第三章 天翔ける神獣



 第18話 優等生の思惑

 ――次の日・月曜日。
 帰りのホームルームも終わり、今は放課後である。
 職員室にプリントを提出し終わった司紗は、教室に戻るべく賑やかな廊下を歩いていた。
 そんな司紗の表情は、真剣なものだった。
 そして、彼が考えていたのは……ある、ひとりの人物のこと。
「…………」
 司紗は漆黒の前髪をそっとかき上げた後、小さく息をつく。
 彼には数日前からずっと、引っかかっていることがあった。
 それは……。
 階段に差し掛かった司紗は、ふとその顔を上げる。
 そして漆黒の瞳に飛び込んできた人物の姿を見て、足を止めた。
 それから少し考えた後、その人物に声をかけたのだった。
「雨京先生、ちょっといいですか」
「あ? 何だ」
 切れ長の狐目を司紗に向け、職員室に向かって階段を下りていた雨京先生は眉を顰める。
 司紗は鋭い視線を投げ、そんな先生を見据えた。
 そして、彼にこう訊いたのだった。
「五十嵐聖っていう少年のことを、先生はご存知ですか?」
「五十嵐聖? 誰だ、それ」
 司紗の問いに、先生はすぐにそう答える。
 司紗は注意深く先生の様子をうかがいつつ、漆黒の瞳を細めた。
 それから、再び階段を上り始める。
「いえ。ご存知ないのなら結構です」
 司紗はそれだけ言うなり、雨京先生から視線を外した。
 先生は首を傾げながらも、ふっと口元に笑みを浮かべる。
 そして、言った。
「何だ、そいつがどうした? おまえが言うんだ、また妖怪か狐憑か何かか?」
「妖怪なのは、雨京先生でしょう? 失礼します」
 挑戦的な視線をキッと先生に投げ、司紗はスタスタと歩き出す。
 雨京先生は一瞬だけちらりとそんな司紗を見てから、彼とは逆に階段を下り始めたのだった。
「……知らない、のか」
 司紗はそう呟き、ふっと嘆息する。
 雨京先生のあの様子だと、本当に彼――五十嵐聖のことは知らないようである。
 数日前に聖に会ってから、司紗は彼に対して感じた違和感をずっと拭えずにいた。
 和奏の言うように、聖からは妖気を全く感じなかったのだが。
 でも、何かが違うのだ。
 普通の人間とは違う何かが、彼にはある。
 本能的に、司紗はそう感じていた。
 司紗はもう一度、聖の様子を思い出してみる。
 そして、こう呟いたのだった。
「纏っている空気が、異様に綺麗すぎるんだよ……」
 和奏は彼のことを、不思議な雰囲気を持った少年だと言っていた。
 彼にまだ一度しか会ったことのない司紗だったが、彼女と同じような印象を持ったのは確かで。
 そして不思議な印象を受ける理由は、彼の纏う澄んだ空気にあると司紗は気がついていた。
 一点の曇りもない、その空気。
 それが、人間離れしている何かを感じさせるのだ。
 そして、そう思った――次の瞬間。
 司紗はハッと顔を上げて表情を変えると、何かに気がついたように口を開く。
「あ……! そうか、そういうことか」
 それから足早に教室に戻ると、ある人物の姿を探した。
「和奏ちゃん、今から帰るの?」
「あ、司紗くん。うん、今から帰るよ」
 少し照れたように頬を赤らめ、司紗に声をかけられた和奏は嬉しそうに答えた。
 司紗はにっこりと穏やかな微笑みを彼女に向けると、それからこう言ったのだった。
「和奏ちゃん、よかったら今日も一緒に帰らない?」
「えっ? あ、う、うんっ。でも図書館に本返しに行かなきゃいけないんだけど……いいかな?」
 そう言ってダークブラウンの瞳を向ける彼女に、司紗は優しく言葉を返す。
「大丈夫だよ。じゃあ、靴箱で待ってるから」
 和奏は幸せそうにコクンと頷いた後、彼よりも先に2年Dクラスの教室を出て行った。
 そんな彼女の後姿を見送ってからふと表情を変え、そして司紗も帰る支度を始めたのだった。



 ――それから、数分後。
「たぶん、僕の予想が正しければ……」
 図書館に本を返却しに行っている和奏を靴箱で待ちながら、司紗はそう呟く。
 それからブレザーの内ポケットから1枚の術符をそっと取り出すと、小声で何かの術の詠唱を始めた。
 術の詠唱が終わった瞬間、カアッと彼の霊気が大きく弾ける。
 だが周囲の誰も、その光を知覚することはできなかった。
 司紗は何事もなかったかのように術符をしまうと、綺麗な漆黒の瞳を細める。
 その視線の先には。
「ごめんね。お待たせ、司紗くん」
「ううん、大丈夫だよ。じゃあ、帰ろうか」
 息を切らして急いで駆けてきた和奏ににっこりと微笑んでから、司紗は彼女とともに学校を出た。
 まだそんなに遅い時間でないため、目の前には青を湛えた空が広がっている。
 漆黒の前髪を揺らす風を気にも留めず、司紗はふと和奏に視線を向けた。
 和奏は彼の綺麗な瞳が自分を映したことに気がつき、思わず胸の鼓動を早める。
 そんな彼女の気持ちも知らず、司紗は和奏にこう訊いたのだった。
「そういえば、この間の彼・五十嵐聖くんとは、あれからも何回か会ったの?」
「聖くん? うん、昨日も会ったよ。とは言っても、まだゆっくりと話をしたことはないんだけどね。いつも風のように現れては、風のように去って行っちゃうから。本当に不思議よね、聖くんって」
「風のように現れては、風のように去る……か」
 司紗はそう呟き、ふと何か考える仕草をする。
 ――その時だった。
「和奏ちゃんに司紗くん、こんにちは」
 澄んだ声が耳に聞こえ、司紗は顔を上げる。
 そして、表情を変えた。
 和奏は少しびっくりした顔をしつつも、にっこりと現れた彼に笑顔を返す。
「あっ、聖くんっ。ちょうどね、聖くんのことを話してたところだったんだよ」
「へえ、僕のこと? どんなことなのかな、司紗くん」
 いつの間にか現れたその少年・五十嵐聖は、和奏でなく司紗にそう訊いた。
 屈託なく笑う聖に、司紗は漆黒の瞳を向ける。
 それから、こう言ったのだった。
「君が不思議な雰囲気を持ってるって、そう話してたんだよ。そして、初めて会った日に君から感じた違和感の理由が、今まで分からなかったけど……それが何か、ようやく分かったよ」
「え? 何のこと? 司紗くん」
 和奏は司紗のその言葉に、驚いたような表情を浮かべる。
 逆に聖は楽しそうに笑うと、司紗に訊いた。
「それでその違和感の理由って、何だったのかな?」
「君から、気配が一切感じられないんだ。君からは妖気も感じなかったけど、霊気も感じられない」
 それだけ言って、司紗は聖を見据える。
 そして声のトーンを変え、続けた。
「君は一体、何者なんだ? こんなに完璧に気配を隠すなんて芸当、よほどの力を持った妖怪か術師でないとできないはずだ。それに君は僕に初めて会った時、こう言ったよね。『よろしく、白河司紗くん』って。和奏ちゃんが僕を紹介した時、苗字までは言わなかった。なのに君は、僕の名前を知っていた。それを聞いた時、変だなって思ったんだ」
「聖くん……!?」
 和奏は何度も瞬きしながら、聖を見つめた。
 聖はそんな和奏ににっこりと微笑んだ後、司紗に向き直る。
 それから、ふっと美形の顔に満足そうな笑顔を宿して言った。
「ふーん、なかなか君って優秀な術師なんだね、司紗くん。ヒントあげようと思って言った言葉にも、ちゃんと気がついてるし。それに、護りの術を施した術符まで用意してるなんて、抜け目もないしね。 でも……」
 聖がスッとブラウンの瞳を細めたと思った――次の瞬間。
「!」
 司紗はハッと表情を変え、素早く和奏の盾になるように位置を取る。
「え!?」
 和奏も聖に視線を向け、大きく瞳を見開いた。
 今まで感じなかった『気』を、聖から感じたからだった。
 しかも、それは。
「えっ!? これって、妖気!?」
 和奏は聖の身体に宿った神々しいまでの強大な光を見て、そう呟く。
 聖は相変わらず穏やかな笑みを湛えた美形の顔を、ふたりに向けた。
 それから司紗に目を移し、言った。
「君は完璧なくらい優等生な術師で、責任感も正義感も強いみたいだけど。相手の力量を見極めることも、一流の術師には必要なことだよ?」
「やっぱり君は、妖怪だったのか……確かに君の言う通り、相手の力を見極めることも必要だ。でもそれよりも、妖怪を滅することが、術師の使命だからね」
 司紗はキッと聖を見据え、霊気を漲らせて身構える。
 だが聖はそんな司紗の様子にも動じず、空気のように澄んだ声で笑った。
「ちょっと待ってよ、司紗くん。別に僕は、君たちに何かしようと思ってるわけじゃないよ。妖怪と言っても、悪いことするとは限らないでしょ? それに第一、今の僕に敵意がないことは分かるだろ?」
「司紗くん……」
 司紗の背後から、和奏はそっと彼の肩に手を添える。
 確かに聖からは、眩いまでの強大な力を感じる。
 しかもそれは雨京先生の持つものと同じ、妖気である。
 だが目の前で妖気を宿している彼に対して、不思議と怖いという印象はない。
 むしろ、その神々しい輝きは美しくて。
 妙な安心感まで感じるくらいだった。
「君の目的は、一体何だ?」
 司紗は警戒を解かず、聖に短くそう問う。
 その言葉に、聖は楽しそうに笑った。
 そしてブラウンの前髪をそっとかき上げると、ふたりから視線を外して口を開く。
「目的? ふふ、彼をからかうこと、かな」
「彼?」
 聖のその言葉に司紗は眉を潜め、首を傾げた。
 ……その時。
 和奏はハッと顔を上げ、ダークブラウンの瞳を見開く。
 それから振り返り、驚いた表情をした。
 ――そんな和奏の目の前にいたのは。
「チッ……この妖気、いつ感じても胸クソ悪いったらねぇな」
「雨京先生!?」
 そこには、気に食わない表情を浮かべた雨京先生の姿があった。
 聖はそんな先生の姿を見て、満面の笑みを浮かべる。
「やあ、久しぶりだね。ていうか、相変わらず愛想がないなぁ」
 くすくす笑う聖とは逆に、雨京先生は面白くなさそうにもう一度舌打ちをした。
 ……どうやら聖と先生は、知り合いのようであるが。
 でも一体、どんな関係なのだろうか。
 ふたりの様子を見てそう思いつつ、和奏は首を傾げた。
 司紗もふたりの会話を聞きながら、慎重に状況を見守っている。
 和奏はそんな彼の後ろで再び首を捻り、聖と雨京先生の姿を交互にじっと見つめたのだった。