第二章 狐憑
第10話 ご褒美のデザート
――司紗と放課後デートをした、次の日。
午前中の授業が終わり、和奏は2年Dクラスの教室を出た。
そして昼休みを迎えて賑やかな廊下を歩きながら、いつものように国語教室へと進路を取る。
今日は、特に雨京先生から直接国語教室に来るようには言われていない。
だが、この日和奏のクラスの時間割に、雨京先生の担当する古典の授業はなかった。
和奏は以前先生に、古典の授業がない日は昼休み国語教室に来るようにと言われていたのである。
その言いつけ通り雨京先生の元へ向かいながらも、和奏の顔からは微笑みが絶えない。
この日の和奏は、昨日の司紗との楽しかった時間を思い出しては幸せな気持ちに浸っていたのだった。
しかも、司紗とふたりきりだっただけでも嬉しかったのに。
和奏はおもむろに、ブレザーの胸ポケットからあるものを取り出す。
そしてそれを、大事そうにぎゅっと胸の位置で握り締めた。
それは――司紗のくれた、小さなお守り。
握り締めた手の中のお守りは、司紗自身の雰囲気と同じ、優しくふわりと柔らかな光を宿している。
憧れの司紗が、自分のためにお守りをくれるなんて。
昨日の幸せなひとときはもしかしたら夢なのではないかと思っていた和奏だったが、このお守りが放課後デートの確固たる証拠なのである。
和奏はそのお守りを手にしたまま、雨京先生の待つ国語教室の前にやってくる。
それから遠慮気味にドアをノックして、ゆっくりと開けた。
雨京先生は普段と変わらず特に振り返りもせず、机に座って仕事をしていた。
和奏はちらりとそんな先生を見てから、いつものように二人分のお茶を淹れ始める。
――その時だった。
「……おい、和奏」
ふと呼ばれ、和奏は振り返る。
雨京先生はそんな和奏を見て顔を顰め、それから言ったのだった。
「おまえ、白河のヤツに何かされたか? アイツの挑戦的な霊気が、おまえからプンプンしてやがるぞ」
「えっ?」
雨京先生のその言葉に、和奏はきょとんとする。
先生はつり上がった瞳を和奏に向け、威圧的な声で続けた。
「まさかアイツにキスとかされたりしてねーだろうな? おまえは俺の女だ、俺を裏切るようなことしたらソッコーで祟るからな」
「キ、キスとかされたりって……雨京先生くらいですっ、そんなことするのは」
カアッと顔を真っ赤にさせ、和奏は首を大きく横に振る。
それから、持っていたお守りをぎゅっと握り締めた。
雨京先生は切れ長の瞳を細め、そして言った。
「おい……その手に持ってるヤツ、見せろ」
「え? あ、これですか?」
和奏はおそるおそる、司紗から貰ったお守りを先生に見せる。
それを見た先生は、気に食わない表情を浮かべて眉を顰めた。
「霊気の出所はこれかよ。あームカつく、そんなもん今すぐ捨てろ」
「捨てろって、そんな……」
せっかく司紗が、自分にくれたものなのに。
和奏は無言でフルフルと首を振った。
そんな和奏の態度に、先生は面白くなさそうな顔をする。
「あ? おまえ、この俺の言うことが聞けないっていうのか?」
相変わらず有無を言わせぬようなその先生の言葉にもめげず、和奏は一生懸命彼に言った。
「でも先生みたいに強い妖気を持っている妖怪だったら、このお守りの効果はないんでしょう? 司紗くんがそう言ってました。だったらお願いです、先生が平気なら、お守り捨てろなんて言わないでください。平気じゃないのなら仕方ないですけど……」
その和奏の言葉に、先生はピクッと反応を示す。
そして、こう言ったのだった。
「この俺様が、白河程度の術師の術に怯むとでも思ってんのか? 平気に決まってるだろ、んなもん」
「じゃあ、お守り捨てなくても……」
パッと表情が変わった和奏に、先生は渋々頷く。
「捨てろとは言わないけどな、その霊気がムカつく。俺と一緒の時は、ポケットにでもしまっとけ」
先生のその言葉に、和奏は嬉しそうに微笑む。
そして言われた通り胸ポケットにお守りをしまって、淹れ途中だったお茶を湯呑みに注いだ。
先生にお茶を出した後、和奏はふと先生の今日の昼食になるのだろうカップラーメンに目を向ける。
それから、ポンとひとつ手を打って口を開いた。
「あ、雨京先生。先生に食べてもらおうと思って、これ作ってきたんですけど……」
そう言って和奏は、お弁当袋からプラスチックのタッパーを取り出す。
そしてそれを、遠慮気味に雨京先生に差し出した。
先生はそんな和奏の様子にも相変わらず表情を変えず、おもむろにそのタッパーを開ける。
……その中に、入っていたものは。
「あの、先生っていなり寿司好きだから、作ってみたんですけど」
タッパーに行儀良く並んでいるのは、4つの手作りいなり寿司だった。
雨京先生は、そのうちのひとつをおもむろに手に取ると、ぱくっと口に運ぶ。
和奏は妙にドキドキしながらも、先生の反応をじっとうかがった。
だが雨京先生は特に何も言うこともなく、油揚げの味のついた指をペロッと舐めた。
そしてさらに残りのいなり寿司も手に取り、あっという間に全部平らげたのだった。
和奏は先生の次の言葉を待つように、彼の美形の顔を見つめる。
しかしそんな和奏に、雨京先生は何もなかったかのように言った。
「何だ、おまえ昼飯食わないのかよ」
「え? あ……はい、食べます」
よく考えたら、先生に手作りいなり寿司の感想なんて求めた自分が、そもそも間違いなのかもしれない。
自分至上主義な雨京先生が、手作りに関して労うような言葉を言うはずがないからである。
そう思い直し、和奏は自分の弁当箱をパカッと開けた。
――その時だった。
雨京先生はいなり寿司の入っていたタッパーの蓋を閉めると、それを和奏に返した。
そしてニッと笑い、言ったのだった。
「おい、またこの俺のために、いなり寿司作ってこい。しかも今度は4つじゃなくて、もっとたくさんだ。分かったな」
「え?」
先生のその言葉に、和奏はきょとんとする。
美味しかったとか有難うとか、そんな言葉はなかったけど。
また作ってこい、しかも次は数を増やせということは。
それって、自分の作ったいなり寿司を何気に気に入ってくれたと解釈していいのだろうか。
そう考えると、和奏は妙に嬉しくなる。
そしてにっこりと微笑み、大きくこくんと頷いた。
「はい、また作ってきます。今度は、もっとたくさん作りますから」
雨京先生は満足気に笑みを浮かべると、ペロッと自分の指をもう一度舐める。
それからふと椅子から立ち上がって、口を開く。
「まぁ、俺の女がこの俺に尽くすのは当然のことだけどよ」
そこまで言って、先生は椅子に座っている和奏の背後から腕を回した。
それから、彼女の体をぎゅっと抱きしめたのだった。
そしてわざと耳に息を吹きかけ、囁くようにこう続ける。
「特別だ、褒美をやるから有難く思え」
「えっ? ……! ん……っ」
耳にかかる吐息を感じて和奏が顔を赤らめた、次の瞬間。
和奏の唇に、先生のものが少し強引に重なる。
急にキスをされて、和奏は驚きながらも胸の鼓動を早めた。
しかもそれは……いつもの軽いキスとは、少し違っていて。
巧みに動く先生の舌使いに、覆われた唇から思わずふっと息が漏れる。
和奏は今まで感じたことのない感触にカアッと頬を紅潮させ、一気に自分の体温が上がるのが分かった。
涙の溜まった瞳を薄っすらと開くと、そこにはキラキラと輝く黄金色の光と、先生の美形というに相応しい顔が間近に見える。
軽く伏せられた瞳にかかるまつ毛は驚くほど長く、綺麗な二重がくっきりと見て分かる。
そして和奏に落とされるそのキスは、普段の俺様な言動からは考えられないくらいに丁寧で優しく、それと同時に力強さも感じたのだった。
それからしばらくキスを重ねた後、先生はゆっくり唇を離すと、すっかり目がトロンとしている和奏の表情を見てふっと笑う。
「どうだ? 食後のデザート、気持ちよかっただろう?」
褒美とか言っておきながら、キスは自分の食後のデザートなんじゃないか。
そう思った和奏だったが、先生の口づけの余韻でまだ口を開く余裕もなく、頭の中もボウッとしている。
そんな何度も瞳をぱちくりさせている和奏の頭をぐしゃぐしゃと少し乱暴に撫でてから、雨京先生は口元に笑みを浮かべた。
そしておもむろに和奏の顎を持ち上げると、今度はふわりと羽のように軽いキスを彼女に与える。
再び触れた柔らかい唇の感触に、和奏は耳まで真っ赤にさせた。
そんな和奏を後目に、先生は彼女の身体を再び強く抱きしめる。
それから、改めてゆっくりと口を開いたのだった。
「何度も言うけどな、おまえがこの俺に逆らいさえしなければ……俺が、おまえを守ってやる。約束だ」
雨京先生の、低い響きのバリトンの声。
そんな先生の言葉に、異様なほど心臓がバクバクと早い鼓動を刻む。
そして自分を抱きしめている先生の身体からは、あたたかい黄金の光が溢れて見えていた。
全身で感じる先生のぬくもりが、不思議ととても心地良くて。
思わず和奏はふっと小さく息を漏らして、おもむろに瞳を閉じる。
それからここが学校だということも、雨京先生が妖怪だということも忘れて。
この時ただ何も考えずに、和奏は先生の広い胸にそっと身体を預けていたのだった。