彼女に声を掛けた。
「それで今度の日曜日だけど、どこに行こうか?」
「司紗くんは、どこか行きたいところある?」
 少し考えた後、和奏は司紗に視線を向けた。
 司紗は彼女に笑顔を返し、漆黒の前髪をかき上げる。
 そして、和奏の耳元でこう言ったのだった。
「僕は和奏ちゃんと一緒だったら、それだけで幸せだよ」
 彼の吐息がふっと耳をくすぐり、和奏は照れたように顔を赤らめる。
 それからにっこりと笑って、嬉しそうに大きく頷いた。
「うん。私もだよ、司紗くん」
 司紗は風に吹かれて少し乱れた和奏の髪をそっと撫でてから、綺麗な漆黒の瞳を優しく細めたのだった。



 和奏は黒板をノートに取りながら、ひとつ小さく嘆息する。
 ――今は、1時間目の授業中。
 そして、教壇に立っているのは。
「この巻は、面白くも何ともないから全部省く。次、78ページをさっさと開け」
 相変わらず俺様ペースで授業を進める雨京先生の姿が、そこにはあった。
 その様子は、いつもと何ら変わらない。
 だがそんな彼の態度が、逆に和奏の心に引っかかっていた。
 司紗と付き合っていると言ったあの時、きっと先生に何か言われるだろうと。
 下手をすれば、司紗とドンパチ始めてしまうんじゃないかと。
 そう、思っていたのに。
『……好きにしろ』
 先生の口から出たのは、短いその言葉だけだった。
 自分に素っ気無く投げられた低い響きのバリトンの声が、頭から離れない。
 特に後ろめたいことなんて、何もないはずなのに。
 あの日以来、何故か先生の顔を真っ直ぐに見ることができない。
 そして雨京先生のブラウンの瞳に、今の自分は一体どう映っているのだろうか。
 ――そんなことを考えていた、その時。
「今日は17日か。んじゃ出席番号、17番。78ページを読んで訳せ」
 教科書を手に持ち、雨京先生は黒板の日付を見てひとりの生徒を指名する。
 だが、誰も立ち上がる気配はない。
 先生は眉を顰め、もう一度言った。
「ていうか、17番は誰だ? さっさと読んで訳せ」
「和奏、出席番号17番じゃなかったっけ?」
 和奏の隣の席に座っている生徒が小声でそう囁き、彼女の腕をそっと突付く。
 その声に和奏はハッと顔を上げ、驚いた表情を浮かべた。
 出席番号17番は、誰でもない和奏だったのである。
 慌てたように席を立ち、和奏は教科書を両手で持った。
 そして小さく深呼吸をした後、当てられた箇所を音読し始める。
「……ほととぎす、ありつる垣根のにや、同じ声にうち鳴く。慕ひ来にけるよとおぼさるるほども艶なりかし。いかに知りてかなど忍びやかにうち誦じ給ふ……」
 和奏は教科書を読みながらも、ちらりと雨京先生に視線を向けた。
 先生の表情は、特に何も変わった様子もない。
 そして教科書に目を落とす長い睫毛が、伏せ目がちなその瞳にかかっていた。
 ただ当てられただけなのに、何だか妙に意識して緊張してしまうのはどうしてだろうか。
 窓から差し込める太陽の光に照らされ、先生のブラウンの髪と真っ白な肌がまるで透き通って見える。
 性格は自己中心的な俺様体質であるが、その顔は美形というに相応しく整っていて。
 そして……思い出されるのは。
 自分のものにそっと重なる、柔らかな唇の感触。
 いつも強引ではあるが、先生のキスは不思議ととても優しい。
 口づけを重ねる度に、彼の身体から力強い黄金色の妖気を感じて。
 思わず目を奪われてしまうくらい、その光はキラキラと神秘的な輝きを放っていた。
 それに、背中を流れるような金色の髪と燃ゆるような真紅の瞳。
 黄金の光を纏う姿は神々しく綺麗で、不思議なあたたかさと心地良さを感じた。
 先生の正体である金色九尾狐は、悪妖のはずなのに。
 なのに、どうして……。
 ――その時だった。
 教科書を読んでいた和奏は、ふとその口を噤んでしまった。
 急に視界がぼやけ、突然の頭痛と眩暈が彼女を襲う。
 そして、ぐるりと世界が回るような感覚をおぼえた……次の瞬間。
「!」
 教科書に目を向けていた雨京先生は、おもむろにその顔を上げる。
 それに遅れ、教室内の生徒たちがザワザワと騒ぎ出した。
 ――和奏が、その場に倒れてしまったからである。
 周囲の席の生徒たちが、倒れた和奏の身体を起こそうと彼女に近づく。
 その時だった。
「……誰も、そいつに触るな」
 教壇からぽつりと聞こえてきたその声に、生徒たちは顔を上げる。
 声の主・雨京先生はそんな生徒たちに切れ長の瞳を向けると、続け様にこう言い放ったのだった。
「誰も触るんじゃねーって言ってるだろうがっ! さっさと席に着けっ」
 生徒たちは突然声を上げた先生の様子に、驚いた表情を浮かべる。
 だがそんな生徒たちの様子にも構わず、雨京先生はスタスタと和奏の元へと歩み寄った。
 そして彼女の身体を抱えると、短く言った。
「こいつを今から保健室に運ぶ。それまで自習だ」
 そう言い終わるやいなや、先生は足早に教室を出て行く。
「…………」
 そんな様子を険しい表情で見ていた司紗は、おもむろに席を立った。
 それから先生に遅れ、まだ異様にざわついている教室を出る。
「雨京先生」
 司紗は保健室へと向かっている先生に、咄嗟に声を掛けた。
 その声に先生はふと足を止め、振り返る。
「こいつは俺が保健室まで運ぶ。教室に戻れ」
「誰のせいで和奏ちゃんが倒れたと思っているんですか? 言いましたよね、貴方が彼女に近づくことを僕は許さないと。先生が和奏ちゃんに近づくことで、どれだけ彼女の身体に負担がかかるか……分かってますか?」
 キッと鋭い視線を投げる司紗に、先生は切れ長の瞳を向けた。
 そして、有無を言わせぬような威圧的な声で言った。
「白河、教室に戻れって言ってるのが聞こえないのか? おまえのことを今ここでぶち殺すのは簡単だがな、俺様がこの状態で妖気を使えば、和奏がどうなると思ってる?」
「…………」
 司紗はその先生の言葉に、漆黒の瞳を細める。
 先生に抱えられた和奏の身体への影響を考えると、ここで彼に妖気を使わせるわけにはいかない。
 司紗は納得いかない表情を浮かべつつも、その場で足を止めた。
 そんな司紗の様子を見た後、雨京先生は再び彼に背を向ける。
 そして、ゆっくりとこう彼に言ったのだった。
「……白河。今日の放課後、後で俺が指定する場所に来い。分かったな」
「え?」
 司紗は思いがけないその先生の言葉に、驚いた表情を浮かべる。
 そんな司紗を後目に、雨京先生は保健室へと歩き始めたのだった。



 ――保健室に雨京先生が着いた時、ちょうど保健医は不在であった。
 先生はそれを確認してから、和奏の身体をそっと保健室のベッドに下ろす。
 そして澄んだブラウンの瞳を、まだ意識の戻らない彼女に向けた。
「和奏……」
 突然倒れた和奏ではあったが、その表情はまるで眠っているかのように健やかである。
 先生はそんな彼女の様子を見た後、ベッドのそばに置かれている椅子に座った。
 シンとした静寂が、ふたりだけの保健室を包む。
 先生は何かを考えるように瞳を閉じ、ふっとひとつ息を吐いた。
 そんな彼の脳裏に蘇るのは……気が遠くなるほど昔の、ある記憶。
『雨京様』
 耳に響く、控えめな少女の声。
 特別目を惹くような美しい容姿では決してなかったのに。
 彼女の笑顔には、人の心をあたたかくする不思議な力があった。
 そしてそれは……まさに今目の前で眠っている和奏の微笑みも、同じで。
 柔らかく降り注ぐ木漏れ日のような、そんな安らぎを感じるのだった。
 先生は椅子から立ち上がると、和奏の前髪をふっと上げる。
 それから、ゆっくりと口を開いた。
「俺はおまえに、こう約束したな。おまえのことを守ってやると。だから……」
 雨京先生はそこまで言って言葉を切った後、ブラウンの瞳をおもむろに伏せる。
 その――次の瞬間。
 ふわりとひとつ、和奏の額に先生のキスが落とされる。
 彼女の柔らかな肌の感触と体温が、触れた唇から伝わる。
 雨京先生はその感触に瞳を細めてから顔を上げると、彼女の髪を優しく撫でた。
 そして眠っている和奏の顔を真っ直ぐに見つめ、こう言葉を続けたのだった。
「だから……これで、さよならだ」