第三章 天翔ける神獣



 第21話 それぞれのキモチ

 和奏を抱えてしばらく歩いていた司紗は、夕方で誰もいない児童公園のベンチにそっと彼女の身体を下ろした。
「和奏ちゃん……」
 普通の人間よりも霊感の強い和奏であるが、さすがに聖と雨京先生の強大な妖気を一度に浴び、身体に影響が出たようである。
 司紗はまだ意識を取り戻さない和奏の様子を心配そうに見つめながら、先程聖に言われたことを思い出していた。
『本当に術師としての使命感だけで、君はそう言ってるのかな?』
 最初は、聖の言っている意味が分からなかった司紗だったのだが。
「…………」
 何かを考えるようにスッと漆黒の瞳を細め、小さく息を吐いた。
 目の前の和奏は、眠っているかのように穏やかな表情をしている。
 ――大人しくて、クラスでも目立たない子。
 少し前まで彼女に対して持っていた印象は、この程度のものであった。
 普通の人よりも多少霊感が強いということは昔から感じてはいたが、特に挨拶以外会話を交わしたこともなかった。
 和奏は女の子らしい可愛い顔立ちはしているものの、際立って人目を引くほどの容姿ではない。
 成績だって、特別良くも、かといって悪くもない中の上程度で。
 大人しいが、かと言って暗かったり友達が少ないというわけでも全くなく、本当にどこのクラスにもひとりはいそうな、ごく普通の平凡な生徒なのだった。
 だがそんな彼女に対する印象が日に日に変わっていることに、司紗は気がついていた。
 最初は術師としての使命に基づき、妖怪である雨京先生に付きまとわれていた彼女に近づいた。
 そして彼女と話す機会が増え、やはり和奏は印象通りおっとりとした大人しい子だと司紗は感じたのだが。
 しかし、それだけではなかった。
 決して彼女は、派手な言動はしないが。
 非現実的な出来事に対しての理解力も適応力も高く、冷静に自分の置かれている状況を判断できる子で。
 その上に、時には敵対する自分と先生の間に立つこともあった。
 司紗は、和奏がよく自分に言っていた言葉を思い出す。
『心配しないで、無理だったら言うから』
 見た目は、か弱そうで大人しい女の子だけど。
 周囲のことをよく考え、思いやりに溢れた優しい心遣いができる子。
 派手で魅力的な眩い輝きはなくても、和奏からは淡くてあたたかい光を感じる。
 司紗はまだ瞳を閉じたままベンチで横になっている和奏の傍に屈み、彼女の前髪をそっと上げた。
「和奏ちゃん……」
 司紗は複雑な表情を浮かべ、漆黒の瞳を伏せる。
 そんな彼の脳裏に浮かぶのは――目の前で見た、ある光景。
 それは。
「……ずっと、言えなかったんだね」
 司紗はそう呟き、和奏の額に優しく手を添えた。
 先程から司紗の頭から離れないのは――雨京先生にキスをされている、和奏の姿。
 あの時のふたりの様子を見れば、和奏が先生にキスをされるのが初めてではないことが容易に想像できる。
 司紗は少し前から、雨京先生がどうやって和奏の強い霊力を吸収しているのか疑問に思っていた。
 先生は半妖であるため、人間を獲って喰らう必要はない。
 だが妖怪である以上、その力を維持するために、多少の霊気を吸収しなければならない。
 その方法が何なのか、司紗は今まで分からなかったのだが。
 それがやっと、分かったのだった。
 和奏とキスをすることで、雨京先生は彼女の霊気を吸収していたのだ。
 事実、先程彼女とキスをした後の先生の妖気は、キスをする以前と比べてもその強さが格段に上がっていた。
 それに頑なに自分には黙っていたが、きっと和奏は呼び出されるたび、今日のように先生にキスをされていたのだろう。
 そして……そう気付いた司紗は、無意識的に唇をかみ締めて拳を強く握り、ギュッと瞳を閉じる。
 自分のすぐ目の前で、雨京先生が和奏と唇を合わせた、その時。
 驚いたと同時に、司紗の心の中には驚きとはまた別の感情も生まれていたのだった。
 術師として人間を守るべきだという使命感が、いつからか違うものに大きく変化していたのである。
 それは……。
「…………」
 司紗はふっと閉じていた漆黒の綺麗な瞳をゆっくり開くと、彼女の額に添えたままの掌に意識を集中させる。
 それと同時に、ボウッと淡い光が彼の手に宿った。
「少しでも、僕の霊気で妖気が中和できればいいんだけど」
 司紗はそう呟き、さらに掌に霊気を漲らせる。
 司紗の眩い霊気が、優しく和奏を包み込む。
 そして。
「う、ん……」
 司紗の霊気に導かれるかのように、和奏はうっすらとダークブラウンの瞳を開いたのだった。
 それから、ゆっくりと上体を起こす。
 司紗はそんな和奏を気遣うように、ベンチの隣に座って彼女の肩に手を添えた。
「和奏ちゃん、気がついた? 大丈夫?」
「あ、司紗くん……私?」
 和奏は瞳をぱちくりさせ、きょとんとした表情で司紗に目をやった。
 そんな彼女に、司紗はにっこりと柔らかな微笑みを向ける。
「よかった、気がついて。先生たちの妖気にあてられて、身体が参っちゃったみたいだね」
「先生たちの妖気にあてられたって……あっ、もしかして私のこと、ここまで司紗くんが運んでくれたの? ごめんね、ありがとう司紗くん」
 自分好みの綺麗な司紗の顔が近くにあるのを感じ、和奏は照れくさそうに頬を赤くしながらぺこりと頭を下げた。
 司紗は大きく首を横に振り、少し乱れた彼女の髪をそっと手櫛で撫でる。
 ――そして。
「え……!? つっ、つつ、司紗くんっ!?」
 和奏は司紗の取った思いがけない行動に、心臓が張り裂けそうなくらいに胸の鼓動を早める。
 司紗の腕が伸び、突然ふわりとあたたかなぬくもりを全身で感じたと思った瞬間。
 気がつけば……司紗の胸の中に、自分の身体が引き寄せられていたのだった。
 司紗は顔を真っ赤にさせている和奏の様子も気づかずに、ふっと表情を緩めた。
「本当によかった、和奏ちゃんが無事で」
 和奏の小さな身体を抱きしめながら、司紗は安堵してそう彼女の耳元で呟く。
 その囁きのような吐息で耳を優しくくすぐられ、和奏の心拍数はさらに跳ね上がった。
 先生の有無を言わせぬバリトンの声も、思わず鳥肌が立ってしまうほどよく響くけれど。
 司紗の声はまたそんな先生のものとは全く印象が違い、穏やかで包み込んでくれるような優しいもので。
 その心地よいぬくもりに、和奏は何も言えずに顔を真っ赤にさせるしかできないでいた。
 そして今までにないくらいの胸の鼓動は一向に収まる気配はなく、自分でも分かるほどに頬も紅潮したままである。
 何せ今、想いを寄せている司紗の胸の中に自分がいるのだから。
 あまりの信じられない出来事に、和奏は軽い眩暈まで覚えてしまった。
 司紗は固まって動けないでいる和奏からそっと離れると、真っ直ぐに漆黒の色を湛える瞳を彼女に向ける。
 そして、こう言ったのだった。
「和奏ちゃんのことは、僕が守ってあげるから。もう、君には何も無理はさせないよ」
 真っ直ぐな、司紗の真剣な眼差し。
 自分だけを移す綺麗な彼の瞳に、和奏は思わず見惚れてしまうしかできなかった。
 それから司紗の言葉に、ただ小さく頷くだけだったのだった。



 ――その頃。
 雨京先生は切れ長の瞳を細め、ぴたりと足を止める。
 それから気に食わない表情をして舌打ちし、ブラウンの髪をザッとかき上げた。
「まだ何か用か? さっさと俺の前から消えろ」
「まーまー、そんなに照れないで。今度は仲良く親子水入らずで、ね?」
 いつの間にか先生の背後には、楽しそうに微笑む聖の姿があった。
 先生はあからさまに眉を顰めると、くるりと聖に背を向けて再び歩き出す。
 そんな息子の様子に、聖はふっと笑みを浮かべる。
「雨京真里、か。何だかんだ言って、やっぱり君って僕のことが大好きなんだから。雨京っていう名前……雨の降る京の都で生まれた君に、この僕が授けたものだもんね」
「…………」
 先生は聖の言葉に振り返りもせず、歩みを止めない。
 聖は敢えて引きとめもしないで、サラサラのブラウンの髪をかきあげる。
 それから、こう続けたのだった。
「それにしても、君はつくづく“わかな”ちゃんに縁があるなぁ」
 雨京先生はその言葉にピクリと反応し、ふと足を止める。
 聖は息子の反応を見てから、綺麗な顔に笑みを宿した。
「それに“狐の子は頬白”とはよく言ったものだね。君が好きになる子って、僕の好みな子ばかりだよ。いや……君が単に、マザコンなのかな? 昔の“わかな”ちゃんも、今の“わかな”ちゃんも、君の母親と同じ典型的な大和撫子タイプなんだもんね」
「過去の“若菜”と今の“和奏”は全く別の女だ、関係ないだろうが。んな何百年も昔のことでゴチャゴチャ戯言抜かしてんじゃねーぞ、クソ親父」
 雨京先生は聖に視線を投げ、瞳を細める。
 そんな息子の言葉にふっと小さく嘆息した後、聖はおもむろにその表情を変えた。
 そして今までになく真剣な眼差しを先生に向けると、言ったのだった。
「確かに、何百年前か過去に君の恋人だった“若菜”ちゃんと、あの“和奏”ちゃんは、別人だし何も関係はないよ。でも、どうするの? まだ君の妖気と和奏ちゃんの体質の相性がどうなのかは分からないけど……結構もう和奏ちゃんの身体、キてるみたいだったじゃない。霊感が強い分、妖気の影響を受けやすい体質なんだね、彼女。まぁ相性が悪くなかったら、じきに君の妖気に和奏ちゃんの身体も慣れてくるだろうけど……でももし万が一、相性が悪かったら」
「…………」
 先生はスッと切れ長の瞳を伏せる。
 それからゆっくりと目をあけた後、こう口を開いた。
「黙れ、ガタガタうるせーぞ。おまえに言われなくても、そんなこと分かってるんだよ。余計なお節介は無用だ」
 そして雨京先生は、くるりと聖に背を向ける。
 スタスタと再び歩き出した息子の背中を見送りながら、聖は空気のように澄んだ声で無邪気に笑った。
「君と和奏ちゃんが上手くいってくれたら、僕としても嬉しいんだけどな。彼女っておっとりしてて清楚で、僕の好みだし。ていうか、女性には優しくしてあげないとダメだよ? 君って昔から愛想ないからね。あ、結婚式には心配しなくてもちゃんとバッチリ駆けつけるから」
 先生は聖の言葉に答えることも振り返ることもせず、歩みを止めない。
 そんな息子の後姿を見送りながら、聖はスッとブラウンの瞳を細める。
 それから、最後にこう言ったのだった。
「ま、僕が何と言っても、あとは君次第なんだけどね。でも親というものは、自分の子供のことが心配でならないものなんだよ。この僕も、例外なくね……それじゃあ、幸運を祈ってるよ」
 それだけ言うなり、聖はその身体に強大な黄金の妖気を宿した。
 刹那、その光が大きく弾けたと同時に、まるで空気に溶け込むかのように彼の姿がふっと消え失せる。
 雨京先生は相変わらず立ち止まりはしないものの、ちらりと一瞬だけ背後を振り返った。
 そして天翔ける黄金の神獣の神々しい姿をその狐目に映しながら舌打ちをした後、風に靡く前髪をザッとかき上げたのだった。



 ――その日の夜。
 急に振り出した雨に気がついて部屋の窓を閉め、和奏は小さく溜め息を漏らす。
 そんな和奏の脳裏に浮かんでいるのは……ある、ひとりの人物のこと。
 和奏は椅子に座ると、今日聖から聞いた話を改めて思い出してみる。
 初めて知った――雨京先生の、過去。
 その過去は、普段の俺様体質な先生からは考えられないような切ないものだった。
 先生は自分の強大な妖気のせいで恋人を失って、自らを封印したという。
 その時の雨京先生がどんな気持ちで長い眠りについたのか、和奏には到底想像ができないが。
 でも……これだけは、言える。
 先生が、その彼女のことを大切に想っていたということ。
 そして。
『俺がおまえのこと、守ってやる』
 ゾクッと鳥肌が立つほどに響く、彼のバリトンの声。
 先生は確かに、自分至上主義な性格なのかもしれない。
 でもその言葉が嘘だとは、不思議と一度たりとも疑ったことはなかった。
 先生のブラウンの瞳は怖いくらいに真っ直ぐで、悪妖のはずなのに一点の曇りも感じられない。
 事実その言葉通り、先生は今まで自分のことを幾度となく守ってくれた。
 そして――あの、溶けるような優しいキス。
 人を構わず振り回す言動からは想像もできないほどに、それは甘くて。
 キスを落とされるたび、身体の底から熱を帯びるような、心地良い感覚に陥ってしまうのだった。
「雨京先生……」
 和奏はぽつりとそう呟き、肩までのダークブラウンの髪を撫でる。
 それから、ハッと我に返ったように顔を上げた。
 自分の好きな人は、雨京先生ではないはずなのに。
 どうしてこんなに、先生のことが気になるのだろうか……。
 和奏はそう思いつつも、今度は本来の想い人である司紗の上品な顔立ちを思い浮かべる。
 雨京先生とは正反対の印象を受ける、穏やかで柔らかな司紗の表情。
 そして優しい色を湛える漆黒の瞳の根底には、術師としての強い使命感という名の光が秘められている。
 そんな自分に向けられた彼の正義感に満ちた眼差しを思い出し、和奏は思わずカアッと顔を赤らめてしまった。
 やはり司紗のことを考えるだけで、胸が急速にドキドキと鼓動を早める。
 成績優秀で顔も美形な司紗は、自分にとっては高嶺の花で。
 今だって、ただ術師として妖怪の先生に呼び出されている自分を心配してくれているだけなのだろう。
 でも、それでも。
 和奏は、憧れの司紗と会話を交わせるだけで大きな幸せを感じるのだった。
 雨京先生と司紗、司紗と自分、そして自分と雨京先生。
 これから一体どうなるのかと思考を巡らせながら、和奏はもう一度嘆息する。
 明日は明日の風が吹く、とはよく言うが。
 誰から誰に風が吹くのか……この時の和奏には、全く想像がつかなかった。
 それにいくら考えても、答えがでるわけではない。
 そう思い直してから、和奏はふと机に向かう。
 そして窓を打つ雨音を聞きながら一息ついた後、おもむろに辞書を捲り、次の日の古典の予習を始めたのだった。


第三章・完