第二章 狐憑



 第9話 放課後デートと恋心

 ――次の日の朝。
 靴箱で上靴に履き替えた和奏は、教室に向かって階段を上り始めた。
 すれ違う友人たちに朝の挨拶を軽く交わしながら、和奏はダークブラウンの髪をそっとかきあげる。
 そんな彼女の顔は、心なしか嬉しそうである。
「今日、何だかいいことがありそうな気がする……」
 そう呟いて、和奏は髪と同じ色をした瞳を細める。
 学校に登校する前にテレビで見た星座占いで、和奏の星座である乙女座の運勢は今日絶好調だったのである。
 そんな、占いの結果がよかったということもあるのだが。
 何となく今日はいい日になりそうだと、そういう予感が不思議と和奏にはしていたのだった。
 そしてテレビの占いでは、こうも言っていたのである。
 それは……。
「和奏ちゃん」
 ふいに背後から声をかけられ、和奏は振り返った。
 それからパッと表情を明るく変えて、足を止める。
「あ、司紗くんっ。おはよう」
「おはよう、和奏ちゃん」
 上品な印象の容姿ににっこりと微笑みを宿し、声をかけてきた司紗は和奏の隣に並ぶ。
 やはり今日は、運がいいのかもしれない。
 朝から、想いを寄せる憧れの司紗に声をかけられるなんて。
 そう思って嬉しい気分になった和奏であるが、これからさらに幸せなことが起こることなど予想もしていなかった。
 司紗は漆黒の瞳を和奏に向け、こう彼女に訊いたのだった。
「ねぇ、和奏ちゃん。今日の放課後って、何か予定ある?」
「え?」
 司紗の問いに、和奏は瞳をぱちくりさせる。
 そんな和奏の反応に、司紗はふと表情を変えた。
「あ、もしかして、雨京先生に呼び出されてたりする?」
「ううん、先生は今日は週一の職員会議の日だから。でも、どうして?」
 その和奏の言葉を聞いて、司紗は安心したように表情を緩める。
 そして、彼女にこう言ったのだった。
「今日の放課後、よかったら一緒にどこかでお茶でもして帰らないかなって思って。和奏ちゃんとは、一度ゆっくり話をしたいなって思ってたから」
「……えっ?」
 司紗の思いがけない申し出に、和奏は思わずきょとんとして固まってしまう。
 今の言葉、聞き間違いじゃないだろうか。
 司紗が、自分を誘ってくれるなんて。
 驚きのあまりに言葉がでない和奏に、司紗は小さく首を傾げた。
「和奏ちゃん?」
 その司紗の声にハッと我に返った和奏は、慌てて大きく頷く。
 そして、嬉しそうな満面の笑顔を彼に返した。
「うんっ。私も司紗くんと、ゆっくりお話したかったから……今日、一緒に帰ろう」
「よかった、和奏ちゃんの時間の都合がどうかなって思ってたから」
 和奏の返事に、司紗は漆黒の綺麗な瞳を細める。
 和奏は自分に向けられたその微笑みに、ドキドキと胸の鼓動を早めた。
 それから高鳴る胸をぎゅっと押さえて少し気持ちを落ち着かせた後、ふと司紗に訊いたのだった。
「あのね、司紗くんって何座?」
「え? 僕は獅子座だけど……どうして?」
 急に脈絡のない質問をされ、司紗は不思議そうな顔をしつつもそう答える。
 和奏はその司紗の言葉に、驚いたような顔をして呟く。
「獅子座? やっぱり……」
 テレビの占いは、今日の運勢についてこう言っていたのだ。
『思いを寄せる異性と、急接近の一日。乙女座の今日のキーパーソンは、獅子座の男性』
 その占いを思い出しつつ、今日一日何だか本当にいいことがありそうだと、和奏は幸せそうに微笑む。
 何より放課後、司紗と一緒にお茶をする約束をしてしまったし。
 ふたりきりで放課後一緒だなんて、まるで夢のようである。
 和奏はご機嫌な様子で、階段をゆっくりと上り始めた。
 そんな和奏の様子に小首を傾げつつも、司紗も彼女と並んで歩き出し、そっと漆黒の前髪をかき上げた。
 ――その時。
「…………」
 司紗はふと表情を変え、振り返る。
 そんな彼の表情は、先程までのものとまるで変わっていた。
 司紗の変化に気がつき、和奏もつられて後ろに視線を向ける。
 そして、彼女の瞳に飛び込んできたのは。
「あ、雨京先生……おはようございます」
 ペコリとお辞儀する和奏をちらりと見た後、いつの間にか現れた雨京先生は司紗に視線を向けて気に食わない顔をする。
「朝っぱらから癇に障る霊気出してんじゃねーぞ、白河。ったく、そんなに八つ裂きにされたいのか?」
「おはようございます、雨京先生。八つ裂きにできるものなら、やってみたらどうですか?」
 鋭い視線を先生に向けつつ、司紗は和奏をかばうような位置を取る。
 雨京先生は司紗の挑戦的な態度にチッと舌打ちし、彼の背後にいる和奏に目を移した。
 急に先生の切れ長の瞳が自分を映し、和奏はドキッとする。
 それから先生は、ニッと口元に笑みを浮かべて彼女に言った。
「和奏、今日の昼も国語教室に来い。分かったな」
 それだけ言って、雨京先生はスタスタと職員室の方向に歩き出す。
 司紗は先生の後姿を警戒したように見送った後、和奏に向き直る。
 そして、普段通りの穏やかな笑顔を彼女に向けて言った。
「行こうか、和奏ちゃん。それにしても昼休み、大丈夫? 僕も一緒に付いていてあげようか?」
 司紗の笑顔にドキドキしながらも、和奏は遠慮気味に首を振る。
「ううん、大丈夫。昼休みはひとりで行くよ。先生の機嫌が悪くなっても困るし。それに……」
「それに?」
 ふと言葉を切った和奏に、司紗は首を捻った。
 和奏はそんな司紗の様子に顔を少し赤くしつつ、誤魔化すように笑う。
「えっ? ううん、何でもないよ。心配してくれてありがとう、司紗くん」
 先生に呼び出されるのは、特に今日に限ったことではないし。
 それに……放課後は、司紗と一緒にお茶をすることになっているし。
 雨京先生にもしかして放課後呼び出されたらどうしようと密かに思っていた和奏は、昼休みに来いという彼の言葉に正直ホッとしていたのだった。
 やはり今日は、運がいいのかもしれない。
 そう改めて思い、和奏は思わず笑みをこぼす。
「…………」
 そんな和奏とは対称的に、司紗はふと険しい表情を浮かべて背後を振り返った。
 それから、何かを考えるように漆黒の瞳を細めたのだった。



 ――そして待ちに待った、放課後。
 和奏はいそいそと教科書をカバンにしまい、ダークブラウンの髪を手櫛で整える。
 それからカバンを閉め、深呼吸をした。
 その時。
「和奏ちゃん、支度できた? 帰ろうか」
 和奏はその声に顔を上げ、大きくこくんと頷く。
「あ、司紗くん。うんっ、帰ろう」
 慌ててカバンを抱え、和奏は司紗の隣に並んだ。
 それからふたりは一緒に学校を出て、繁華街の方向に進路を取る。
 和奏は司紗とふたり歩きながら、始終ドキドキしっ放しであった。
 つい数週間前までは、見ているだけでも満足だった司紗が、今自分の隣にいるのだ。
 しかも司紗は頭のいい優等生なだけあり、機転を利かせてどんな話題でも話を合わせ、いい振りをしてくれる。
 最初はふたりで何を話したらいいんだろうかと緊張していた和奏だったが、話題に尽きる事もなく楽しく下校できたのだった。
 ――それからふたりは、学校に程近い繁華街の一軒のケーキ屋へと入った。
 その店は、数日前に友人の千佳とお茶をしたお洒落な人気の店だった。
 和奏は千佳と話していた通りにイチゴタルトのケーキセットにしようと決めてから、目の前の司紗にふと目を向ける。
 メニューに視線を落として伏し目がちになっている漆黒の瞳に、思った以上に長いまつ毛がかかっている。
 その顔は、和奏好みの上品で穏やかな印象を受ける整った容姿である。
 成績も優秀で運動神経も抜群、その上に性格も優しくて気遣いもできる。
 いわゆる司紗は、非の打ち所のないいい男なのだ。
 和奏は改めて自分と司紗がふたりでお茶をしている今の状況を幸せに感じつつも、まだ夢を見ているような信じられない心境でもあった。
 司紗はふと和奏の視線に気がつき、顔を上げる。
「和奏ちゃんは、何にするか決まった?」
 突然自分を映した彼の漆黒の瞳にドキッとしながら、和奏は頷く。
 司紗は店員を呼んで二人分のオーダーを済ませた後、改めて和奏に視線を向ける。
 それから穏やかな微笑みを宿し、瞳を細めた。
「すごくお洒落で感じのいいお店だね。よく来るの?」
「この間千佳ちゃんと一度来ただけなんだけど、その時にいいお店だなって思ったから」
「千佳ちゃんって……ああ、うちのクラスの高嶋さんだね。彼女、ここ数日学校欠席してるけど、体調悪いのかな」
 和奏と千佳が教室でもよく一緒にいることを思い出しながら、司紗はそう言った。
 和奏はお冷をひとくち飲んで、心配そうに口を開く。
「千佳ちゃん、まだ熱が高いみたい。数日前、いきなり雨が降ったでしょ? あの時、雨に降られちゃったみたいで」
「そっか。数日前、いきなり夕立が降ったからね」
 そこまで言って、司紗は言葉を切る。
 同時に、店員が二人分のケーキと飲み物を運んできた。
 それから店員が下がったのを確認した後、司紗はブラックでひとくちコーヒーを飲む。
 そして、ふと微妙に表情を変えて和奏に訊いた。
「そういえば今日の昼休み、雨京先生に何かされなかった? 大丈夫だった?」
「えっ、な、何かって……」
 紅茶に砂糖を入れていた手を思わず止め、和奏は瞳を見開く。
 今日の昼休みも、雨京先生に国語教室に呼び出された和奏だったが。
 先生は普段通り強引で、自己中心的で俺様な言動ばかりで。
 そして……相変わらず、自分のことを抱きしめてはキスをしてきて。
 ニッと口元に笑みを浮かべ、顔を真っ赤にさせる自分の耳元で脅迫めいたことを囁いていた。
 でも……。
 不思議と、先生のそんな行為が嫌だとは特に感じない。
 むしろ、キスをするたびにあたたかい光のようなものが溢れ出て身体を包み、心地よい感覚に陥るのだった。
 だが和奏は、先生とのキスを思い出して鼓動を早めた胸を押さえ、気を取り直す。
 本当に自分が想いを寄せているのは、今目の前にいる司紗だからである。
 それにそんな彼に、自分が先生に抱きしめられてキスされているなんて言える訳がない。
 和奏は紅茶をかき混ぜながら、司紗に答えた。
「ううん、大丈夫。特に危害加えられたりとか、全然ないから。それに先生、自分は人間を喰らったりしないって言ってたし」
「え? 人間を喰らわないって……そう先生が言ってたの?」
 和奏の言葉に、司紗は驚いたような表情を浮かべてそう訊き返す。
 和奏は司紗に頷いた後、楽しそうに笑った。
「うん。そう言ってたよ。でも先生って、本当に狐みたい。そのまんま、きつねうどんといなり寿司が好物なんだもん」
「…………」
 その彼女の言葉に、司紗は何かを真剣に考えるようにおもむろに漆黒の瞳をふっと細める。
 そして、ゆっくりと口を開いた。
「でも僕は和奏ちゃんのこと、すごく心配しているんだ。先生の妖気も妖狐なだけあって、並の強さじゃないし」
 そこまで言って、司紗は言葉を切る。
 それから表情を引き締めると、こう続けたのだった。
「でも必ず、雨京先生は僕が滅してみせるよ」
「司紗くん……」
 普段の穏やかなものとは印象の違う彼の男らしい表情に、和奏は再び胸の鼓動を早める。
 そしてそんな司紗に見惚れてドキドキしながらも、ふと少し遠慮気味に彼に訊いた。
「司紗くんは、いつから妖怪退治してるの? 妖怪が相手とか、怖くない?」
「僕の家系はね、代々術師なんだ。だから小さい頃からそういう環境だったし、それに妖怪って言っても普段僕らの周囲にいる妖怪は、大した妖気持ってないからね。金毛九尾狐の雨京先生は、高いランクの強い妖力を持った特別な妖怪なんだよ」
 司紗は彼女の問いにすぐにそう答え、漆黒の前髪をそっとかき上げた。
「金毛九尾狐……強い妖力を持った、妖怪」
 和奏はそう呟き、先生の本来の姿を思い出す。
 その名の通り、金色の流れるような長い髪と九本の尻尾。
 そして彼が身体に纏う妖気は、力強い黄金の輝きを放っていた。
 それから司紗はふと、和奏に視線を向ける。
 その後にっこりと優しく微笑み、こう言ったのだった。
「和奏ちゃんって、こうやって話をする前は本当に大人しい印象の子だなって思ってたんだけど、僕と先生の間に立ってくれたり、普通ならなかなか受け入れられないような妖怪や術師の話も理解してくれて。順応性の高い、結構冷静な子なんだなって思ったよ」
「えっ? そ、そんなことないよ。私、何もできないし、司紗くんにも心配ばかりかけて」
 大きく手を振ってそう言った和奏に、司紗は首を振る。
 そして、ふと瞳を伏せて小さく息をついてから口を開く。
「僕の方こそ、いくら先生が強い妖狐とはいえ、いつまでも和奏ちゃんを先生のところへ行かせるようなことして……申し訳ないなって思ってるんだ」
「そんな、全然申し訳ないことないよっ。逆に司紗くんに、すごく感謝してるの。だから、謝ったりしないで。ね?」
「和奏ちゃん……」
 司紗は顔を上げ、和奏の言葉にふっと笑顔をみせる。
 それから思い出したようにカバンを開けると、何かを取り出してテーブルに置いた。
「あ、そうだ。和奏ちゃんに、受け取ってもらいたいものがあって」
 和奏は司紗の差し出したものを手に取り、瞳をぱちくりとさせた。
「これ……お守り?」
 和奏の手にあるものは、小さなお守り。
 そして手の平より一回りほど小さいそれからは、淡い光のようなものが立ち上っているように見えたのだった。
 司紗はこくんと頷き、言った。
「うん。僕の護りの術を施してあるお守りだから、持っててくれたら嬉しいな。雨京先生ほどの大きな妖気を持つ妖怪には効かないだろうけど、弱い妖怪や霊なら撃退できると思うから」
「司紗くんの……」
 言われてみれば、そのお守りから見える淡い光は司紗が以前見せた霊気の光と同じものである。
 何より、自分のために司紗がお守りをくれるなんて。
 和奏はぎゅっとそれを大切そうに握り締め、本当に嬉しそうな笑顔を彼に向ける。
「ありがとう、司紗くん。肌身離さず持ってるから」
 やはり今日は、ついている。
 いや、ついているどころではない。
 司紗とふたりでお茶できただけではなく、お守りまで貰ってしまった。
 こんなに幸せなことがあっていいんだろうか。
 そう思いながらも、和奏はそれからも司紗との会話を楽しんだ。
 それから1時間弱話をした後――ふたりは会計を済ませ、店を出る。
 和奏は隣の司紗に、申し訳なさそうに目を向けた。
「奢ってくれてありがとう。ごめんね、私出しても全然よかったのに」
 司紗はそんな和奏の言葉に首を振り、優しく微笑む。
「ううん、今日は僕が誘って付き合ってもらったんだから、気にしないで。すごく楽しかったし」
 和奏は彼の笑顔にドキドキしながらも、嬉しそうに口を開いた。
「私もすごく楽しかったよ、誘ってくれてありがとう。また……こうやって、一緒に帰ろうね」
「うん。また一緒にお茶しようね」
 こくんと頷く司紗の顔を見て、和奏はダークブラウンの瞳を細める。
 またの機会があるかどうかは、分からないけど。
 そう言ってくれただけで、すごく嬉しかったのだ。
 本当に今日は怖いくらいに幸せだと改めて思い、和奏は司紗に貰ったお守りをぎゅっと握り締めたのだった。
 そして家に帰るため、駅に向かって歩き出そうとした……その時だった。
「……きゃっ」
 ふと一瞬立ち眩みがし、和奏は足元にあった段差に足を引っ掛けてしまう。
「! 和奏ちゃんっ」
 司紗は素早く和奏の声に反応し、おもむろに腕を伸ばした。
 それから躓いてバランスを崩した和奏の身体を、しっかりと支えたのだった。
 力強い彼の腕の感触を感じ、和奏はカアッと顔を赤くする。
 司紗は和奏の身体を支えたまま、心配そうに彼女に視線を向けた。
「和奏ちゃん、大丈夫だった?」
 司紗の整った顔がすぐそばにあることに気がつき、和奏はさらに胸の鼓動を早める。
 そして自分の足でようやく立ち、照れたように顔を真っ赤にさせて、やっとのことでお礼を言った。
「ご、ごめんね、ありがとう、司紗くん」
「ううん。よかったよ、怪我とかしなくて。大丈夫?」
 司紗の言葉に、和奏は大きく頷く。
 一瞬だけ……眩暈のような、ぐるりと世界が回るような感覚に陥ったが。
 でもそれよりも、司紗の腕に支えられ、あんなに彼の顔が間近に近づいて。
 信じられないくらいバクバクいっている心臓の音が、彼に聞こえてしまうのではないか。
 そう思うくらい、この時の和奏の気持ちは高ぶっていた。
 そんなまだ何も言えずに呆然とする和奏を見て、ふと司紗は何かを考えるような仕草をする。
 そして耳まで真っ赤になっている彼女を伴って、ゆっくりと駅に向かって歩きだしたのだった。