第四章 黄金の天気雨



 第24話 揺れる想い

 昨日のことは、やはり夢ではないだろうか。
 制服のブラウスに腕を通しながら、和奏はひとつ息をつく。
 だって、どう考えても信じられない。
 あの司紗が……よりによって、自分なんかのことを好きだなんて。
 そんなに可愛くも派手でもなければ、特別頭がいいわけでもない。
 周囲を見回せば、自分よりも魅力的な女の子なんてたくさんいるのに。
 逆に司紗は容姿端麗で成績優秀という、非の打ち所のない優等生で。
 見ているだけで、声を掛けられるだけで、それだけで幸せだったのに。
 和奏はおもむろに、そっと唇に手を当てる。
 そしてふと俯くと、カアッと耳まで真っ赤にさせた。
 和奏の脳裏に蘇るのは――司紗との、キス。
 唇が重なる感触を思い出した瞬間、異様な程に胸の鼓動が早くなる。
 和奏は大きく深呼吸をし、何とか気持ちを落ち着かせようと息を吐いた。
 それから制服のリボンを結ぶと、自分の部屋から出たのだった。
 ――先生と学校をサボり、そして司紗から告白された、次の日の朝。
 和奏はまだ、夢でも見ているのかと思うくらい昨日の出来事が信じられないでいた。
 だが、そんな夢のような出来事は紛れもない現実だと。
 そう和奏が急に実感した、理由は。
「和奏ちゃん、おはよう」
 和奏の姿を見つけ、駅の改札口で彼女を待っていた司紗はにっこりと微笑む。
「おはよう、司紗くん。もしかして、待たせちゃった?」
 タッタッと駆け足で彼に近づき、和奏は時計を見た。
 司紗はそんな彼女の言葉に、大きく首を振る。
「ううん、僕も今着いたところだから。じゃあ、行こうか」
 彼の穏やかな声に大きく頷いて、和奏は彼の隣に並んだ。
 和奏は整っている司紗の顔を見つめながら、不思議な感覚をおぼえる。
 今までは高嶺の花で憧れだった司紗が、自分のすぐ隣にいて。
 そしてふたりの関係は……恋人同士なのだから。
 密かな恋心が、急に両想いに変わって。
 信じられないと同時に、心の中が幸せで満たされてドキドキと胸が高鳴る。
 彼とこうやって待ち合わせをして、一緒に登校できるなんて。
 和奏は楽しく司紗と会話をしながらも、学校へと軽い足取りで向かったのだった。
 そして――学校までの道のりが、こんなに短く感じたことは始めてで。
 気がつけばもう目の前が学校だったと言っても、全く過言ではないくらいだった。
 和奏は思わず緩む頬に手を添えた後、靴箱で靴を履き替える。
 それからすれ違う同級生たちと朝の挨拶を交わしながら、司紗とともに教室へと足を運んだ。
 そして、ふたりが階段に差し掛かった――その時だった。
「あ……」
 ふと顔を上げた和奏は、思わずその場で立ち止まってしまう。
 そんな、和奏の目に映るのは。
「雨京先生……おはようございます」
 印象的な切れ長のブラウンの瞳と、同じ色の髪。
 和奏は慌てたように、目の前の雨京先生に頭を下げる。
「おはようごさいます、雨京先生」
 漆黒の瞳を細め、司紗はさり気なく和奏の前に立って先生を見据えた。
 司紗の態度を見て気に食わないように眉を顰めた後、先生は和奏に視線を戻す。
 そして、こう言ったのだった。
「和奏、今日の昼休みに国語準備室に来い。分かったな」
「えっ? あ……」
 和奏が言葉を返すその前に、スタスタと雨京先生はその場から歩き出す。
 その後姿を見送りながら、和奏はどうしたらいいか困った表情を浮かべた。
 先生の言う通りに国語教室に行けば、またキスされたりするに違いない。
 昨日までならともかく、今は特定の恋人がいるのにそんなことはできないし。
 かと言って、行かなければ先生の機嫌を損ねてしまう。
 どうすべきかと悩む和奏に、司紗はふと目を向けた。
 そして、こう言ったのだった。
「昼休み、僕も一緒に先生のところに行くよ」
「え?」
 司紗の言葉に、和奏は驚いたように顔を上げる。
 司紗はふっと小さく嘆息し、続けた。
「僕も、雨京先生に言っておきたいことがあるし。心配しないで、和奏ちゃんは僕が守ってあげるから」
「うん……」
 司紗の申し出に頷きつつも、和奏は複雑な心境だった。
 穏やかに話がつくとは、到底思えないし。
 それに……。
 再び俯いて黙ってしまった和奏に、司紗は優しく笑顔を向ける。
 そして、優しく彼女に声を掛けた。
「教室に行こうか、和奏ちゃん」
 その言葉にもう一度頷き、和奏は司紗と並んで教室への階段を上り始めたのだった。



 ――その日の、昼休み。
 妙に緊張した面持ちで、和奏は雨京先生の待つ国語準備室へと向かった。
 朝言っていたように、隣には司紗もいる。
 司紗と一緒だと分かれば、先生はきっと不機嫌になるだろう。
 もしかしたら、司紗と戦闘になってしまうかもしれない。
 だが和奏の胸中にある複雑な気持ちは、そのことだけが原因ではなかった。
 何故だか分からないが……今、先生の顔を真っ直ぐに見られそうにない。
 雨京先生の切れ長の瞳を思い出すたび、ギュッと胸が締め付けられるような感覚に陥る。
 いつも行き慣れているはずの国語教室が妙に遠くに感じられ、心臓がドキドキいっていた。
「和奏ちゃん、大丈夫?」
 表情の堅い和奏の様子に気がつき、司紗は彼女の肩にそっと手を添える。
 その温かいぬくもりを感じ、和奏は我に返ったように顔を上げた。
 それから小さく笑顔を作り、司紗に向ける。
「うん、心配してくれてありがとう。大丈夫だよ」
 司紗はその言葉を聞いて綺麗な顔に微笑みを宿し、漆黒の瞳を細めた。
 そして。
 隣を歩く和奏の手を、そっと取る。
 急に司紗の手の感触が伝わり、和奏は一瞬驚いた表情を浮かべた。
 だが、すぐに彼の手を握り返す。
 司紗の優しい心遣いが、和奏はすごく嬉しかった。
 特別教室のある別館校舎は、昼休みだというのに人の姿は殆どない。
 ふたりは手をつないだまま、国語準備教室の前までやってくる。
 和奏の盾になるように位置を取った後、司紗はドアをノックした。
 返事はなかったが、雨京先生はおそらく中にいるだろう。
 司紗はゆっくりとドアを開け、それからはっきりとこう口を開いた。
「雨京先生。お話があるんですけど」
 先生は国語準備室の中で、いつも通り椅子に座って仕事をしていた。
 それからゆっくりと振り返り、司紗に黙って切れ長の瞳を向ける。
 司紗は先生の動きに注意を払いながらも、続けた。
「僕と和奏ちゃんは、昨日から付き合い始めたんです。だから、今後一切彼女には近づかないでください」
 司紗のその言葉に、先生はスッと瞳を細める。
 そして司紗にではなく、和奏に訊いたのだった。
「和奏、本当か?」
「本当ですよ、先生。これ以上、和奏ちゃんにちょっかいかけないでいただけませんか?」
 先生に鋭い視線を向け、司紗はすかさず和奏の前に立つ。
 そんな司紗に、先生は気に食わない表情を浮かべた。
「おまえに訊いてるんじゃねーよ。俺は、和奏に訊いてるんだ」
 そう言った後、先生は再び和奏に目を向ける。
 和奏は自分を映すその瞳を、何故か真っ直ぐに見ることができなかった。
「和奏ちゃん」
 司紗は何かを躊躇っているような和奏に、優しく声を掛ける。
 そして和奏はようやくゆっくりと顔を上げると、先生の問いにこう答えたのだった。
「はい、本当です。私、司紗くんと付き合ってます……」
 ……どうして、こんなに胸が痛いんだろうか。
 和奏は胸に手を当て、先生から思わず目を逸らしてしまった。
 先生は今、どんな表情で自分を見つめているのか。
 その印象的な両の目は、今どんな自分の姿を映しているのか……。
 国語準備室に、一瞬静寂が訪れる。
 だが和奏には、異様なくらい鼓動を早める自分の心臓の音がバクバクと聞こえていた。
 ――その時。
「……好きにしろ」
 静寂を破ったのは、雨京先生の短い一言。
「え?」
 先生の思いがけない言葉に、和奏は驚いた表情を浮かべる。
 司紗は漆黒の瞳を先生に向けたまま、彼に言った。
「先程も言いましたが、今後貴方が和奏ちゃんに近づくようなことがあったら、許しませんから」
「勝手にしろって言ってんだろーが。話が終わったんなら、さっさと教室に帰れ」
 先生はそれだけ言うと、ふたりに背を向ける。
 そして、再び仕事の続きを始めたのだった。
 司紗はそんな先生の様子を確認すると、隣にいる和奏を優しく伴ってドアを開ける。
 和奏は司紗とともに、国語準備室の外へと出た。
「…………」
 あの先生のことだから、そう簡単に話が通るはずないと思っていたのに。
 先生は動きをみせるどころか、何も言う事さえしなかったのだ。
 むしろ何事もなかったことは、喜ばしいことなはずなのに。
 なのに……この心の中にある、微妙な感情は何なのだろうか。
 ずっと好きだった司紗とも結ばれて、先生と司紗も特に波風立たなかったなんて。
 これ以上のことが、何かあるとでもいうのだろうか。
 これで、よかったんだ。
 和奏はそう思い直しながらも、ふと国語教室を振り返る。
 それから気を取り直したように前を向き、司紗とともに教室へと向かった。
 司紗はそんな和奏の様子を、何も言わずにじっと見守っている。
 そして周囲に人がいないことを確認すると、再び和奏の手をそっと握ったのだった。