第四章 黄金の天気雨



 第22話 強引エスケープ

 和奏は登校前に一度鏡に目をやり、ダークブラウンの髪をそっと撫でる。
 そしてちらりと腕時計で時間を確認した後、家を出た。
「行って来ます」
 一歩外に出た瞬間、さらりと和奏の頬を朝の爽やかな風が吹きつける。
 眩しい太陽の光に瞳を細めてから、和奏はゆっくりといつも通り学校へと向かう道を歩き出した。
 そんな駅までの道のりの途中、おもむろにふっと小さく嘆息する。
 最近、本当にいろいろなことがありすぎて。
 今日一日こそは、何事もない平穏な生活を送れるだろうか。
 和奏はそう思いつつ、風に揺れる髪を耳にかける。
 決して、今のような慌しい日々が嫌なわけではないのだが。
 ただ、本当に一度にいろんなことが起こりすぎて。
 何が日常で何が非日常なのか、感覚が麻痺してきているような気がする。
 和奏は制服の胸ポケットから、ふとあるものを取り出した。
 そしてそれを見つめ、嬉しそうに微笑む。
 彼女の手にしっかりと握られているものは――司紗から貰った、お守り。
 憧れの彼と話ができるだけで、その綺麗な顔を見ているだけで、和奏は幸せだった。
 しばらくお守りを見つめた後、和奏は再びそれを大事そうにしまう。
 それから、おもむろに俯いた。
 今日もいつも通り、雨京先生に呼び出されるのだろうか。
 そう思った、瞬間。
 和奏の脳裏に蘇るのは――自分を見つめる、ブラウンの瞳。
 思わず惹きこまれそうな、魅力的な両の目。
 毎日のように向けられている先生の真っ直ぐな視線に、和奏は未だ慣れずにいた。
 いつ向けられても、心臓が急速に鼓動を早めて。
 カアッと顔が真っ赤になっているのが、自分でも分かる。
 どうして、こんな気持ちになるのだろうか。
 先生の顔は確かに綺麗で、整っている。
 でもどちらかといえば、雨京先生のようなタイプは苦手なはずなのに。
 なのに……どうしてこんなに、胸がドキドキしているんだろう。
 和奏は気を取り直したようにハッと顔を上げ、落ち着くためにひとつ深呼吸をする。
 とにかく、今日も先生に呼び出されることは容易に想像できる。
 先生に呼び出されるのは構わないから、平和に一日が終わりますように。
 大好きな司紗と先生が、また戦ったりする状況になりませんように。
 和奏はそう、心の中で願ったのだった。
 それからしばらく静かな住宅地の道を歩いた後、駅に向かうべく大通りに出た。
 昨日少しだけ夜更かししたためか、和奏はふわっとあくびをする。
 そして少し瞳に溜まった涙を拭い、ブレザーのリボンをキュッと整えた。
 ――その時だった。
「……あれ?」
 和奏はふと立ち止まり、瞳を瞬きさせる。
 それから足を止め、きょとんとした表情をした。
 そんな彼女の瞳に映っているのは……少し珍しい色の、一台の車。
 その車に、和奏はものすごく見覚えがあった。
 突然和奏のすぐ横で止まったのは、サンセットオレンジのフェアレディーZ。
 おもむろに、運転席のドアが開いた。
 そして。
「乗れ」
 短くそれだけ言うやいなや、その車の持ち主――雨京先生は運転席へと戻る。
 和奏は相変わらず唐突に現れ、その上に有無を言わせぬ先生の言葉に、驚いた表情をした。
 だがその強引さに、思わずこくんと頷く。
 どうして先生が、こんなところにいるのだろう。
 そう疑問に思いながらも、和奏は言われた通りに彼の車の助手席に乗った。
 偶然に出勤途中、自分を見つけて拾ってくれたのか。
 首を傾げながらも、和奏は横目で運転席の雨京先生を見た。
 窓から差し込める朝の光を浴び、彼の真っ白な肌とブラウンの髪が、より透明感を増す。
 真っ直ぐ前を見つめるつり上がった瞳は、とても神秘的で。
 和奏は流れ始めた景色にも気づかず、思わず先生の綺麗な顔に見惚れてしまった。
 視線を感じ、先生はちらりと和奏に振り向く。
 それからニッと悪戯っぽく笑うと、こう口を開いた。
「何だ、そんなに朝から俺に会えたのが嬉しかったか?」
 その先生の言葉に、和奏は途端に顔を赤くする。
 確かに、先生の綺麗な顔に目が釘付けになってしまったのは事実だが。
 嬉しいとか嬉しくないよりも、急に先生が現れて驚いたという気持ちが一番大きい。
 ていうか、何で先生がここにいるんだろうか。
 改めて疑問に思い、和奏はもう一度首を捻る。
 そして、ようやく窓の外の風景に目を移したのだった。
 だが……それから数分も経たずして。
「えっ!?」
 和奏は、瞳を大きく見開いて思わず声を上げる。
 それから、慌てて雨京先生に訊いた。
「あの、先生っ。学校の方向、反対じゃないですか?」
 おそるおそるそう聞いた和奏に、先生は再びブラウンの瞳を向ける。
 全く表情を変えず、先生は彼女の問いにこう答えたのだった。
「あ? 誰が学校に行くって言った? 今日は、学校には行かねーよ」
「が、学校に行かないって……!?」
「決まってんだろ、今日はサボる」
 何事もないようにサラリとそう言った先生に、和奏は再び声を上げる。
「さ、サボるってっ。そんなこと、いいんですか!?」
「いちいち心配すんじゃねーよ。おまえのことは、ちゃんと病欠ってことにしてるからな」
「病欠って……いや、そういう問題じゃなくてっ」
 勝手にこの人は、何をしてるんだ。
 第一、教師が生徒をサボらせるなんて、そんなこといいんだろうか。
 いや、良くないに決まっている。
 もしもこのことがバレたら、自分は退学になるかもしれない。
 真面目な和奏は、どうすればいいのか分からずにソワソワと落ち着かない。
 逆に先生は相変わらず表情を変えず、和奏のそんな様子に嘆息する。
「このくらいのことでビビってんじゃねーぞ。むしろこの俺と一緒にサボれるんだ、有難く思え」
 いつも通りの、先生のこの口調。
 いくら何を言っても、この人は学校をサボるんだろう。
 しかも、自分も一緒に。
 先生の性格をよく知っている和奏はそう思い直し、諦めて大人しく口を噤んだ。
 サボリと言っても、一応病欠ということになっているらしいし。
「あの、先生。それで今から、どこに行くんですか?」
 和奏はひとつ溜め息をついた後、そう訊いた。
 先生はその問いに、当然のように答える。
「決まってるだろーが。この俺が、行きたいと思ったところに行く」
「…………」
 要するに、行き先は決まっていないらしい。
 そう理解し、和奏は仕方なく窓の外に目を向ける。
 外には、制服姿の学生やサラリーマンが通勤通学する姿が見える。
 自分も本来なら、あの流れに身を任せて学校へと歩いていただろう。
 でも今自分は、雨京先生の車の中にいる。
 サボリという行為に少しの罪悪感を感じながらも、和奏は不思議とワクワクするような感覚もおぼえていた。
 和奏は開き直るように、ふと表情を和らげる。
 それから改めて、朝の街の風景を瞳に映した。
 それと同時に、車内にシンとした静寂が訪れる。
 だがその静寂は、決して気まずいものではない。
 先生と和奏はふたりでいることは多いのだが、交わされる会話は普段からそれ程多くはなかった。
 それでも先生は特に不満を言うこともないし、積極的に自分から話しかけることもしない。
 和奏が自分のそばにいるだけで、とりあえず満足そうなのである。
 元々あまり口数の多いタイプではない和奏も、そんな程良い間が逆に楽でもあったのだった。
 和奏は賑やかな駅前の景色を、じっと見つめている。
 それから手を口に当てて、ひとつあくびをした。
 青空には太陽がサンサンと輝き、その陽光が車内に差し込んでいる。
 そのポカポカとした心地良いぬくもりが、和奏の眠気を誘った。
 車の微妙な揺れがまた、とても気持ちよくて。
 和奏は軽く瞳を擦りながらも、そっとブラウンの髪をかき上げる。
 雨京先生の車は、しばらく目的もなく朝の街を走り続けていた。
 そして――その数分後。
 先生はふと、助手席で大人しくしている和奏に視線を向ける。
 それからおもむろに、路肩に車を止めたのだった。
「…………」
 ブラウンの前髪をかき上げた後、先生は隣の和奏を黙って見つめる。
 その瞳に、映っているのは。
 いつの間にか眠ってしまった、和奏の姿。
 そんな彼女を敢えて起こさずに、先生はふっと瞳を伏せた。


 ――あれは、どのくらい前だったろうか。
 瞼の裏に蘇るのは……遠い昔の、懐かしい風景。
『おまえ、この俺様が怖くないのか?』
 そんな問いかけに、あの時隣にいた彼女は笑う。
 彼女は決して派手ではないが、穏やかで慎ましやかで、何よりも自分に従順だった。
『雨京様、どうして急にそんなことをおっしゃるのですか?』
 逆にそう問われたが、敢えて彼女に何も言わなかった。
 そんな自分の様子を確認した後、彼女はこう言葉を続ける。
『雨京様、貴方を怖がっている女子が、貴方様のおそばで安心して眠ることができるとお思いですか? 私たちは、もう幾夜共に過ごしたか分かりません。そうではありませんか?』
 そう言って、彼女は柔らかな微笑みを浮かべた。
 誰もが振り返るような美女とは、お世辞でも言えなかったが。
 その愛らしい笑顔は、見る者を安心させるようなあたたかさがあった。
 そして……それは、不思議と。
 今まさに自分の隣で眠っている、和奏のものと重なるのだった。


「…………」
 雨京先生は、スッと閉じていた瞳を開ける。
 その後、助手席で小さく寝息を立てて眠っている和奏に目を向けた。
 先生は何かを考えるように、しばらく健やかな和奏の寝顔をじっと見つめていた。
 それからおもむろに手を伸ばし、彼女を起こさないように軽く髪を撫でる。
 そして。
「和奏……」
 雨京先生は、再びその瞳を閉じた。
 その、次の瞬間。
 先生の唇が、ふわりと彼女のものを覆う。
 彼女の眠りを妨げない程の……羽のように軽い、口づけ。
 雨京先生の優しく甘いキスが、和奏の唇にそっと落とされたのだった。
 あたたかい太陽の光と、柔らかな唇の感触。
 その何とも言いようのない心地よい感覚に、和奏は眠ったまま小さく微笑みを宿す。
 そして雨京先生は車を止めたまま、そんな彼女の顔を満更でもなさそうに黙って見守っていたのだった。