第二章 狐憑



 ――ある日の放課後。
 厚い雲に覆われた空は、いつ雨が落ちてきてもおかしくないくらいにどんよりと薄暗い。
 和奏はそんな曇り空の下、学校帰りや会社帰りの人々で賑わいをみせ始めている繁華街にいた。
「ケーキ美味しかったね、和奏」
 和奏と仲の良い同じクラスの友人・高嶋千佳(たかしま・ちか)は、そう言って満足そうに微笑む。
 和奏はこくんと頷いて、にっこりと千佳に笑顔を返した。
「うん。今度来た時は、千佳ちゃんが食べてたイチゴタルトにしようかな」
「タルト、すごく美味しかったよ。和奏のバナナロールも美味しそうだったよね」
 楽しそうに交わされるのは、ごく普通の女の子同士の会話。
 和奏の隣を歩く千佳は、流行スポットやお洒落な店をよく知っている、社交的な少女で。
 のんびり屋な和奏を誘い、こうやって学校帰りにお茶をすることも多かった。
 千佳は買ったばかりの真新しい腕時計に目を向け、それから和奏に視線を戻す。
「あ、和奏って地下鉄だよね? 私、本屋寄って帰るから、ここで」
 目の前に見える地下鉄の入り口で足を止め、千佳は肩より少し長めの茶色の髪をそっとかき上げた。
 和奏はそんな彼女の言葉に頷き、小さく手を振る。
「うん、じゃあここで。また明日ね、千佳ちゃん」
「またね、和奏」
 ふたりはそれから分かれ、それぞれ違う方向へと歩き出した。
 和奏は家に帰ろうと、地下鉄の階段を下り始める。
 ――その時だった。
「……?」
 和奏はふと、背後を振り返った。
 そして、日が落ちてすっかり暗くなった繁華街の風景に瞳を凝らす。
 何だか一瞬、妙な違和感のようなものを感じたからである。
 しばらく行き交う人の波を見つめていた和奏だったが、結局その違和感が何だか分からずに小さく首を傾げた。
 それから再び、ゆっくりと地下鉄の階段を下り始めたのだった。
 ――そんな和奏を、じっと見つめていたのは……闇のような、漆黒の両の瞳。

 見ツケタ……。
 ツイニ見ツケタ……。

 それは、人間の声ではなかった。
 人間の耳に決して聞こえることのない、低音の響き。
 そしてその声のような意識は、最後にこう呟いたのだった。

 絶対ニ、手ニ入レル――。

 いつの間にか天からはポツポツと雨が落ち始め、アスファルトの色を変える。
 急に降り出した雨のため、人々の波が慌しく動き出した。
 そして雨が大降りになるのに、それ程時間はかからなかったのだった。


 第8話 暗中飛躍


 ――次の日の昼休み。
 和奏は午前中の授業のノートを机にしまい、持ってきたお弁当入れを出した。
 それから、ひとつ小さく溜め息をつく。
 この日の昼休み、例のごとく和奏は、雨京先生から国語教室へ来るように呼び出されていたのだった。
「まぁ今日は、千佳ちゃんも休みだしな……」
 そう呟き、和奏はちらりと斜め後ろの席に目を向ける。
 昨日一緒にお茶をして帰った千佳は、体調を崩して今日学校を欠席していた。
 急に降り出した雨に濡れて、熱が出たんだろうか。
 朝、携帯に電話があった時の彼女の声はかなり辛そうだった。
 そんな友人の体調を心配しながらも、和奏は席を立つ。
 ……その時。
「和奏ちゃん」
 ふと声をかけられ、和奏は顔を上げる。
 そして、パッとその表情を変えた。
「あっ、司紗くん」
「和奏ちゃん、もしかして雨京先生に呼ばれてるの?」
 嬉しそうな顔をしている和奏とは対称的に、司紗はふっと引き締めた表情を浮かべる。
 和奏はそんな彼の問いに、遠慮気味に小さくこくんと頷いた。
「うん、昼休みに国語教室に来るようにって」
「…………」
 その言葉に、司紗は何かを考えるように言葉を切った。
 和奏は心配そうな顔をしている司紗に、ゆっくりと口を開く。
「あ、でもたぶん、一緒に昼ごはん食べるだけだと思うから。心配しないで」
 それから和奏は、ふと俯いてこう続けたのだった。
「それにこの間みたいに、マリちゃんと司紗くんが、怪我するかもしれないようなことになって欲しくないから……」
「和奏ちゃん……」
 司紗は俯いてしまった和奏を見て、複雑な表情をする。
 その後、漆黒のサラサラの前髪をかき上げ、普段通りの優しい微笑みを彼女に向けて言った。
「大丈夫だよ。しばらくは雨京先生に手を出すつもりはないから。それよりも、くれぐれも無理はしないでね。何かあったらすぐに僕に言って、和奏ちゃん」
 整った司紗の笑顔に思わずドキッとしながらも、和奏は幸せそうに瞳を細める。
「うん。心配してくれてありがとう、司紗くん」
 自分のことを、司紗が心配してくれている。
 そう考えるだけで気持ちが高揚し、途端に胸がドキドキと鼓動を早めるのだった。
 彼の優しさを嬉しく思いながら、そして和奏は彼に手を振って教室を出て行く。
 司紗はそんな彼女の後姿を見送り、それからふと表情を変えた。
 和奏自身は気がついていないが……彼女から感じる霊気は、日に日にその強さを増していた。
 しかもその理由は、火を見るより明らかである。
 強力な妖気を持つ雨京先生の近くに、最近よくいるからだろう。
 元々普通の人より霊感の強い和奏だが、それ故に妖狐である先生の妖気の影響を大きく受けているのだった。
 雨京先生が何を考えているのか、まだ司紗にはよく分からなかったが。
 だが和奏の霊気の変化を間近で見ている彼は、妖怪を滅する術師として彼女を放っておけないのだ。
 急に大きな霊力を持つと、慣れないうちは身体に変調をきたす場合がある。
 霊力をコントロールできる術師ならまだしも、一般人の和奏が急激に高まる霊気によって体調を崩さないか、それが今司紗にとって一番気がかりなことなのである。
 和奏を見ていると、今はまだ体調に変化はないようであるが。
 いつ、その影響が現れるか分からない。
 そんな影響が出る前に、何とか事を片付けたいと思っているのだが。
 しかし先日雨京先生と対峙した際、妖狐体の彼の妖気を目の当たりにした。
 和奏の体調は気がかりであるが、強大な妖気を宿す先生に下手に焦って手を出すよりも、今は堪えて機会をうかがうことが良策だと、そう司紗は考えているのだった。
 それに今のところ、何か和奏に対して先生が危害を加えているようなことはなさそうであるし。
「…………」
 司紗はしばらく考えるような仕草をした後、ふっとひとつ息をつく。
 そして和奏の後は追わず、ゆっくりと自分の席へと戻ったのだった。



 ――その頃、国語準備室。
 二人分のお茶を淹れながら、和奏はちらりと雨京先生を見た。
 その視線に気がつき、先生は机に頬杖をついてニッと笑う。
「何だ、おまえ。この俺様に見惚れてるのか?」
「みっ、見惚れてるってっ」
 視線を向けただけなのに、何でそうなるんだ。
 そう言いたい気持ちを抑えながら、和奏は相変わらず自信満々な先生の顔を改めて見つめた。
 確かに目の前の雨京先生は、整った顔立ちをしている。
 色素の薄いブラウンの髪はサラサラで、同じ色をしているつり上がった瞳は神秘的で。
 肌は透き通るように白く、大きい手と細くてしなやかな指に触れられるとドキドキしてしまう。
 これだけ綺麗な顔をしていれば、女生徒に人気が高いのも納得してしまう。
 だがそんな人気の高い先生が、自分みたいな平凡な生徒をつかまえて『俺の女』だと言うのである。
 しかも……もう何度キスをされたか、分からない。
 いつもは強引で有無を言わせぬ先生であるが、その口づけはとても優しくて。
 柔らかな唇の感触を思い出すたび、カアッと体温が上昇して顔が真っ赤になってしまうのだった。
 そして、そんなことを考えていた――その時。
「……おい」
 テーブルに頬杖をついたまま、先生はちらりと和奏を見て声を掛ける。
 急に自分に向けられた彼の切れ長の瞳に、和奏は思わずドキッとしてしまう。
 そんなドキドキと胸の鼓動を早める彼女に、先生は言った。
「何ボーッとしてんだ。お湯溢れるぞ、おまえ」
「えっ? 熱……っ!」
 ハッと我に返ったのも遅く、急須に注いでいたお湯が溢れ出す。
 熱湯が軽く触れ、和奏は反射的に指を引っ込めて上下に振った。
 雨京先生は椅子から立ち上がると、呆れたように嘆息して和奏に近づく。
「おまえって、本当にトロいヤツだな。俺に見惚れるのは分かるけどな、ボーッとしてんじゃないぞ」
 和奏は台拭きを手に取り、気持ちを落ち着かせるように息を吐く。
 考え事をしていたため、お湯を入れすぎていることに気がつかなかったなんて。
 ひとつ小さく深呼吸をしてから気を取り直し、和奏はこぼれたお湯を拭き取り始めた。
 だがすぐにまた、和奏の胸は早い鼓動を刻むことになるのだった。
「えっ!? せ、先生?」
 急にあたたかい体温を感じ、和奏は驚いたように振り返る。
 おもむろに和奏に近づいた雨京先生が、後ろから彼女の身体をギュッと抱きしめたのである。
 背中から感じる先生のぬくもりに、和奏はお湯を拭く手を止めてしまう。
 そんな動揺する和奏とは対称的に、雨京先生は相変わらず涼しい顔で彼女の耳元に囁いた。
「指、見せてみろ。火傷したか?」
「えっ? い、いえ、火傷とかそんな大したものじゃないですけど……」
 耳をくすぐる吐息を感じてどもりながらも、和奏は熱湯に触れた右手の人差し指を先生に見せる。
 雨京先生は背後から彼女を抱き締めたまま、和奏の右手首を掴んだ。
 そして。
「えっ……」
 和奏は先生の取った行動に、目を見張る。
 雨京先生の柔らかい唇が、ふっと指に触れたかと思うと。
 先生は和奏の人差し指を、その口に含んだのだった。
 思いもよらないその行動と指に感じる彼の舌の感触に、和奏は驚きのあまり固まって動けなかった。
 先生はゆっくりと彼女の指を舐めた後、ニッと笑う。
「これで治っただろ? 感謝して拝み倒せ」
「えっ? あ……」
 瞳を数度ぱちくりさせた後、和奏は自分の手に視線を落とした。
 確かに、先程まで少しジンジンしていた指の痛みが消えている。
 彼の持つ妖気で、火傷を治してくれたのだろうか。
 そんなことを考える和奏を相変わらず後ろから抱き締めたまま、先生はゆっくりと口を開く。
「和奏」
 急に名前を呼ばれて、和奏は小さく首を傾げながらもふと顔を上げた。
 ――次の瞬間。
「……っ」
 先生の唇が、少し強引に彼女の唇を覆う。
 いきなりキスをされ、和奏は大きく瞳を見開いてしまった。
 雨京先生は余韻を持たせるようにゆっくりと唇を離した後、ポンッと彼女の頭に手を添える。
 そして彼女からようやく離れ、言った。
「キスする時は目くらい瞑れって言ってんだろーが。ていうか、腹減った。さっさと飯食うぞ」
 何事もなかったかのように昼食の準備を始める先生を見つめ、和奏はしばらく唖然と立ち尽くす。
 それから思い出したように、まだお湯がこぼれたままの台を慌てて拭き、先生に言った。
「あ、雨京先生……それ、お湯注ぎましょうか?」
「ああ。ていうか大丈夫なのか、おまえ」
 雨京先生はまだ少し動揺している様子の和奏に持っていたカップラーメンを渡しつつ、はあっと嘆息する。
 和奏はこくんと頷き、今度は用心深くラーメンにお湯を注ぎ始めた。
 先生の昼食は大抵、カップラーメンやコンビニの弁当である。
 しかも何かと妙にこだわりがあり、注ぐお湯の量やメーカーにうるさい。
 何だかそんな様子が妖怪とは思えず、和奏はいつも妙に可笑しくなるのだった。
 今度はこぼさずにお湯を注ぎ、和奏は淹れたお茶とともに雨京先生の前へ置く。
 先生は早速お茶をぐいっと飲みながら、几帳面に時間を計っていた。
 和奏は椅子に座って自分の弁当を開き、目の前の先生にふと視線を向ける。
 そして、遠慮気味に訊いたのだった。
「あの……先生は、どうして妖狐なのに教師やってるんですか?」
「あ? まぁ、暇だしな。そーいう気分なんだよ、今」
 気分で教師をやっているなんて、そんなのいいんだろうか。
 でも気まぐれな先生らしい答えで、和奏は妙に納得してしまった。
 そんな彼女に、雨京先生は悪戯っぽく笑って続けた。
「それによ、学校って人間もたくさんいるだろ? ま、その中から美味そうなヤツをちょいちょいと喰ったりだな……」
「ええっ!?」
 物騒なことをさらっと言う先生に、和奏は驚いた表情を浮かべる。
 同時に、やはり目の前の先生は妖怪なんだと急に実感が沸いてきた。
 それよりも、そんな先生とノンビリ食事なんてして、大丈夫なのだろうか。
 パニックになってグルグルと思考を巡らす和奏に、雨京先生はクックッと笑う。
 そして、切れ長の瞳を細めて言った。
「バーカ、冗談だよ。俺は人間なんて喰らわねーよ。ていうか、何て阿呆面してんだ、おまえ」
「なっ、阿呆面ってっ」
 和奏は先生のその言葉に、恥ずかしそうに俯く。
 一瞬、本気かと思って真に受けてしまった。
 和奏はホッとしたと同時に、からかわれて顔が真っ赤になる。
 そんな和奏を後目に、先生はふと時計に目を向けた。
 それからカップラーメンのふたを外し、割り箸を割る。
 和奏もはあっと大きく嘆息してから、そしてようやく箸を手に取った。
 別に嫌なわけではないのだが……本当に雨京先生には、振り回されっぱなしで。
 これから一体、どうなるのだろうか。
 そう考えながら、和奏はウインナーをひとつ摘んで口に運んだ。
 雨京先生はふとそんな和奏に再び目を向け、おもむろに箸を止める。
 そして、言ったのだった。
「俺は確かにいい男だけどな、こいつって決めた女に対しては一途だ。そして、おまえはそんな俺の女だ。だからおまえは、この俺の言うことに黙って従ってればいいんだよ、分かったな」
 それってすごい理屈だし、しかも一途って言うんだろうかと思いつつも、和奏は相変わらずな先生の言葉に瞳をぱちくりさせた。
 雨京先生はそれから、ふっと神秘的なブラウンの瞳を細める。
 そしてよく響くバリトンの声で、こう続けたのだった。
「そうすればおまえのこと、この俺が守ってやる」
 和奏は真っ直ぐに自分を映す彼の切れ長の瞳に、思わずドキッとする。
 悪妖だとは思えないくらい、不思議とその両の目は澄んでいて。
 そしてそんな綺麗な彼の瞳が、その言葉に嘘偽りがないことを証明しているようだと、そう感じたのだった。