第四章 黄金の天気雨



 第23話 特別な人

 ――あれから、どのくらい経っただろうか。
 ゆっくりと目を覚まして瞳を開き、和奏は数度瞬きをする。
 自分が今何処にいるのか、それを思い出すのに数秒の時間を要した。
 それから誰かの視線を感じて、ふと横を向いた。
「あ……」
 和奏は次の瞬間、思わず言葉を失ってしまう。
 自分をじっと見つめているのは、切れ長のブラウンの瞳。
 雨京先生の両の目は和奏の姿だけを映しており、吸い込まれそうな神秘的な色を湛えていた。
 途端にドキドキと胸の鼓動が早くなり、和奏は急に恥ずかしくなって俯いてしまう。
 先生はふっとひとつ嘆息して瞳を細めた後、車にエンジンをかけた。
「究極に間抜けな顔して寝てたぞ、おまえ。髪だってボサボサもいいところだしな」
「まっ、間抜けな顔って……」
 和奏はカアッと顔を赤らめた後、慌てた様子で目を擦り、手櫛で髪を撫でる。
 そんな彼女の頭にぽんっと手を添え、雨京先生はニッと悪戯っぽい笑みを宿した。
「おまえ、この俺様の車で爆睡なんて、いい度胸してるじゃねーか。ていうか、何やっても起きる気配全くないしよ」
「……ええっ!?」
 和奏はその先生の言葉に声を上げ、大きく瞳を見開く。
 自分が寝ている間、何があったというのだろうか。
 アタフタと動揺する和奏の様子に、先生はふっと笑う。
 そして車を発進させ、言ったのだった。
「バーカ。何慌ててんだ、寝込みを襲うなんて野暮なことしねーよ。襲うなら、堂々と襲うからな」
「ど、堂々とって……」
 それもどうよと思いつつも、とりあえず和奏はホッと胸を撫で下ろす。
 先生はそんな和奏にちらりと視線を向け、再び笑みを浮かべた。
「何だ、襲って欲しかったか? 心配するな、後でちゃんと襲ってやる」
「な……っ」
 誰がいつ、襲われたいなんて言ったというのか。
 何よりも、本当に言ったことを実行しそうなのが怖い。
 とは言うものの、この車の中という状況下ではもうどうしようもない。
 はあっと大きく嘆息した後、和奏は諦めたように再び流れ出した窓の外の景色を見つめた。
 それから、ふと隣の先生に訊いた。
「あの、雨京先生。今からどこに行くんですか?」
「あ? 俺様の行きたいところに行くって言っただろーが」
 いや、それは分かっているのだが。
 相変わらず、行き先は決まっていないということだろうか。
 そう首を傾げた和奏に、先生はこう続けたのだった。
「おまえが間抜け面で爆睡してるの見たら、俺も眠くなったじゃねーかよ。責任取れ」
 それって、私の責任なのだろうか。
 それ以上に、間抜け面って……。
 そんなに自分は間抜けな顔をして、寝ていたのだろうか。
 さり気なくバックミラーで身だしなみを整えた後、和奏は運転している先生に視線を移す。
 先程よりも高い位置に移動した太陽の光が、先生の綺麗な髪や瞳をキラキラと照らしている。
 そして先生の向こう側に見える街並みは、普段見慣れたものと違う表情をしていた。
 平日の午前中の街なんて、そう言えば滅多に見ることができない。
 休日は老若男女がひしめいて賑やかな風景も、今はスーツ姿のサラリーマンの姿が目立つ。
 サボりという行為は、確かに悪いことではあるのだが。
 他の人が学校や仕事の日に自分だけ休むと、妙にワクワクしてしまう。
 それに、一応自分は病欠扱いになっているらしいし。
 和奏はそう思い直して小さく微笑み、窓の外を興味深そうに見つめていた。
 そして。
 そんな和奏の様子を、雨京先生はただ黙ってじっと見守っていたのだった。



 ――それから、数分後。
 先生の車から降りた和奏は、ある場所にいた。
 ここは、以前にも来た事がある。
 雨京先生の、お気に入りの昼寝スポット。
 以前も先生に連れて来られた、小ぢんまりした稲荷神社。
 相変わらずお宮に参ることも一切せず、雨京先生は前と同じ境内にドカッと腰を下ろす。
 和奏は一通りお稲荷様に手を合わせた後、頬を優しく撫でる風の気持ち良さに微笑んだ。
 それから、いいのかという程リラックスしている先生に目を向ける。
 狐を奉っている稲荷神社なだけあって、狐の先生には居心地良い場所なのだろうか。
 そう思いながらも、和奏は木々の間から射し込める木漏れ日に瞳を細める。
 狐である先生にとって、安らぎであるこの場所。
 だがそれは、先生にとってだけではなかった。
 不思議とこの場所の空気は澄んでいて、心が洗われるような感じがする。
 大きく深呼吸しながら、和奏もそんな感覚をおぼえていたのだった。
 その時。
「何やってんだ、早く来い」
 先生に急かされ、和奏は言われた通りおそるおそる彼のそばに近づく。
「おい、意味のないお参りはもう終わったか?」
「意味のないって……だって、ここのお稲荷様に敬意を払わないと」
「あ? ここの稲荷なんかに敬意を払う時間があったらな、この俺様を敬え。分かったな」
 相変わらず有無を言わせぬ調子でそう言った後、先生はふっと瞳を細めた。
 そして。
「! きゃっ」
 急にぐいっと腕を引かれ、和奏は体勢を崩す。
 雨京先生はそんな彼女の身体を自分の胸で受け止めると、ニッと笑った。
 それから、トーンを落とした声で耳元でこう囁いたのだった。
「約束通り襲ってやる。有難く思え」
「なっ、な、何言ってる……んっ」
 和奏の言葉を遮るかのように、先生のキスが彼女の唇を覆う。
 一瞬大きく目を見開いた和奏だったが、すぐにそのキスの気持ち良い感覚に瞳を閉じた。
 先生はそんな反応を確かめた後、大きな手を和奏の頭に添え、自分の舌を彼女のものと絡める。
「! ん……せ、先……っ」
 涙の溜まった瞳を薄っすらと開き、和奏は声を漏らした。
 だが雨京先生は、顔を真っ赤にさせる彼女の反応を楽しむかのように、容赦なく彼女の潤った唇にキスを落としていく。
 和奏は頭がクラクラするような感覚に陥りながらも、抵抗する余裕もなく先生の口づけをただ受け入れていた。
 そしてようやく和奏から唇を離した雨京先生は、ギュッと和奏の小さな身体を抱きしめる。
 先生のぬくもりが全身を包み込み、和奏の体温はさらに上がる。
 雨京先生は綺麗な顔に笑みを浮かべると、わざと彼女の耳に息を吹きかけるように言った。
「……随分気持ち良さそうな顔してるな、和奏」
 ふっと耳をくすぐる吐息と、よく響く低いバリトンの声。
 和奏はその感触に、思わずビクッと反応を示してしまう。
 それと同時に感じたのは、軽い眩暈と世界が回るような感覚。
 和奏は先生の胸に身体を預けるように、彼にもたれかかった。
「…………」
 雨京先生はふとそんな和奏を見つめたまま、言葉を切る。
 それから優しく彼女の髪を撫でると、より強くその小さな身体を抱きしめた。
 そして。
「和奏……おまえは、この俺様のことが怖くないのか?」
「え?」
 いきなりそう訊かれ、和奏は顔を上げる。
 それから少し考えるような仕草をすると、彼の問いに答えたのだった。
「先生の正体を最初に見た時はすごく驚きましたけど、怖いとは思ったことないかな……」
「おまえな、俺様は悪妖だぞ? 少しは怖がれ」
 和奏の答えを聞いて、先生はふっと瞳を細めながらそう言葉を返す。
 和奏はそんな先生ににっこりと微笑み、こう続けたのだった。
「でも先生は、私との約束もちゃんと守ってくれてるでしょう? 悪妖なのかもだけど、悪って感じはしないし」
 少し、いや、かなり強引なところはあるけれど。
 先生の切れ長の瞳は不思議と綺麗に澄んでいて、悪妖のものとは思えない。
 自分との約束も、きちんと守っていてくれている。
 それに先生の身体に宿る黄金色の光は、怖いどころか神々しいまでに綺麗で。
 何よりも……先生が自分に与えるキスは、とても優しい。
 雨京先生は和奏を抱きしめたまま、ニッと悪戯っぽい笑みを宿した。
「んじゃ今から悪妖らしく、おまえを押し倒して襲うか?」
「えっ!? い、いえっ。遠慮します……」
「遠慮しなくていいんだぞ。ま、おまえが遠慮しても、俺様は遠慮しないけどな」
「先生、冗談は……っ!」
 途端に強い力で身体を押されたと思った瞬間、気付けば和奏は文字通り先生に押し倒された状態になっていた。
 和奏は驚いた表情を浮かべつつ、迫ってくる先生の綺麗な顔にドキドキしてしまう。
 そして……そっと優しく、先生の唇が再び和奏のものと重なった。
 これから何をされるのだろうと思いつつも、和奏は羽のような柔らかいキスに頬を赤らめてしまう。
 だが雨京先生はそれから、何を思ったのかふと彼女から離れる。
 そして、こう言ったのだった。
「何て格好してるんだ、おまえ。あーていうか眠い、俺は寝る」
 何て格好って、自分がこんな格好にしたんじゃないか。
 和奏は瞳をぱちくりさせながらも、ゆっくりと上体を起こす。
 それから少しだけ乱れた制服を整え、ブレザーのリボンを結び直した。
 ――その時だった。
「……っ、きゃっ!」
 再び急に腕を引かれ、和奏は先生の腕に捕まる。
 雨京先生は和奏を捕まえたまま、背後の柱に背中をもたれた。
 そしてブラウンの瞳を閉じて数秒後、スースーと寝息を立て始めたのだった。
「相変わらず、早すぎ……」
 しっかりと身体を抱きしめられた状態のまま、和奏は即行で寝てしまった先生の顔をちらりと見つめる。
 美形の先生の顔が木漏れ日に照らされて、より綺麗に和奏の瞳に映った。
 和奏は先生の寝顔にふっと微笑んだ後、そっと目を伏せる。
 そして。
「…………」
 おもむろに雨京先生は、そんな和奏の身体を強く自分の胸の中に引き寄せたのだった。



 ――時間は、いつの間にか夕方になっていた。
 あれから神社で昼寝をした後、ふたりは昼食を取ったりすべく車で移動しながらも、先生の気が向いたところに立ち寄ったりしたのだった。
 そして気がつけば、いつも学校が終わるくらいの時間になっていた。
 朝、車に乗せられた駅前まで送ってもらってから、和奏はひとり家までの道を歩く。
 家まで送ってもらおうかと思った和奏だったが、もしも家の前で家族に見られてしまっては言い訳しようがない。
 それよりも家では、今日学校に行ったかのように振舞わなければならない。
 今まで学校をサボった経験などない和奏は、妙にドキドキしていた。
 ……その時。
 急にブルブルとポケットに入れていた携帯電話が鳴り出し、思わず和奏は驚いたような表情を浮かべる。
 それからひとつ深呼吸をした後、受話ボタンを押した。
「もしもし?」
『あ、和奏ちゃん。今、大丈夫?』
 耳に聞こえてきたのは、穏やかな声。
 和奏はハッとその声の主に気がつき、瞳を大きく瞬かせる。
「つっ、司紗くんっ。う、うん、大丈夫だよ」
 電話をかけてきたのは、司紗だった。
 慌てる和奏とは逆に、彼は優しく言葉を続ける。
『今日、和奏ちゃん病欠だったから……体調どうかなって思って』
「体調? あ、うん、体調は何ともないの。心配かけてごめんね」
 そういえば、今日の欠席は病気ということにしていると先生は言っていた。
 そのことを思い出し、和奏は司紗の言葉に答える。
 司紗はそんな和奏の様子に、ふと続けてこう訊いたのだった。
『体調は何ともないって……それに今、外にいるの?』
「え? う、うん。ていうか、実はね……」
 何だか学校を休んだ理由を隠していられなくなり、和奏は司紗に今日のことを正直に話してしまう。
 それを黙って聞いていた司紗は、何かを考えるように言葉を切る。
 それから、こう口を開いたのだった。
『和奏ちゃん、今どこにいるの? もし体調が悪くないのなら、和奏ちゃんと話がしたいな』
「うん、大丈夫だよ。今ね、家の近くの駅前にいるよ」
『僕ももう学校の近くの駅だから、じゃあそこに行くよ。少し、待っててくれないかな』
「分かった、駅前にいるね」
 思わぬ司紗の申し出に、和奏は表情を緩める。
 学校を欠席したため、今日は大好きな司紗には会えないと思っていたのに。
 和奏はショーウインドウに映る自分の姿を見つめながら、身だしなみを整える。
 そして、司紗が到着するのを今か今かと待ったのだった。
 ――その、数分後。
「ごめんね、和奏ちゃん。お待たせ」
「ううん、私こそごめんね。ここまで来てもらっちゃって」
 現れた司紗に、和奏はにっこりと微笑む。
 それからふたりは、並んで歩き出したのだった。
 ふたりはしばらく世間話をしながら歩いた後、近くの公園のベンチに座る。
 司紗はふっとひとつ息をついてから、隣に座っている和奏に漆黒の瞳を向けた。
 その視線に気がつき、和奏の心拍数が急激に上がる。
 先生の顔も魅力的な美形だが、また司紗の顔立ちは印象が全く違う。
 上品で穏やかで、物腰柔らかな印象。
 まさに今、自分好みの彼の綺麗な顔がすぐ近くにあるのだ。
 そう思うと、和奏は真っ直ぐ司紗に視線を返せないでいた。
「和奏ちゃん」
 ふと司紗の声が、自分の名を呼ぶ。
 和奏は異様に高鳴る胸を押さえながらも、顔を上げた。
 司紗は優しく漆黒の瞳を細め、言葉を続ける。
「今日、ずっと雨京先生と一緒だったんだよね? 大丈夫だった?」
「あ、うん。術師の司紗くんが心配なのは分かるけど、平気だったから」
「…………」
 その和奏の言葉に、司紗は俯いて複雑な表情を浮かべた。
 和奏は、そんな司紗の様子に小さく首を傾げる。
 それから司紗は、再び和奏に目を向けた。
 そして。
「和奏ちゃん。確かに僕は術師で、妖怪の先生に付きまとわれている君を放ってはおけなかった。でも今は……術師だからとか、そんなこと関係ないんだ」
「え?」
 自分に向けられた彼の真剣な眼差しにドキドキしながらも、和奏は瞳をぱちくりさせる。
 司紗は真っ直ぐに和奏を見つめながら、こう言葉を続けたのだった。
「術師とか関係なく、ひとりの男として僕は和奏ちゃんのことを守ってあげたいんだ。和奏ちゃんは僕にとって、特別な人だから」
「と、特別な人って……」
 思いもよらない司紗の言葉に、和奏は驚いた表情を浮かべる。
 だが次の瞬間、さらに和奏にとって信じられない言葉が耳に響くのだった。
 司紗はおもむろに腕を伸ばし、和奏の身体を優しく自分の胸に引き寄せる。
 そして、彼女にこうはっきりと告げたのだった。
「和奏ちゃんのことが、好きなんだ。もう、雨京先生のところになんか行かせないから」
「……えっ!? つっ、司紗くん!?」
 これは、何かの夢だろうか。
 憧れの司紗が、自分なんかに告白するなんて。
 そんなこと、有り得ない。
 そう思いながらも、和奏は司紗の体温を全身で感じ、耳まで真っ赤にさせる。
 そしてあまりの出来事に、完全に身体が固まってしまっていた。
 ――その時。
 司紗はおもむろに和奏から手を離すと、こう口を開く。
「いきなりこんなこと言って迷惑だったよね、ごめんね。でも、僕の気持ちを知って欲しかったから」
「え? あ……」
 和奏はその司紗の言葉で、いつの間にか自分が泣いていることに気がついた。
 思いがけない告白に驚いたからか、それとも想いが通じて嬉しかったのか。
 自分でも、どうして泣いているのか分からなかった。
 和奏の意思とは関係なくポロポロと零れる涙を、司紗はそっと指で拭う。
 それから、申し訳なさそうにもう一度言った。
「ごめん、和奏ちゃん」
 和奏はそんな司紗に、大きく首を振る。
「……うの、司紗くん」
「え?」
 涙でかすれている和奏の声に、司紗は顔を上げた。
 和奏は一生懸命に、言葉を続ける。
「違うの、司紗くん。私ね、ずっと前から……ずっと前から、司紗くんのことが好きで……それで、司紗くんにあんなこと言ってもらえたなんて、夢見たいで……私にとっても、司紗くんは特別な人だから……」
 途切れ途切れになりながらも、和奏は今まで伝えられなかった気持ちを彼に告げた。
 司紗はその言葉に少し驚いた表情をしたが、すぐにその顔に笑顔を宿す。
 そしていつもの穏やかな声で、彼女に言ったのだった。
「和奏ちゃん、こっちを向いて」
 司紗の声に、和奏はふっと顔を上げる。
 ――その、次の瞬間。
 和奏の唇に……司紗の唇が、そっと遠慮気味に重なる。
 初々しい、本当に少し触れるくらいの軽い口づけ。
 だがそれだけでも、和奏の気持ちを満たすのには十分だった。
 そして司紗は和奏をギュッと抱きしめ、彼女の耳元で囁く。
「これからは僕が、君のことを守るよ」
 和奏はそんな司紗の言葉に、ただ頷くだけで精一杯だった。
 だがその心は、まるで夢でも見ているのかと思ってしまうほどに幸せで一杯で。
 そして和奏は少し照れたように顔を真っ赤にさせながらも、彼の胸の中にそっとその身体を預けたのだった。