第三章 天翔ける神獣



 第20話 黄金の神獣

 和奏は聖から視線を外し、ちらりと倒れている雨京先生に目を向けた。
 先程まで青かった空も、いつの間にか赤に染まり始めている。
 夕陽に照らされ、地に広がる流れるような先生の金色の髪も、ほのかな紅を帯びていた。
 聖は息子を見つめる和奏の様子にふっと笑って、それから言った。
「えーっと、何から話そうか?」
 そんな聖の言葉に反応したのは、司紗だった。
 依然聖に対して警戒を解かず和奏を背にし、司紗は漆黒の瞳を細める。
 そして、こう彼に訊いたのだった。
「さっきも言いましたけど、貴方はかなりランクの高い妖狐ですよね。それに、本来ならば半妖は普通の妖怪よりも妖力は低いはずなのに、雨京先生は強い妖気を操る金毛九尾狐だ。半妖なのに、どうして先生は普通の妖怪よりも妖力が強いんですか? そもそも、貴方はどうして僕たちの前に?」
 聖は司紗の問いに、楽しそうにくすくす笑う。
 それからサラサラのブラウンの髪をかき上げ、穏やかな印象の声を発した。
「本当に君って、絵に描いたような優等生術師なんだね。何もする気ないから、そんなに警戒しなくても大丈夫だよ」
「…………」
 確かに目の前の聖からは、全く敵意は感じられない。
 だが、彼が妖怪であることは紛れもない事実で。
 しかもその妖気は、あの金毛九尾狐である雨京先生をはるかに凌いでいる。
 司紗は和奏を庇いながら、聖の次の言葉を待った。
 険しい表情を浮かべる司紗とは対称的に、聖は柔らかな笑みを美形の顔に湛える。
「息子がどうして、半妖なのに強いのかって? そんなの決まってるでしょ、司紗くん」
 ふっと司紗に向けている澄んだ瞳を細め、そして聖はこう続けた。
「彼が、この僕の息子だからだよ。それに君の言う通り、半妖は妖怪より妖力が劣るもの。だから息子は、この僕よりは弱い。ただ、誰でもないこの僕の息子だからね、僕より弱くったって普通の妖怪よりは強いってわけ。ほら、つじつまバッチリ合うでしょ?」
「…………」
 司紗は聖の言葉を聞きながら、雨京先生が自分に言っていたことを思い出す。
『半妖でもな、誰でもないこの俺様が強いのは当然だ』
 自分の力に対しての、自信に満ちた言動。
 受ける印象は違えども、親子なだけあって言うことがとても似ている。
 そう、司紗は感じたのだった。
「えーっと、それで何だっけ? あ、この僕が高いランクの狐でしょって訊いてたね」
 聖は思い出したように手を打ち、ふっと口元に笑みを宿す。
 それからゆっくりと、こう言ったのだった。
「僕はね、妖狐の格付けで言えば、天狐だよ。司紗くん」
「えっ、天狐!? 天狐だって!?」
 聖の言葉に、司紗は驚いたように大きく瞳を見開く。
 和奏は初めて聞くその単語に、首を捻った。
「司紗くん、天狐って?」
 司紗の表情から、かなり天狐がランクの高い狐だと言うことは分かるのだが。
 和奏は瞳をぱちくりさせながら、司紗を見つめる。
 まだ驚きを隠せない様子ながらも、司紗は彼女の問いに答えた。
「妖狐にはね、能力によって格付けがあるんだよ。雨京先生の金毛九尾狐も、かなり能力の高い妖狐なんだけど……天狐はさらにその上、妖狐で最高ランクの力を持つと言われてるんだ。天狐の力は神の域に達し、その姿は身体に光を纏った神獣だと言われている。この僕でも、天狐を見たのは初めてだ……」
「神の域に達した、神獣……」
 和奏は穏やかな笑顔を絶やさない聖に視線を移し、ぽつりとそう呟く。
 確かに聖と初めて会った時から、彼の纏う空気が不思議なくらい澄んでいると感じていた。
 それに今、自分の目の前にいる彼の妖気は、神の域に達していると言われても納得してしまうほどに神々しい光を放っている。
「それで残りの質問は、何で僕が急に現れたか、だったね」
 ふっと口元に笑みを宿してから、聖は瞳を細める。
 そしてくすくすと笑い、こう言ったのだった。
「理由なんて、なーんにもないよ。気分的に、可愛い息子に会いたいなーって思っただけ。言うだろう? 狐は気まぐれだって。ただ、それだけのこと。さ、ほかに質問は?」
 司紗は少し考えた後、ちらりと和奏に目をやる。
 それから再び聖に向き直ると、こう訊いたのだった。
「半妖である雨京先生は、人を喰らう必要はないはずでしょう? なのにどうして先生は、和奏ちゃんにあんなに固執してるんですか?」
 その司紗の言葉に、聖は楽しそうな顔をする。
 そして悪戯っぽい表情を浮かべ、言った。
「ふふ、そんなの決まってるだろう? 和奏ちゃんが、彼の好みのタイプだからだよ」
「えっ!?」
 和奏は聖の言葉に、驚いたように声を上げる。
 自分が、あの雨京先生の好みのタイプだなんて信じられない。
 特に可愛いわけでもないし、成績だって至って普通だし。
 自分よりも綺麗で頭のいい子なんて、辺りを見回せばたくさんいるのに。
 それに雨京先生は整った美形の容姿であるために、女生徒にも人気の高い先生で。
 先生のファンの子で自分よりも魅力的な子だって、いっぱいいる。
 なのによりによって、こんな平凡な自分が好みのタイプだなんて。
 そんなこと、考えられない。
 聖は驚いた表情をしている和奏ににっこりと微笑み、続けた。
「昔彼が好きだった子も、和奏ちゃんみたいなタイプだったし。慎ましやかで、健気で、何よりも従順で。うちの息子って、典型的な大和撫子タイプが大好きだから。ま、親子だから、この僕の好みもそうなんだけどね」
「昔、先生が好きだった人?」
 聖の言葉に、和奏はふとそう訊いた。
 聖はちらりとまだ倒れたままの雨京先生を見た後、ゆっくりと話を始める。
「えーっとあれは、何百年前だったっけな? 僕に似て彼もハンサムだから、昔からモテてはいたんだけど。でも女の子大好きな僕と違って、彼はあまり昔から女性には興味ない感じだったんだよ。なのにある時そんな彼が、人間の女の子と恋に落ちたんだ」
 何百年前の話って……一体今、先生や聖はいくつなのだろうか。
 そうふと疑問に思いつつも、和奏は黙って聖の話に耳を傾ける。
 聖はそれから一度言葉を切り、ふっと一息ついた。
 そんな彼の表情は……今までの楽しそうなものから、その印象を変える。
 何だか澄んだブラウンの瞳の中に、悲しい色が混じったような気がする。
 そう、和奏は感じた。
 聖は改めて自分を見つめている和奏に目を向け、再び口を開く。
「でも結局その恋は、長くは続かなかったんだよ。相手の子が、すぐに死んじゃったからね。原因は、息子の妖気とその子の体質の相性が極端に合わなかったんだよ。それに息子の妖気は、普通の人間だった彼女には大きすぎたんだ。その結果、その子の身体に大きな負担をかけることになっちゃったんだよ」
「…………」
 司紗は聖のその言葉に、何かを考えるように漆黒の瞳を細めた。
 聖はふっと苦笑し、さらに続ける。
「恋人を失った息子は、その後自分で自分を封印したんだ。大事な人を死なせたことの償いなのか、彼女がいない世界で生きていくのが辛かったのか……どういう気持ちだったのかは、僕には分からないけどね」
 和奏はその話を聞き、胸が痛むような気持ちをおぼえた。
 あの先生に、そんな辛い過去があっただなんて。
 普段から自分至上主義で俺様思考の先生が、自分で自分を封印するなんて。
 その時、一体どんな気持ちだったのだろうか。
 和奏は何だかいたたまれなくなり、ダークブラウンの瞳を伏せる。
 聖はそんな和奏に優しい印象の微笑みを向け、それから言った。
「それから息子は何百年か寝てて、つい数十年前にようやく目を覚ましたみたいなんだけど。でも、息子がまた人間の女の子のことを好きになるなんて、驚いたよ。まぁ彼が和奏ちゃんを選んだ理由は、確かに和奏ちゃんが彼のモロ好みのタイプだったってことが一番なんけど。でも過去のそんな経験から、今度は少しでも霊感の強い子を選ぼうと。たぶん彼は、そう思ったんだと思うよ」
 和奏はふと、先生の正体を知ったばかりの時のことを思い出す。
 どうして自分が先生の『俺の女』なのかと、そう訊いた時。
 雨京先生は、こう答えた。
『決めてたんだよ。最初に俺の正体見た女が、この俺の女だってな』
 自分の正体を、最初に見た女。
 ある程度の霊感がなければ、先生の妖気を感じることも、正体を見ることもできない。
 あの時の言葉は、先生自身の過去の経験からきていたのだ。
 和奏は何も言えず、ただ俯くだけだった。
 だが逆に司紗は首を小さく左右に振り、聖に向かってはっきりと言う。
「確かに和奏ちゃんは、普通の人に比べたら霊感が強い子です。でも、だからって身体に負担がかからないわけじゃない。最近、少し和奏ちゃんの身体にも変調が見え始めているし。僕は先生の過去に同情する気もないし、やはり術師として、妖怪である先生のことを放っておくわけにはいきません」
「司紗くん……」
 和奏は自分のことを考えてくれている彼の言葉を嬉しく思う反面、複雑な気持ちも同時に感じた。
 聖は小さく嘆息し、司紗に目を向ける。
「ねぇ、司紗くん。誰が誰のことを好きになろうと、それが人間と妖怪であろうと、相手を好きになる気持ちは自由なんじゃない? 僕だって、人間の妻がいたし。術師ってみんなそうなんだけど、妖怪に偏見持ちすぎなところがあるんだよね。ま、でも君が術師として息子を滅するって思ってることも全然否定はしないし、気持ちも分かるよ。でもさ……」
 そこまで言って、聖はふっと笑う。
 そして、こう続けたのだった。
「でも、本当に術師としての使命感だけで、君はそう言ってるのかな?」
「どういう意味ですか?」
 聖の言葉の真意が分からず、司紗は小さく首を傾げる。
 敢えて聖はそんな彼の問いかけには答えずに、今度は和奏に目を向けた。
 澄んだ聖の瞳が急に自分を映したことに気がつき、和奏は思わずドキッとしてしまう。
 そんな和奏ににっこり笑った後、聖はふとこう呟いたのだった。
「それにしても好きになった子の名前が、和奏だなんてね」
「え? それって、どういう……」
 その呟きを聞き逃さなかった和奏は、首を傾げながらも聖にそう訊いた。
 ……その時。
「! 和奏ちゃんっ」
 ハッと司紗は表情を変えて顔を上げ、咄嗟に和奏の盾になるように位置を取る。
 その瞬間、カアッと強大な光が発生したのだった。
 それと同時に、地を揺るがすような轟音が耳を劈く。
「きゃっ!」
 突然の眩い光と大きな衝撃音に、和奏は思わず声を上げた。
 それから、おそるおそる状況を把握しようと目を凝らす。
 そんな――彼女の瞳に、映ったものは。
「あ……っ!」
「余計なこと話してんじゃねーぞ、このクソ親父っ」
 いつの間にか立ち上がっていた雨京先生は、明らかに不機嫌な表情で聖を睨みつける。
 逆に聖は、先程先生が放った妖気の衝撃を簡単に無効化させた後、楽しそうに笑った。
「あ、おはよう。結構早く目覚めちゃったみたいだね。もうちょっと、話したかったのになぁ」
「あ? 余計なこと話してんじゃねーって、言っただろーがっ!」
 完全に怒り心頭な様子の雨京先生は、その掌に黄金の光を漲らせる。
 それから、今までで一番大きな妖気の衝撃を、聖目がけて繰り出した。
 だが聖は、その衝撃を防ぐような仕草もみせない。
 そしてまさに黄金の妖気が聖を捉えんとした、その時だった。
 ふっと聖の姿が、風のように消える。
 そして。
「! えっ!?」
 和奏は、驚いたように大きく瞳を見開いた。
 先程まで少し離れたところにいたはずの聖が……まさに、自分のすぐ目の前に現れたからである。
「なっ!?」
 簡単に聖に背後を取られ、司紗はバッと驚いたように振り返った。
 聖はにっこりと和奏好みの美形の顔に微笑みを浮かべた後、スッと彼女の頬に手を添える。
 そして、次の瞬間。
「……っ!」
 和奏はもちろん、雨京先生と司紗も思わずその表情を変えた。
 聖の唇が――そっと、和奏のものと重なったからである。
 軽く触れる程度の、柔らかなキス。
 和奏は突然の聖の行動に、驚きのあまり固まって動けないでいた。
 聖はゆっくりと和奏から唇を離すと、彼女のダークブラウンの髪を優しく撫でる。
「ふふ、ごちそうさま、和奏ちゃん。確かにすごく霊感強いね、君って」
「えっ? あ……」
 頭に添えられた聖の手のぬくもりを感じながらも、和奏は唖然として言葉がでなかった。
 ――その時。
「!」
 ビュッと空気を裂くような音が鳴ったと思うと、聖は軽い身のこなしでふわりと宙に跳躍する。
 それと同時に、いつの間にか聖と距離をつめた雨京先生の右拳が空を切った。
 雨京先生はギッと鋭い視線を聖に向けると、間を置かずに逆手から妖気の衝撃を放つ。
 再び眩い先生の黄金の光が、周囲を包み込んだ。
 だがすぐにその強大な光は、聖の神々しい妖気の前に威力を失う。
「ごめん、ごめん。和奏ちゃんが可愛かったから、つい」
「ふざけんじゃねーぞ、何がつい、だ! マジでぶっ殺すぞっ!」
 今までにない怒りの形相で、雨京先生は聖に鋭い視線を向けた。
 そんな本気で怒っている息子の様子を見て、聖はくすくすと笑う。
 それから、悪戯っぽい笑みを浮かべて言った。
「ふーん、本気で和奏ちゃんのことが好きなんだね。ま、親として応援してるよ」
 聖はその後、和奏と司紗に視線を移し、にっこりと微笑む。
「和奏ちゃんと司紗くん、すごく楽しかったよ。んじゃ、また機会があったら遊んでねーっ」
「!」
 和奏は聖の身体から溢れる神々しい妖気を感じ、ハッと顔を上げる。
 目の前の光がパアッと弾け、あたたかい風がふわりと吹きつけた。
 それと同時に、聖の身体が空気に溶け込むように消え失せる。
 そして、かわりに目の前に姿を現したのは……光り輝く、狐の姿。
 その姿からは、圧倒されるほどの存在感と、慈愛に満ちた優しい光を感じる。
 それから光を纏った神獣は大きく地を蹴り、真っ赤な夕焼けの空へと消えていったのだった。
「チッ、あのクソ親父……この俺様の前に、二度と現れるなっ」
 気に食わないように舌打ちをし、雨京先生は流れるような金色の髪をかき上げる。
 司紗は、輝きを放ちながら空を翔けていった神獣を見つめた後、和奏に視線を移した。
「和奏ちゃん、大丈夫?」
 ふとそう声をかけられ、和奏はハッと我に返る。
 そして。
「あ……司紗、く……」
「! 和奏ちゃんっ」
 突然全身の力が抜け、和奏の身体がふらりと揺れた。
 司紗は咄嗟に腕を伸ばし、そんな彼女の身体を支える。
 聖と先生の強大な妖気をたくさん浴び、和奏の身体に限界がきていたのである。
 気を失ってしまった和奏を抱えた後、司紗は雨京先生に目を向けた。
 そして、こう言ったのだった。
「和奏ちゃんは、僕が家まで送ります。そして先生は今後、和奏ちゃんには近づかないでください。その理由は、言わなくても分かりますよね?」
「…………」
 先生は真紅を湛えた瞳を、おもむろにふっと閉じる。
 それから妖気を抑えて人間体に戻った後、つり上がった切れ長の瞳を司紗に向けた。
「おまえ、この俺様に指図する気か?」
「先生も、過去に経験があるならお分かりでしょう? 強い妖気を浴び続けた人間が、どうなるのかを。僕たち術師のように霊気をコントロールできる人間ならまだしも、いくら霊感が強くても和奏ちゃんは普通の人間です。和奏ちゃんに今後近づくようでしたら、その時は僕が貴方を滅します」
 そうハッキリと言った後、司紗はペコリと丁寧に頭を下げる。
 そして和奏を抱いたまま、先生に背を向けて歩き出したのだった。
 雨京先生はブラウンの瞳を細め、チッと舌打ちをする。
 それから敢えて司紗を追わず、こう口を開いたのだった。
「和奏は、この俺様の女だ。それを忘れるな」
 司紗はその言葉に一瞬振り返って眉を顰めたが、すぐに前を向いて先生の前から去って行く。
「…………」
 一陣の風が吹き、ふわりと先生のブラウンの髪を揺らした。
 そんな風に揺れる先生の髪は、夕陽に照らされてほのかに赤く染まっている。
 雨京先生はザッと前髪を鬱陶しそうにかき上げた後、何かを考えるように髪と同じ色をした瞳を伏せた。
 そして、和奏を抱えた司紗とは逆方向に歩き出したのだった。