第三章 天翔ける神獣
第17話 俺様デート
『今日の正午、学校の裏門に来い。1秒でも遅れたら、ソッコーで祟るからな』
いきなりかかってきたその電話は、それだけ言うなりすぐに切れた。
どうして教えてもない携帯電話の番号を、彼が知っているのだろうか。
それに、どういう風の吹き回しなのだろうか。
――今日は、学校も休みの日曜日。
見慣れない番号からかかってきたその電話は、雨京先生からであった。
今まで休日に呼び出されたことがなかった和奏は、驚きつつも言われた通り学校の裏門で彼を待つ。
今日は幸い、何も用事が入っていなかったからよかったものの。
当日にいきなり呼び出すなんて、何か先約があったらどうしていたのだろう。
そう思った和奏だったが、すぐに小さく嘆息する。
和奏に何か先約があったとしても、あの雨京先生のことだ。
きっと、自分との約束を優先にしないと祟る、とか言って脅すに決まっている。
今日何も予定がなかったことにホッとしながらも、和奏は腕時計を見た。
時間はすでに、正午を回っている。
呼び出した張本人は、一向に現れる気配がない。
だが、先生が時間通りに来ないだろうことも和奏には分かっていた。
それよりも、一体先生は自分を呼び出して何をする気なのだろうか。
いろいろなことを考えつつも、和奏はひらひらと風に揺れるスカートの裾を押さえた。
いつも呼び出されるのは学校であるため、当然着ているのは制服なのであるが。
今日は日曜日で、休日である。
何を着ていけばいいのか散々迷った挙句、和奏は一番お気に入りのキャミソールと買ったばかりの花柄のスカートを選んだ。
髪も、少しいつもよりも気を使ってセットしたりして。
ていうか、これって……まるで、恋人とデートに行くみたいじゃないか。
ふとそう思い、和奏はカアッと顔を赤らめる。
雨京先生は自分のことを、相変わらず『俺の女』だと言っているが。
どういうつもりで、こうやって自分をいつも呼び出しているのだろうか。
ある意味スキンシップは盛んであるが、特に優しい言葉をかけてくれるわけでもないし。
会話が弾んでいるというわけでもない。
何をすることもなく、ただ一緒にいるだけなのである。
時々、キスをされたりするくらいで……。
ふと先生の綺麗な顔と柔らかい唇の感触を思い出し、和奏は耳まで真っ赤にする。
そして気を取り直すように、ダークブラウンの前髪をかきあげた。
――その時。
「和奏ちゃん、こんにちは。何やってるの?」
突然聞こえてきたその空気のように澄んだ声に、和奏は顔を上げる。
それから驚いたように、いつの間にか現れたその少年に目を向けた。
「あっ、聖くん。今、人を待ってるの」
和奏の目の前には、不思議な雰囲気を持つ美少年・聖の姿があった。
聖はブラウンの澄んだ瞳を細め、無邪気に笑う。
「人? あ、今から誰かとデート? いつも可愛いけど、今日の和奏ちゃんもとっても可愛いよ」
「か、可愛いだなんて……それにたぶん、デートとかじゃないと思う」
聖の綺麗な顔に見惚れてドキドキしながらも、和奏は恥ずかしそうに曖昧にそう答えた。
そして改めて、まじまじと聖の容姿を見つめる。
それにしても見れば見るほど、彼の穏やかな印象を受ける整った顔は、想いを寄せる司紗のものと雰囲気がよく似ている。
和奏は不思議と、そう強く感じたのだった。
聖は和奏ににっこりと屈託ない笑顔を向けた後、風に揺れるサラサラの髪をそっとかき上げる。
それからふと一瞬だけ和奏から視線を外してから、ゆっくりと歩き出したのだった。
「あ、今日はもう行かなきゃ……今度は僕ともデートしてね、和奏ちゃん」
「え? あ、うん。またね、聖くん」
聖は美形の顔に微笑みを宿し、手を振ってスタスタとどこかへ行ってしまった。
それにしても、本当に彼は不思議な少年で。
いつも風のように現れては、風のように去っていく。
そういえば、彼のことは名前しか知らない。
今度あった時は、もっと詳しくいろんなことを訊いてみよう。
そう、和奏が思った……その時だった。
和奏の目の前に、おもむろに一台の車が止まった。
「乗れ」
サンセットオレンジのフェアレディーZの運転席から、ようやく現れた雨京先生は短くそれだけ言った。
和奏は言われた通りに助手席のドアを開け、先生の車に乗り込む。
彼女を乗せた車が、ゆっくりと走り出した。
「あの、今からどこに行くんですか?」
車を運転する先生に、和奏は遠慮気味にそう訊く。
先生は切れ長の瞳を彼女に向け、当然のように言った。
「あ? 腹減ったから、飯食いに行くに決まってるだろーが」
「そ、そうですか……」
それ以上何も言えず、和奏はちらりと先生を見る。
窓から射し込める太陽の光を浴び、彼のブラウンの髪はまるで金色に輝いているように見えた。
髪と同じ色のつり上がった瞳は神秘的で、肌の色は雪のように白い。
先程会った聖とは全くタイプが違うが、目の前の雨京先生も端正な美形である。
先生は和奏の視線に気がつき、ふっと口元に笑みを浮かべた。
そしてニッと悪戯っぽく笑い、言った。
「何だ? そう焦らなくても、気持ちいいキスなら後でたくさんしてやるぞ」
「なっ、べ、別にそんなつもりじゃっ……」
先生の言葉に、和奏は顔を真っ赤にさせる。
そんな慌てた様子の和奏を後目に、雨京先生はハンドルを切った。
そして、フェアレディーZが停車した場所は――ある店の駐車場。
そこは、以前にも来たことがある店だった。
「あ、この店……」
「あー腹減った。入るぞ」
さり気なく和奏の腰を抱き、雨京先生はスタスタと店内へ足を踏み入れる。
和奏は先生に連れられて店に入り、きょろきょろと周囲を見回した。
その店は、前に一度先生に連れて来て貰ったことのある、老舗のうどん屋だった。
先生は前回と同じ一番隅のテーブルに座り、前と同じくお冷を持ってきた店員にすかさずこう注文したのだった。
「きつねうどんといなり寿司、二人分」
やはり、自分に決定権はないようである。
和奏はそう思いながらも、特に先生に不満を言うこともしなかった。
何かと食べ物の味にうるさい先生がお気に入りの店なだけあり、ここのきつねうどんといなり寿司は美味しい。
それに、何気に上機嫌っぽい先生の機嫌を損ねてはいけないと思ったからである。
そしてしばらくして、先生お気に入りのきつねうどんといなり寿司が運ばれてきた。
先生はそれを、パクパクと食べ始める。
和奏はそんな先生を見て、ふと今まで疑問に思っていたことを訊いた。
「妖怪の食事も、人間の食事と同じなんですね」
雨京先生はパクッといなり寿司を口に運んで、和奏にブラウンの瞳を向ける。
それから、彼女の言葉に答えた。
「普通の妖怪は、人間と同じ食事なんてしねーよ。俺は半妖だからな」
「半妖?」
和奏は箸を止め、きょとんとする。
首を傾げる和奏を見て、先生は続けた。
「読んで字の如し、だ。妖怪と人間のハーフだからな、俺は」
「妖怪と人間のハーフ?」
初めて聞く先生の生い立ちに、和奏は驚いたように目をぱちくりとさせる。
先生はペロリと舌を出した後、ニッと笑った。
「ていうか、普通の妖怪の食事が何か知ってるか? 人間の生気の源になる霊気だよ。俺は半妖だから人間を獲って食うことはないけどな、それでも霊気の補充は必要だ。というわけだからよ、食後のデザートのキス、たっぷりしてやるから楽しみにしとけ」
「デ、デザートのキスって……っ」
先生の言葉を聞き、和奏はカアッと顔を赤らめる。
それにしても、先生が妖怪と人間のハーフだなんて初めて聞いた。
どうりで先生に対して、それ程怖いという感情を持たなかったわけだ。
目の前の先生は、妖怪でもあり、そして人間でもあるのだから。
――それから、食事が終わって。
再び車に戻った和奏は、運転席の先生にぺこりと頭を下げる。
「あ、奢ってくれてありがとうございます、先生」
礼を言う和奏に、雨京先生はふっとブラウンの狐目を向けた。
そして。
「有難いと思ってるなら、行動で示せ」
「え?」
和奏はシートベルトを締める手を止め、顔を上げた。
先生はそんな和奏を見つめ、もう一度口を開く。
「聞こえなかったか? 有難いと思ってるのなら、この俺にキスしろ」
「ええっ!?」
先生のその言葉に、和奏は驚いたように瞳を見開いた。
そんな思わぬ要求をされて固まっている和奏の頬に、先生はスッと大きな手を添える。
彼の細くて長い指の感触に、和奏の心拍数は急激に上がった。
雨京先生はブラウンの瞳を、そんな彼女に真っ直ぐ向ける。
「和奏」
彼のよく響くバリトンの声が、和奏の名前を呼んだ。
そして先生は、おもむろに綺麗な瞳を閉じたのだった。
異様に長い先生のまつ毛が、ふわりと白い肌にかかる。
和奏はどうしたらいいか分からず、ドキドキと鼓動を刻む胸を押さえた。
すぐ目の前ににあるのは……自分のキスを待っている、先生の綺麗な顔。
きっとここでキスをしないと、彼の機嫌を損ねてしまうのは間違いない。
先生とキスをすることは、もう慣れているのだが。
でも……自分からするのは、初めてで。
妙にドキドキしながらも、和奏は意を決する。
そしてふっと目を閉じると、先生の唇に、軽く触れるくらいのキスをした。
雨京先生はゆっくりと瞳を開き、満足そうに笑みを浮かべる。
それから顔を真っ赤にして俯いてしまった和奏の顎をくいっと持ち上げると、その唇に口づけを与えたのだった。
「ん……っ、先生……っ」
優しく落とされたキスは、次第に濃厚なものへと変わって。
和奏は思わず、声を漏らしてしまった。
雨京先生はそんな和奏の様子にも構わずに、次々と口づけを重ねていく。
和奏の頬は紅潮し、その唇は潤いを増していた。
するりと侵入してきた彼の舌の動きに、和奏はピクッと反応を示す。
そして涙の浮かんだ彼女の瞳に映るのは……雨京先生の端正な顔と、眩い黄金の光。
自分たちを包む輝きの心地よいあたたかさを感じながら、和奏はもう一度ダークブラウンの瞳を閉じたのだった。
……そして。
そんなふたりの様子を、興味深そうに見ていたのは――ひとりの少年。
「ふーん、かなり入れ込んでるみたいだね」
そう呟き、その少年は澄んだブラウンの瞳を細める。
美形の顔に穏やかな印象の微笑みを宿してふたりを見ていたのは、五十嵐聖だった。
彼は空気のように澄んだ声で、楽しそうに笑う。
そして、まるで風に溶け込むかのように、ふっとその場から姿を消したのだった。
それから、しばらくして。
ようやく和奏を乗せたフェアレディーZが、ゆっくりと走り出した。
和奏は、はあっと乱れた息を整えるように、大きく息を吐く。
そんな和奏の様子を見て、雨京先生はニッと笑った。
「おまえ、随分と気持ち良さそうな顔してたじゃねーか。またキスしてやるから、これからもこの俺様を有難く拝め」
「き、気持ち良さそうな顔ってっ」
先生のその言葉に、和奏は耳まで真っ赤にさせて俯いてしまう。
よく考えると、あんなうどん屋の駐車場でキスしていたなんて、もしかしたら誰かに見られたかもしれない。
あの時はそんなことを考えている余裕などなかったが、改めて冷静になると顔から火が出るほど恥ずかしい。
そんな顔を赤くする和奏の様子を気にも留めず、先生はふわっと大きくあくびをした。
「ていうか、飯食ったから眠い。昼寝するぞ」
「え? ひ、昼寝?」
唐突にそう言われ、和奏はきょとんとする。
昼寝って、どこでする気なんだろうか。
先生は何度も瞬きをする彼女を後目に、黙々と運転をする。
それから――どのくらい走っただろうか。
ある場所で、サンセットオレンジ色の車は止まった。
「降りろ」
相変わらず命令口調でそう言われ、和奏は首を傾げながらも外に出る。
それと同時に、爽やかな風がさらりと頬を撫でた。
車を降りた先生は、おもむろにスタスタと歩き出した。
そんな先生に、和奏は慌てて並ぶ。
それから、不思議そうに訊いたのだった。
「ここって、神社……ですか?」
「見りゃ分かるだろ。ここは、昼寝するのに最適だからな」
何故か連れて来られた場所は、小さな神社だった。
まさか先生は、この神社で昼寝をする気なのだろうか。
そんなことしたら、何かの天罰が当たりそうである。
そう思いつつ神社の階段を上りながら、和奏はふとあることに気がついた。
「あ……ここ、稲荷神社?」
狛犬の代わりに備え付けてあるお稲荷様の像を見て、和奏はそう呟く。
先生はそんな和奏の言葉には何も答えず、階段を上りきって境内に辿り着いた。
大きな木の覆い茂る薄暗い境内はシンと静まり返っていて、誰もいない。
先生はお宮に参ることもせず、爽やかな風の吹き抜ける境内の隅にドカッと腰を下ろした。
そして柱を背に、スースーと寝息を立て始めたのだった。
「早すぎだし……」
和奏は、あっという間に昼寝モードに入ってしまった先生にぽつりとそうツッこみつつ、やはりお参りしておかないとと思い、賽銭を入れて手を合わせる。
それから、ちらりと雨京先生に目を向けた。
木々の間から差し込める木漏れ日が、先生のブラウンの髪を照らして金色へと色を変えている。
そして先生は、スヤスヤと気持ち良さそうに寝息を立てていた。
それにしても、寝顔までこんなに綺麗だなんて。
先生の透き通るように白い肌と美形の顔を見つめ、和奏はほうっと小さく溜め息をついた。
それにしても、何で神社で昼寝なのだろう。
先生の様子を見ると、何だかこの場所で寝慣れている感じさえする。
やはり狐の先生にとって、稲荷神社は居心地がいい場所なのだろうか。
和奏はそう思いつつ、自分の髪をサワサワと揺らす風を感じて瞳を細めた。
そして、思ったのだった。
気持ち良さそうに先生が眠っている気持ちも分かる気がする、と。
元々霊感が強い和奏は、気がついたのだった。
この場所の空気が、すごく澄んでいることを。
そしてこの安心できる不思議な雰囲気を、どこかで感じたことがあると思ったのだった。
和奏はお参りを終え、そっと眠っている雨京先生に近づく。
それから中腰になり、先生の綺麗な顔を覗いてみた。
先生が昼寝している間、自分は何をしておこうか。
まさか、一緒に寝るなんてことはできないし。
そう思った……次の瞬間だった。
「! きゃっ!」
急にぐいっと腕を引かれ、和奏は身体のバランスを崩す。
そんな和奏の身体を胸に引き寄せ、いつの間にか目を開けていた先生はニッと笑った。
「おまえもこの俺と一緒に、ここで昼寝しろ」
「せっ、先生……寝てたんじゃ……」
大きな先生の胸に身体を預ける状態になり、ドキドキしながらも和奏は彼にそう訊く。
雨京先生は悪戯っぽく笑うと、そんな和奏に言ったのだった。
「あ? 狸寝入りならぬ、狐寝入りだ。恐れ入ったか」
狐寝入りって、そんな言葉聞いたことないし。
そう心の中で再びツッこみつつ、和奏は自分を抱きしめる先生の体温を感じる。
雨京先生はふっとつり上がった瞳を細め、ゆっくりと口を開いた。
「おい、和奏」
「え? ……っ!」
名前を呼ばれ、和奏はふと顔を上げる。
そして驚いたように、大きく瞳を見開いたのだった。
顔を上げた、その瞬間……先生の唇が、ふわりと自分のものと重なったからである。
そんな軽いキスの後、和奏はカッと顔を赤らめて言った。
「せ、先生っ……お稲荷様に祟られたら、どうするんですかっ!?」
神聖なる神社で、キスなんてしてしまうなんて。
霊感が人一倍あり信仰心も強い和奏は、慌てたように先生に目を向ける。
だが当の雨京先生は逆に平気な様子で、彼女にこう言葉を返したのだった。
「んなこと、知るか。それよりも俺のこと拒否ったりしたら、この俺がおまえのこと祟ってやるからな。ここの稲荷なんかよりもな、俺様の方がずっと強いんだよ。分かったか」
「…………」
そういえば、目の前の先生も狐だったんだ。
今更そのことを思い出し、和奏は大きく嘆息する。
でも、本当に大丈夫なのだろうか。
雨京先生はそんな心配そうな表情をする和奏を、改めて強く抱きしめる。
そして、彼女の考えを見透かすかのように口を開いたのだった。
「大丈夫だ、何もねぇよ。それに何かあったとしても、おまえは俺が守るって言ってるだろーが」
「な、何かあったとしてもって……」
一抹の不安を感じながらも、和奏は仕方なく口を噤む。
何と言っても先生のことだ、ここで昼寝をすると言ったらするのだろうし。
自分が何と言っても、聞く耳を持たないに決まっている。
そう思って諦めた和奏を、雨京先生は切れ長の瞳でじっと見つめた。
そして、こう彼女に言ったのだった。
「んじゃ、マジで今度こそ昼寝するから、寝る前にキスしろ」
「……はい?」
「キスしろってこの俺が言ってるんだ、さっさとしろ」
有無を言わせぬように、先生はつり上がったブラウンの瞳を細める。
しろと言われたからには、やはりしなきゃいけないのだろうか。
そう思いつつ、和奏はドキドキと心拍数が上がる胸の高鳴りを感じる。
それから心の中でお稲荷様に謝りつつ、言われた通り、雨京先生の唇に軽いキスをしたのだった。